【天下の大泥棒】石川五右衛門の生涯・人物像とは?名言・偉業・死因も解説

「ごえもん風呂」の名前の由来である石川五右衛門。
天下を騒がせる大泥棒と伝えられていますが、本当に実在したのでしょうか。

今なお多くの謎を残す歴史上の人物として語り継がれている石川五右衛門の生涯をご紹介します。

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石川五右衛門とは?

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/石川五右衛門

石川五右衛門は、安土桃山時代に実在した盗賊です。
ただ、生まれた年月日も不明、出身地も諸説あり、確実なことはほとんど分かっていません。

そのため、伝説上の人物とも思われていましたが、イエズス会の宣教師の日記の中に石川五右衛門の実在を思わせる記述が見つかっています。
その記述により、石川五右衛門と思われる人物が実在し処刑された、ということが歴史上に浮かび上がってきました。

しかし、実際の石川五右衛門の悪行に関しては、ほとんど記録が残っていません。
江戸時代に、創作材料として盛んに利用され高い知名度を得たため、現在語り継がれる石川五右衛門の話は、多くが創作混じりのものとなっています。

生まれ

出生についても諸説あり、本当のところは分かっていません。

  • 遠州浜松生まれ、という説。
  • 丹後国の豪族石川氏の出身説。
  • 伊賀国出身の伊賀忍者の抜け忍(忍者を辞めた者)。
  • さらに、伊賀流忍法の祖・百地三太夫(ももち さんだゆう)の弟子だったという説。

性格

石川五右衛門は、幼い頃から非行少年だったようです。
成年してからもかれは非常に暴力的で、天性のカリスマ性で手下を多く持ち、盗賊団の大親分となり悪事をはたらきます。

五右衛門の仕事ぶりは、いたって手際よく、見事なものだったといわれています。
泥棒に入る前には、じっくりと時間をかけ入念に策を練り、下見を繰り返します。
そして充分な下準備を終えると機を逃さず乗り込み、大胆にも目の前の相手をあざむいて盗みを働いていた、と伝えられています。

身長、体重

身長は約207cmほどと伝えられています。
体重に関する記録は残っていません。

死因

石川五右衛門の死因は、「釜茹で」による処刑です。
「釜茹で」とは、釜に熱湯を沸かし、その中に罪人を放り込むというものです。

文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の手勢に捕えられ、京都三条河原で刑は執行されました。
そのうえ見せしめとして、彼の親族も大人から生後間もない幼児に至るまで全員が極刑に処されています。

「釜茹で」と「釜煎り」

さて、石川五右衛門の処刑方法であるこの「釜茹での刑」。
本当に釜茹でだったかというと、これもまたはっきりしません。

同時代の公家、山科言継(やましなときつぐ)による日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』には、「釜にて煎(い)らる」と記述されています。
また、『豊臣秀吉譜』(林羅山編)という書物にも「三条河原で煎り殺した」とあります。

「釜茹での刑」と「釜煎りの刑」は、似てるようで少し違います。

  • 「釜茹での刑」とは、熱せられ沸騰したお湯の中に入れられること。
  • 「釜煎りの刑」とは、熱せられた油の中に入れられること。

要するに、熱湯で殺すか・熱した油で殺すか、の違いです。

同様の方法で沸かすお風呂である「ごえもん門風呂」の名前は、石川五右衛門がこの方法で処刑された事に由来します。

親族も巻き込んでの残酷な処刑だった

当時は、連座(れんざ)制度がありました。
これは、大きな罪を犯した者は本人だけではなく、その母親や子供も一緒に処罰される制度です。

五右衛門には7歳になる子供がいましたが、この子は五右衛門と一緒に「釜煎り」にされました。
母親は「釜茹で」にされた、と伝えられています。
ほとんど即死状態だった五右衛門や子供と違い、すぐに死ぬことができなかった母親は、その熱さに泣き叫びながら死んでいった、とのことです。
残酷な処刑法にゾッとしますね。

処刑当日の五右衛門の様子にもいくつかの説があります。

  • 苦しませないようにひと思いに、子供を先に釜の下に沈めた、という説(絵師による処刑記録あり)。
  • 自分が息絶えるまで、一緒に釜茹でにされた子供を持ち上げていた、という説。
  • 高温の釜の中で、あまりの熱さに子供を下敷きにした、という説。

なぜ釜茹での刑だったの?

五右衛門ら盗賊団は、窃盗、強盗、連続殺人など、現在でも重罪とされる罪を長きに渡ってやってきたと言われています。
残酷な釜茹での刑にし、親族まで残さないという凄惨な処罰は当然かもしれません。

また、天下統一後の豊臣秀吉は二度にわたる朝鮮出兵をしました。
そのため、日本全国で男手が一気に少なくなり、そのすきに乗じて悪行を重ねてきた五右衛門らです。
豊臣政権としては、見せしめのためにあえて残酷な処刑方法をとったのかもしれません。

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石川五右衛門の最後の言葉

五右衛門の辞世の句
「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」

  • 訳:「自分が死んでもこの世から泥棒はなくならない」という意味。

石川五右衛門の人生年表

生誕日時、出身地、実際の所業・悪行、そのほとんどが記録になく、いまだ多くの謎に包まれた伝説的な大泥棒といえます。

氏名石川五右衛門(いしかわ ごえもん)
時代安土桃山時代
出生地不明
生誕日不明
死没日文禄3年8月24日(1594年10月8日)
死因親族を巻き込んでの「釜茹で」処刑
幼名五郎吉(ごろうきち)※文吾(ぶんご)という説もあり。
  • 14歳頃に両親とも死す。
  • 19歳頃からの経歴は諸説あり。
    伊賀で忍者の弟子になり、その後盗賊になった説。
    奉公先の奥さんと駆け落ちした説。
    ※百地三太夫(百地丹波)のもとで伊賀流忍術を学んだが、三太夫の妻と密通した上に妾を殺害して逃亡したという伝承が有名。

 

イエズス会の宣教師の日記の中に実在を思わせる記述が見つかるまで、伝説上の人物とすら思われていた石川五右衛門。
しかも、その日記による記述すら処刑に関することのみです。

ただ、盗賊をはたらく相手は富や権力をもったものに限られていたたため、一般庶民の間ではヒーロー的存在となっていたようです。
当時は豊臣政権が嫌われていた、という史実も関係しているのかもしれません。

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石川五右衛門の人物エピソード

石川五右衛門が神社に寄進した!?

藤森神社(京都市伏見区)に”石川五右衛門寄進”という手水鉢(ちょうずばち)の受け台石があります。

石川五右衛門は、前田玄以らに追われその神社に逃げ込みました。
その際、神社側が「管轄が違う」とのことで五右衛門の引き渡しに応じなかったので、五右衛門らは逃亡に成功することができました。
後日、石川五右衛門はそのお礼として、宇治塔の島の石造十三重塔(現材は重要文化財)の笠石を盗み「台石」として寄進した、といわれています。
そのため、塔の島石塔の上から三番目の笠石は、他のものに比べて新しい、のだそうです。

石川五右衛門の隠れ家は大仏餅屋

五右衛門の隠れ家は、東山大仏(方広寺)の門前にありました。
そこは大仏餅屋であり、そこから鴨川河原に通じる抜け穴もあったそうです。

石川五右衛門、捕えられたキッカケは「千鳥の香炉」

五右衛門は、豊臣秀次(秀吉の甥)の家臣・木村常陸介から、秀吉の暗殺を依頼されたという説もあります。
その依頼を引き受けた五右衛門は、秀吉の寝室に忍び込みました。
その際、秀吉所有の千鳥の香炉が鳴いて異変を知らせた、といわれています。

どういうことでしょうか。

もちろん、香炉(香をたくのに使う容器)が勝手に鳴いたりするわけはないので、これは創られた話でしょう。
実際は、香炉から立ち上がる煙や、香気の流れの変化などを秀吉側が敏感に察知し異変に気付くことができた、ということのようです。

五右衛門の処刑に使われた釜は行方不明

五右衛門の処刑に使われた釜は、釜が淵(鴨川の七条辺り)と呼ばれる場所に流れ着きました。
江戸時代以降、その釜は法務関係局に保管されていましたが、最後は名古屋刑務所にありました。
ですが、戦後の混乱の中で行方不明となったのです。

石川五右衛門が捕まった場所は?

五右衛門が捕えられた日に関しては諸説ありますが、そのひとつに所司代屋敷を襲ったという説があります。

所司代とは、朝廷・公家・社寺に関することから、京都内外の司法・民政をつかさどる役職です。
つまり、京都の治安を管轄する地位のこと。
文字通り、豊臣政権の中枢ですね。

当時の所司代は、前田玄以でした。
石川五右衛門はこの所司代屋敷に子分のすべて、総勢30余人をかき集め忍びこみ捕まった、とされています。

石川五右衛門が行った偉業?

天下の大泥棒で天下人の命も狙うヒーロー!?

石川五右衛門は大泥棒として名をはせましたが、相手は権力者やお金もちのみの義賊でした。
そのため、当時は庶民の英雄的存在となっていました。

なぜ、盗賊の大悪党である石川五右衛門がこうも人気だったのでしょうか。

京都を中心とした地域には、反秀吉という隠れた勢力があったのは史実で明らかとなっています。
天下統一したとしても秀吉には敵が多かったのです。
そのため、豊臣政権を嫌う風潮があったのも影響していると考えられますね。

また、処刑されたのちの江戸時代でも、伝説の大泥棒として、浄瑠璃や歌舞伎を中心に数々の創作作品が誕生しました。
その作品の中で次第に義賊として扱われるようになった、ともいわれています。
権力者の豊臣秀吉の命を狙う大悪党だった、という筋書きが当時の庶民には痛快だったのかもしれません。

大河ドラマ「秀吉」に登場する石川五右衛門

石川五右衛門は、秀吉の幼なじみとして、”がんまく”という名で登場します。
最初は秀吉とともに織田信長に仕官して足軽となります。
その後は今川の兵だったり、小六の配下だったり、と変転しますが、出世していく秀吉に嫉妬し続けるというストーリー展開です。
三条河原で釜茹での刑に処せられようとする妻・おたきを救い出そうと奮闘する善人ぶり。
最期は、朝鮮出兵に没頭する秀吉を非難して自ら釜に飛び込み、おたきとともに生涯を終えます。

映画作品「GOEMON」の石川五右衛門

『GOEMON』(ゴエモン)は、2009年5月1日公開の日本映画です。
泥棒・石川五右衛門が活躍する娯楽時代劇であり、時代設定はパラレルワールドとしての織豊時代となっています。
この作品中でも五右衛門は、強い者から金銀財宝を奪い、弱い者に分け与える大泥棒でありながら民衆の英雄となっています。

石川五右衛門の名言

石川五右衛門というと、歌舞伎『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の「南禅寺山門の場」(通称:『山門』)が有名ですね。
そのなかで、五右衛門が南禅寺の三門に上り、

  • 「絶景かな絶景かな。春の詠め(ながめ)は値千金(あたいせんきん)とは小さなたとえ、この五右衛門からは万両」

と名ゼリフを言う場面があります。

訳としては、「素晴らしい景色だ。春の眺めは金千両の価値があるというが、このおれの目には万両の価値があるように見える」という意味です。

ただ、南禅寺三門の建立は、実在の五右衛門が処刑されて30年以上たってからなので、現実にはありえない設定ですね。

この作品は、定まった筋がなく話が複雑になっています。
そのため、歌舞伎の様式美が凝縮された南禅寺山門の場面の一幕のみが上演され、人気の演目となっているようです。
また、この場面で五右衛門は、金襴褞袍(きんらんどてら)大百日鬘(だいひゃくにちかつら)という出で立ちをしています。
この姿が広く普及し、現在よく見られる五右衛門像となっています。

石川五右衛門にゆかりのある寺院・神社・墓

石川五右衛門の墓

京都の東山にある浄土宗寺院大雲院(だいうんいん)に石川五右衛門のお墓があります。
五右衛門は、処刑の前に市中を引き回されました。
その際、大雲院(当時は寺町通四条下ルにあった)の前を通ったことが縁となった、といわれています。

石川五右衛門の子孫について

石川五右衛門は、処刑される際にかれの親族すべてを探し出され、根絶やしにされています。
石川五右衛門の子孫が残っている可能性はほとんどない、といってよいでしょう。

しかし、モンキー・パンチの漫画作品であるルパン三世の中にいますよね、石川五ェ門。
ルパン三世の五ェ門は、設定では、石川五右衛門の第十三代目末裔となっています。

この五ェ門は、ご先祖様の石川五右衛門をとても尊敬しています。
祖父の浮世絵が絡む仕事はなんと無報酬で引き受ける、などその行動に尊敬の念が感じられますね。

参考文献

  • 『悪の物語』(筑摩書房)
  • 『古典を楽しむきっかけ大図鑑 第3章「浮世」ってなに?-江戸時代』(日本図書センター)
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