松尾芭蕉の人物像と人生年表まとめ!名言・俳句・死因も解説

松尾芭蕉は江戸時代を代表する文化人です。奥の細道が有名ですが、具体的な事を知らない人も多いでしょう。今回は松尾芭蕉の人物像や名言や俳句等の他、都市伝説について紹介していきます。

松尾芭蕉とは?


(奥の細道行脚之図 芭蕉(左)と曾良(森川許六作) 出典 Wikipedia)

松尾芭蕉は江戸初期に活躍した俳諧師です。俳諧とは俳句の源流となったものです。生涯に何度も旅に出かけ、歌枕(歌に読まれる名所)を訪ねました。晩年の紀行文である奥の細道が特に有名ですね。後に旅の滞在先の大阪で亡くなりました。最期まで旅と俳諧に生きた人生でした。

俳諧とは

俳諧の正式名称は俳諧の連歌です。連歌とは五七五→七七→五七五…と言う歌を百句まで繋げる遊びです。

元々の連歌は和歌に影響を受け、風流や美しさを表現していました。連歌は使える言葉の制約も多く、庶民にも楽しめるよう制約を緩め、滑稽さや言葉遊びを意識した俳諧というジャンルが生まれます。

芭蕉は俳諧の中に自然への思い・人生への思いを込めた蕉風を確立。芭蕉の句は俳諧界に衝撃と感動を与えたのです。

これが元となり、明治には正岡子規により俳句が生まれます。芭蕉は日本人特有の感性を表現し、それを日本中に浸透させた、日本を代表する文化人でした。

芭蕉についての動画

こちらの動画では旅に生きた芭蕉の人生観について分かりやすく紹介してあります。

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松尾芭蕉の生い立ちと生涯

俳諧との出会い


(芭蕉翁生家 出典 Wikipedia)

芭蕉は本名を松尾宗房と言い、忍者で有名な伊賀国で生まれます。松尾家は平氏の末流で苗字を名乗る事は出来ましたが、身分は農民でした。13歳の頃に父が亡くなり、兄が跡を継ぎますが、その生活は貧しかったようです。

農家の次男という立場から家を出て、10代の頃に藤堂家の料理人として働きます。芭蕉は自分の2歳上の藤堂良忠に仕えます。良忠は文化人であり北村季吟から俳諧を学んでおり、芭蕉も共に学んでいました。
25歳の時に藤堂良忠が27歳で死去し、同時に藤堂家から離れます。悲しみと追慕の念から、ますます俳諧にのめり込んでいきました。

下積み時代


(関口芭蕉庵 出典 Wikipedia)

藤堂家から離れた後の動向はよく分かっていません。29歳で初の撰集『貝おほひ』を伊賀天満に奉納します。この頃は言葉の軽快さに重きを置いた作品であり、皆さんのイメージする俳諧ではありませんでした。
31歳の時に師匠の北村季吟から俳諧の腕を認められます。それを機に江戸に移り、多くの俳人と関わります。俳諧の指導料だけでは生活が厳しく、水戸藩邸「分水工事」の帳簿付けの仕事も行っていた記録があります。

俳諧師として名が売れてきた芭蕉でしたが、36歳の頃に突如江戸を去り、隅田川東岸の深川に草庵を結び隠棲します。理由は諸説あり、金や名声に躍起になる俳諧界に絶望したとも、家事で焼け出されたから、内縁の妻との間に何かがあったとも言われます。

旅に想いを馳せる


(古池やの句碑 出典 Wikipedia)

深川に移ってからの俳諧は徐々に侘び寂びの傾向が出てきます。旅に想いを馳せる事も増えていきました。そして40歳の時に母が他界し、芭蕉は墓参りも兼ねて旅に出ます。江戸か伊勢へ、その後奈良、京都、名古屋、木曽などを半年間巡ります。この時の紀行文が有名な野ざらし紀行でした。野ざらし紀行から戻った後は感性も磨かれていたのか、有名な

古池や蛙飛び込む水の音

の句を詠み、芭蕉風の俳諧を象徴するものでした

旅に行きた人生

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(河合 曾良 出典 Wikipedia)

その後は44歳の年明けに高野山、奈良、神戸を旅して笈の小文を作成。秋には長野県に行き更級日記を表します。

翌年にはまた旅への思いが疼き、芭蕉は弟子の曾良を同行させ、奥の細道の旅に出ました。東北から北陸地方を巡り、岐阜に至る2400kmの旅であり、45歳の年齢では大変な困難が予想されていました。しかし芭蕉はこれを成功させます。旅の後は、京都嵯峨に滞在し嵯峨日記を完成させます。その後、48歳で江戸に戻ります。

晩年


(松尾芭蕉像(葛飾北斎画)出典 Wikipedia)

芭蕉の旅の事は江戸の俳諧界に知られており、江戸に戻った芭蕉を待ち受けていたのは来客の嵐でした。この頃に、私を捨てて自然の中に身を委ねるという軽みの境地に芭蕉は辿り着きました。前後する頃に芭蕉の最高傑作である奥の細道の紀行文が完成したのです。

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松尾芭蕉の死因・最期


(俳聖殿 出典 Wikipedia)

奥の細道を完成させた後、芭蕉は西国の弟子に軽みの極意を伝える為に旅に出ました。5月に江戸を出て、9月には大阪に到着。連日の句会で体力を消耗したのか、急に発熱、頭痛、下痢等の症状が出て体調を崩します。一度回復はしたものの、再び症状は悪化して10月に芭蕉は亡くなりました。
死因は食中毒、赤痢とも言われていますが現在に至るまで不明です。

芭蕉は亡くなる4日前にも

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

旅先で病んでも、見る夢は枯野を駆け巡る時の事だ と詠んでいます。辞世の句と思われがちですが、前詞に病中吟と書かれており、結果的に芭蕉が最期に読んだ詩になっただけですね。

芭蕉の死後8年後に奥の細道は出版されたのです。

松尾芭蕉の人生年表


(伊賀国分寺跡 出典 Wikipedia)

0歳 1644年 伊賀国で誕生
13歳 1656年父が死去し、兄が家督を継ぐ
19歳 1662年 藤堂家に奉公し、この頃より俳諧の道に入る
29歳 1672年 初の撰集『貝おほひ』を伊賀天満宮に奉納
33歳 1677年 俳諧の免許皆伝となり、日本橋に住む
36歳 1680年 江戸を去り深川に隠棲する
40歳 1684年 母の死を受け、野ざらし紀行の旅に出る
45歳 1689年 西行500回忌に合わせて奥の細道の旅に出る
49歳 1694年 奥の細道が完成する 同年 旅先の大阪で死去

松尾芭蕉の性格と人物像エピソード

性格


(芭蕉の師である北村季吟 出典 Wikipedia)
芭蕉が俳諧を学び出したのは藤堂家に仕えた時ですが、当初はあまり興味がありませんでした。歳の近い主人に真面目に仕え、趣味も同じなら士分に取り立てて貰えるのでは、と考えていたようで、強かな面もあったようです。

その後の芭蕉は俳諧にのめり込みます。奥の細道の大変な旅路も成功させたように、「一度決めたらとことんやり遂げる」と言う性格だったのですね。

エピソード

俳諧の指導者の収入は句会の出座料や、短冊や色紙の依頼、そして弟子への指導料でした。しかし芭蕉は弟子からはお金を受け取らなかったようです。収入は短冊や色紙の依頼や、句会の出座料が主だったようです。

奥の細道の旅は芭蕉も覚悟を決めており、深川の家を売って、旅費に当てています。足りない分は各地の出座や添削で収入を得ていたそうです。
しかし旅は意外に過酷ではなく、行く先々で芭蕉は手厚く出迎えられています。同行した曾良の旅日記では、芭蕉は各地の有力者の家に泊めてもらい、酒や蕎麦、うどんなどをよく食べていたそうです。

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松尾芭蕉の名言


(蕪村画 逸翁美術館 出典 Wikipedia)

松のことは松に習え、竹のことは竹に習え
意味:万物にはそれぞれに特徴があり、それぞれに学ぶ天がある

場所は様々な言葉を俳諧に取り入れました。旅や学びで得たものは俳諧となって生かされました。

古さと古人の跡をもとめず、古人の求たる所をもとめよ。
意味:古人の残したものを形だけ求めるのではなく、その精神を学べ

空海の言葉を芭蕉風にアレンジしたものです。芭蕉は歌枕の場所を回りました。これは何となく言葉を使うのではなく、実際にその場所に存在する精神を学ぶ為でした。芭蕉の人生観を表す名言ですね。

松尾芭蕉の弟子や子孫

蕉門十哲

芭蕉は多くの弟子がおり、特に優れた10名を「蕉門十哲」と呼びます。解釈により中の人物が多少入れ替わる事があります。

宝井其角…第一の門弟であり江戸座を開く。芭蕉と異なり平明かつ口語調の洒落風を起こす。

(宝井其角 出典 Wikipedia)

服部嵐雪…其角と双璧をなす。作風は柔和な温雅さを特徴とする。

内藤丈草…丈草発句集などを著書とする。

向井去来…芭蕉の代表作 猿蓑の編集に関わる。

この4人は常に十哲に選ばれており、芭蕉の有力な弟子だったようです。

森川許六…晩年になり入門し、芭蕉に絵を教える。

各務支考…美濃派の始祖。多くの弟子を育成する。

杉山杉風…蕉門の代表的人物で、芭蕉の金銭的なサポートをする。

立花北枝…奥の細道の旅の途中で入門。

志太野坡…芭蕉の遺書を代筆する。

越智越人…更級日記の旅に同行。

が通説ですが、

河合曾良…奥の細道に同行

広瀬惟然…笈の小文の旅の後に入門。擬態語や口語の句が特徴

服部土芳…芭蕉の同郷の後輩。俳論を整理した三冊子の著書がある

天野桃隣…芭蕉の甥と言われている人物

芭蕉自身は俳論や句集を残した事は殆どありません。弟子達が著書にしたり、更に弟子に教える等して芭蕉の俳論は現在に引き継がれていきました。

寿貞(内縁の妻)

芭蕉は生涯独身でしたが、日本橋に住んでいた時に寿貞という女性と家庭を持っていました。寿貞は出家した時の名前で、当時の名前は不明です。出身地は同じく伊賀であり、日本橋で住む前から恋仲だったと言う説や、妾だったと言う説もあります。その後芭蕉は深川に隠棲しますが、その時に寿貞とは住んでおらず、その期間に何かがあったと思われます。

元禄7年6月に死去し、芭蕉はその死を嘆き

数ならぬ身となおもいそ玉祭り

と詠んでいます。それから4ヶ月後に後を追うように亡くなっています。

次郎兵衛

寿貞には一男二女(次郎兵衛・まさ・ふう)がいました。通説では3人共芭蕉の子ではないという事ですが、次郎兵衛だけは芭蕉の子という説があります。次郎兵衛は俳諧師ではないですが、芭蕉の最期の旅にも同行しており、芭蕉は次郎兵衛の腕の中で亡くなったエピソードもあり、他の子よりも関わりは深かったようです。

次郎兵衛のその後についての記録はありません。3人の子も芭蕉の子でない事が通説なので、芭蕉の直系の子孫はいないと考えて良いでしょう。芭蕉の意志は俳諧の中に生き続けています。

松尾芭蕉のゆかりの地

義仲寺


(松尾芭蕉の墓 出典 Wikipedia)

JR膳所駅・京阪電鉄膳所駅の北約300mにある寺院。こちらに芭蕉のお墓があります。木曽義仲公の側に葬って欲しいと言う遺言通りに埋葬されました。

義仲寺はわびさびを感じられる雰囲気があり、旅の途中に何度も立ち寄っていました。境内にある無名庵で句会も開きました。義仲の優しさや忠義に好感を持っていたそうです。

円成院

こちらは芭蕉の遺書を代筆した志太野坡が1734年に建立しました。風化が酷く1783年に再建していますが、こちらも風化しています。

四天宝寺

元々は志太野坡のお墓があった場所です。芭蕉のお墓は志太野坡の20回忌に門弟が建てたものです。隣同士に建てられています。

浄春寺

こちらの門前にも芭蕉のお墓があり、こちらは死後100回忌に建てられました。

円成院、四天宝寺、浄春寺の3つのお墓は全て大阪市天王寺区にあります。大阪には芭蕉を慕う門人や後世、芭蕉の顕彰に努めた人達により、他にも多くの墓が建てられています。

芭蕉記念館

東京都江東区常盤にあります。芭蕉が深川に隠棲し、新たに俳諧活動を始めた場所に作られました。奥の細道の紀行文の展示等、貴重な資料がある他、定期的に俳句大会が開かれています。

松尾芭蕉の作品・俳句


(足立区にある芭蕉像 出典 Wikipedia)

野ざらし紀行

母の墓参りを目的に伊賀国に向かい、そこから関西方面を半年程回ります。江戸橋の俳諧の論争に疲れていた芭蕉はこの旅を通じ、真の人間の生き方や自然の在りようを学ぼうとしていました。

野ざらしを心に風のしむ身かな

と詠み残して旅だったように悲壮な決意で臨んだ旅でしたが、旅の目標が達成されたのか、

辛崎の松は花より朧にて

等に代表されるような侘び寂びの心境を反映したものとなります。

鹿島詣

筑波山の月見や禅の師匠に会う為に旅に出ます。結局筑波山は雨で月見は果たせず、

月はやし梢は雨を持ちながら

と残念がる歌を残しています。

笈の小文

高野山や和歌浦を経て、奈良や明石を旅しています。この旅は父の33回忌の法要が目的でしたが、この頃は芭蕉の名は全国に売れており、各地の門人から招かれるようになります。

箱根こす人も有るらし今朝の雪

等の歌があります。

更科紀行

美濃にいた芭蕉が帰路の旅に出た時の紀行文です。信州更科の姥捨山で月を展望するのが目的でした。木曽街道は物理的にも危険も多く、山賊に会う危険もありましたが、旅を成功させます。姥捨山で月見をした芭蕉は

俤(おもかげ)や姥ひとり泣く月の友

と詠んでいます。

奥の細道

西行の500回忌に合わせて東北と北陸を回った旅の集大成です。冒頭の月日は百代の過客にして…というフレーズは有名ですね。

夏草や兵どもが夢の跡

五月雨をあつめて早し最上川

等皆さんも知る句を残しています。芭蕉は歌枕に使われる場所に実際に行き、変わらない本質と変わり行く変化の両面を実感し不易流行という思考に至ります。

松尾芭蕉を題材にした作品

小説

高橋政光 松尾芭蕉
作者が14年もの年月をかけて執筆した小説 上中下巻の3部作という長編です。芭蕉の生涯について詳しく書かれていますが、史実と異なり、ドラマティックに描かれている事も多いです。

アニメ


(アニメーション作家 川本喜八郎 出典 Wikipedia)
連句アニメーション 冬の日 松尾芭蕉七部集
芭蕉の作品「冬の日」にかかれた連句を、国内外のアニメ作家35組が各々の解釈で手がけ、それをリレー形式で表現した中編アニメです。

ドラマ

隠密・奥の細道
松尾芭蕉が忍者だったという説を元に作られた時代劇です。水戸黄門の命を受けた2人の隠密とくの一が、芭蕉一行を装いながら、芭蕉の道中を見守るストーリーです。芭蕉一行は旅を続けているので、奥の細道で回った場所は史実資料に基づいています。内容は勧善懲悪モノですね。

松尾芭蕉と服部半蔵は同一人物?


(北斎漫画による忍者の図 出典 Wikipedia)

結論から言うと皆さんがイメージしている服部半蔵とは時代が違うので別人です。服部氏は徳川家康の祖父の代から仕えた忍者の一族です。服部半蔵は服部氏の当主の事を指します。有名なのは徳川家康に仕えた2代目服部半蔵です。
では何故芭蕉が服部半蔵であると噂されるかと言うと、芭蕉には忍者説があるからです。

芭蕉は奥の細道で2400kmもの距離を150日で旅しており、1日42km歩いた事になります。忍者等の特別な訓練を受けていないと成し遂げられません。奥の細道の旅は仙台藩の動向を探るように幕府から命をうけていたという事です。

怪しい点として…
・旅の際、各地の関所を通過出来ている
(当時は関所を越えるには手形が必要だが、幕府の命を受けていれば可能である)

・母は伊賀流忍術の祖とされる百地丹波の子孫という説がある。

・奥の細道で楽しみにしていた松島は1泊しかせず句も残さなかった。逆に仙台藩の軍事要塞等を執拗に見学していた。

・奥の細道に随行した曾良は後には諸藩の政治状況や幕令の実施状況を調査する役人となった

等があります。これらももし芭蕉が忍者であれば辻褄はあいますが、証拠はありません。これらの噂が服部半蔵に結びついたものと思われます。

真実がどうであれ、芭蕉が日本を代表する文化人である事に違いありません。皆さんも芭蕉のように侘び寂びを感じて句を詠んでみませんか?

参考文献

芭蕉全句集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
坪内稔典 松尾芭蕉: 俳句の世界をひらく (伝記を読もう)
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic37.html
http://www.intweb.co.jp/basyou_jutei/jutei01.htm
https://www.city.koto.lg.jp/spot/basho.html
http://www.ict.ne.jp/~basho/works/works.html

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