二・二六事件は、昭和11年(1936年)2月26日に発生したクーデター未遂事件です。この日、昭和維新を掲げる青年将校が1483名の下士官を連れ、永田町一帯や霞ヶ関一帯を占拠。昭和天皇の側近中の側近を襲撃する、前代未聞の大事件となりました。
二・二六事件は昭和天皇の怒りを買い、僅か4日で鎮圧されます。ただ、この事件が戦前の日本に与えた影響は大きく、日本の軍国化を加速させました。
授業でも習う二・二六事件ですが、事件の背景や過程、その後の日本に与えた影響は知らない人も多いと思います。今回は二・二六事件についてわかりやすく掘り下げていきます。語呂合わせや五・一五事件との違いについても触れるので、日本史が苦手な人もぜひ記事の一読をお願いします。
目次
二・二六事件とはどんな事件?
二・二六事件は、戦前の昭和11年(1936年)2月26日に起きた陸軍の青年将校によるクーデター未遂事件。この日、青年将校は下士官を率いて永田町や霞ヶ関などの日本の中枢を占拠しました。さらに昭和天皇に仕える「君側の奸」を排除するため、政府要人を襲撃。政府要人やその秘書4人が殺害され、警察官5人が殉職しました。
昭和天皇は青年将校の行動に激怒し、クーデターはわずか4日で鎮圧されます。事件の中核を担った青年将校や、彼らを扇動したと考えられた思想家の北一輝らが処刑されます。二・二六事件は日本の軍国化を象徴する出来事であり、事件を経て軍部の主張は更に強まる事となりました。
二・二六事件が起こった背景
戦前の日本を揺るがした二・二六事件ですが、なぜ事件は起きたのでしょうか。この項目では事件が起きた背景を解説します。
背景①:陸軍内の派閥争いと、青年将校の台頭
1930年代の日本陸軍は、荒木貞夫大将と真崎甚三郎中将を中心とした皇道派、皇道派に反発する陸軍大学校出身のエリート層である統制派による派閥争いが起きていました。
皇道派は、天皇中心の国家体制の樹立を目指し、対外的には対ソ連を想定していました。一方の統制派は、総力戦を想定し合法的に国家総動員体制の樹立を目指し、対外的には対中国を想定していました。
皇道派の影響力が極まるのは、1931年11月に発足した犬養毅内閣に荒木貞夫が陸軍大臣として入閣した時の事。荒木貞夫は、陸大出身の自らの腹心を軍の要職に就けます。また、自らを信奉する佐官尉官級の軍人達を、東京第一師団に集めました。こうした荒木の取り巻きを皇道派と呼び、佐官尉官級の軍人達を青年将校と呼びました。
背景②:国内外の混乱
1930年代の日本は国内外で大きな混乱が起きていました。1929年にはニューヨークのウォール街で世界恐慌が発生。日本でも1930年代前半に昭和恐慌が起き、やがて昭和恐慌が到来します。農村では娘の身売りなどが頻発しました。この状況でも国会では、政権争いによる争いが起きており、政党政治は国民の支持を失っていきました。
日本陸軍は超学歴社会であり、陸軍大学校に進学しなければ軍の要職に選ばれる事はほぼありません。青年将校達の多くは陸大に進んでおらず、軍の改革が学歴的にできない立場にありました。青年将校達は各地方から徴兵された兵士達を指揮統率する立場として、軍歴を全うします。
一方で、青年将校達は徴兵された兵士達から昭和恐慌における農村の窮乏などや、姉の身売りなどの話を直に聞いて心を痛めていました。青年将校は、荒木貞夫を軍の改革派と考え、荒木貞夫の元に集ったのです。
背景③:国家改造法案原理大綱の存在
また青年将校たちに感銘を与えていたのが、北一輝という思想家が1923年に改題した『日本改造法案大綱』という著作。本書で北一輝は、国家社会主義という概念を提唱。資本主義の限界を国家がコントロールして社会の発展を促すべきと考えました。
北一輝が唱えた政策は、華族制廃止や農私有財産への一定の制限など多々あります。また農地改革、普通選挙、基本的人権の尊重や、華族制度の廃止などは戦後の日本国憲法やGHQの改革で反映されたものもあり、彼の政策は当時では画期的でした。
ただ一気に新たな国家体制を構築することは難しいため、北一輝は以下の過程を踏むべきと考えていました。
- 天皇と合体した国民によるクーデターを行う
- 天皇により三年間憲法を停止し両院を解散して全国に戒厳令をしく
- 天皇顧問院を設置して、男子普通選挙を実施
- 国家改造を行うための議会と内閣を設置する
- 一連の改革を行う
つまり、二・二六事件で行われたクーデターは、新たな国家体制樹立の第一段階でした。青年将校達は、今の国内の混乱は天皇の側近達が天皇をたぶらかしていると考え、その排除が必要だと本気で考えたのです。彼らは一連の改革を明治維新と照らし合わせ、昭和維新と呼びました。
彼らはクーデターを起こした後は権力を行使するのではなく、「後は天皇に全てを委ねるつもり」であり、クーデター成功後は自決するつもりでした。昭和天皇が青年将校の意を汲み、軍が主導する内閣と議会が誕生すれば、一応昭和維新は成功となります。
背景④:相澤事件と青年将校の満州送り
ただ青年将校の考えは統制派が納得するものではありません。また改革を口にするだけの荒木貞夫は、統制派はもちろん皇道派からも見限られ、状況を察知した荒木貞夫は1934年1月に陸軍大臣を辞任。新たな陸軍大臣に林銑十郎という人物が就任しますが、彼は軍務局長に統制派の頭目・永田鉄山を起用します。
永田鉄山は林銑十郎の影響力を背景に、皇道派の人物を軍中央から駆逐。1935年7月には同じく皇道派の重鎮で、教育総監の立場にあった真崎甚三郎を更迭しました。新たな教育総監には渡辺錠太郎が就任します。
この措置に青年将校は立腹し、8月に永田鉄山は青年将校と親しい相澤三郎中佐に陸軍省内で白昼堂々惨殺されます(相澤事件)。この行動に統制派の面々は激怒。1936年2月中旬には、青年将校が多く在籍している東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団近衛歩兵第3連隊を満州行きにする事を決めます。
出立時期は3月1日ですが、この動きに青年将校は立腹。満州派遣前の2月26日に前倒しして昭和維新を行う事を決めました。
二・二六事件に関わった主要人物と彼らの目的
二・二六事件には多くの青年将校が関与しており、軍法会議で死刑判決を受けたのは19人。さらに事件の最中に自決した者も二人います。
この項目では、二・二六事件に関与した主要人物を数名ほど解説します。この他にも、多くの青年将校が様々な行動を起こしており、気になる人は個別で調べてみてください。
北一輝
北一輝は国家解剖法案原理大綱の著者であり、青年将校の思想に多大なる影響を与えた人物です。ただ彼自身が青年将校を扇動していたわけではなく、青年将校の指導者的な立場にいたのは西田税という人物でした。
北一輝は事件が起こる事を予兆していたものの、青年将校を止める事はできず、事実上黙認しています。事件の際には、村中孝次から連絡を受け、皇道派の重鎮・真崎甚三郎に昭和維新の収束を委ねるように伝えました。
二・二六事件後に逮捕され、民間人でありながら銃殺刑に処されています。辞世の句は「若殿に兜とられて負け戦」。若殿とは昭和天皇を指しています。
磯部浅一
磯部浅一は、二・二六事件の首脳者の一人です。陸軍一等主計時代に陸軍士官学校事件に関与し、1935年8月に退役。その後は昭和維新の断行に熱狂し、青年将校随一の過激派として行動しました。彼は、「北一輝の国家改造法案原理大綱を一文一句修正せずに実行すべき」という原理主義者でした。
事件の際は、陸軍大臣官邸で陸軍上層部に青年将校の意思を伝える役割に回ります。事件の最中、統制派の片倉衷に発砲して重傷を負わせています。後に軍法会議にかけられて死刑判決を受けました。
村中孝次
村中孝次は二・二六事件の首謀者の一人であり、磯部浅一と共に青年将校の中核を担いました。彼も磯部浅一と同じ時期に陸軍を退役しています。村中孝次は、青年将校内の数少ない陸軍大学校進学組でした。
彼もまた銃殺刑に処されています。
安藤輝三
安藤輝三もまた二・二六事件の首謀者の一人です。彼は、心優しい人物として知られ、多くの下士官から慕われていました。青年将校の中で、首謀者的な立場にいたものの、彼自身は最後まで決起に反対しています。昭和維新が断行される中、彼は「同志を見殺しにできない」と、事件の3日前に決起に参加する意志を見せました。
安藤輝三が襲撃したのは、侍従長の鈴木貫太郎予備役海軍大将。両者は面識があり、安藤輝三は鈴木貫太郎の博識の高さと懐深い人格を敬愛していました。安藤輝三が鈴木貫太郎の襲撃役を願い出たのは、「暗殺するならせめて自分の手で」と考えたためです。
事件の際、鈴木貫太郎は安藤輝三が指揮する部隊に襲撃され重傷を負います。ただ安藤輝三は最終的にトドメを刺さず、鈴木貫太郎は一命を取り留めました。
安藤輝三は、昭和維新の失敗を悟った際に拳銃自殺を図っていますが、部下の機転で一命を取り留めます。しかし、その後の軍事裁判で銃殺刑の判決を受けました。
1936年2月26日に具体的に何が起こったのか?
続いて二・二六事件の経過を時系列で解説していきます。実際は、各場所で複雑な経過を辿っているので、気になる人は書籍などで調べてください。
青年将校による政府要人の襲撃
2月26日午前5時頃から青年将校は各地を襲撃します。襲撃場所は以下の通りです。
首相官邸
目的は総理大臣の岡田啓介の暗殺。栗原康秀中尉らが300人の兵を連れて襲撃。栗原たちは秘書官を務めていた岡田啓介の妹婿の松尾伝蔵を岡田啓介と間違えて射殺し、岡田啓介は難を逃れる。
斎藤実邸宅
目的は内大臣の斎藤実の暗殺。坂井直中尉らが、150名の兵士を連れて襲撃し、暗殺に成功します。
高橋是清邸宅
目的は岡田内閣の大蔵大臣である高橋是清の暗殺。中橋基明中尉らが、100名の兵士を連れて襲撃して暗殺に成功します。
侍従長邸宅
目的は侍従長・鈴木貫太郎の襲撃。安藤輝三大尉が、150名の兵士を連れて襲撃します。鈴木貫太郎は重傷を負いますが、安藤輝三がトドメを刺さなかった事で一命を取り留めました。
警視庁
目的は警視庁の制圧であり、野中四郎大尉ら400名が制圧に成功します。野中四郎は通信手段の遮断に成功したと思っていたものの、実際は情報は筒抜けであり、警察上層部は水面下で情報を入手していました。
陸軍大臣官邸
目的は軍上層部に自らの意向を伝える事であり、磯部浅一や村中孝次が150名の兵を連れて襲撃に成功します。6時半ごろから磯部浅一達は、陸軍大臣の川島義之大将に青年将校の意向を伝えました。
各地の襲撃後、情報が襲撃された箇所から、宮内省や警察上層部などに次々と寄せられ、軍部や政界は対応に追われます。
さらに続く襲撃
午前6時以降も各地への襲撃は続きました。
渡辺錠太郎宅
午前6時、真崎甚三郎の代わりに教育総監に就任した渡辺錠太郎の邸宅にも、安田優少尉ら30人が襲撃します。彼らは斎藤実の襲撃後に、渡辺錠太郎の邸宅に向かったため、各地の襲撃と比べると1時間遅れての事でした。
また事件から1時間も経つのに渡辺錠太郎の元に情報が届いていなかった事から、近くに青年将校の内通者がいた説もあります。当初、渡辺錠太郎は陸軍省に連れて行く予定だったものの、最終的に殺害対象となりました。
また同時刻に元内大臣の牧野伸顕が滞在していた神奈川県の湯河原、6時35分に内務大臣の後藤文夫のいる内務大臣官邸も襲撃されましたが、彼らは難を逃れています。
その後も9時までに青年将校は、朝日新聞社などの大手新聞社、参謀本部などを占拠。日本の政治の中枢である永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂の一帯を手中に収めました。
昭和天皇の激しい怒り
昭和天皇は事件の一報を聞いた時から青年将校に激しい怒りを持っていました。午前9時に川島義之陸軍大臣が、昭和天皇に青年将校の決起趣意書を読み上げるものの、「なにゆえそのようなもの(蹶起趣意書)を読み聞かせるのか」「速ニ事件ヲ鎮圧せよ」と命じました。
正午になり、軍上層部で話し合いが行われるものの、青年将校を支持する者もおり、事態の収拾について結論は出ません。午後9時に後藤文夫が臨時の総理大臣代理となり、閣僚全員の辞表を持ち昭和天皇に拝謁するものの、時局の収拾を優先せよと命じ、一時預かりとした。
この時に岡田啓介内閣が総辞職した場合、軍の意向で新たに真崎甚三郎などの皇道派による軍事政権が樹立する可能性もあり、昭和天皇は辞表を一時預かりとしたと思われます。この時点で、明確に事態の収拾の仕方を考えていたのは昭和天皇でした。
戒厳令の施行
2月27日午前3時に、戒厳令が施行されます。戒厳令は国家の非常事態に憲法・法律の一部の効力を停止し、行政権・司法権を軍隊の指揮下に移行する事を指します。戒厳令自体は、石原莞爾という軍人による発案で、青年将校を鎮圧するための布石でした。
しかし青年将校や、北一輝を信奉する者達から見れば、この戒厳令は自分たちを討伐するためのものか、新たな軍事政権が樹立される準備段階によるものかはわかりませんでした。
やがて、「戒厳司令官ハ三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」の奉勅命令を参謀本部は上奏し、昭和天皇は即座に裁可します。その後も、昭和天皇は陸軍大臣や本庄繁侍従武官長らに何度も経過の確認を行っています。
「私自身が直接近衛師団を率いて叛乱部隊の鎮圧に当たる」と述べるなど、昭和天皇はずっと青年将校に激しい怒りを燃やし続けていました。やがて午後1時に岡田啓介総理大臣が官邸から救出され、内閣崩壊が阻止された事がわかった事で、陸軍も青年将校の鎮圧に舵を切りました。
青年将校の鎮圧へ
2月28日午前0時、青年将校に奉勅命令の情報が伝わり、午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明。奉勅命令を知った青年将校や、駆り出された兵士の父兄数百人が歩兵第3連隊司令部前に集まり、蹶起への反対や抗議の声をあげます。
2月29日午前5時10分に討伐命令が発せられ、さらに帰順を呼びかける「下士官兵ニ告グ」というビラ、投降を促すアドバルーンなども用意されます。これは絶大な効果を発揮し、兵士達は次々と帰順。青年将校達は昭和維新による戦いを法廷闘争に持ち込む事を決め、午後5時に逮捕されました。
こうして青年将校による昭和維新は僅か4日で幕を閉じたのです。
二・二六事件の被害者一覧
二・二六事件では、君側の奸とされた者達が襲撃され、各地で凄惨な状況が発生しました。この項目では、襲撃対象となった被害者達を簡単に解説します。
斎藤実
斎藤実は、二・二六事件で青年将校の坂井直中尉らに襲撃されて亡くなりました。彼は海軍出身の人物であり、日露戦争の頃に海軍省軍務局長、1932年に総理大臣を務めていました。二・二六事件の際は、内大臣に就任していた事から、襲撃対象になっています。
高橋是清
高橋是清は、二・二六事件で青年将校の中橋基明中尉らに出撃されて亡くなりました。彼は岡田啓介内閣の大蔵大臣を務めており、過去に金融恐慌や昭和恐慌による不況を立て直した財界のレジェンド。岡田内閣の際、軍事予算の拡充を図る軍部に対し、「国防のみに遷延して悪性インフレを引き起こし、信用を破壊するが如きことがあっては、国防も決して牢固となりえない」と主張。この主張の影響で、青年将校の襲撃対象になりました。
渡辺錠太郎
渡辺錠太郎は、二・二六事件で坂井直中尉らに襲撃されて亡くなりました。彼は皇道派の首魁だった真崎甚三郎の代わりに教育総監に就任した人物であり、以前から青年将校から恨みを買っていました。襲撃は、事件発生から1時間後と遅めでありながら情報が彼に届いていなかった事から、渡辺錠太郎の周りに内通者がいた可能性があります。
松尾伝蔵
松尾伝蔵は、岡田啓介総理大臣の妹婿。事件が起こる前から、岡田啓介の秘書官として首相官邸で生活していました。松尾伝蔵は以前から岡田啓介が襲撃された時に、身代わりになる覚悟を持っていたとされます。
首相官邸を栗原康秀中尉らが襲撃した時、栗原康秀らは松尾伝蔵という人物が首相官邸にいる事を知りませんでした。岡田啓介は女中部屋の押入れに匿われたため、殺害した人物を岡田啓介と判断しています。岡田啓介は事件の翌日に救出され、岡田啓介の生存を持って二・二六事件は青年将校の征伐へと舵を切りました。
後の太平洋戦争で、岡田啓介は終戦工作に関与しており、ポツダム宣言の受諾にも大きな影響を与えています。松尾伝蔵が岡田啓介の身代わりにならなければ、太平洋戦争は更に長引いていたのかもしれません。
鈴木貫太郎
鈴木貫太郎は、二・二六事件で安藤輝三大尉らに襲撃されました。彼は海軍軍人であり、日清戦争や日露戦争で魚雷を使用した戦いで武功を挙げ「鬼貫」と呼ばれていました。事件の際には、天皇に仕える侍従の長に就任していた事から、暗殺対象に選ばれています。
二・二六事件では重傷を追うものの、結果的には生存。彼は終戦間際の1945年4月に内閣総理大臣に就任し、戦争の幕引きを図りました。仮に他の青年将校が鈴木貫太郎を出撃していたなら、鈴木貫太郎は確実に暗殺されていたでしょう。
鈴木貫太郎は安藤輝三を恨む事はなく「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な、惜しい若者を死なせてしまったと思う」とその死を憂いました。
なぜ二・二六事件は失敗に終わったのか?
青年将校は約1500名の兵士を連れて二・二六事件を起こしたものの、最終的に失敗します。なぜ二・二六事件が失敗に終わったのか、その理由を解説します。
理由①:昭和天皇が激怒したから
二・二六事件失敗の最大の要因は、昭和天皇が青年将校に激しい怒りを燃やしたからです。当時の日本は、イギリス流の立憲君主制を導入しており、天皇は「君臨すれど統治せず」の立場を貫いていました。そのため、軍部や政府の意向があれば、昭和天皇はその意見に反対していても意見を述べる事はほとんどありませんでした。
しかし二・二六事件は国家の非常事態であり、当初は岡田啓介は暗殺されたと考えられており、政府も機能しません。さらに軍部の中には青年将校に同情的な意見もあり、彼らが軍事政権樹立の方向に舵を切れば、クーデターが成功する可能性もありました。
この状況下、青年将校の行動に明確に反対したのは昭和天皇でした。青年将校に激しい怒りを燃やす昭和天皇を見て、陸軍大臣や軍上層部は軍事政権の樹立は不可能と判断。青年将校に対する武力討伐に舵を切りました。皇道派の重鎮・真崎甚三郎も変心し、青年将校に反対意見を述べるようになり、青年将校は窮地に立たされます。
理由②:青年将校が明確なビジョンを持っていなかったから
前述した通り青年将校達は、クーデターを起こした後は全てを昭和天皇に任せるという考えを持っていました。昭和天皇がクーデターに反対した時点で、計画は崩壊したと言えるでしょう。
理由③:宮中勢力の反対があったから
二・二六事件では内大臣の斎藤実や、侍従長の鈴木貫太郎も襲撃されています。戦前の日本では、昭和天皇を支える元老の西園寺公望や、昭和天皇を補佐する宮内省の官僚らが大きな権限と発言力を有していました。
青年将校は、宮中勢力に根回しを行っていません。彼らもまた、斎藤実や鈴木貫太郎が襲撃された時点で、青年将校に激しい怒りを燃やしています。宮中勢力は、岡田啓介内閣に変わる新たな内閣は発足させない方向で結束し、宮内大臣よりその意見は天皇に上奏されます。宮中勢力は内閣の発足に大きな影響力を持っており、その勢力を敵に回した事も、クーデター失敗の要因になりました。
二・二六事件の処理とその後
二・二六事件鎮圧後に待っていたのは、首謀者達に対する処断でした。この項目では、二・二六事件の処理とその後について解説します。
青年将校達に銃殺刑が言い渡される
軍法会議を果て、1937年7月5日に栗原康秀や安藤輝三ら青年将校17名に銃殺刑の判決が下ります。磯部浅一、村中孝次以外の15名の刑は7月12日に執行されます。その後も裁判は続き、青年将校の指導者とされた北一輝と西田税も、1937年8月19日に磯部浅一と村中孝次らと共に銃殺刑となりました。
青年将校達は、自らの主張を法廷闘争で行うと決めるものの、それは叶いませんでした。なぜなら彼らの裁判は秘密裏に行われ、彼らが自らの主張を公にする機会がなかったためです。その理由として、数年前に起きた五・一五事件や、数ヶ月前に起きた相澤事件が公開裁判で行われた事で、軍法会議が被告人らの思想を世論へ訴える場に変わった事が挙げられます。
結果的に、青年将校の目論見は外れたのでした。
皇道派の面々は予備役軍人に編入される
事件を経て、皇道派の重鎮である荒木貞夫や真崎甚三郎は3月に予備役軍人に編入されます。予備役とは現役から有事に駆り出される軍人の事であり、第一線から退く事を意味します。更に山下奉文など、予備役を免れた皇道派の面々も大陸送りなどの左遷人事に逢いました。
また事態を収束できなかった川島義之陸軍大臣や、青年将校に同情的だった本庄繁侍従武官も予備役になるなど、軍中央の人事は一掃されます。一連の人事を主導したのは、統制派の面々でした。つまり一連の人事は、統制派による「カウンタークーデター」の意味合いもあったのです。
二・二六事件の影響
二・二六事件で青年将校や皇道派の軍人は軍内から退きます。ただ、この他にも二・二六事件は様々な影響が生まれました。この項目では、二・二六事件がその後の日本に与えた影響を解説します。
影響①:軍内で統制派が台頭する
二・二六事件で漁夫の利を得たのは、他ならぬ統制派の面々でした。統制派は青年将校や皇道派の重鎮を軍から排除し、軍の要職に食い込み始めます。
二・二六事件を果て岡田啓介内閣が退陣し、新たに岡田啓介内閣で外務大臣を勤めていた広田弘毅が総理大臣に就任すると、統制派は内閣の人事に関与。新たな陸軍大臣の寺内寿一は、「新内閣は自由主義的色彩を帯びてはならない」とし、広田弘毅が外務大臣に推していた吉田茂の就任を阻止しています。
影響②:軍部大臣現役武官制の復活
さまざまな混乱を経て3月9日に広田弘毅内閣が発足しますが、陸軍はその後も政策に口を挟みます。5月には軍部大臣現役武官制が復活し、陸軍大臣や海軍大臣は現役の大将中将しか就任できなくなりました。当時は総理大臣は閣僚の罷免権がありません。
軍部大臣が政府の意向に反対して大臣を辞任し、軍部が新たな大臣を擁立しなかった場合、内閣は閣僚が足りずに総辞職になる必殺コンボが生まれます。軍部大臣現役武官制の復活で、軍部は政府の政策を操る事が可能となり、日本の軍国化は加速していきます。
影響③:青年将校に駆り出された下士官達
青年将校に駆り出された下士官たちは、適法な出動と誤認して出動していました。彼らの多くは再び各部隊に戻るものの、中国などの戦場の最前線に駆り出されます。兵士達の多くは戦死するなど、過酷な環境に身を置きました。
日中戦争や太平洋戦争を生き延びた下士官の中には、落語家で後の人間国宝になる5代目柳家小さん、『ゴジラ』や『モスラ』などの東宝特撮映画を撮る本多猪四郎がいます。
二・二六事件から学ぶべき点
暴力から得られるものはない
二・二六事件で青年将校がクーデターを起こしたのは、農村の窮乏を憂いていたからです。彼らが国を想っていたのは間違いありませんが、暴力に訴えた事は大きな間違いでした。ただ、この頃は暴力に訴えるやり方がまかり通っていた事は事実です。
1932年に起きた五・一五事件で、国民は首謀者達を支持し、全国から100万通以上の嘆願書が届きました。結果的に彼らは禁錮15年の軽い判決で済んでいます。この措置から、青年将校はクーデターを起こしても軽い罪で済むと考えていたフシがあります。
暴力を支持すれば、それは新たな暴力の火種となる。二・二六事件は、戦前に起きた様々なテロが積み重なって起きたものだと言えるでしょう。
二・二六事件のゆかりの地
ゆかりの地①:二二六事件慰霊像
二二六事件慰霊像は、二・二六事件で刑死した者達や、青年将校に暗殺された人たちを慰霊する像のこと。かつてこの他には、陸軍刑務所がありました。像が建立されたのは1965年の事です。
今ではこの地に足を止める人は減りました。しかし近年では、渋谷の告白スポットとして注目されているようです。
住所:東京都渋谷区宇田川町1-10
ゆかりの地②:山王パークタワー
山王パークタワーは、千代田区永田町にある44階立ての高層ビル。かつてこの他には、山王ホテルがあり、二・二六事件の際には安藤輝三率いる部隊がこの地で徹底抗戦を主張していました。1990年代に取り壊され、2000年に山王パークタワーが建てられました。
住所:東京都千代田区永田町二丁目11番1号
二・二六事件がモデルの映画や関連作品について
戦前の日本を揺るがした二・二六事件。当然、この事件に関連する作品は多々あります。この項目では、二・二六事件にまつわる書籍や動画、映画などを解説します。
おすすめ書籍・本・漫画
二・二六事件 増補改版: 昭和維新の思想と行動
二・二六事件が起きた背景や過程をわかりやすく記した一冊。本書の初版は1994年であり、当事者や遺族、生き残りの下士官などの生々しい話を知る事ができます。その一方で、まだ明らかになっていない情報もあるので、最近発行された書籍と比較しながら読む事をお勧めします。
国家改造法案原理大綱
北一輝による国家のあり方を説いた一冊。国家社会主義という考え方は青年将校に感銘を与え、本書は青年将校のバイブルとなりました。北一輝の思想を知る事で、青年将校があの時代に何を望んでいたのか、感じる事ができるのではないでしょうか。
おすすめの動画
【ゆっくり解説】二・二六事件の主犯「安藤輝三」!秩父宮や永田鉄山、鈴木貫太郎からも認められた彼の生涯とは…?2.26事件が起きた背景や経過についても解説!
二・二六事件が起きた背景や経過を、安藤輝三から解説した動画です。
おすすめの映画
226 THE FOUR DAYS OF SNOW AND BLOOD
1989年に公開された、二・二六事件の過程を描いた映画です。本作は、二・二六事件を青年将校とその妻子との関係にスポットを当てています。
おすすめドラマ
2019年に放送された大河ドラマです。本作はオリンピックが舞台ゆえに時代は近現代史。二・二六事件は34話で取り上げられています。本作で高橋是清を演じていたのは萩原健一ですが、撮影時には亡くなっています。殺害シーンは生前の映像や、彼のあだ名であるだるまを絵を組み合わせて作られました。
【テスト対策の豆知識】二・二六事件を覚えやすくする語呂合わせ
二・二六事件を覚えやすくする語呂合わせとして、以下のものがあります。
- 戦(193)、無(6)に包む(226)東京を
- 二・二六事件、行く(19)三郎に(362)風呂(26)沸かす
二・二六事件と五・一五事件の違い
二・二六事件と五・一五事件(5.15事件)の違いは、テストや事件でも取り上げられます。ただその違いはよくわからない人も多いのではないでしょうか。両者は無関係なようで繋がっているものの、明確な違いもあります。この項目では、二・二六事件と五・一五事件の違いをわかりやすく解説します。
陸軍と海軍
二・二六事件を起こしたのは陸軍の青年将校であり、五・一五事件を起こしたのは海軍の青年将校です。二・二六事件では斎藤実や鈴木貫太郎、岡田啓介など、海軍側の人間が襲撃を受けており、海軍の上層部は早くから断固たる処断を主張しています。
ちなみに海軍の青年将校は五・一五事件を起こした時、陸軍の青年将校にも蹶起を促しています。ただ陸軍の青年将校は「時期尚早」として蹶起に反対。結果的に陸軍の士官候補生数名が五・一五事件に参加しました。
年号
五・一五事件が起きたのは昭和7年(1932年)5月15日、二・二六事件が起きたのは昭和11年(1936年)2月26日です。時系列としては、五・一五事件が先に起きています。
二・二六事件が起きた背景の一つが、五・一五事件を起こした青年将校に対して国民が同情の気持ちを示した事で、罪が首謀者が禁錮15年(後に恩赦で4年で出所)という軽い判決で済んだ事です。事実、陸軍の青年将校は事件後も軽い判決で済むだろうと甘い気持ちでいたとされます。
五・一五事件の判決が、二・二六事件の勃発に繋がったと思えば、わかりやすいのではないでしょうか。
犠牲者と事件の規模
二・二六事件と五・一五事件は犠牲者とその規模に大きな違いがあります。
まず五・一五事件で犠牲になったのは総理大臣の犬養毅と、警察官の田中巡査です。事件で襲撃されたのは首相官邸の他、内大臣官邸や政友会本部など。さらに実際に襲撃を行ったのは30人程度でした。
一方の二・二六事件では内大臣の斎藤実、大蔵大臣の高橋是清、陸軍の教育総監・渡辺錠太郎、総理大臣の義弟・松尾伝蔵が殺害されます。さらに警察官も5人が殉職。
そして陸軍の青年将校は兵士約1500人を引き連れて永田町の各地を占拠しており、五・一五事件と比較にならない規模で行われました。
二・二六事件のまとめ
今回は、二・二六事件が起きた背景や過程などを解説しました。二・二六事件が戦前の日本に与えた影響は大きく、この事件を経て日本の軍国化は加速します。青年将校が国を思っていた事は間違いないのですが、その手段は完全に間違っていたと言わざるを得ません。
現在を生きる私たちも、二・二六事件から得るものがあるのではないでしょうか。この記事を通じて、二・二六事件に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
・二・二六事件 増補改版: 昭和維新の思想と行動