赤穂浪士とは、江戸時代に赤穂事件を起こした47人の赤穂藩の浪人の事です。彼らは切腹に処せられた播磨赤穂藩藩主の浅野長矩の仇討ちのため、高家の吉良義央の邸宅に討ち入り、吉良義央を討ち取りました。一連の顛末は赤穂事件と呼ばれ、多くの創作物が生まれました。
名前が有名な赤穂浪士ですが、実際に彼らが何をしたのか、赤穂事件の顛末や、その後の経過については知らない人も多いのではないでしょうか?今回は赤穂浪士のメンバーや生き残り、赤穂事件の顛末について解説します。
目次
赤穂浪士とは?
赤穂浪士は元禄15年(1703年)12月14日に起きた赤穂事件で、主君である播磨赤穂藩藩主の浅野長矩の仇討ちのため、吉良上野介の邸宅に討ち入りした浪士たちの事です。
赤穂浪士もさまざまな呼び方があります。彼らを好意的に表現する場合の呼び方は赤穂義士。それ以外の立場から彼らを呼ぶ場合は、赤穂浪士となります。
彼らが起こした赤穂事件は江戸中に大きな衝撃を与え、さまざまな創作物が生まれる事となりました。
赤穂事件(忠臣蔵)とは?
赤穂事件は、元禄15年(1702年)12月14日赤穂藩の浪士達が主君の浅野長矩の仇討ちのため、高家の吉良義央の邸宅に討ち入りを果たした事件です。
彼らが起こした討ち入りの事件は「赤穂事件」と呼ばれます。ただ過去には赤穂藩2代目藩主の池田輝興が、正保2年(1645年)3月15日に乱心の末に正室を殺害した事件が起きています。また幕末にはこの地を治めていた森家の家老・森主税が尊王攘夷派の藩士に暗殺される事件も起きました。
2つの事件はマイナーですが、3つの事件は区別される事があります。今回解説している赤穂事件を「元禄赤穂事件」、池田輝興が起こした事件を「正保赤穂事件」、森主税が暗殺された事件を「文久赤穂事件」と呼びます。
また、赤穂事件を取り扱った創作物は「忠臣蔵」と呼ばれます。こちらの名前の方が、一般的な知名度は高いかもしれません。
赤穂浪士は何をした?
赤穂浪士が起こした赤穂事件を簡単に解説すると、以下の通りになります。
元禄14年(1701年)3月14日、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下で高家吉良上野介義央に斬りかかった事に端を発します。斬りかかった理由は不明ですが、5代将軍・徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹を命じられます。さらに所領の播州赤穂を没収され、改易の憂き目に逢いました。その一方で、吉良義央のお咎めはありませんでした。
一連の処遇に筆頭家老を筆頭とした大石内蔵助は激怒します。ただこの時点では、弟の浅野大学が存命であり、お家再興の道は残されていました。しかし浅野大学の閉門が正式に決まると、大石内蔵助は吉良義央を討ち取る事を決断。元禄15年(1702年)12月14日に47人の赤穂浪士たちは討ち入りを決行します。
結果的に、赤穂浪士たちは吉良義央を討ち取る事に成功しました。吉良側の死者は15人、負傷者は23人とされています。幕府は議論の末、翌年の2月に赤穂浪士たちに切腹を命じました。当時、仇討ちは珍しいことではありませんでしたが、それは「父母兄弟を中心とした親族」に限られており、主君のためというケースはありませんでした。
赤穂事件は江戸中に大きな衝撃を与え、事件以降はさまざまな創作物が作られる事となりました。
赤穂浪士は何人いた?
赤穂浪士は全員で47人。浪士は寺坂信行を除いた全員が士族の身分です。赤穂藩は播磨国赤穂郡、現在の兵庫県赤穂市や相生市付近を統治していた藩でした。赤穂浪士全員が播磨国出身というわけではなく、常陸国の真壁(真壁郡)や笠間(茨城郡)の出身者も数多くいました。
浅野家の家臣団の重役として4人の家老と、5人の番頭がいました。その中で討ち入りに参加したのは、家老の大石内蔵助と物頭は吉田忠左衛門のみ。残りの多くは用人、馬廻、小姓でした。また親族での討ち入りも多く、単独で参加を決意したのは21名。26名は親子や親族同士で討ち入りに参加しています。
ちなみに赤穂藩が改易となった時、士族の子や隠居の者を含め、300人が神文を書きましたが、まもなく80名が脱盟。その後も離反者が相次いで47名となりました。最初に離脱した80名の傾向としては下級藩士が多く、理由として町人として生計を立てる道があったためと推測されます。
赤穂浪士のメンバー一覧
赤穂浪士のメンバーは以下の通りです。
・大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお(よしたか))
国家老で討ち入りの指導者。享年45。
・大石主税良金(おおいしちからよしかね)
部屋住で最年少の同志。大石良雄の長男。享年16。
・原惣右衛門元辰(はらそうえもんもととき)
足軽頭。享年56。
・片岡源五右衛門高房(かたおかげんごえもんたかふさ)
側用人。享年37。
・堀部弥兵衛金丸(ほりべやへえかなまる(あきざね)) 前江戸留守居で同志の最年長者。享年77。
・堀部安兵衛武庸(ほりべやすべえたけつね)
馬廻、堀部金丸の婿養子。享年34。
・吉田忠左衛門兼亮(よしだちゅうざえもんかねすけ)
大石内蔵助に次ぐ人物。享年64。
・吉田沢右衛門兼貞(よしださわえもんかねさだ)
部屋住み。享年29。
・近松勘六行重(ちかまつかんろくゆきしげ)
馬廻。討ち入りの際に負傷する。享年34。
・間瀬久太夫正明(ませきゅうだゆうまさあき)
大目付。享年63。
・間瀬孫九郎正辰(ませまごくろうまさとき)
部屋住み。間瀬正明の長男。享年23。
・赤埴源蔵重賢(あかばねげんぞうしげかた)
馬廻、200石(譜代)。忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。享年35。
・潮田又之丞高教(うしおだまたのじょうたかのり)
郡奉行、絵図奉行。享年35。吉良義央の首級を槍先に括りつけ引き揚げる。
・富森助右衛門正因(とみのもりすけえもんまさより)
馬廻・使番。享年34。
・不破数右衛門正種(ふわかずえもんまさたね)
元馬廻・浜奉行。討ち入りで最もめざましい働きをする。享年34。
・岡野金右衛門包秀(おかのきんえもんかねひで)
部屋住み。忠臣蔵の物語では美男とされる。享年24。
・小野寺十内秀和(おのでらじゅうないひでかず)
京都留守居番、享年61。
・小野寺幸右衛門秀富(おのでらこうえもんひでとみ)
部屋住み。小野寺秀和の養子。享年28。
・木村岡右衛門貞行(きむらおかえもんさだゆき)
馬廻・絵図奉行、享年46。
・奥田孫太夫重盛(おくだまごだゆうしげもり)
武具奉行・江戸定府、享年57。
・奥田貞右衛門行高(おくださだえもんゆきたか)
部屋住み。奥田重盛の養子。享年26。
・早水藤左衛門満尭(はやみとうざえもんみつたか)
馬廻、刃傷事件の第一報を江戸から赤穂浪士に伝えた。享年40。
・矢田五郎右衛門助武(やだごろうえもんすけたけ)
馬廻・江戸定府。享年29。
・大石瀬左衛門信清(おおいしせざえもんのぶきよ)
馬廻。享年27。
・礒貝十郎左衛門正久(いそがいじゅうろうざえもんまさひさ )
物頭・側用人。享年25。
・間喜兵衛光延(はざまきへえみつのぶ)
勝手方吟味役、享年69。
・間十次郎光興(はざまじゅうじろうみつおき)
部屋住み。間光延の長男。吉良上野介に一番槍をつける。享年26。
間新六郎光風(はざましんろくろうみつかぜ)
間光延の次男。享年24。
中村勘助正辰(なかむらかんすけまさとき)
書物役、享年46。
千馬三郎兵衛光忠(せんば(ちば)さぶろべえみつただ)
馬廻、享年51。
菅谷半之丞政利(すがやはんのじょうまさとし)
馬廻・郡代、享年44。
村松喜兵衛秀直(むらまつきへえひでなお)
扶持奉行・江戸定府、20石5人扶持(二代)。享年62。
村松三太夫高直(むらまつさんだゆうたかなお)
部屋住み。村松秀直の長男。享年27。
倉橋伝助武幸(くらはしでんすけたけゆき)
扶持奉行・中小姓、享年34。
岡嶋八十右衛門常樹(おかじまやそえもんつねしげ)
札座勘定奉行、原惣右衛門の弟。享年38。
大高源五忠雄(おおたかげんごただお(ただたけ)) 金奉行・膳番元方・腰物方、小野寺秀富の兄。享年32。
矢頭右衛門七教兼(やとう(やこうべ)えもしちのりかね)
部屋住み(譜代)父長助と共に参加するが、仇討ち決行前に父は病死。享年18。
勝田新左衛門武尭(かつたしんざえもんたけたか)
札座横目、享年24。
武林唯七隆重(たけばやしただしちたかしげ)
馬廻、15両3人扶持(二代)。吉良義央の養子吉良義周と吉良義央を斬殺した功労者。享年32。
前原伊助宗房(まえばらいすけむねふさ)
金奉行・中小姓、享年40。
貝賀弥左衛門友信(かいがやざえもんとものぶ)
中小姓・蔵奉行、吉田兼亮の弟。享年54。
杉野十平次次房(すぎのじゅうへいじつぎふさ)
札座横目、8両3人扶持(二代)。享年28。
神崎与五郎則休(かんざきよごろうのりやす)
徒目付、享年38。
三村次郎左衛門包常(みむらじろうざえもんかねつね)
台所奉行・酒奉行、享年37。
横川勘平宗利(よこかわかんべいむねとし)
徒目付、12月14日に吉良屋敷で茶会があることを調べた。享年37。
茅野和助常成(かやのわすけつねなり)
横目付、享年37。
寺坂吉右衛門信行(てらさかきちえもんのぶゆき)
吉田兼亮の足軽、足軽では唯一の参加者。討ち入り後に一行から離脱する。討ち入り時は38歳であり、後に江戸に向かい83歳で没する。
赤穂事件はなぜ起こった?経過について
続いて、赤穂事件が起きた背景や経過を追って解説します。内容は史実に沿ったものなので、数多く存在する創作の忠臣蔵と比べるのも面白いかもしれません。
浅野長矩が吉良義央を切り付ける
元禄14年(1701年)3月14日午前11時半、江戸城松之大廊下を吉良上野介が歩いていました。すると赤穂藩藩主の浅野長矩が、吉良上野介に声をかけて小さな刀で肩を切りつけました。吉良上野介は振り返った際に眉の上を傷つけられており、逃げるところをさらに2度切りつけられています。浅野長矩はその場で取り押さえられ、状況は将軍の徳川綱吉に伝えられます。浅野長矩は即日切腹が言い渡されました。
なお、浅野長矩がなぜ刃傷沙汰を起こしたのかはわかっていません。浅野長矩が恨みを持っていたとされるものの、真偽は不明。吉良上野介が賄賂を求めてきたが、浅野長矩が十分な賄賂を渡さなかった。浅野長矩が当時務めていた勅使御馳走役でストレスを溜めていた。浅野長矩は乱心となっていたなどの説があります。
仮に吉良上野介が浅野長矩に何かしらの圧力を課していたなら、吉良上野介にも襲われるだけの理由があった事になります。ただ吉良上野介にお咎めはなく、それどころか徳川綱吉から見舞いの言葉ももらい、保養を促されています。
狼狽する藩士達
浅野長矩の切腹と同時に赤穂藩の改易も決まり、藩内では大混乱が起きました。筆頭家老の大石内蔵助は藩士達に総登城を命じ、今後の対応を協議しました。幕府に城を明け渡す事に反対し、籠城や切腹を主張するものもいましたが、4月12日に城の明け渡しは正式に決まります。
やがて城の明け渡しが終わり、旧藩士達はそれぞれの居を持ちます。しかし藩士達の中には、浅野長矩の弟・大学を通じてお家再興を目指す大石内蔵助と、吉良上野介への討ち入りを主張する堀部安兵衛との間で対立が起こります。
その一方、お咎めのなかった吉良上野介も、襲われた際に逃げた事、浅野長矩への同情論から厳しい目が向けられます。吉良上野介は3月23日にお役御免となり、8月19日に吉良家は江戸郊外の本所松坂町に移り住みました。
堀部安兵衛ら急進派は、屋敷換えを討ち入りの好条件と捉え、大石内蔵助派に吉良家への討ち入りを迫ります。11月10日に元赤穂藩士の間で会議が行われ、翌年3月に結論を出す事が決まりました。
吉良上野介の隠居と浅野大学閉門
12月11日に吉良上野介の隠居と嫡男・義周の家督相続が決まりました。堀部安兵衛たち急進派は焦り始め、討ち入りを早く行うべきと主張します。大石内蔵助たちは、弟・大学に迷惑がかかる事を懸念しますが、元禄15年(1702年)7月18日に浅野大学に対して「広島藩預かり」の処分が下ります。
この処分は浅野家の再興が事実上頓挫した事を意味しました。大石内蔵助もお家再興が頓挫した事で、討ち入りを決意します。7月28日には藩士達が京都に集結し、大石内蔵助は10月に江戸に下向して、吉良邸に討ち入りする事を正式に表明しました。
やがて討ち入りのメンバーの絞り込みが始まります。120名いた候補者も、離脱する者が相次いだため、47人に決まったのは決行の数日前でした。討ち入りの日程は12月14日に決まりますが、その理由は吉良上野介がその日に茶会をする事が判明したためです。
討ち入りの決行
12月14日、大石内蔵助や堀部安兵衛ら47名は吉良邸への討ち入りを決行。吉良上野介は赤穂浪士達に切りつけられて絶命します。吉良側の死者は15人、負傷者は23人に及んだものの、赤穂浪士側は負傷者2名のみに留まっています。赤穂浪士達は浅野長矩の墓が存在する泉岳寺に向かい、吉良上野介の首を墓前に供えました。
仇討ちを成功させた赤穂浪士達ですが、彼らは4大名家に御預けとなり、幕府からの裁定を待つ立場となります。ただ4大名のうち3大名が彼らを手厚くもてなしており、赤穂浪士達が主君のために命を投げ合った英雄と思われていた事は間違いないようです。
赤穂浪士(赤穂事件)の結末
赤穂浪士達は、元禄16年(1703年)2月4日に切腹するように命じられます。幕府は裁定の時に、討ち入りはあくまで他党であり、仇討ちではないという判断を下しました。ただ、本来なら斬首などの刑が言い渡されるところを、切腹としているのは、幕府が赤穂浪士達の立場を考慮したためとされます。
2月4日に切腹が各大名の邸宅で行われています。赤穂浪士達の多くは、切腹前に辞世の句を残しており、それは多くの人たちの心に残りました。
また吉良上野介の嫡男・吉良左兵衛義周は高島藩にお預けとなり、後に20歳の若さで死去。吉良家は断絶となりました。嫡男に処分が言い渡された理由は「内匠に対し卑怯の至り」というもの。つまり、浅野長矩が吉良上野介に切り掛かった時の行動が卑怯だったものとされ、当時はお咎めなしだった吉良上野介の処分を実質的に訂正したのです。
赤穂事件の意図とは?
主君のために仇討ちを決行した赤穂浪士達ですが、近年では「とある説」も提唱されています。それは赤穂浪士達は主君のためではなく、新たな就職先を見つけるために事件を起こしたというものです。
江戸時代において、仇討ちという行為は珍しいものではなく、成功すれば人々から絶大な賞賛を得ていました。しかし、その仇討ちとは「父母兄弟を中心とした親族」が主であり、主君のためというケースはありませんでした。浅野長矩の切腹と共に赤穂藩は改易となった時、多くの藩士達は浪人として苦しい生活を余儀なくされました。
大石内蔵助たちは「より良い待遇での再仕官」を目指し、赤穂事件を主君のための仇討ちとして大々的にアピールをしていた可能性があります。吉良邸の討ち入りの後、赤穂浪士達は泉岳寺に向かう9kmの道のりを堂々と歩き、吉良上野介の首を浅野長矩の墓前に届けています。本来なら報復を恐れて潜伏してもおかしくはありません。赤穂浪士達のパレードのような行進もまた、仇討ちを印象つけるための演出だったのかもしれません。
しかし、江戸幕府は赤穂浪士達の仇討ちを認めず、赤穂浪士達は切腹を言い渡されました。切腹した時、赤穂浪士達は本当のところは、何を思っていたのでしょうか。
赤穂浪士の生き残りは?
赤穂浪士は全員で47人ですが、実は1名だけ切腹を免れた者がいます。それは寺坂吉右衛門信行という人物で、身分としては足軽になります。彼は討ち入りの際には裏門隊に属していましたが、赤穂浪士達が泉岳寺に向かった際には姿を消しました。彼は延享4年(1747年)に83歳で亡くなっています。
彼がなぜ赤穂浪士達から離脱したのかはわかっていません。討ち入り直前に逃亡していた説や、大石内蔵助から密命を帯びていた説、さらには討ち入りに足軽の身分の者が混ざっていると幕府への印象が悪化するため大石内蔵助が逃した説などが存在します。
赤穂浪士達が切腹した後、寺坂信行が何を思って生き続けたのかは分かりません。
なぜ赤穂浪士の討ち入りをなぜ「忠臣蔵」と言うの?
なぜ赤穂浪士の討ち入りを「忠臣蔵」と呼ぶのでしょうか。この項目では、赤穂事件が忠臣蔵として人気を博す過程を解説します。
過程①:創作物として取り上げられるようになる
赤穂事件の顛末は江戸中に大きな衝撃を与え、舞台で多く取り上げられるようになりました。
初めて赤穂事件が取り上げられたのは、事件から1年後の元禄16年(1703年)正月です。上映されたのは江戸山村座の『傾城阿佐間曽我』であり、題材は鎌倉時代に起きた「曽我兄弟の仇討ち」でした。江戸時代は、同時代に起きた武家社会の事件を戯曲や文芸で取り上げる事は禁じられていた時代。赤穂事件をそのまま取り上げると幕府に睨まれる可能性があり、曽我兄弟の仇討ちを題材にしたのです。
寛延元年(1748年)8月には、人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が上演されます。本作品は南北朝時代を題材にしたものであり、空前の大ヒットを飛ばしました。歌舞伎、浄瑠璃、講談などでも作品が作られ「忠臣蔵」という一つのジャンルを確立します。
過程②:明治時代に赤穂事件が解禁される
江戸幕府が滅び時代が明治を迎えると、赤穂事件の登場人物を実名で上演する事ができるようになりました。明治41年(1907年)にはジャーナリストの福本日南が、浪士側の視点から赤穂事件を解説した『元禄快挙録』を執筆。この作品は話題となり、近代日本の忠臣蔵像を確立するきっかけになりました。
その後も昭和9年(1934年)には、新歌舞伎「元禄忠臣蔵」が上映されます。この他には講談や浪曲でも忠臣蔵は披露されました。史実に基づく本伝だけでなく、個々の赤穂浪士を扱った外伝なるものも作られています。明治から戦前も、忠臣蔵は一定の人気を確立していたと言えるでしょう。
過程③:戦後も忠臣蔵は大人気
戦後まもなく日本はGHQの監視下に置かれ、厳しい言語統制が行われています。GHQは、忠臣蔵が封建制の道徳観が民主化の妨げになると判断。作品の公演や出版が一部禁止されますが、昭和22年(1947年)には既に歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』が上映されており、忠臣蔵の規制はわずかな期間に過ぎませんでした。
その後も忠臣蔵の人気は衰える事はなく、新暦12月14日が近づくと忠臣蔵を題材にしたドラマや映画、舞台作品が作られています。現在では赤穂事件の学術的な研究も進んでいます。吉良が名君であった説や、赤穂浪士達が仇討ちではなく職探しのために事件を起こした説などが提唱されました。
赤穂事件の研究を下地に、今後も新たな切り口の忠臣蔵が作られるのではないでしょうか。
赤穂浪士の関連作品
赤穂浪士の行動は、多くの日本人の心に残り、現在に至るまで数々の関連作品が作られたきました。この項目では、近年制作された赤穂浪士の関連作品について解説します。
おすすめ書籍・本・漫画
・これが本当の「忠臣蔵」 赤穂浪士討ち入り事件の真相(小学館101新書)
赤穂事件を忠臣蔵ではなく史実の観点から迫った書籍です。浅野長矩の刃傷沙汰や、赤穂浪士達の集結の過程などを信頼のおける資料から解説しています。史実としての赤穂事件を知りたい人におすすめの作品です。
・四十七人の刺客
1992年に刊行された池宮彰一郎の長編時代小説。赤穂事件を忠義としてではなく、赤穂浪士と吉良家・上杉家との謀略戦として描いています。当時としては斬新な切り口であり、1994年には映画化もされました。
おすすめの映画
・決算!忠臣蔵
2019年に制作された映画作品。赤穂浪士達が討ち入りまでの潜伏期間に使用した費用は700両。大石内蔵助はその全てを帳簿に記していたとされ、その帳簿から赤穂事件の全貌に迫った作品です。主人公の大石内蔵助を堤真一が演じています。
おすすめのドラマ
・忠臣蔵〜決断の時〜
2003年にテレビ東京で放送されたドラマです。忠臣蔵を赤穂浪士の視点から描いたオードソックスな作品であり、従来の忠臣蔵を観たい人にはおすすめの内容です。
赤穂浪士についてのまとめ
今回は赤穂浪士や、彼らが起こした赤穂事件について解説しました。赤穂事件は忠臣蔵へと脚色され、現在に至るまで様々な作品が作られています。ただ浅野長矩がなぜ刃傷事件を起こしたのか、本当に大石内蔵助たちが仇討ちのために討ち入りをしたのかなど、現在まで多くの謎も残しています。
その謎解きもまた忠臣蔵の魅力かもしれません。今回の記事を通じ、赤穂浪士や赤穂事件に興味を持っていただければ幸いです。
参考文献
これが本当の「忠臣蔵」-赤穂浪士討ち入り事件の真相-