関ヶ原の戦いで破れた石田三成とはどんな人?生涯・名言・偉業を解説

安土桃山時代の武将・石田三成。戦国の世を生きた武将として、誰もが知っている名前ですが、戦場のヒーローとしてのイメージはあまり湧かず、ドラマなどでは悪役のように描かれる姿も見かけます。しかし、最近は三成を再評価し、真面目で義理堅い人物という面もクローズアップされています。

実際、現代において三成のファンが多いことも、三成の生き方に惹かれる部分があるからだと思われます。戦場以外でも活躍の場を見出した三成の人生を追っていきます。

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石田三成とは?

出典:Wikipedia

特に由緒ある家柄の生まれというわけではない三成ですが、天下に手を伸ばそうとする勢いの羽柴(豊臣)秀吉に見出されることにより、歴史に名を残す武将となりました。天下人の片腕として仕事に打ち込み、生涯をかけ豊臣家のために尽くしました。

生まれ

永禄3年、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)に石田正継の次男として生まれた三成は、24、25歳頃まで幼名の佐吉と称されていました。母の出自や名前は不明で、瑞岳院という法名のみが伝えられています。

父・正継は学問の志が深く、文武両道で和漢にも通じ、「万葉集」にも触れ和歌を嗜むという風流な面もあり、三成にも読書をさせようと試みたようです。

身長

明治以降、京都・大徳寺三玄院の墓から発掘された三成の遺骨を鑑定し、特徴などが記録されました。調査結果には「優男の骨格」とあり、華奢な体格だったようです。身長は156cmと試算され、現代人と比べれば低いように思われますが、当時の男性の平均身長が160cmほどであったことから、三成の身長が特に低いわけではないようです。

性格

石田三成は、「忠義」の人でした。自身を見出してくれた秀吉に忠誠を尽くし、秀吉の死後は、豊臣家を守るために家康打倒に奔走します。しかし、頭脳明晰であるがゆえ、論理的思考で官僚としての仕事はできても、いざ不測だらけの実戦の場では臨機応変に対応できないという、軍人としての能力は疑問視される面もありました。

自身の正義を貫くため、融通が利かず、結果周囲の人々から疎まれてしまうことは現代でもあることですが、決して嫌な悪役タイプではなく、真っ直ぐで真面目すぎる性格のまま生涯を貫いた人物のようです。

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石田三成の家紋

大一大万大吉

正確には家紋ではなく旗印ですが、石田三成といえばこの縁起のいい字を並べた「大一大万大吉」の印象が強く、戦場でもさぞかし目立ったであろうと想像できます。「一人が万人のために、万人が一人のために尽くせば、全ての人々が幸せになれる」と現代では解釈されています。

石田氏の家紋としては、九曜紋桔梗紋が使われています。

石田三成の人生年表・生涯

出典:Wikipedia

永禄3年(1560)石田正継の次男として近江石田村に生まれる
天正2年(1574)羽柴(豊臣)秀吉が長浜城主となった頃、秀吉に小姓として仕える
天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで、先駈衆として一番槍の功名をあげる
天正12年(1584)小牧・長久手の戦いに従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務める
天正13年(1585)秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される
天正14年(1586)堺の奉行となる
天正18年(1590)小田原征伐に従軍
文禄元年(1592)朝鮮出兵の総奉行を務める。
文禄4年(1595)秀吉の命により、豊臣秀次を謀反の疑いで糾問する。同年、佐和山城主となる
慶長元年(1596)京都奉行となる
慶長3年(1598)秀吉が死去
慶長4年(1599)武断派の七将による三成襲撃事件が起こる
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで敗走。徳川家康の命により処刑される

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10代で秀吉に見出され、秀吉の地位の向上にあわせ、三成も側近として頭角を現していきました。秀吉の死後、わずか2年ほどで三成も生涯を閉じることになります。豊臣政権の重要な政策に携わり、秀吉を支え、最後まで豊臣家に忠誠心を持ち続けた人生でした。

石田三成のエピソード・逸話

出典:Wikipedia

三献茶〜秀吉との出会い

豊臣政権に奉行として貢献した三成ですが、どのようにして秀吉と出会うことになったのか、面白いエピソードが伝えられています。

秀吉が長浜城主となった頃、鷹狩りに出ていた先で喉が渇き、近江国のある寺院に立ち寄ります。そこの寺小姓に茶を所望すると、寺小姓は大きな茶碗7、8分目にぬるめの茶を出し、これを飲んだ秀吉は気分が良い、ともう一服茶を所望します。2杯目に出された茶は、やや熱めで茶碗の半分に満たないほどで、秀吉はこれを飲み干したあと、さらにおかわりを望みます。寺小姓は、最後に小さな茶碗で少量の熱い茶を出しました。

これは、まず飲みやすいぬるめの茶で喉を潤し、最後に熱い茶をゆっくり堪能させようとした寺小姓の心遣いであると秀吉は感心します。この寺小姓が後の石田三成であり、この出来事がきっかけで、秀吉は三成を家臣として召し抱えたとされています。

太閤検地で各地に赴く

秀吉のもと、数理に強い三成は様々な政策、実務でその能力を発揮していきます。中でも「太閤検地」は豊臣政権のなかで非常に重要な政策で、三成は検地奉行として各地をまわり、田畑の測量、収穫量を調査していきました。

正しく公平な測量を行うため、「お礼をもらって手加減をしない」「部下がお礼をもらわないよう言い渡す」「村に嫌いな者がいても意地悪な検地はしない」などの誓いを定めたことも、真面目な三成らしいエピソードです。

石田三成の死因や最期の時

出典:Wikipedia

関ヶ原より逃亡〜捕縛まで

関ヶ原の戦いに敗れた三成は、自身の旧領である古橋村の法華寺三珠院に身を寄せました。しかし、三珠院に三成が隠れていることは、すぐ村に知れ渡り、与次郎太夫という農民が三成を山中の岩窟にかくまいますが、それも間もなく名主に知られてしまいます。天運が尽きたと悟った三成は、自首というかたちで捕縛されました。関ヶ原の戦場を落ちのびてから6日目のことでした。

最期まで義を貫く

刑場へ向かうため京都の町を引廻されている途中、喉がかわいた三成は警固のものにお湯を所望しますが、あいにく周囲にはお湯がなく、かわりに干柿が差し出されました。ところが三成は、「干柿は痰の毒であるから食べない」と言って断ります。間もなく首を刎ねられる人間が毒を断つのか」と警固のものは笑いましたが、三成は「大義を思うものは、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ」と答えたとされます。

家康の命により、三成は六条河原で処刑されました。享年41。遺骸は大徳寺三玄院に葬られました。

石田三成の名言・俳句

汝に二心あるを知らざりしは愚かなり。されど、義を捨て人を欺きて、裏切したるは、武将の恥辱、末の世までも語り伝へて笑うべし

西軍・石田三成VS東軍・徳川家康による関ヶ原の戦いは、当初の予想に反し、東軍の勝利で終わります。西軍側であったはずの小早川秀秋が三成を裏切り、東軍へ寝返ります。これが原因で西軍は破れ、三成は処刑されることになりました。徳川に捕らえられた三成は秀秋に対し、「おまえの謀反の心を知らなかった私は愚かだ。しかし、義を捨て人を欺き裏切ったことは、武将の恥である。末代まで語り継がれて笑われるはずだ。」と言ったとされます。

実際に、秀秋の裏切り行為は世の中から嘲笑されることとなり、関ヶ原の戦いから2年後、秀秋は急死してしまいました。死因はアルコール依存による内臓疾患とされていますが、秀秋の裏切りにより討ち死にした大名の祟りとの噂もありました。

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり

石田三成の辞世の句。関ヶ原での敗戦により三成のゆかりの地、近江国へ逃亡しますが、消えかけている自分の命を、湖の芦の間から見える松明の火と同じであると詠んだ句です。

石田三成にゆかりのある地

大徳寺三玄院

出典:Wikipedia

大徳寺は京都市北区紫野大徳寺町にある寺院で、龍宝山と号する臨済宗大徳寺派の大本山です。三成の遺骸は僧侶の春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、大徳寺境内の塔頭・三玄院に葬られました。通常は非公開となっています。

高野山奥の院

出典:Wikipedia

高野山真言宗総本山金剛峯にある奥の院。約2kmに渡る参道には20万基以上の石塔が立ち並び、石田三成のほか数多くの武将が敵味方に関係なく祀られており、高野山が日本一の霊場であることをあらわしています。

御廟橋を渡ると空海入定の地とされる奥の院があり、一番奥の御廟では、今も空海が瞑想しているとされます。

石田会館

滋賀県長浜市石田町の三成の生家跡にある資料館です。入場は無料で、三成像や三成の生涯を描いたパネルが展示されています。

関ヶ原町歴史民俗資料館

岐阜県不破郡関ケ原町にある資料館。関ヶ原の戦いで使われた武具、三成の兜の複製が展示されています。天下分け目の戦いをわかりやすく解説した大型ジオラマも見どころの一つです。

石田三成の妻や、子供、子孫について

三成と正室・皎月院の間には、3男3女が生まれたとされています。武将・大名である父親が処刑されるような局面では、一族もろとも滅ぼされてしまうことが不思議ではない時代に、子供達は幸いにも生き延びることができ、石田家の血筋は現在まで続いています。

皎月院

妻の皎月院に関する資料は少なく、生年は不詳ですが、父親は石田家の家臣・宇多頼忠とされています。三成は皎月院のことを「うた」と呼んでいました。
享年も不明で、関ヶ原の戦いで三成側が破れた際、佐和山城で亡くなった説、佐和山城を脱出し、次女を頼り会津若松へ逃げ延びた説、三成処刑後に自害した説などがあります。

石田重家

三成の長男。関ヶ原の戦い後、臨済宗の僧・春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗り、103または104歳の天寿を全うしたと伝えられています。

石田重成

三成の次男。関ヶ原の戦いの後で、武将・津軽信建に助けられ、津軽(青森県)へ逃げ延び、杉山源吾と名を改めます。のちに弘前藩家老となり、その子孫も弘前藩の重臣として存続しました。

長女(氏名不詳)

三成の長女の名前は伝わっていませんが、石田家家臣の山田隼人正に嫁いだとされています。山田隼人正は徳川家康の6男である松平忠輝に仕えますが、忠輝の改易後は、三成の三女・辰姫の縁で津軽藩から援助を受け、江戸で余生を送りました。

小石殿

三成の次女は小石殿と呼ばれ、蒲生家の家臣・岡重政に嫁ぎました。岡重政が蒲生家のお家騒動がきっかけで切腹処分となると、小石殿は蒲生家を離れ、若狭国(福井県)へ移住し、余生を送ったとされています。孫娘は徳川家光の側室・お振の方となりました。

辰姫

三成の三女・辰姫は、豊臣秀吉の死後、秀吉の正室・高台院(ねね)の養女となります。その後、弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室(のちに側室へ降格)となり、第3代藩主・津軽信義を生みました。

佐吉

三成の三男は、三成の幼名と同じ「佐吉」の名で伝わっています。関ヶ原の戦い後、出家を条件に助命され、法名を清幽と名乗りました。

石田三成を題材とした作品

映画

『関ヶ原』2017年公開
秀吉亡きあと、豊臣家への忠誠心を誓い、戦国史上最大の合戦に挑む石田三成と、天下取りの欲望に燃える徳川家康が主人公。原作は司馬遼太郎の同名小説で、1964年から1966にかけて週刊誌に連載されました。『国盗り物語』『新史太閤記』から続く司馬遼太郎の『戦国三部作』の最終作です。

映画化にあたり、25年も前から構想を描いていた監督は、当初島左近を主役にと考えていましたが、その後、小早川秀秋島津義弘と変更していき、結局、原作と同じ石田三成を主役に決めたということです。

「義」を重んじるがゆえ、真っ直ぐで不器用な三成を軸に、天下分け目の決戦を大迫力で描いた作品です。

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ドラマ

『真田丸』2016年放送
時代劇では脇役での登場が多い石田三成。そして悪役タイプとして描かれることも多いキャラクターです。しかし、大河ドラマ『真田丸』では、生真面目で正論をかざし、周囲をイライラさせますが、その真っ直ぐすぎる性格からは愛嬌も感じ、秀吉への忠誠心を胸に、家康を倒すことに囚われすぎた不器用な人生が描かれています。

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参考文献

今井林太郎『人物叢書 石田三成』吉川弘文館

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https://ja.wikipedia.org/wiki/石田三成

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