ベートーベンの生涯年表と人物像!功績・名言・死因・性格は?

「世界を代表する天才音楽家を1人挙げなさい」

そう質問されると多くの人達がベートーベンと答えるのではないでしょうか?ベートーベンは運命歓喜の歌等の多くの名曲を世に送り出してきた天才音楽家です。死後200年が経った今でも彼の曲は世界中で親しまれています。

しかしベートーベンの人物像や、その生涯について聞かれると分からない人も多いのではないでしょうか?ベートーベンは天才音楽家と賞賛される一方で、耳が聞こえなくなる等の様々な困難に立ち向かった人物でもありました。

今回はベートーベンの生涯や人物像に迫っていきたいと思います。

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ベートーベンのプロフィールのプロフィール

(1820年頃の肖像画 出典:Wikipedia)

氏名ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
通称・あだ名楽聖
誕生日1770年12月16日頃(洗礼を受けたのが12月17日としか分かっていない)
出生地神聖ローマ帝国・ボン
死没日1827年3月26日(56歳没)
死没地オーストリア帝国・ウイーン
身長162cm
職業音楽家
配偶者なし(隠し子がいた可能性あり)

ベートーベンの人生年表・生涯

ベートーベンの人生年表

出来事
1770年ベートーベン誕生
1774年父から音楽を教わる
1787年仕事を掛け持ちしながら家計を助ける
1792年ハイドンに弟子入り 音楽家として名を馳せる
1801年ピアノソナタ 月光を作曲
1802年難聴の苦悩からハイリゲンシュタットの遺書を執筆
1804年傑作の森と呼ばれる時期を迎える
1808年運命や田園を作曲
1816年甥・カールの後見人に指定される
1818年難聴の悪化
1820年甥・カールの親権を得る
1827年病死

幼少期のベートーベン

(ベートーベンの生まれた街・ボン 出典:Wikipedia)

 

ベートーベンは1770年に神聖ローマ帝国のボンで、宮廷のテノール歌手だった父ヨハンと、宮廷料理人の母マリアの長男として生まれます。ヨハンは優秀な歌手ではあったものの、元来の酒好きで、家庭の収入は不安定でした。

音楽の素質を持っていたベートーベンを父ヨハンは高く買っていました。やがて祖父が1773年に亡くなると、ヨハンはベートーベンに虐待とも言える音楽のスパルタ教育を施します。

ヨハンはベートーベンを6歳で天才ピアニストになったモーツァルトのようにしたかったそうです。ベートーベンは時には音楽が嫌いになる事もありました。1782年には時の音楽家ネーフェに師事し、作曲などの技術を学んでいくのです。

仕事を掛け持ちして家計を助ける

(ベートーベンの師匠であるハイドン 出典:Wikipedia)

1786年、ベートーベンは16歳の頃にモーツァルトに会うためにウィーンを旅行します。しかし間も無く母マリアが死去すると、ベートーベンは故郷に戻りました。父はアルコール依存症となり生活が途絶えていた為、ベートーベンは仕事を掛け持ちしながら家計を支えるのです。

1792年7月にベートーベンは音楽家ハイドンに才能を認められ、11月にはウィーンに移住します。父は12月に死去しており、ベートーベンはある意味で音楽に真剣に打ち込めるようになったのです。

やがてベートーベンはピアノの即興演奏の名手として、頭角を表しました。

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難聴に悩まされる

(ハイリゲンシュタットの遺書の原本 出典:Wikipedia)

ベートーベンは20歳後半頃から難聴に悩まされます。音楽家として不可欠な聴力を失いつつある事は、自身の存在理由を否定しかねないものでした。1802年には弟のカールとヨハンに宛てた遺書である「ハイリゲンシュタットの遺書」を執筆。内容は以下の通りです。

・悪化していく難聴への絶望
・芸術家として運命を全うする為に、精神的・肉体的な病気を克服したい

ベートーベンは命を絶つ寸前まで追い詰められていました。彼を引き止めたのは「芸術」を突き詰めたいという感情だったのです。結果的にベートーベンはこの時に死ぬ事はなく、次々と名曲を生み出す「傑作の森」という最盛期を迎えました。

作曲家専業となる

(運命などが初演されたアン・デア・ウィーン劇場 出典:Wikipedia)

 

1803年には「交響曲第3番《英雄》」を作曲し、1805年には唯一のオペラ作品である「フィデリオ」が初演されます。更に1808年には皆さんもご存知である「交響曲第5番《運命》」「交響曲第6番《田園》」を作曲しました。

その後ベートーベンはピアニスト兼作曲家から、作曲家に完全に移行していきます。

音楽家として確固たる地位を築いたベートーベンですが、40歳頃には完全に耳が聞こえなくなっていました。更に神経痛や下痢にも悩まられる等、身体は確実に蝕まれていきます。そんな中でも、1824年には「交響曲第9番」を作曲しています。

「交響曲第9番」の初演の際、ベートーベンは各楽章のテンポを指示する為に指揮台に上がりました。初演は失敗に終わったと思ったベートーベンは、演奏後も聴衆の方向を見る事が出来なかったのです。

それを見かねた共演者がベートーベンの手を引いて、聴衆の方を向かせます。ベートーベンの視界に映ったのは、大勢の聴衆の拍手だったのです。ベートーベンは晩年に至るまで、苦悩を重ねながら、数々の名曲を生み出していきました。

ベートーベンの死因と最期

(ベートーベンの葬儀の様子 出典:Wikipedia)

ベートーベンの死因は肝硬変です。1826年12月には肺炎を患い、黄疸も発症する等の症状が見られていました。病床の中で「10番目の交響曲」に着手しますが、それは未完のままに1827年3月26日に亡くなりました(享年58歳)。

ベートーベンの死を多くの人達が悲しみ、葬儀の参列者は実に2万人。その中にはシューベルト等の音楽家も参列していたそうです。

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ベートーベンを悩ませた病とは?

死後に行われた解剖では、肝臓や腎臓等の多くの臓器に損傷が見られていました。そして何よりも注目を集めたのが、毛髪から検出された「通常の100倍近い鉛」です。

鉛中毒になると、多臓器不全の他、聴覚の低下や精神状態への悪影響が出ると明らかになっています。当時のワインは醸造過程で甘味を出す為に、鉛化合物類が頻繁に加えられていました。父ヨハン同様にベートーベンは大の酒好きとして知られており、彼の死期を早めた可能性があります。

ただ「鉛中毒でベートーベンのような全聾になるか」という点は、議論の余地があるそうです。鉛中毒による聴覚障害は、あくまで軽度だと言われているからです。ベートーベンがなぜ肝硬変になったのか、新たな研究結果を待ちたいものですね。

ベートーベンの性格

気難しく癇癪持ちだった

(ハイリゲンシュタッター公園のベートーヴェン像 出典:Wikipedia)

肖像画では気難しそうな顔をしているベートーベン。実際に気難しく癇癪持ちだった事が知られています。怒りで使用人に卵や本を投げつける事もあり、解雇された使用人は数知れません。

共和主義を掲げたナポレオン・ボナパルトに心酔していたベートーベンは、交響曲に「ボナパルト」と名付けました。しかしナポレオンが皇帝に即位すると、それに怒りを覚えて楽譜の表紙を破り捨てた事が知られています。ちなみにその時の楽曲が、「交響曲第3番《英雄》」でした。

一方で優しい一面も?

気難しいエピソードが知られる一方で、親しくなった人には度を超えた親切心を見せたり、冗談を言う事もありました。

ベートーベンが変わり者という事は皆が知っていましたが、どんな作曲家よりも敬愛されていた事は間違いありません。葬儀には2万人もの参列者が参列した事が、その人気を物語っています。

ベートーベンは何した人?功績について

音楽に芸術的意味を持たせた

(ベルサイユ宮殿 出典:Wikipedia)

 

ベートーベン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕える事が普通でした。そして音楽は冠婚葬祭や晩餐などの特定の機会のために存在していたのです。つまり当時の音楽は純粋に聴く事を楽しむものではありませんでした。

しかしベートーベンはこの常識に風穴を開けます。貴族との主従関係によって存在する音楽のあり方を拒否し、大衆に向けた音楽を作曲し続けました。

ベートーベンの音楽に対する姿勢は当時の世相を反映しています。フランス革命が勃発したのは1789年、ルイ16世が処刑されたのは1793年。ベートーベンが作曲を始めたのは1795年頃です。

この頃は旧来の貴族特権が否定されると共に、彼らの要望に沿った音楽を作る必要がなくなっていた時代なのです。ベートーベンが「音楽家は芸術家・アーティストである」と公言した事は、音楽のあり方を根本的に変えてしまう出来事でした。

音楽の新たなアプローチの追求

ベートーベンはとにかく新しいアプローチを追求し続けました。例えば「交響曲第5番《運命》」の最初の「ジャジャジャジャーン」というフレーズ、「交響曲第9番」の合唱等、当時初めて取り入れられたアプローチが数多くあります。

ベートーベンの楽曲には「キャッチーさ」「わかりやすさ」という工夫が随所に盛り込まれているのです。その一方で先ほどの「交響曲第5番《運命》」は細かく繊細なフレーズも多くあります。要はわかりやすさと繊細さのバランスが絶妙です。

ベートーベンが行った試みはその他にも数多くあります。
・メトロノームの活用
・大胆な管弦楽法
・楽曲の大規模化
・騒音の導入(戦争交響曲)などなど。

ベートーベンが同世代・後世の人達に与えた影響は計り知れないものがあるのです。

ベートーベンの代表作品・有名な曲

ベートーベンが生涯に発表した作品は実に138曲。今なお世界で愛される曲がたくさんあります。この項目では代表作品を紹介していきます。

運命

ベートーベンが五番目に作曲した交響曲であり、交響曲第5番もしくは運命と呼ばれます。冒頭のフレーズがあまりにも有名です。楽譜の初版は1809年4月に出版。ベートーベンの創作活動における、頂点だと言われています。

月光

ベートーベンが1801年に作曲。ピアノソナタ第14番や月光ソナタとも呼ばれます。伯爵令嬢ジュリエッタ・グイチャルディに捧げた曲であるものの、詳しい経緯は不明です。ベートーベンの「不滅の恋人」の有力候補とされています。

エリーゼのために

1810年に作曲され、「バガテル第25番」と呼ばれる事もあります。タイトルは本来「テレーゼのために」だったものが悪筆でエリーゼと解読された説が有力です。テレーゼはベートーベンが愛した女性の1人でした。

田園

ベートーベンが1808年に6番目に完成させた交響曲。5楽章で構成され、その全てに標題が決められています。ベートーベンは田園を「絵画的描写ではなく感情の表出」と評しました。

ベートーベンは田園を好み、夏には田舎に生活して大自然に触れたそうです。そうした心情がこの楽曲には現れています。

悲愴

ベートーベンが1798年頃に作曲した作品です。ベートーベンの初期の名曲で、ベートーベンの名声を高める作品となりました。

ベートーベンにまつわる都市伝説・武勇伝

実はフリーメイソンと関係があった?

(フリーメイソンのロゴ 出典:Wikipedia)

皆さんはフリーメイソンをご存知でしょうか?フリーメイソンは世界最大の友愛結社と言われ、謎の多い組織です。その秘匿性の高さから、世界を裏から支配しているという都市伝説も囁かれています。

結論からいえばベートーベンがフリーメイソンだったと言う証拠はありません。ただベートーベンが憧れたモーツアルトや、師匠のハイドンはフリーメイソンの会員だった事が知られています。ベートーベンの友人の多くがフリーメイソンだった事は確実なようで、ベートーベンもその思想に強く影響されているのです。

実はベートーベンの代表作「交響曲第9番」も、フリーメイソンの会員に宛てて書いた歌詞だとも言われています。興味がある人はフリーメイソンについても調べてみてくださいね。

実はとてもモテていた

(ベートーベンの不滅の恋人の可能性のあるアントニー・ブレンターノ 出典:Wikipedia)

ベートーベンは生涯独身を貫きました。しかし実に恋多き人生を歩んだ事が知られています。20代半ばのベートーベンは難聴に悩まれる事もなく、ピアニストとして一世を風靡していました。この頃のベートーベンは多くの女性と交際経験がありました。

またベートーベンの死後、遺品の中から「不滅の恋人」に宛てた手紙が発見されています。この手紙は1812年の頃のものであり、誰に宛てたものかは未だに多くの議論がされています。

現在ではアントニー・ブレンターノという芸術家のパトロンだった人物が「不滅の恋人」だったという説が有力です。ちなみに1812年の時点でアントニーは四児の母でした。2人の関係が本当ならば、禁じられた恋だった事になりますね。

実は捏造も多かった?ベートーベンの秘書アントン・シンドラーの存在

(秘書アントン・シンドラー 出典:Wikipedia)

非常にドラマチックなベートーベンの生涯を伝記にまとめたのは秘書のアントン・シンドラーです。彼は晩年のベートーベンの世話を引き受けていました。彼が1840年に発行した著書『ベートーヴェンの生涯』は後年のベートーベン像に多大なる影響を与えています。

ところがシンドラーは執筆した伝記の折り合いをつける為、ベートーベンの会話帳の多くを改竄や破棄した事が明らかにされています。ベートーヴェン研究家であるバリー・クーパーは「シンドラーの記したものは一切信用できない」とすら述べています。

もしかしたら私達が知っているベートーベン像も、作られたものである可能性もあるのです。新たな研究結果が出る事に期待したいですね。

ベートーベンの名言

(1803年頃のベートーベン 出典:Wikipedia)

神がもし世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、私は運命に立ち向かう。

音楽家でありながら耳が聴こえなくなる。それはベートーベンの人生の根幹に関わる問題であり、最も不幸な出来事だったのかも知れません。一度は自殺を考えたベートーベンですが、運命に立ち向かう事を決めました。

悩みや苦しみを抱える人に伝えたい名言ですね。

苦悩を突き抜ければ、歓喜に至る。

芸術を世に送り出す人達は、産みの苦しみを抱えています。妥協せずに作品を世に送り出すか、妥協せずに苦悩を突き詰めるのか、それはその人次第です。

しかし苦悩を突き詰めたその先には、きっと皆を歓喜させる作品が存在します。最後に笑う為には苦悩と向き合う姿勢が必要なのです。

ベートーベンの家族・子孫

ベートーベンは自分も含めて6人の兄弟がいたものの、長兄と末の2人(男1人と女2人)は夭折。ベートーベンは次男だったものの、事実上の長男として育てられました。

果たしてベートーベンの家族はどのような人達なのでしょうか。簡単に紹介していきますね。

マリア・マグダレーナ・ケフェリッヒ(1746〜1787)

(ベートーベンの母マリア(右)と父ヨハン(左) 出典:Wikipedia)

ベートーベンの母親です。宮廷料理長の娘として生まれたマリアは、最初の夫と2年で死別。後にヨハンと再婚しています。酒飲みで虐待的に音楽を教育したヨハンとは異なり、とても優しい性格で、ベートーベンの心の支えになっていたそうです。

マリアが危篤になったのは1787年の事でした。16歳のベートーベンがモーツアルトに会う為にウイーンに旅立っていた時です。ベートーベンは知らせを聞き、すぐにボンに戻ります。結果的にマリアは肺結核で40歳の若さで亡くなりました。

マリアが亡くなった後のベートーベンは家計を助ける為に仕事を掛け持ちし、苦労するようになります。

ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン(1739or1740〜1792年)

ベートーベンの父親です。本業は声楽家でしたが、バイオリンや当時の鍵盤楽器も弾きこなしていました。ヨハンは早くからベートーベンの才能を見抜き、虐待とも言える指導をしています。

ヨハンは1792年12月に52歳もしくは53歳で亡くなっています。生前は重度のアルコール中毒になっていました。ヨハンはベートーベンの才能を開花させた恩人であるものの、同時にベートーベンにとっては恐怖の対象でもあったのです。

パール・アントン・カール(1774〜1815)

ベートーベンの次弟です。ベートーベン程ではありませんが、彼も多少なりピアノが弾けました。1815年に41歳の若さで肺結核で亡くなっています。

カール・ヴァン・ベートーヴェン(1806〜1856)

(甥のカール 出典:Wikipedia)

アントンの息子にあたる人物で、ベートーベンの甥にあたります。アントンが亡くなった時、カールの年齢は僅か9歳。アントンは遺書でカールの後見人をベートーベンとヨハンナそれぞれを指定しますが、2人ともが親権を主張した為、泥沼の裁判が始まりました。

最終的にベートーベンが親権を獲得すると、ベートーベンはカールに過度の期待を抱くようになります。一流の大学に入れ、一流の家庭教師をつけてピアノを教え込みました。

結果的にカールは追い詰められ、1826年にピストル自殺未遂を起こしています。時期的にはベートーベンの最晩年の事であり、精神的ショックも大きかったようです。結果的にカールが軍人の道へ進む事を認めています。

ニコラウス・ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン(1776〜1848)

ベートーベンの末弟です。兄がウイーンへ旅立った3年後の1795年にフランス革命の煽りを受けて、ボンからウイーンに移住。薬剤師の見習いとして働くようになります。

カールの親権問題では未亡人ヨハンナ側につき、兄ベートーベンと対立する事もしばしばありました。ちなみにベートーベンの死後に「不滅の恋人への手紙」を見つけたのは彼です。その後1848年に71歳で亡くなっています。

ベートーベンに子孫はいるの?

ベートーベンは前述した通り、生涯独身を貫いています。子孫はいないとされていますが、不滅の恋人であるアントニー・ブレンターノとの間に隠し子がいたという説もあるのです。

1813年生まれのMynonaという女性。この方が「もしかしたらベートーベンの隠し子かもしれない」とされています。もちろんDNA鑑定をすればわかる事もあるでしょうが、人道的にも計画される事はなさそうです。

ちなみに末弟のヨハンに子どもはいませんでした。甥のカールは1男4女に恵まれますが、カールの孫にあたるカール・ユリウス・ヴァン・ベートーヴェンが1917年に死去した事でベートーベン姓の家系は途絶えています。

ベートーベンのゆかりの地

ベートーベン・ハウス

(ピンクの家がベートーベンの生家 出典:Wikipedia)

ベートーベンの出身地ボンにある文化施設です。ここはベートーベンの生家を博物館にしたもので、ベートーベンが生まれた部屋や、貴重な資料も展示されています。

住所:Bonngasse 18-26, Bonn, 53111

ウイーン中央墓地

(ベートーベンの墓 出典:Wikipedia)

この墓地にはベートーベンのお墓があります。元々はヴェーリング墓地(現在のシューベルト公園)という場所に埋葬されたものの、何度か移転されています。

このウイーン中央墓地は有名な音楽家、芸術家、政治家等も埋葬されており、年間の参列者は実に300万人。ウイーンを訪れた人は是非とも訪れたい場所です。

ベートーベンの関連人物

モーツアルト

(モーツアルト 出典:Wikipedia)

モーツアルトも偉大な音楽家として有名ですね。モーツアルトは1756年生まれで、ベートーベンより14歳上です。ベートーベンはモーツアルトに強い憧れと尊敬の念を抱いており、1787年にモーツアルトのいるウイーンに出かけています。

ところが旅先で「母が危篤」という連絡を受け、ベートーベンは急いでボンに戻っており、2人が面会したのか分かっていません。モーツアルト側の記録にもベートーベンの事は書かれていないのです。

当時のモーツアルトは「ドン・ジョヴァンニ」の作曲が忙しく、先月に父を亡くしたばかり。毎日のように弟子入りの希望者が面会に来る中で、ベートーベンもその中の1人だったのかもしれません。

ベートーベンはモーツアルトの死後にウイーンに移住。その頃からモーツアルトの作品を本格的に研究しており、後の作品にも大きな影響を与えています。モーツアルトの意志はベートーベンの楽曲にも反映されているのです。

シューベルト

(シューベルト 出典:Wikipedia)

シューベルトは1797年生まれの作曲家です。魔王などが有名でしょう。シューベルトはベートーベンに畏敬の念に近い感情を抱いていました。ただそれは音楽家としての感情であり、モーツアルトの作品の方が好きだったようです。

シューベルトはベートーベンの葬儀にも参列していますが、僅か2年後の1828年に病死。遺体は当時ヴェーリング墓地にあったベートーベンの墓の隣に埋葬されました。

現在ヴェーリング墓地はシューベルト公園と名を変えていますが、2人の墓は今でもその地に隣同士に存在しています。

ベートーベンの関連作品

ベートーベンは死後間もなくから現在に至るまで、様々な媒体で主題に選ばれています。今回はその中からいくつか、オススメの作品を紹介していきますね。

おすすめ書籍・本・漫画

ベートーヴェンの生涯

少年時代からベートーベンを敬愛していたロマン・ロラン(1866―1944)による伝記を日本語訳したものです。ベートーベンの人物像、その苦悩や歓喜の感情が見事に描かれています。

作品自体は1903年のものですが、いつまでも色あせなあ名作です。

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ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる

この本はベートーベンの生涯にスポットを当てた作品ではありません。ベートーベンが生きた時代はフランス革命やナポレオンの台頭等、特筆すべき内容が満載です。本書は音楽と世界史の結びつきや、音楽が歴史に与えた影響について詳しく考察されています。

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まんが人物伝 ベートーベン 生きる喜びを伝えた作曲家

ベートーベンの生涯を漫画にしたものです。読書が嫌いな子どもはもちろん、大人でも楽しめる内容になっています。この漫画から、どんな逆境にも負けない不屈の心を学び取れる事が出来るでしょう。

おすすめの動画

オリエンタルラジオの中田敦彦によるyoutubeチャンネル。クラシック史におけるベートーベンとモーツアルトの立ち位置について解説しています。

おすすめの映画

不屈の恋 ベートーベン

1994年に封切られた映画です。ベートーベンの死の直後に見つかった「不滅の恋人」に宛てた遺書。不滅の恋人を探すため、ベートーベンの秘書だったアントン・シンドラーがハンガリーの各所を回ります。

不滅の恋人候補の女性達の回想からベートーベンの実像に迫る内容になっており、ミステリー的要素も含んでいます。ベートーベンの生涯を知りたい人にはオススメの映画です。

ベートーベンについてのまとめ

今回はベートーベンの生涯や人物像について解説しました。後世に残る名曲を生み出したベートーベンでしたが、その生涯は葛藤や苦悩に溢れていたものでした。今なおベートーベンの曲が名曲と語り継がれるのは、真摯に音楽に向き合ったからでしょう。

曲だけでなく、不滅の恋人の存在やフリーメイソン等、謎が多いのもベートーベンの魅力ではないでしょうか。今回の記事を通じてベートーベンに興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

・ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる
・ベートーベンの生涯

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