幕末期に咲いた最後の花ともいうべき新選組。250年続いた徳川幕府の権威が揺らぎ始め、一つの時代がまさに終わろうとしているとき、最後まで幕府に忠誠を誓い、戦い抜いたのが新選組でした。激動の時代、剣一本で道を切り開こうとした若者たちの生き様は今も日本人の心を引き付けてやみません。
局長の近藤勇をはじめ、副長の土方歳三や薄命の剣士、沖田総司ら有名な隊士が数多存在する中で独特の存在感を放つのが、組長として知られる斎藤一です。
本記事では、斎藤一の人生年表から人物エピソード、名言、子孫などについて紹介し、いまだ謎の多い最後の剣士の人物像に迫ります。
目次
斎藤一とは?
斎藤一は新選組の最年少幹部で、副長助勤・組長を務めた人物です。一は新選組きっての剣の使い手で、若くして隊の撃剣師範も務めています。
江戸で生まれた一は、近藤勇が運営する天然理心流の道場、試衛館の門人で、沖田総司に次ぐ腕前と目されていました。しかし一は19歳のときに人を殺害してしまい、京都へ逃亡します。のちに近藤勇が浪士たちを率いて上京してきた際、隊士募集に応じて新選組に入隊しました。当時20歳で、藤堂平助と並ぶ最年少メンバーでした。
一は新選組の一員として、池田屋事件、天満屋事件、鳥羽・伏見の戦いなどに参加したほか、新選組内部の抗争でも重要な役割を果たしました。
戊辰戦争後、新政府軍による新しい国家が誕生したのちは警察官となり、西南戦争にも従軍しています。新選組の隊士の多くは、戦死したり抗争で殺されたりして若死にを遂げています。斎藤一は幕末の戦乱を生き抜き、当時としては長寿といえる71年の寿命を全うしました。晩年も一は新選組時代についてほとんど語らなかったため、その生涯にはいまだ多くの謎が残されています。
斎藤一の人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
1844年 | 1月1日(2日という資料も) 江戸で御家人・山口祐助の次男として生まれる |
1862年 | 旗本を殺害し、江戸を出奔して京都へ行く |
1863年 | 壬生浪士組(のちの新選組)に加盟し、副長助勤に選ばれる 新選組局長の近藤勇らが同局長の芹沢鴨らを暗殺する |
1864年 | 京都の池田屋に宿泊していた長州藩士らを攻撃した際、これに加わる(池田屋事件) 禁門の変後の組織編成により、新選組四番組長となる |
1867年 | 伊東甲子太郎らが新選組から分離して御陵衛士に結成 御陵衛士の新選組襲撃計画を知る。近藤勇らに計画を報告し新選組に帰隊 帰隊後、身を隠すため山口次郎と改名する 坂本龍馬暗殺の犯人と紀州藩士・三浦休太郎を警護し、土佐藩の海援隊士らに襲撃される(天満屋事件) |
1868年 | 鳥羽・伏見の戦いに加わる 新選組、会津へ進軍する 母成峠の戦いに敗れ、山中を敗走する 仙台に転戦する新選組本隊から離れ、会津に残留する。 9月22日、会津藩が新政府軍に降伏する 一瀬伝八の変名を使い、会津藩士として降伏する 旧会津藩領塩川村、高田藩で謹慎生活を送る |
1869年 | 高田藩を脱出し、斗南藩(会津松平家が再興)へ入る |
1871年 | 2月頃 斗南藩領五戸で篠田やそと結婚する |
1874年 | 五戸にやそを残し、上京する 東京で高木時尾と結婚する 藤田五郎の名で警視局(警視庁の前身)に採用される |
1877年 | 5月18日 西南戦争に従軍する 交戦中に被弾し、戦線を離脱する |
1879年 | 西南戦争での功績により、勲七等と百円を授与される |
1892年 | 警視庁を退職する 東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立科学博物館)の看守になる |
1899年 | 東京高等師範学校を退職。東京女子高等師範学校に就職し、庶務掛兼会計掛として勤務 |
1911年頃 | 東京女子高等師範学校を退職する |
1915年 | 9月28日、胃潰瘍のため死去。享年71歳。 |
斎藤一の人物エピソード
五つの名前を持つ男
斎藤一は生涯で「山口一」「斎藤一」「山口次郎」「一瀬伝八」「藤田五郎」の5つの名前を名乗りました。一は19歳のときに殺人事件を起こしたことを皮切りに、会津藩士として新政府軍に降伏したり、維新後に警察官になったりなど、波乱万丈の人生を送りました。改名の理由は明らかではありませんが、人生で新たな局面を迎えたとき、自分の気持ちを一新するために名前を変えていたのかもしれません。
スパイとして敵方に潜入
1867年に伊東甲子太郎が新選組から分離して御陵衛士を結成した際、一もこれに加わりました。しかし実は、御陵衛士内部の動向を探り、動きがあったら新選組に通報することが一の役割だったという「斎藤一スパイ説」があります。
御陵衛士が新選組幹部の暗殺を企んでいるという情報を得た一は、御陵衛士から金銭を着服して逃亡したように偽装して新選組に戻りました。スパイと見破られれば命はないという危険な任務を引き受け、巧みな策略で見事に役目を果たした一は、肝が据わって冷静沈着な人物だったのではないでしょうか。
警察官として生きた維新後
一は会津で新政府軍に降伏したのち、謹慎生活を経て江戸に上京しました。新時代を生きるために一が選んだのは警察官の道でした。一は1874年に警視庁に入庁し、警部補に任用されます。同年に起きた西南戦争では警察官の部隊に加わり、九州へ出陣しました。
警察官として勤務するようになってからも剣の腕は健在で、警視庁内の撃剣大会でも対戦相手に勝利しています。また、一が創始した藤田家の男の子たちは皆、一から剣を習っていたとのことです。
明治24年に警視庁を退職し、東京高等師範学校付属東京教育博物館(現在の国立科学博物館)の看守(門衛)となりました。明治32年に退職した後は東京女子高等師範学校に就職し、庶務掛兼会計掛として勤務しました。職場では、校内取り締まりや人力車の交通整理なども行っていました。
多くを語らなかった寡黙な剣士
一の子孫の談話によると、一は眼光鋭く無口で、常に身だしなみをきちんと整え、立ち居振る舞いも武人らしく折り目正しいものだったそうです。身分の低い御家人ではありましたが、武士の子として生まれた誇りを終生持ち続けていたのでしょう。
同じ新選組生き残りでも、積極的に隊の記録を残した永倉新八と異なり、一は自身のことや新選組のことについて多くを語りませんでした。『新選組遺聞』を著した作家の子母澤寛は、一が自身について口述した『夢録』という文書があるとしていますが、発見されていません。
座して死を迎える
1915年、一は胃潰瘍と診断されました。一は死期を悟ると自分の体を床の間に運ばせ、そこに座りました。そして座ったままの姿で息を引き取ったのです。その理由は不明ですが、剣士として生きた一は畳の上で死ぬことをよしとせず、最後の武士らしく居住まいを正して臨終を迎えたかったのかもしれません。時代はすでに大正に入っていましたが、一は最期まで新選組の一員としての気概を持ち続けていたのではないでしょうか。
斎藤一の刀
新選組の中でも一、二を争う剣の腕前だった一が使っていた刀は、摂津国の刀工である鬼神丸国重の作だったとされています。
また、新選組局長の近藤勇は名刀として名高い虎徹を所持していたと言われていますが、『新選組遺聞』には「虎徹の入手先は斎藤一だった」という記述があります。遺聞によると、一が京都の夜店で良い刀を見つけ、購入。後日、近藤にこの刀を見せたところ、近藤が非常に気に入ったため、一はそのまま近藤に刀を譲ったとされています。
斎藤一の子孫
一の生家である山口家は、一の兄・公明の一人娘が早世したため断絶していますが、戊辰戦争後に一が創始した藤田家は現在も続いています。
一には2番目の妻の時尾との間に、3人の息子がいました。長男の藤田勉は陸軍士官学校に進んで陸軍少佐になり、次男の剛は貿易商となりました。三男の龍雄は生後間もなく、跡取りのいなかった沼沢出雲家へ養子に出され、長じて弁護士になりました。
例年、福島県会津若松市で行われている会津まつりの共催行事「会津新選組まつり」では、一の墓所である阿弥陀寺で斎藤一の法要「斎藤一忌」が営まれています。斎藤一忌では斎藤一の子孫が参列し、記念講演などを行っています。
斎藤一が行った偉業
新選組の撃剣師範を務める
様々な証言から、一の剣の腕は新選組の中でも5本の指に入ると評されるほどだったことは確実です。新選組では隊士の中から撃剣や馬術、槍術などの師範が選ばれ、指導にあたっていましたが、一は沖田総司や永倉新八らと並び、撃剣師範に選ばれています。
一は近藤勇が主宰する天然理心流の道場・試衛館に出入りしていたことから、同派を修めていたと考えられています。他にも、一刀流や無外流を修めていたという記録もあり、複数の流派を学んでいた可能性があります。また、一は左利きだったという説もありますが、確かな証拠はありません。
新選組を率いて会津へ
鳥羽・伏見の戦い後、新選組は戦死や戦傷で多くの隊員を失い、残っている副長助勤は永倉新八や原田左之助のほかは斎藤一のみでした。しかし永倉と原田は局長の近藤勇と対立し、隊を離れてしまいました。
残された一は負傷した隊士らを率いて会津へ向かいます。会津では、主力部隊の総督の地位に就いた土方歳三に代わり、一が隊長役を務めました。
斎藤一の名言
「誠義にあらず」
新選組は会津で新政府軍に惨敗し、敗走します。会津に見切りをつけて仙台へ転戦すべきと主張する土方に対し、新選組隊長の一と隊士の一部は会津に留まることを主張しました。京都時代、新選組は会津藩の預かりという立場にあり、新選組という隊名も会津藩主・松平容保から与えられたものです。「新選組が今日まで会津藩から受けてきた恩を思えば、会津が危機に瀕しているときに見捨てるのは誠義ではない」というのが一の考えでした。
新選組は仙台へ向かう土方派と会津に留まる斎藤派に分裂し、一らは会津郊外の如来堂でわずか13人で300人の新政府軍を相手に戦いました。
斎藤一にゆかりのある地
江戸
一の出生地については諸説ありますが、一般には江戸で生まれたと考えられています。一の父、山口祐助は播磨国(現在の兵庫県南部)の出身で、21~22歳のときに江戸に出てきたと伝えられています。祐助は江戸で足軽として勤めた後に御家人株を買い、百姓の娘ますと結婚し、2男1女をもうけました。
一は19歳のときに殺人事件を起こして江戸にいられなくなり、京都に逃れました。維新後の1874年(明治7年)に江戸に戻り、71歳で亡くなるまで本郷区真砂町に暮らしました。
京都
もともと京都の治安維持のために結成された新選組。おもな活躍の舞台はやはり京都です。一は上京してきた新選組(浪士組)に最年少メンバーの一人として加わり、天満屋事件など数々の歴史的事件を経験することになりました。新選組は、京都で起きた坂本龍馬暗殺事件の犯人とも目されていました。
会津
会津藩は新選組と非常に縁の深い土地です。藩主の松平容保は京都守護職の地位にあり、結成から間もない新選組はその配下に置かれていました。新選組が初めて名を挙げたのは、会津藩と薩摩藩が長州藩の勢力を京都から排除した「八月十八日の政変」で、このときの功績により会津藩から「新選組」という隊名を与えられました。新選組とはもともと会津藩士の精鋭を集めた組織の名で、この名を与えられるのは名誉なことでした。
一が息を引き取ったのは東京ですが、大正9年に妻の時尾が亡くなった際、一も時尾と共に会津の若松城下七日町の阿弥陀寺に葬られました。「(会津を見捨てるのは)誠義にあらず」と、会津藩のために最後まで戦う決意をした一は、会津を死地と思い定めていたはずです。
斎藤一の死因
1915(大正4)年6月、一は胃潰瘍と診断されました。医者にかかったときはすでに病状は深刻で、翌月には危篤状態に陥ります。一命をとりとめるもその後も危篤状態を繰り返し、9月29日に71歳で息を引き取りました。墓誌には「藤田五郎」と刻まれています。
斎藤一を主題とした作品(漫画・小説・ドラマ・ゲーム)
浅田次郎『一刀斎夢録』(小説)
『壬生義士伝』、『輪違屋糸里』に続く新選組三部作の一つです。一は一刀斎と名乗る69歳の老人として登場し、幕末から西南戦争までの激動の歴史を若い陸軍中尉に語るという構成です。
司馬遼太郎『新選組血風録』(小説)
幕末を舞台とする連作短編集で、斎藤一は主要登場人物の一人として取り上げられています。過去に三度ドラマ化されており、左右田一平(1965~66年版 NET、現テレビ朝日)、深江卓次(1998年版 テレビ朝日)、尾関伸嗣(2011年版 NHKBSプレミアム)が斎藤一役を務めました。
和月伸宏『るろうに剣心~明治剣客浪漫譚』(漫画)
斎藤一は主人公の剣豪、緋村剣心の宿命のライバルとして登場し、剣心と激しい戦いを繰り広げます。
渡辺多恵子『風光る』(漫画)
倒幕派の浪人たちに父と兄を殺された少女、富永セイが仇討のため、男装して新選組に加入。斎藤一は真面目で冷静沈着ながらセイに想いを寄せるキャラクターとして描かれています。
『恋愛幕末カレシ~時の彼方で花咲く恋』(ゲーム)
異世界の幕末京都にタイムトリップし、歴史上の人物と同じ名前の男性と恋に落ちるという設定で、斎藤一は鬼畜×クールな一匹狼というキャラクターで登場します。
『薄桜鬼~新選組奇譚』
父を探しに京都へやってきた少女(実は鬼)が新選組隊士たちと出会うという設定の恋愛アドベンチャーゲームで、斎藤一はメインキャラクターの一人として登場します。
参考文献
『新選組組長 斎藤一』(菊地明 PHP研究所)
『図説 新選組』(横田淳 河出書房新社)