大政奉還とは?いつ、どこで、なぜ起こったのか分かりやすく徹底解説!

大政奉還とは、江戸時代末期に徳川幕府が政権を朝廷に返上した事です。大政奉還を経て、260年ぶりに政権は朝廷に戻りました。学校の授業や大河ドラマでも頻回に登場するワードなので、耳にした人も多いかもしれません。

ただ大政奉還は穏健に出されたものではなく、江戸幕府や朝廷、更には倒幕を目論む薩摩藩など、さまざまな勢力の駆け引きにより行われたものでした。大政奉還はその後に続く王政復古の大号令、戊辰戦争など、明治維新に繋がる大きな布石となっています。

今回は大政奉還とはそもそも何なのか、そして背景や行われた場所について解説します。

大政奉還とは?

簡単に説明すると

大政奉還とは?

邨田丹陵による「大政奉還図」
出典:Wikipedia

大政奉還は、慶應3年(1867年)10月14日に行われました。この日、徳川幕府15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返上し、260年に及ぶ徳川幕府による日本の統治は終わります。

古代の日本を治めていたのは、天皇率いる朝廷です。しかし源頼朝が鎌倉に幕府を開き、北条義時が承久の乱で後鳥羽上皇を島流しにして以降は、武士たちが日本を治めていました。

ただ歴代の将軍たちは、天皇から統治を委任されている立場に過ぎず、幕府は朝廷に代わって政治の実務を担う存在と考えられていました。この考え方を「大政委任論」と呼びます。大政委任論が理論化されたのは、江戸時代後期の老中・松平定信だと言われています。当時の日本では、王を尊ぶ思想である「尊王論」が台頭していましたが、松平定信は尊王論を牽制するため、大政委任論を提唱しました。

ただ大政委任論を突き詰めると、「幕府の権限は全て本来は天皇が有していたもの」という解釈に行き着きます。すなわち、幕府よりも天皇の方が上に立つべき存在という事になり、幕府そのものを否定する思想です。

大政奉還とは?

孝明天皇
出典:Wikipedia

黒船来航や日米修好通商条約の締結など、世が幕末になるにつれ、国内には「夷狄を追い払うべき」という攘夷論が台頭。攘夷論が尊王論と結びつき、尊王攘夷論が生まれた事により、国内では幕府の代わりに朝廷が政治を担うべきという考えが広まります。

徳川慶喜は高まる大政委任論と尊王攘夷論を背景に、慶應3年(1867年)10月14日に大政奉還を実施しました。

徳川慶喜の狙い

大政奉還はなぜ起こったのか

徳川慶喜
出典:Wikipedia

ただ大政奉還は単に政権を朝廷に返上する事が狙いだったわけではありません。この時点で幕府はまだ存在しており、徳川慶喜は征夷大将軍の座に留まっています。徳川慶喜が大政奉還を行ったのは、国内に存在する倒幕派の大義名分を失わせるためです。

また朝廷としては、いくら政権を返上されても260年以上の間、実際に国内の統治をしていたのは徳川幕府。朝廷には政権を運営するための政治機構もなく、諸外国との交渉もできません。徳川慶喜は、仮に幕府が政権を返上しても、引き続き徳川将軍家が政権を担うと確信していました。実際、10月23日に朝廷は、外交は引き続き幕府が中心になって行う事を通達。徳川慶喜の想定通りに事は進んでいます。

大政奉還が行われる前日の10月13日、徳川慶喜は開成所教授職を務めた幕臣の西周に新たな政治機構の構想について質問を行っています。西周は11月に新たな政治機構の起草案を提出。近代国家の基本となる三権分立が明記され、行政権を公府が担い、立法権を各藩の大名や藩士で構成された議政院が担う。更に天皇は象徴的な立場に置かれています。

公府はいわゆる大統領のような立場にあり、徳川慶喜が就任する予定となっていました。一連の政治機構は具体的かつ現実的なものであり、大政奉還を経て日本は徳川慶喜を中心とした近代国家が樹立していた可能性はあります。

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大政奉還はなぜ起こったのか

徳川慶喜の構想により行われた大政奉還ですが、そもそもなぜ徳川慶喜は大政奉還を行う事を決めたのでしょうか。その背景には、倒幕を目論む薩摩藩の大久保利通や、公家の岩倉具視の策略がありました。

この項目では、大政奉還が起きた背景をより詳しく解説します。

薩摩藩は元々倒幕を考えていなかった

大政奉還はなぜ起こったのか

和宮
出典:Wikipedia

実は薩摩藩は最初から倒幕を考えていたわけではありません。1850年代後半から1860年代前半にかけて、徳川幕府は朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化を図ろうと考えていました。この考えを「公武合体」と呼びます。公武合体政策で最も有名なのが、孝明天皇の妹である和宮と、14代徳川将軍である徳川家茂の婚姻です。

和宮の婚姻と徳川家茂が正式に決まったのは文久元年(1861年)4月の事。幕府が公武合体を推進する中、外様藩だった薩摩藩は自藩の政治的発言力を高める為、公武間の周旋に乗りだします。その流れはしばらく続きました。

薩摩藩は倒幕路線に舵を切る

大政奉還はなぜ起こったのか

鹿児島城
出典:Wikipedia

薩摩藩の方針に変化が見られるのは、徳川家茂が薨去して徳川慶喜が将軍に就任した慶応2年(1866年)12月5日の事。同月の12月25日に攘夷派の急先鋒だった孝明天皇が崩御すると、徳川慶喜は慶応の改革と呼ばれる改革を断行。内容は諸藩や朝廷の権力を削減し、幕府を頂点とする中央集権国家を樹立するというもの。

その状況下、慶応3年(1867年)5月に徳川慶喜と島津久光(薩摩藩主の父)、松平春嶽(前越前藩主)、山内容堂(前土佐藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)を交えて四侯会議が開催されます。この会議は過去の公武合体の延長線上にあり、当時朝敵の立場にあった長州藩の処遇問題などを解決する為に設けられたものでした。会議の場で薩摩藩は徳川慶喜に国内の諸問題の非を認めさせ、幕府における発言力を高めるつもりでいました。

しかし徳川慶喜は会議の場で驚異的な粘りを見せ、会議を主導します。薩摩藩は徳川慶喜が将軍の座に居続ける事で、発言力を持つ事ができないと判断。薩摩藩士の大久保利通や西郷隆盛は、公武合体路線から倒幕路線に舵を切りました。

5月21日に薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀は、土佐藩の中岡慎太郎を仲介として土佐藩の討幕派の重鎮である乾退助(板垣退助)や谷干城らと薩土密約を結びます。この同盟は武力討幕を目的とした軍事同盟です。

更に大久保利通は、公家の岩倉具視と接近。岩倉具視に徳川慶喜討伐の詔書である「討幕の密勅」が降命するように働きかけました。岩倉具視は、徳川慶喜の言いなりとなる朝廷首脳部に危機感を持ち、徳川慶喜を将軍の座から引き摺り下ろす事を考えていました。

山内容堂による大政奉還の進言

大政奉還はなぜ起こったのか

山内容堂
出典:Wikipedia

薩摩藩と武力討幕を目論んだ土佐藩の板垣退助達ですが、彼らは藩内ではむしろ少数派の立場です。土佐藩前藩主の山内容堂は、四侯会議を経て徳川幕府との結びつきを深めます。6月末に土佐藩士の後藤象二郎は、坂本龍馬から大政奉還を進言され、その内容を帰藩後の山内容堂に伝えます。

山内容堂は、大政奉還が徳川家の存続の妙案と考え、老中・板倉勝静らを通して15代将軍・徳川慶喜に大政奉還を建白しました。徳川慶喜は8月〜9月にかけて反徳川包囲網が敷かれつつある事を把握しており、大政奉還を行う事を決断。前述した通り、10月14日に大政奉還は行われました。

討幕の密勅が出される

大政奉還はなぜ起こったのか

偽物とされる討幕の密勅
出典:Wikipedia

大政奉還が行われる前後、朝廷でも大きな動きが起きています。それは10月13日に薩摩藩へ、10月14日に長州藩に「倒幕の密勅」が出された事。勅は明治天皇から出された事になっており、徳川慶喜を排除する事などが明記されています。

ただ討幕の密勅には、天皇が記入する必要がある「可」の文字がありません。この他にも怪しい点が多々ある事から、討幕の密勅は岩倉具視が中心として作られた偽勅という説が濃厚です。

小説などでは、討幕の密勅が出された同時期に大政奉還が行われた事で、岩倉具視や大久保利通の作戦は失敗したと言われています。ただ、討幕の密勅は徳川慶喜の討伐の大義名分を得るために起草されたものであり、日付は大した問題ではありませんでした。

大久保利通たちは、討幕の密勅を経て薩摩藩へ戻り、討幕の密勅を大義名分に藩内の意見を討幕に転換させる事に成功。次の計画として「王政復古の大号令」が出される事となりました。

大政奉還はいつ起こった?その後の徳川幕府の状況

大政奉還が起こったのは前述した通り、慶應3年(1867年)10月14日です。政奉還で徳川慶喜の目論見は成功し、政権を朝廷に返上した後も徳川慶喜は政治の中枢に居座り続けました。しかし情勢は目まぐるしく動き、日本は王政復古の大号令によるクーデターや、戊辰戦争による内紛が始まります。

この項目では大政奉還が起きた後の情勢について解説します。

王政復古の大号令が出される

大政奉還はいつ起こった?その後の徳川幕府の状況

王政復古の大号令を主導した岩倉具視
出典:Wikipedia

徳川慶喜が政権の座に留まり続ける中、岩倉具視や大久保利通や西郷隆盛は討幕の密勅を大義名分に政変の準備を開始。慶応3年12月9日早朝、皇居の一角にある御学問所は、待機していた5藩の兵が御所の九門を封鎖されます。その後、謹慎処分を解除された岩倉具視が参内。続いて大久保利通も参内し、クーデターの準備が整いました。

岩倉具視、そして中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛の4人は明治天皇に謁見し、王政復古の上奏文を読み上げます。王政復古の内容は以下の通りです。

将軍職辞職を勅許
京都守護職・京都所司代の廃止
幕府の廃止
摂政・関白の廃止
新たに総裁・議定・参与の三職をおく

王政復古は明治天皇により宣言されます。この時に、政治の実権は徳川慶喜ではなく、天皇や新たに定められた三職が担う事が定められました。

小御所会議が開催される

大政奉還はいつ起こった?その後の徳川幕府の状況

小御所会議が開催された小御所
出典:Wikipedia

12月9日夕方、公卿や大名、諸藩士が小御所に召集され、小御所会議が開催されます。参加者は隔てられた上座に臨席する明治天皇や、三職に任命された面々がいて、大久保利通などの無冠の藩士も含まれていました。

会議の場で岩倉具視や大久保利通は、徳川慶喜の官位の辞任と幕府直轄領800万石の差し出しを要求。この要求を辞官納地と呼びます。山内容堂や福井藩の前藩主である松平春嶽は辞官納地に反対し、徳川慶喜も会議に参加する事を要求しました。

山内容堂は「幼沖の天子を擁して、二・三の公卿が権力を得ようとしている」と岩倉具視らを批判しますが、岩倉具視は「今日の挙は全て宸断(天皇の判断)によって行われた事」と一喝しました。結局、小御所会議で徳川慶喜の辞官納地は決定されます。

ただ徳川慶喜を評価する声と、岩倉具視や大久保利通らの行動を批判する声はくすぶり続けました。徳川慶喜は辞官納地を無視し、12月14日から各国の公使たちと会見を行い、何事もなく日本の事実上のトップとして振舞いました。12月16日には、いずれ徳川慶喜が議定に就任する事や、辞官納地が白紙に戻る可能性も浮上します。クーデターを起こした岩倉具視や大久保利通は逆に追い詰められていきました。

戊辰戦争勃発

大政奉還はいつ起こった?その後の徳川幕府の状況

鳥羽伏見の戦い
出典:Wikipedia

岩倉具視や大久保利通が追い詰められる中、西郷隆盛は12月26日頃から江戸の町に工作員を放ち、江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃させます。江戸の街は大混乱となり、旧幕臣の中に「薩摩撃つべし」という開戦論が浮上。当時の徳川慶喜は京都にいましたが、高まる開戦論を抑えきれず、開戦を決意。慶応4年(1868年)1月4日、京都の鳥羽で旧幕府軍と新政府軍との間で、戊辰戦争の前哨戦である鳥羽伏見の戦いが勃発しました。

鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わり、新政府軍は戦いの最中に「錦の御旗」を掲げました。錦の御旗は天皇が官軍の大将に与える旗。鳥羽伏見の戦いを経て、旧幕府軍は賊軍となります。徳川慶喜は水戸藩出身の人物であり、特に勤皇精神の強い人物でした。鳥羽伏見の戦いで新政府軍が錦の御旗を掲げたと知った徳川慶喜は1月6日に大阪城を脱出。そのまま江戸に戻り、自ら謹慎しました。

戊辰戦争は各地で激戦が続き、明治2年(1869年)5月に最後の戦いである箱館戦争も新政府軍の勝利に終わります。討幕の密勅は大政奉還で白紙に戻り、王政復古の大号令も徳川慶喜の影響力で反故にされかけたものの、最終的に岩倉具視や大久保利通は新政権を樹立するに至りました。

錦の御旗は偽物だった?

大政奉還はいつ起こった?その後の徳川幕府の状況

錦の御旗
出典:Wikipedia

ちなみに鳥羽伏見の戦いで新政府軍が掲げた錦の御旗は、偽物だったという説があります。この時の錦の御旗の半分は、岩倉具視の玉松操がデザインを考え、大久保利通の妾である妾のおゆうを通じて西陣で織らせたもの。もう半分は長州藩の藩士である品川弥二郎が長州で作成を命じたとされます。

ただ偽物か本物なのかは戦いの最中では大した問題ではありません。天皇を擁立した勢力が錦の御旗らしきものを掲げた事に意味があります。

すなわち岩倉具視や大久保利通、西郷隆盛は王政復古の大号令で無理矢理クーデターを起こし、江戸で乱暴狼藉を働いて旧幕府軍を挑発。更に錦の御旗をでっち上げて旧幕府を朝廷に仕立て上げた事になります。ただ、勝てば官軍とは新政府軍の事であり、現在に至るまで新政府による明治維新は正当化されています。

大政奉還と江戸幕府

大政奉還はいつ起こった?その後の徳川幕府の状況

上野戦争
出典:Wikipedia

ちなみに、大政奉還を経て徳川幕府(江戸幕府)がすぐに消滅したと考える人もいますが、事実はそうではありません。大政奉還後も徳川慶喜は将軍職の座にあり、政治の実権を握っています。

徳川幕府の終焉を征夷大将軍の任官時期に着目して考察する場合、王政復古の大号令が宣言された時です。この他には、慶応4年(1869年)4月11日に江戸城が無血開城された時を徳川幕府の終焉と考えるケースもあります。

昔は鎌倉幕府の樹立を1192年と習っていました。最近は、鎌倉幕府を構成する組織は1180年から徐々に設置されていた事が判明しています。そのため、学校の授業でも1192年に鎌倉幕府が樹立したと教えていません。

徳川幕府の終わりの時期も、今後の研究や解釈により変化するものと考えられます。

大政奉還と版籍奉還、廃藩置県の違い

大政奉還はいつ起こった?その後の徳川幕府の状況

明治天皇の東京行幸
出典:Wikipedia

また学校のテストで問われる事が多いのは、大政奉還の用語の意味の他に、版籍奉還と廃藩置県の違いです。近い時期に行われた改革ですが、意味合いは全く異なります。

版籍奉還は明治2年(1869年)に明治維新の一環として行われました。内容は、全国の藩が所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還するというものです。大政奉還により政権は(一応)朝廷に返上されたものの、藩の体制はそのまま維持され、土地や人民の支配権は藩主が支配していました。

明治政府が目指したのは、天皇を中心とした中央集権国家。藩主が藩の実権を握り続けていては、中央集権国家は構築できません。しかし、いきなり藩の支配権を藩主から取り上げると、大きな反発が予想されます。

そのため、版籍奉還では藩主は「知藩事(ちはんじ)」に任命されており、元の領地を統治する事も認められています。大きな反発もない代わりに、版籍奉還後も地方分権状態は続いており、明治政府の目指した中央集権国家からは程遠い状態が続きました。

大政奉還はいつ起こった?その後の徳川幕府の状況

1872年(明治4年12月)の地方行政区画
出典:Wikipedia

やがて明治4年(1871年)7月、明治政府は廃藩置県を断行します。廃藩置県は藩を廃止し、新たに府と県を設置した行政改革です。全国に300ほどあった藩は廃止され、知藩事の立場にあった各藩主は藩収入の一割が約束され、東京居住が強制されました。

廃藩置県を経て、明治政府の目指した中央集権国家体制は確立する事となり、日本の近代化は更に一歩前進しました。大政奉還は徳川幕府が提案したものであり、版籍奉還や廃藩置県は明治政府が主導したものである事は覚えておきましょう。

学校で習う時期は?

大政奉還はいつ起こった?その後の徳川幕府の状況

高校の教科書を扱う山川出版
出典:Wikipedia

大政奉還は日本史における重要な出来事なので、小学校の日本史でも習います。また高校の日本史はAとBに分かれており、日本史Aは近現代、Bは原始時代から現在までが対象です。大政奉還はAとB双方に含まれています。

つまり日本史を授業で習う場合、大政奉還は確実に耳にする単語です。ただ「大政奉還→王政復古の大号令→戊辰戦争」の経過を今回の記事のように掘り下げて説明するかは教員次第です。そのため、大政奉還の意図や王政復古の大号令が出された意図がわからない学生もいます。

日本史は暗記ではありません。なぜその出来事が起きたのか、その背景に何があったのかなどを学ぶと、経過が見えてきます。

覚え方 語呂合わせは

大政奉還はいつ起こった?その後の徳川幕府の状況

江戸城
出典:Wikipedia

大政奉還が行われたのは慶應3年(1867年)10月14日。語呂合わせとしては、以下のものがあります。

・いや(18)虚(67)しいな、長い江戸が終わってしまった!
・いや(18)胸(67)騒ぎ、新しい世!

大政奉還以外にも、この時代は版籍奉還や廃藩置県など、さまざまな出来事が起きています。語呂合わせを覚える事で、テストや入試にもプラスになるのではないでしょうか。

大政奉還はどこで行われた?

大政奉還はどこで行われた?

唐門越しに見る二の丸御殿
出典:Wikipedia

ちなみに大政奉還が行われた場所は、京都にある二条城の丸御殿大広間で行われました。二条城は正式名称を元離宮二条城と呼び、徳川家康が1601年に築城したもの。二条城は大政奉還以外にも、禁中並公家諸法度の公布や、後水尾天皇の行幸にも使われました。まさに徳川幕府の始まりと終わりを担った場所です。

大政奉還と二条城について

歴史的な価値も高い二条城ですが、二条城は京都に存在します。徳川幕府は江戸で幕府を開いたにもかかわらず、なぜ二条城で大政奉還を行なったのでしょうか。この項目では大政奉還と二条城の関係性をより掘り下げていきます。

なぜ江戸城ではなく二条城で行われたのか

大政奉還と二条城について

現在の元離宮二条城(二条城)建物配置図
出典:Wikipedia

大政奉還が江戸城ではなく二条城で行われた理由は、徳川家康が京都御所を守護する、将軍が上洛した時の宿泊所にする事を目的に二条城を築城したためでした。ただ二条城が、朝廷との仲介に使われたのは江戸時代初期と幕末に限られます。

寛永11年(1634年)に3代将軍・徳川家光が30万人の兵を引き連れて上洛して以降、二条城に徳川将軍がおとずれる事はなくなります。その期間は230年に及び、二条城は暴風雨や地震などで老朽化。天明8年(1788年)には天明の大火で御殿、隅櫓などが焼失します。破損部分は修復されたものの、焼失した部分は再建されませんでした。

二条城が再び歴史の表舞台に姿を現すのは幕末です。黒船来航や日米修好通商条約の締結などを経て、国内では尊王攘夷論が台頭。文久3年(1863年)に14代将軍である徳川家茂は、孝明天皇の要請に応じ、230年ぶりに上洛します。朽ち果てていた二条城は本来の役割を担うため、前年から改修が開始。徳川家茂が上洛する頃には、二の丸御殿は全面的に修復されました。

その後も徳川家茂は慶応元年(1865年)に上洛するなど、二条城は幕末の日本における重要な場所になりました。

大政奉還と二条城の関係性は?

大政奉還と二条城について

徳川家茂像(川村清雄作)
出典:Wikipedia

大政奉還が決定された場所も二条城であり、両者は密接な関係があります。徳川家茂は慶応2年(1866年)に薨去し、新たに徳川慶喜が将軍に就任。徳川慶喜は京における拠点を二条城とし、12月に二条城の御殿勅使の間で将軍拝命の宣旨を受けています。徳川慶喜は将軍職を辞するまで江戸に戻る事はなく、朝廷との結びつきを強めるため、二条城を中心に活動を続けました。

前述した通り、徳川慶喜は慶應3年(1867年)10月14日に大政奉還を行います。その前日、徳川慶喜は二条城のニの丸御殿で大政奉還の会議を行いました。二条城は徳川家康が徳川将軍家の威信を見せつける為に築城されたもの。ただ260年の時を経て、政権は朝廷に返上されます。再び輝きを取り戻した二条城は、その様子をどのように見ていたのでしょうか。

二条城はどこにある?

大政奉還と二条城について

庭園側から見た二の丸御殿
出典:Wikipedia

二条城は現在の京都市中京区二条通堀川西入二条城町にあります。京都駅から北に約3kmの場所にあり、まさに京都の中心に位置します。

二条城は大政奉還が決められた二の丸御前以外にも多くの建造物が存在し、その数は実に22棟。東京ドーム7個分に相当する広さを誇ります。二条城は1952年に二の丸御殿6棟が国宝となり、1994年に世界文化遺産に選ばれました。現在では京都の観光地になっており、多くの人たちが大政奉還が行われた場所を見学しています。

参加者について

邨田丹陵による「大政奉還図」
出典:Wikipedia

大政奉還が行われた時、数多くの大名や幕臣がその場面に立ち会ったと考える人もいますが、実際はそうではありません。大政奉還といえば、邨田丹陵による「大政奉還図」が有名ですが、この絵は大政奉還当日ではなく10月12日の様子を著したものです。

大政奉還の経過を時系列で追うと以下の通りとなります。

・10月12日:徳川慶喜が松平容保や松平定敬などの近臣を二条城に召見し、大政奉還の意思を伝える。
・10月13日:老中・板倉勝静が二条城の大広間に在京十万石以上の諸藩重臣を召集する。その時に大政奉還を行う事を宣言。その後で、鹿児島藩士の小松帯刀や高知藩士の後藤象二郎ら6名が徳川慶喜に謁見する。
・10月14日:14日に大政奉還を奏上し、15日に勅許が決まる。

大政奉還図は10月12日の様子を記したものとされますが、実際にこれ程多くの幕臣が集まったのかは不明です。大政奉還は徳川慶喜が大々的に宣言したものではなく、秘密裏に行われたものでした。

大政奉還のゆかりの地

大政奉還のゆかりの地といえば、前述した二条城が有名です。しかし二条城以外にもゆかりの地はたくさんあります。最後に、大政奉還のゆかりの地を解説します。

岩倉具視幽棲旧宅

大政奉還のゆかりの地

岩倉具視幽棲旧宅
出典:Wikipedia

岩倉具視幽棲旧宅は、文久2年(1862年)9月から慶応3年(1867年)11月にわたり、岩倉具視が住んでいた場所です。朝廷で勢力を伸ばしていた岩倉具視は文久2年(1862年)に失脚し、この地に居住。この他には坂本龍馬や中岡慎太郎、大久保利通らが訪問し、岩倉具視は今後の方針を固めていきました。

徳川慶喜が山内容堂の進言を受けて大政奉還を進める中、岩倉具視は大久保利通らと討幕の密勅を出す事を画策します。岩倉具視幽棲旧宅は、いわば大政奉還の裏舞台です。

岩倉具視は明治維新後に東京に移住しますが、たびたびこの地を訪れています。1932年に岩倉具視幽棲旧宅は、国の指定史跡に選ばれました。

京都御所

大政奉還のゆかりの地

京都御所の御学問所で王政復古の大号令が行われる
出典:Wikipedia

京都御所は1337年から1869年までの間、歴代の天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所です。大政奉還を経て再び徳川慶喜が政治の実権を握る事が決まった矢先、慶応3年(1867年)12月9日、この場所で岩倉具視達により王政復古の大号令が出されます。

現在の京都御所は、宮内庁が管轄する「皇室用財産」に分類されています。

まとめ

今回は大政奉還が起きた過程や、その後の徳川幕府や明治政府の動向について解説しました。学校の授業でも必ず習う大政奉還ですが、その背景にはさまざまな思惑が画策していました。

大政奉還が行われた時点では、徳川慶喜が政権を本当に奪取していた可能性もあったものの、最終的に大久保利通や岩倉具視の策略で明治政府は発足します。この事実を知れば、新たに発足した明治政府の印象も変わってくるのではないでしょうか。今回の記事を通じ、幕末の日本の情勢について興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大政奉還

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