バッハは16世紀に活躍したドイツの音楽家です。西洋音楽の基礎を構築した作曲家であり、「音楽の父」とも呼ばれています。音楽の授業でも必ず取り上げられる人物ですが、その人物像や生涯については知らない事も多いのではないでしょうか。
彼は優れた作曲家であり、著名な演奏者でもありました。しかし死後は存在を忘れ去られてしまい、長らくの間は「知る人ぞ知る存在」になっていたのです。今回はバッハの生涯や人物像、有名な楽曲などを解説していきます。
目次
バッハのプロフィール
バッハは1685年にザクセン選帝侯領・アイゼナハで音楽一家・バッハ家の末っ子として生まれます。幼少期から音楽家の才能を発揮し、各地で宮廷音楽家として活躍します。決して裕福な生活ではなかったものの、2回の結婚を経て多くの子供にも恵まれました。
彼は生涯に1000曲以上の作曲を手掛け、1750年に65歳で死去します。死後にその存在は忘れ去られてしまいますが、名だたる音楽家に影響を与えます。1829年のメンゼルスゾーンの「マタイ受難曲」の上演を経て、バッハの名は再び世に知られる事になりました。現在は西洋音楽の父として、その評価は不動のものになっています。
氏名 | ヨハン・ゼバスティアン・バッハ |
---|---|
通称・あだ名 | 音楽の父 |
出生日 | 1685年3月31日 |
出生地 | ザクセン選帝侯領 アイゼナハ |
死没日 | 1750年7月28日 |
死没地(亡くなった場所) | ザクセン選帝侯領 ライプツィヒ |
血液型 | A型 |
職業 | 作曲家・演奏家 |
身長 | 180cm |
体重 | 不明 |
配偶者 | マリア・バルバラとアンナ・マクダレーナ・ヴィルケ |
座右の銘 | 音楽だけが世界語であり、翻訳される必要がない。そこにおいては魂が魂に働きかける |
バッハの人生年表・生涯
バッハの人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
1685年 | アイゼナハで誕生 |
1695年 | 父が他界し、兄に引き取られる |
1703年 | ヨハン・エルンスト公の宮廷楽団に就職 |
1707年 | マリア・バルバラと結婚 |
1717年 | アンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長となる |
1721年 | アンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚 |
1723年 | ライプツィヒの聖トーマスの指導者となる |
1736年 | ザクセンの宮廷作曲家となる |
1749年 | 脳卒中で倒れる |
1750年 | 65歳で死去 |
音楽一家の家に生まれる
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下、「バッハ」と表記)は、1685年3月31日にアイゼナハの町で宮廷音楽家を務めるヨハン・アンブロジウス・バッハの8番目の末っ子として生まれます。幼少期のバッハの動向は詳しく分かりませんが、父から音楽の教育を受けていたとされます。
やがて1694年5月に母が亡くなり、翌年に父親も死去。バッハは教会オルガニストを務める長兄ヨハン・クリストフの家に身を寄せました。1700年には親友のゲオルク・エルトマンと、リューネブルクに移り住みます。そこで、聖ミカエル教会付属の学校の給費生となり、「朝課合唱隊」の聖歌隊員となりました。聖歌隊員になるには難しい試験がありましたが、卓越した音楽の才能を持っていたバッハは難なく合格しています。
バッハはボーイ・ソプラノとして採用されたものの、既に15歳でした。間もなく美しいソプラノは出なくなりましたが、ヴァイオリン・ヴィオラや通奏低音の楽器演奏をする事で、頭角を現しています。
貧乏生活を続ける
バッハは聖ミカエルを卒業し、1703年3月からヨハン・エルンスト公の宮廷楽団に就職しました。また教会で少年聖歌隊の指導をするなどして生計を立てています。この頃から『カプリッチョ 変ロ長調「最愛なる兄の旅立ちに寄せて」BWV992』などの作曲を開始しました。
1707年にバッハは最初の妻であるマリア・バルバラと結婚します。後に子供にも恵まれますが、生活は決して楽ではありませんでした。バッハは常に良い待遇を求めてアルンシュタットやミュールハウゼンなどに移り住みますが、契約した先々で様々なトラブルも起こしています。
音楽家として名が売れ始める
1717年にバッハはアンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長となります。ここの年俸は前任者の倍である400ターラー。恵まれた環境を得たバッハは、多くの楽曲を作り上げていきます。
ところが1720年に愛する妻・マリーア・バルバラが急死。バッハは4人の子供を抱えており、途方に暮れます。そんな経緯もあり、バッハはハンブルク聖ヤコービ教会オルガニストに就職を希望。結局この就職はうまくいかなかったものの、バッハの演奏はハンブルクの他に轟きました。
その後、バッハは1721年に16歳年下のソプラノ歌手、アンナ・マクダレーナと再婚。彼女はバッハを献身的に支え、彼の楽曲制作に大きな影響を与えています。1723年にバッハは大都市ライプツィヒに移り住み、聖トーマス教会のカントル(音楽家(キリスト教音楽の指導者)となりました。
その後もバッハは1736年にザクセンの宮廷作曲家に任命されるなど、宮廷音楽界の重鎮として活躍します。ところが1749年5月末に、バッハは脳卒中で倒れており、元来から患っていた眼病も悪化。晩年になると視力はほとんど失われており、バッハは第一線から退いたのでした。
バッハの死因と最期
眼病の手術による体力低下で死亡する
バッハの死因は手術による体力の低下です。前述した通り、晩年のバッハの視力は悪化しており、ほとんど目が見えていない状態でした。そんなバッハは1750年3月に有名な眼科医であるジョン・テイラーの手術を受けています。
テイラーは新聞記者に「手術は成功した」と述べるものの、実際は失敗しており、バッハは完全に失明しました。それどころか目の炎症を抑える為、投薬が必要な状態となります。この手術と投薬は高齢だったバッハの体力を奪い、バッハは7月28日午後8時40分にこの世を去りました。享年65歳ですが、これは当時としては長寿の部類です。
バッハの性格
音楽に対する熱心な姿勢
バッハは幼少期から音楽に対する並々ならぬ熱意がありました。有名なのが「月灯りを頼りに楽譜を写譜した」というものです。両親が亡くなり兄の家に身を寄せていた頃、バッハの兄は南ドイツの作曲家の楽譜を多く所有していましたが、その楽譜をバッハに見せる事は決してありませんでした。
バッハはその楽譜を自分のものにする為、半年にわたり夜中に楽譜をこっそりと写譜。兄にバレないようにする為、月灯りを頼りにしての事でした。最終的に兄に楽譜を写譜していた事はバレてしまい、楽譜は没収されてしまいますが、この時の経験はバッハの作曲に大きな影響を与えます。
ちなみにバッハは晩年に失明していますが、それは作曲で目を酷使した事が原因と言われています。
周囲とトラブルを引き起こす
バッハは音楽に対する熱心な姿勢から、周囲とよくトラブルを引き起こしていました。4週間の休暇を得てリューベックに出張した際には、450kmの道のりを徒歩で出発。更に新たな音楽の知見を得る為、3ヶ月もの長期滞在をして聖職会議から叱責を受けています。
またワイマールの宮廷楽団で演奏していた頃に、宮廷楽長が亡くなった事がありました。バッハは新たな宮廷楽長の座を望み、その熱意を延々と公爵に伝え続けます。当時は上司の命令が絶対な時代であり、その事を疎まれたバッハは4週間の間、刑務所に収容されました。
バッハは私達が思う以上に、アクティブかつトラブルメーカーでした。
バッハは何した人?功績について
西洋音楽の基礎を作る
バッハの功績は西洋音楽の基礎を作り上げた事でしょう。バッハの生きた時代は17世紀初頭から18世紀半ば。当時はルネサンス音楽と古典派音楽の間に位置する、「バロック音楽」が台頭し始めていました。バロック音楽は「彫刻や絵画等と同じように、劇的な感情の表出を特徴とした音楽」と定義されます。
バッハはバロック音楽の後期に生まれた音楽家であり、管弦楽曲(独奏、協奏曲)から鍵盤曲、オルガン曲、ミサ曲などのさまざまな楽曲を作りました。それらはさまざまな技法を凝らした精緻なものですが、感覚的な美しさも兼ね備えたもの。バッハが手がけた曲は1000曲以上もあり、1951年に始まったバッハの作品の編纂作業が終わったのは2007年の事。作品の整理自体は終わっていません。
バッハの愛好家は多く、現在でもX JAPANのYOSHIKIもバッハのファンを公言しています。私たちが何気なく聴く曲にも、バッハは影響を与えているのです。
死後に変動するバッハの評価
宮廷音楽家として活躍したバッハですが、当時の宮廷音楽家として名を馳せていたのは、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルという人物でした。当時のバッハは作曲家ではなく、演者としての側面が強かった事もあり、死後に存在は忘れ去られていきます。死後30年のうちにバッハの楽曲として出版されたのは、2曲のカンタータと一部の鍵盤楽曲だけでした。
しかしバッハの生み出した名曲は、バッハの息子やモーツァルト、ベートーヴェンなどの名だたる音楽家に影響を与えます。1829年にはメンゼルスゾーンが、ベルリンでバッハの代表曲である「マタイ受難曲」を公演。この公演をきっかけにバッハの存在は一般にも知られ始めます。
バッハの評価は死後70年を経て一気に高まりを見せたのです。
バッハの代表曲
前述した通り、バッハが作った曲は1000曲以上もあります。全てを解説する事はできませんが、この項目では以下の楽曲を簡単な解説します。
- ブランデンブルク協奏曲
- G線上のアリア
- トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565
- フーガ BWV578
- アヴェ・マリア
- マタイ受難曲
- インヴェンションとシンフォニア
- ゴルトベルク変奏曲
- クリスマス・オラトリオ
- ミサ曲 ロ短調
ブランデンブルク協奏曲
ブランデンブルク協奏曲はバッハが1721年に作曲した全6曲に及ぶ合奏協奏曲集です。名前の由来はバッハがこの協奏曲集を、ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに献上した事が由来です。転職活動の一環として既存の曲を編成の大きなものから順に並べたものとされます。
この協奏曲の中で一番有名なのは第5番です。フルート・ヴァイオリン・チェンバロが独奏楽器として使われ、特にチェンバロの美しいとされます。
G線上のアリア
G線上のアリアはバッハが作曲した「管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068」を、アウグスト・ウィルヘルミがピアノ伴奏付きのヴァイオリン独奏に編曲した楽曲の事です。名前の由来は、バイオリンの4弦のうち、最重音のG線のみで演奏できる事が要因です。
トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565
トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565はバッハの初期の作品とされ、数少ないオルガンによる演奏曲です。演奏時間は8〜12分と短く、強烈な旋律から始まり、急速かつ重厚感のある前半部分と強弱をつけながら連なり出会うフーガが特徴になります。
バッハの名を語った偽作説もありますが、バッハの作品の中でも特に人気のある楽曲です。
フーガ BWV578
フーガ BWV578はバッハが1703年〜1707年頃に作曲したオルガン曲です。同じト長調の「幻想曲とフーガ BWV 542」との混在を避ける為、「小フーガ」とも称されます。当作品に登場する主題の旋律は、バッハの作品の中で最も有名なフレーズの一つであり、数学的に精密に構成されています。
アヴェ・マリア
アヴェ・マリアはラテン語で「こんにちは、マリア」を指す言葉です。カトリック教会の聖母マリアへの祈祷を指す聖句もあり、それにまつわる楽曲も数多く制作されています。シャルル・グノーは1859年にバッハの「平均律クラヴィーア曲集 第1巻」に「アヴェ・マリア」の聖句を歌詞に用いた作品を完成させました。
日本でも古くから馴染みがあり、1935年に諏訪根自子がバイオリンで演奏したものが残されています。
マタイ受難曲
マタイ受難曲は、バッハが新約聖書「マタイによる福音書」を題材にした作品です。1727年4月11日に初演されますが、バッハの死後はその存在を忘れ去られます。この楽曲は1829年3月11日にフェリックス・メンデルスゾーンにより歴史的な再演がなされ、バッハの名前を再び世に知らしめるきっかけとなりました。
インヴェンションとシンフォニア
1723年頃にバッハが制作した曲です。2声部のインヴェンションと、3声部のシンフォニアからなり、さまざまな性格をもっています。現代のピアノ学習でも広く用いられており、バッハの代表曲として人気があります。
クリスマス・オラトリオ
クリスマス・オラトリオはバッハが1734年に制作した楽曲です。教会のクリスマスの時期に演奏される曲であり、合唱団、独唱陣、オーケストラなどのバリエーションがあります。
ちなみにこの楽曲数は全6部(計64曲)という膨大なものです。ただ総演奏時間は全曲約2時間30分で、各部25分とそれほど長い時間ではありません。12月25日から1月6日までの土日を除いた6日間に演奏されます。
ミサ曲 ロ短調
ミサ曲 ロ短調はバッハが晩年の1749年に完成させた声楽曲です。バッハの作品の中でも最高峰に位置するとされ、ミサ曲の中でも最高傑作と名高いものです。バッハがこの作品の制作を始めたのは1733年であり、まさに人生の全てを凝縮したものでした。
バッハにまつわる逸話
コーヒーが大好きだった
バッハは大のコーヒー好きで、1日に数十杯ものコーヒーを飲む事もありました。遺品の中には5つのコーヒーポットやコーヒーカップも存在します。作曲は納期などもあり、時には徹夜で行うもの。コーヒーは彼にとって至福の時間であると共に、睡眠防止に必要なものだったのかもしれません。
ちなみに彼がライプツィヒに滞在した頃、この地ではコーヒー依存症が社会問題になっていました。バッハは「コーヒー・カンタータ」という楽曲の作曲を担当。初演はコーヒーハウスで行われ、バッハは大学生の演奏団体と一緒に出演を果たしました。
バッハのコーヒーに対する熱意が垣間見えるエピソードです。
バッハの名言
音楽だけが世界語であり、翻訳される必要がない。そこにおいては魂が魂に働きかける。
バッハの名曲は400年を経ても色褪せる事はありません。それは良い曲は古今東西普遍的なものだからです。バッハの曲には魂が込められており、それが多くの人たちの感性に働きかけているのでしょう。
音楽の究極的な目的は、神の栄光と魂の浄化に他ならない
バッハは熱心なキリスト教徒であり、バッハが生み出した楽曲の多くは神の栄光と魂の浄化を目的に作られたものでした。バッハの曲は一般受けしなかったとされますが、それは大衆に向けた音楽でなく、神に向けた音楽だったからです。
バッハの家族・子孫
1000曲以上の楽曲を生み出したバッハ。彼の家族はどんな人物だったのか、そして子孫はいるのか。気になる人もいるかもしれません。この見出しではバッハの家族や子孫について解説します。
バッハは音楽一家の生まれ
バッハ家は16世紀後半から18世紀にかけて隆盛を極めた音楽一族でした。彼らの始祖であるファイト・バッハは元はパン焼き職人でしたが、ツィトリンゲンの演奏を趣味としており、これがバッハ家が音楽一族になった理由とされます。
本記事で解説しているヨハン・セバスチャン・バッハが誕生した時、ドイツの各地ではバッハ一族は80余名ほど存在しており、音楽家として名を馳せた者も多くいました。バッハは1735年に「音楽家系バッハ一族の起源」という家系図の資料を編纂し、それがバッハ家の研究に役立っています。
バッハはビック・ダディ
バッハは2度結婚し、生涯に20人もの子を儲けたビック・ダディでした。しかし当時は医療も未発達であり、成長できたのは男子6人と女子4人の10人だけ。先妻のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケとの間に生まれた長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハは、「ビュッケンブルクのバッハ」と呼ばれ、音楽家として大成しました。
そして次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハは、父と異なり大衆に歩み寄った作品を多く制作した為、かつては父よりも有名な存在でした。彼は父の偉大さを訴え続けており、初期のバッハ神話を創り出した功労者となります。「ベルリンのバッハ」、「ハンブルクのバッハ」とも称されており、モーツァルトやベートーヴェンも彼に教えを受けていました。
また、後妻のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケととの間にも、多くの子供が産まれています。ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハは「ビュッケブルクのバッハ」、ヨハン・クリスティアン・バッハは「ロンドンのバッハ」と称され、それぞれが音楽家として大成しました。
バッハの子孫はいるの?
バッハの子孫は現在も確実に存在していますが、バッハ家の始祖であるファイト・バッハの直系は存在しません。そもそもヨハン・セバスチャン・バッハも直系ではなく、傍流の存在でした。バッハの息子たちが音楽家として大成した事は前述しましたが、「記録として確実に残されているのは孫の世代まで」です。
実はお笑いコンビであるタイムボムのニックは、バッハの子孫であると公言されています。母方の先祖がバッハの一族であり、彼の父親は全米第2位の保険会社の創始者との事。彼は2015年2月に小嶋よしおの元マネージャーと結婚し、子供も授かっています。バッハの子孫が日本でお笑い芸人をしているのも奇妙な話ですが、これも何かの縁でしょう。
バッハのゆかりの地
バッハはヨーロッパの各地でさまざまな作品を作りました。ヨーロッパにはバッハのゆかりの地が沢山あります。この項目ではバッハのゆかりの地をいくつか解説します。
ケーテン城
ケーテンは古くはアンハルト・ケーテン侯の城下町として栄え、現在はドイツ連邦共和国ザクセン=アンハルト州に属する郡市です。バッハは1717年から1723年までこの地に住み、ブランデンブルク協奏曲や無伴奏チェロ組曲などの名曲を作曲します。宮廷楽長としての地位も約束されていましたが、君主は世俗の音楽の作曲ばかりを求めるようになり、バッハの気持ちはケーテンかや離れていきます。
ライプツィヒ 聖トーマス教会
ライプツィヒの聖トーマス教会にはバッハのお墓があります。バッハは1723年から1750年までをこの地で過ごし、聖トーマス教会付属学校のカントル(合唱長)を務めました。バッハの遺体は聖ヨハネ教会に葬られたものの、その存在は忘れ去られます。遺体が聖ヨハネ教会にある事がわかるのは1894年の事。第二次世界大戦を経てバッハのお墓は聖トーマス教会に移されました。
住所:Thomaskirchhof 18, 04109 Leipzig
バッハの関連人物
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ベートーヴェンはバッハやモーツァルトと並び、偉大なる作曲家の1人です。生きた時代は違えど、彼もまたバッハの楽曲に大きな影響を受けました。ベートーヴェンがバッハの楽曲を知るのは1782年で12歳の頃の事。ベートーヴェンはピアノ・ソナタ第31番にマタイ受難曲のメロディを引用します。この他にバッハのフーガを積極的に書くようになり、このフーガは後に多くの研究者が参考にするようになりました。
ベートーヴェンはバッハの事を「バッハは“小川“ではなく“大海”である」と称します。バッハという姓はドイツ語で小川と呼ぶ事があり(正確にはドイツ語の「小川」はbach、バッハ家のバッハはBachで読み方が違う)、それに因んだものでした。ベートーヴェンがバッハを評価していた事がよく分かる一文です。
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルはバッハと同世代に活躍した音楽家です。代表作のオラトリオ『メサイア』は現在でも評価が高く、現在でも上演される事があります。一般受けしなかったバッハと異なり、ヘンデルはオペラなとの大衆に歩み寄った作品を多く手掛け、ヨーロッパ中にその名声はとどろいていました。
バッハはヘンデルを生涯意識し続け、面会を望む事も有りましたが、2人が直接出会う事はありませんでした。ちなみにヘンデルも眼科医のジョン・テイラーから眼科手術を受けており、バッハ同様に失明します。
バッハの関連作品
バッハは楽曲だけでなく、その生涯を題材にした作品も多く存在します。この項目ではバッハにまつわる書籍や動画、映画について解説します。
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音楽家の伝記 はじめに読む1冊 バッハ
小学生向けに作られたバッハの伝記です。バッハの人柄や音楽に対する姿勢もわかりやすく描かれており、大人でも楽しめる一冊です。本シリーズはバッハ以外にもベートーヴェンやショパンなどの音楽家も扱っています。
バッハ=魂のエヴァンゲリスト
バッハの生涯をより正確に分析・考察した一冊です。バッハは熱心なキリスト教徒であり、その楽曲は神に捧げられたものが多く存在します。本書を読む事で各楽曲に対する理解が更に深まると共に、バッハの音楽への姿勢が本物であった事が再確認できるでしょう。
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J.S.バッハ【生涯と名曲】意外と知らない?クラシック音楽界の大巨匠の人生と名作を解説(G線上のアリア/平均律クラヴィーア/マタイ受難曲など)
バッハの人生と名曲をわかりやすく解説した動画です。当チャンネルは各音楽家の生涯や、有名なクラシックなども解説しており、音楽を学びたい人にはおすすめのチャンネルです。
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アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記
バッハの後妻であるアンナ・マクダレーナの視点から、バッハの生涯に迫る作品です。バッハの生きた時代や、バッハの音楽に対する姿勢。そして家族に向けられた愛情など。バッハの知られざる一面がこの作品から浮かび上がります。
本作品は、当時の衣装や教会などを可能な限り考証して作られています。そういう点からも貴重な作品と言えるでしょう。
バッハについてのまとめ
今回はバッハの生涯や作品について解説しました。西洋音楽における超重要人物でありながら、長きに渡り歴史から忘れ去られたバッハ。その生涯は決して恵まれたものではありませんでした。
それでも400年の年月を経て、バッハの作品は評価されるに至りました。それはバッハの言う通り、音楽の良さは時代が変わっても、普遍であるからに他なりません。今回の記事を通じて、バッハの作品や生涯に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
・バッハ=魂のエヴァンゲリスト 磯山雅
・https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ヨハン・ゼバスティアン・バッハ