日清戦争の原因とは?賠償金や、いつ、なぜ起こったのかきっかけなど分かりやすく徹底解説!

日清戦争は明治27年(1894年)から明治28年(1895年)に日本と清国の間に起きた戦争です。日本は眠れる獅子たる清国に勝利し、列強たちから一目置かれる存在になりました。近代日本史においても重要な日清戦争ですが、戦争が起きた背景や戦争がその後の日本に与えた影響については知らない人も多いのではないでしょうか。

そこで今回は、日清戦争が起きた原因や結果、賠償金の使われ方などについて解説します。この記事を読めば、日清戦争にたいする理解がさらに深まる事でしょう。

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日清戦争はいつ起こった?

何時代に起こったのか

日清戦争はいつ起こった?

明治天皇が東京行幸をする様子
出典:Wikipedia

日清戦争が起きたのは明治27年(1894年)から明治28年(1895年)。明治時代中期であり、西暦としては19世紀後半です。当時の日本は明治政府が発足してから約30年。近代化は遂げているものの、未だ列強からは中小国とみなされていました。日清戦争で日本は初めて大規模な対外戦争を経験し、国民国家として脱皮を果たしました。

テストの覚え方について

日清戦争はいつ起こった?

日清戦争に従軍する日本兵
出典:Wikipedia

日清戦争の語呂合わせは以下の通りです。

・「1894年、人は串刺(くしざ)し日清戦争」
・「1894年、いっぱい食うよ日清UFO」

日清戦争が起きた年を覚えておくと便利です。なぜなら日清戦争以降、日本は10年に1度戦争をするためです。

具体的には1904年の日露戦争、1914年の第一次世界大戦です。

日清戦争の原因とは?

原因についてわかりやすく説明すると

日清戦争の原因とは?

日本と清国と朝鮮半島
出典:Wikipedia

日清戦争の原因をわかりやすく説明するなら、日本と清国双方が李氏朝鮮の影響の拡大を狙っていたためです。

当時の李氏朝鮮は清国の属国のような立場にあり、清国の影響を強く受けていました。19世紀はアジア一帯の国々が列強の植民地にされていた時代。日本は幕末の混乱を経て明治政府を立ち上げ、不平等条約を締結されつつも植民地支配自体は免れていました。

日本が特に警戒していたのが、不凍港を獲得するため、南下政策を取り続けていたロシア帝国です。朝鮮半島はロシアが大陸侵略を行う上で、地政学的に重要な場所。絶対にロシアに明け渡してはいけない場所でした。

日本は未だに前時代の影響を受け続ける李氏朝鮮を独立させ、近代国家に改革する事で、ロシアの対外侵略の防波堤にしたいと考えていたのです。しかし清国も属国である李氏朝鮮を簡単に手放すハズがなく、対立は徐々に大きくなり、日清戦争が勃発したのです。

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甲午農民戦争について

日清戦争の原因とは?

甲午農民戦争の始まりとともに広まった全琫準の檄文
出典:Wikipedia

日清戦争の原因となったのが、明治26年(1894年)1月11日に李氏朝鮮で起きた甲午農民戦争です。甲午農民戦争は、李氏朝鮮側の関与者に東学という宗教を信仰する者が多数含まれていたため、東学党の乱とも呼びます。

甲午農民戦争は、李氏朝鮮で虐げられていた人々が上位層による収奪に対して行なった蜂起です。争いは朝鮮全土に波及し、日本と清国は朝鮮に出兵をします。当時の日本は清国と天津条約を締結しており、朝鮮に出兵する時は相互に通達する義務がありました。

甲午農民戦争は間もなく鎮圧し、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れますが、両国は受け入れずに対峙を続けました。6月15日に日本は清国に朝鮮の独立援助と内政改革を条件に双方が撤兵する事を提案しますが、清国は「日本の撤兵が条件」として撤兵を拒否しました。

7月23日午前2時、日本軍混成第九旅団は郊外の駐屯地龍山から漢城に向かい朝鮮王宮を包囲。7月25日には豊島沖海戦、29日に成歓の戦いが行われ、日本と清は交戦状態となります。31日に、清国政府が駐北京日本公使の小村寿太郎に国交断絶を通告すると、8月1日に日清の両国が宣戦布告を行い、日清戦争が勃発しました。

日清戦争の結果について

結果的に日清戦争は日本の圧勝に終わります。

経過は以下のとおりです。

1894年
・7月29日 成歓の戦いで日本軍は勝利
・8月1日 双方が宣戦布告
・9月15日 平壌攻略戦で日本軍が勝利
・9月17日 黄海海戦で日本艦隊が勝利し日本は制海権を掌握
・11月21日 日本軍が旅順口を占領

1895年
・2月中旬 日本が制海権を完全に掌握
・3月上旬 日本が遼東半島全域を占領
・4月17日 下関条約の締結

日本は眠れる獅子と呼ばれた清国に勝利し、列強からも一目置かれる存在となりました。

日清戦争後の影響について

日清戦争の結果について

日清戦争の前哨戦である豊島沖海戦
出典:Wikipedia

日清戦争を経て日本は下関条約を締結します。朝鮮半島は独立を果たすに至り、日本は当初の目的を達成しました。

日本が列強から一目置かれる中、眠れる獅子と呼ばれた清国は予想以上に弱い事が露呈。戦費調達と賠償金を支払うため、欧州列強から多額の借款を行います。要衝のいくつかを租借地にされるなど、更に植民地化が進みました。

また李氏朝鮮は清国から独立し、大韓帝国が建国されます。第26代李氏朝鮮王である高宗が皇帝に即位したものの、経済機構は李氏朝鮮時代と大きな変わりはありません。そのためロシアの南下政策の防波堤になる事はできず、韓国は1910年に韓国併合されるなど、日本の保護国化が進みました。

領土や賠償金は?

日清戦争の結果について

台湾平定の様子
出典:Wikipedia

日清戦争を経て日本は台湾を獲得しました。日本の台湾統治は1895年から1945年まで続き、台湾を統治するための台湾総督府が置かれます。武断政治で台湾人から反感を買う事もありましたが、一応台湾も経済発展を遂げるに至ります。

現在の台湾に親日家の人が多いのは、日本が台湾の経済発展に大きく貢献したためです。同じく朝鮮半島も日本の影響で経済発展を遂げたものの、現在でも反日感情を持つ人はたくさんいます。台湾と朝鮮は共に日本の影響下に置かれたものの、その後の日本の歴史に与えた影響は対照的でした。

また日本が日清戦争で得た賠償金は2億テールです。さらに三国干渉による遼東半島の代償で3000テールも後から得ています。そのため、実際の賠償金は2億3000テールです。

テールとは銀の重さを指す単位であり、1テールは37.3g(純銀配合率は約94%)の銀貨を指します。この賠償金を元手に日本は発展を遂げるなど、賠償金は日本にプラスの影響をもたらしたのでした。

日清戦争はなぜ勝てたのか?

当時の日本は明治維新を迎えて30年も経っていません。にもかかわらず、なぜ日本は日清戦争で勝つことができたのでしょうか。その理由を解説します。

勝てた理由①:日本と清国の意識の差

日清戦争はなぜ勝てたのか?

威海衛の戦いの様子
出典:Wikipedia

日清戦争勃発時、日本の世論は主戦論で固まり、政治と軍事が統一されていました。当時は伊藤博文が内閣を発足していましたが、議会は政府提出の臨時軍事費予算案を満場一致で可決しています。つまり議会での対立以上に「清国に勝利する」という共通目標が存在していたのです。内村鑑三や田中正造など、日露戦争で反戦を唱えた人たちも日清戦争については、政府を支持していました。

また当時は幕末や明治維新の立役者達の多くが存命であり、政治指導者は軍事に、軍事指導者は政治に一定の見識を持っていました。そのため、さまざまな場面で柔軟な対応ができたと考えられます。

一方の清国は外交と軍事が不統一なままでした。更に国内では主戦派と戦争反対派が対立する、軍幹部が砲弾の火薬を転売し砂に換えるなど、腐敗した行動もみられました。最初から国民が一致団結して戦争に勝利する覚悟がなく、そもそも日本の底力をみくびっていたフシがあります。双方の国々のモチベーションの差が、勝敗に繋がった事は間違いありません。

勝てた理由②:軍事力の差

日清戦争はなぜ勝てたのか?

日清戦争と日露戦争で使われた軍艦・松島
出典:Wikipedia

日清戦争では日本軍が近代化された兵力で、清国軍を圧倒しています。更に日本軍が歩兵、騎兵、砲兵、工兵などで編成された師団で構成されていたのに対し、清国軍は歩兵と騎兵が主体で砲兵は歩兵のおまけのような存在でした。

当時の戦争が銃や大砲などの火力が戦局を左右していたのに対し、清国軍は未だ旧来の戦術を採用しています。さらに兵士の多くが国の軍隊ではなく、軍閥の私兵。少しでも戦局が不利になれば、逃げてしまう兵士が後を絶ちませんでした。

また清国の4艦隊(北洋・南洋・福建・広東)の中で、最も新しい艦隊は開戦4年前の1890年のもの。対して日本の艦隊は対する日本艦隊は、1891年以降に製造されたものばかり。日清戦争は最初から日本が勝つべくして勝った戦争でした。

日清戦争における下関条約について

明治28年(1895年)4月17日、日本と清国は講和条約として下関条約を締結します。正式な名称は日清講和条約。条約の調印者は、日本側全権は伊藤博文と陸奥宗光、清国側全権は李鴻章と李経方でした。教科書でも習う下関条約ですが、内容については詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。

この項目では下関条約について掘り下げます。

下関条約の内容について

日清戦争における下関条約について

下関条約締結時の様子
出典:Wikipedia

下関条約は全11条からなり、主な調印内容は以下の通りです。

・清国は朝鮮の独立を認める
・清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する
・清国は賠償金2億テールを日本に支払う
・清国は沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する

などです。

日清戦争の目的は朝鮮半島を独立させ、南下政策をとるロシアの防波堤にする事。下関条約で日本の目標は達成したと言えます。

場所はどこで結んだ?

日清戦争における下関条約について

下関条約が締結された春帆楼
出典:Wikipedia

下関条約が締結されたのは、山口県赤間関市(現、下関市)にある割烹旅館・春帆楼。戦前はまだ下関市ではなく、通称を「馬関」と呼びました。そのため、当時は下関条約とは呼ばれず馬関条約と呼ばれる事が一般的で、韓国や北朝鮮では今でも馬関条約と呼ばれています。

赤間神宮・安徳天皇御陵に隣接しており、関門海峡を望む高台に位置します。下関条約が締結された記念日である4月17日には、当時の使用器物を陳列して、談判場の状景を一般に縦覧させるイベントも開催されました。

もし下関条約で講和せず戦争が継続していたら

日清戦争における下関条約について

三国干渉の結果、日本は遼東還付条約に調印した
出典:Wikipedia

仮に下関条約で講和せず戦争が継続していた場合、日本は更に領土を獲得したかといえばそうではありません。おそらく、ロシアなどの清国や朝鮮の権益や領土を狙う国が、清国に加担した可能性があるためです。

実際、下関条約締結後の4月23日にフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国は「三国干渉」を行い、遼東半島を清国に返還するよう求めています。三国干渉は日本が東アジアで影響力を持ち始めた事を警戒したロシアが主導したもの。日本は5月10日、日本は遼東半島を清に還付しています。

仮に日本が遼東半島以外の範囲も占領し、列強が清国の支援に回れば、日本と清国の形勢が逆転した事は間違いありません。日本は絶妙なタイミングで日清戦争を終わらせたと言えます。

また日清戦争がその後も続いていれば、日本軍の犠牲者が更に増えた可能性もあります。日清戦争に駆り出された日本軍は、約24万人。参謀本部「明治二十七八年日清戦史」によると、戦傷死、病死の合計死者数は13311人です。

「明治二十七八年役陸軍衛生事蹟」によると、日清戦争とその後の台湾平定を合わせて脚気の41431人。脚気死亡者数は4064人です。ビタミンB1の不足で起こる病であり、病状が悪化すれば死に至ります。当時はビタミンの概念がなく、主食である米を麦飯ではなく白米にした場合、多くの栄養が失われます。

しかし当時の陸軍では「主食(白米)さえ食えば栄養は十分」という考えが存在し、白米食と貧相な副食が支給される事がしばしばありました。仮に戦争が続いていれば、食糧が滞り、脚気の犠牲者が更に増えた事は間違いありません。

日清戦争の賠償金について

現在の価値にすると

日清戦争の賠償金について

スペインの銀貨
出典:Wikipedia

2億テールの賠償金が現在の価値に換算した場合、いくらになるのかは諸説あり確定できません。テールとは前述した通り銀貨であり、日本円ではなく換算した数値で現在価値を推測する必要があります。

単純に通貨に含まれる「銀」の価値で換算した場合、1テール=37.3g×0.94%×70円(現在の純銀1グラムの価格)=現代の価値では2454円。2億テールは2454円×2億=4900億円となります。ただ、この金額だと安すぎるという指摘もあります。

銀の量ではなく通貨価値として考えると、当時は1テールの貨幣は10ドルの交換レートが決められていたとの事。当時は1ドルが約2円なので、10ドルは当時の日本円にして約20円。つまり1テール=当時の10ドル=明治28年度の20円です。当時の1円で現在の5900円相当のものが買えたので、20円だと約11万8000円。さらに2億をかけると23兆6000億円となります。

ちなみに2億テールに加えて、遼東半島返還時の賠償金として3000テールも発生しています。さらに金額が膨大なため、利子も発生したので、最終的に日本が受け取った金額は3億6500万テールとなりました。この場合、先ほどの計算を用いると約43兆円となります。

4900億円に43兆円。大きな開きがありますが、いずれにせよ日本が多額の賠償金を得た事は間違いありません。

賠償金の使い道について

日清戦争の賠償金について

八幡製鉄所
出典:Wikipedia

日本は膨大な賠償金を使い、日本は経済発展を遂げました。三国干渉を経て日本は将来の仮想敵国をロシアに定めます。ロシアは世界有数の大国であり、当時の日本が勝てる相手ではありません。そのため、日本は更なる近代国家の体制や軍事力の強化が求められたのです。

当時の日本は銀本位制を採用し、銀と交換できる兌換紙幣を発行して各国と貿易をしていました。しかしイギリスやアメリカと始めとした列強は金本位制を導入していたため、日本は金本位制の導入を考えていました。当時の大蔵大臣である松方正義ら、賠償金を銀ではなく金で受け取る案を伊藤博文総理大臣に提案します。

結果的に賠償金のうち、2億3000テールがイギリスの金貨として換算して支払われます。日本は膨大な金貨を元手に1897年に貨幣法を制定。金本位制が日本にも確立されます。金本位制は国際金融決済システムの利用や、日露戦争での戦費調達なども円滑に行えるようになり、後の日本に大きな影響を与えました。

更に殖産興業政策の一環として、北九州市に八幡製鉄所が作られます。操業は1901年からですが、八幡製鉄所は兵器材料の特殊鋼などの多品種の鋼材を製造します。第二次世界大戦前には、日本の鉄鋼生産量のうち半分以上を占める事となり、後の日本の軍備の拡大に大きな影響を与えました。

上記のように賠償金の多くは戦費と軍拡費に使われます(割合的に84.5%)。ただ運輸通信費や教育にも2%程が賄われており、国民の生活基盤の拡充にも多少は使われたようです。

当時の国民の不満状況について

日清戦争の賠償金について

日露戦争では日比谷焼き討ち事件が起きている
出典:Wikipedia

日清戦争で日本は連戦連勝したため、国民の不満はほとんどありませんでした。多くが軍拡に使われたものの、雇用の拡大や教育の拡充にも影響を与え、国民にも還元されています。

新聞は日清戦争で日本が勝利するたびに記事を掲載し、国民は日本の勝利に湧きました。日本人は初めて大規模な対外戦争を経験し、「国民国家」に脱皮したのです。

しかし後の日露戦争で日本は賠償金を得られなかったため、国民の不満は爆発。ポーツマス条約締結後に日比谷焼き討ち事件が起きています。日清戦争は良くも悪くも日本人の精神に大きな影響を与えたのです。

日清戦争前後の中国との関係について

日清戦争の相手となった清国ですが、日本との関係は日清戦争の前後でどのように変化したのでしょうか。この項目では戦争前後の両国の関係について解説します。

戦争前の関係

日清戦争前後の中国との関係について

台湾出兵
出典:Wikipedia

日本が明治維新を迎えた頃、日本と清国の関係はまだ悪くはありませんでした。アヘン戦争で清国がイギリスに大敗し、列強の植民地化が進む中、日本は列強と不平等条約を締結しています。東アジアが列強の脅威に晒される中、両国は1871年に日清修好条規を締結。

この条約は日本が初めて諸外国と締結した対等な条約でした。しかし琉球王国の帰属問題や、1874年の台湾出兵などの問題が発生する中で両国は徐々に対立の兆しを見せ始めます。清国は日本に警戒心を持ち始め、日本を仮想敵国に定めて北洋水師(艦隊)を製造し始めるなどの行動を開始。日本も清国の気配を察知しつつ、中国を仮想敵国に定めて軍拡を促進させました。

甲午農民戦争を経て日清戦争は勃発したものの、その前から日清関係は悪化していたのです。

戦争後の関係

日清戦争前後の中国との関係について

中国を分割する風刺画
出典:Wikipedia

日清戦争後も日本と清国の仲は改善しませんでした。日清戦争を経て日清修好条規は破棄され、日清戦争終結後の1896年に日清通商航海条約が締結されます。この条約は日本が清国に領事裁判権や協定関税などの特権を認めさせたもの。日本は日清通商航海条約を足がかりに中国市場に進出しました。

また日清戦争で清の弱さが露呈した結果、清国は今まで以上に列強の植民地支配に組み込まれていきます。ただ清国が日本の方針に納得するはずがなく、国内では反日運動が激化しました。しかし清国の弱体化は進み、日清戦争から約20年後の1912年の辛亥革命で清国は滅亡しました。

元々、日本は古来より中国を歴史的に崇める風潮がありました。しかし日清戦争を経て、中国を軽視する風潮が一定の国民に浸透したのは事実。日清戦争を経て日本人の中国に対する認識は、真逆のものに変化したのでした。

日清戦争で活躍した人をまとめてみた

日清戦争は日本が初めて経験した大規模な対外戦争です。そのため、多くの人たちが戦争に関与し、大きな活躍を見せました。この項目では、日清戦争で活躍した人たちを簡単に解説します。

日本人①:明治天皇

日清戦争で活躍した人をまとめてみた

明治天皇
出典:Wikipedia

明治天皇は日本の122代天皇です。倒幕および攘夷派の象徴として担がれたものの、明治期には元首としての風格を得るに至ります。日清戦争、そしてその後の日露戦争を指揮し、偉大なる君主と呼ばれました。

ただ明治天皇は「―かくの如くもともと不本意ながらの儀なれば、おそれながら神明へ申上候事は、はばかるべし」と述べ、日清戦争開戦に強く反対していました。ただ当時は大日本帝国憲法が制定され、内閣が存在していた時代。明治天皇の意見は反映されず、戦争は続きます。明治天皇は大本営で、各戦いの最終決定を下す立場にあったものの、その心境を考えると複雑ですね。

日本人②:伊藤博文

日清戦争で活躍した人をまとめてみた

伊藤博文
出典:Wikipedia

伊藤博文は幕末の志士であり、明治期の政治家です。彼は日清戦争開戦時は総理大臣を務めており、下関条約締結時の全権として活躍します。情勢を見抜く目にも優れており、三国干渉が行われた時は遼東半島の返還を決断しています。伊藤博文はその後も初代韓国統監を務めるなど、対外政策にも大きな影響を与えました。

日本人③:陸奥宗光

日清戦争で活躍した人をまとめてみた

陸奥宗光
出典:Wikipedia

陸奥宗光は日清戦争勃発時の外務大臣です。彼は日清戦争の前にイギリスと友好的な関係を結び、日英通商航海条約を締結。幕末以来の不平等条約である領事裁判権を撤廃させました。日清戦争ではイギリスやロシアの中立化に成功し、戦争を優位に進める事に成功。後の下関条約調印の際も全権を務めました。

外国人:李鴻章

日清戦争で活躍した人をまとめてみた

李鴻章
出典:Wikipedia

李鴻章は清国末期の政治家です。日清戦争に反対の立場を唱えますが、主戦派により戦争は勃発。その後は清国の立場を維持するために奔走し、清国側の全権として下関条約に調印しました。彼は下関条約締結時、賠償金をなるべく少なくする事に奔走し、台湾の領土割譲を認めました。

政府高官たちは領土の割譲に反対しますが、李鴻章は「賠償金は現在でも貧しい国民に負担がかかる。国土はわが同胞が居住する限り必ず戻ってくる」と説得しました。李鴻章の予想は確かに当たり、日本は50年後の太平洋戦争で敗北し、台湾を再び中国に明け渡します。つまり李鴻章の予想は当たりました。

まとめ

今回は日清戦争が起きた原因や、その後の国際情勢に与えた影響について解説しました。日清戦争は日本が初めて経験した近代的な対外戦争。眠れる獅子たる清国に勝利した事で、日本は国際的な地位を高める事に成功しました。日清戦争はその後の日本のあり方を決める転換点であり、新たな時代の幕開けでもあります。

今回の記事を通じ、日清戦争の詳しい動向や当時の国際情勢にも興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/日清戦争

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