西郷隆盛は幕末から明治にかけて活躍した維新志士・政治家です。2018年には大河ドラマも放送される等、根強い人気を誇る人物ですが、具体的に何をした人物が問われると不明な事も多いでしょう。
今回は西郷の生涯や人物像について解説していきます。
目次
西郷隆盛ってどんな人?
西郷隆盛は薩摩藩の下級藩士の子として生まれ、後に薩摩藩主となる島津斉彬に見出されて頭角を現しました。
後に薩摩藩士大久保利通と共に藩内の意見を統一し、倒幕を成し遂げました。その活躍から、大久保利通・木戸孝允と共に維新三傑とも呼ばれます。
明治政府においては一度鹿児島に帰るものの、1871年に政府に復職して参議となります。1873年に起きた朝鮮との国交問題で盟友の大久保利通と対立し、鹿児島に再度帰郷。やがて不平士族の反乱である西南戦争の指導者となりますが、明治政府に敗れ、自刃しています。
プロフィール
氏名 | 西郷隆盛(隆永) |
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通称・あだ名 | 大西郷 南洲翁 西郷どん |
誕生日 | 文政10年(1828年)12月7日 |
出身地 | 薩摩国鹿児島郡加治屋町 |
没日 | 1877年9月24日 |
没地 | 鹿児島県鹿児島府下山下町 |
血液型 | B型 |
職業 | 武士・軍人・政治家 |
身長 | 178cm |
体重 | 108kg |
配偶者 | 須賀(先妻) 愛加那(島妻) 糸子(後妻) |
座右の銘 | 敬天愛人(天を敬い、人を愛せよ) |
西郷隆盛の人生年表・生涯
西郷隆盛の前半生
年 | 出来事 |
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1828年(文政10年) | 西郷隆盛誕生 |
1839年(天保10年) | 右手を怪我した後遺症で刀を握れなくなる |
1841年(天保12年) | 元服 |
1854年(安政元年) | 江戸に赴き、島津斉彬から教えを受ける |
1858年(安政5年) | 島津斉彬死去。同年に起きた安政の大獄で死を覚悟し入水自殺を図る |
西郷は1828年に薩摩国鹿児島城下加治屋町で誕生します。この他は大久保利通や大山巌、東郷平八郎等の多くの偉人が生まれた町でした。
幼少期から身体が大きく、立派な武士になる事を期待されていたものの、1839年に友人と他の地域の郷中の喧嘩の仲裁で右手を負傷。刀を握れなくなり、学問で身を立てる事を決めたのです。
1851年には島津斉興が隠居し、名君と名高い島津斉彬が藩主となります。西郷は斉彬に見出されます。後に斉彬の主導した一橋慶喜の将軍推進など、様々な構想に対して手足となり働きます。
後に斉彬が死去し、井伊直弼が大老になると安政の大獄を主導。西郷も幕府に追求されます。西郷は前途を悲観して月照という坊主と共に入水自殺を図り、月照は死去したものの、西郷は生き残りました。
入水後の西郷隆盛
年 | 出来事 |
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1859年(安政6年) | 奄美諸島に潜居 |
1862年(文久2年) | 鹿児島に戻るものの、今度は徳之島に配流 |
1864年(元治元年) | 禁門の変 |
1866年(慶応2年) | 坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結ぶ |
1867年(慶応3年) | 大政奉還・王政復古の大号令 |
1868年(慶応4年) | 戊辰戦争 |
薩摩は西郷を世間的には死んだ事にし、奄美大島に西郷を潜伏させています。後に島津茂久の父、久光が薩摩藩の実権を握ると、京都とのパイプ役として西郷が召喚されます。しかし西郷は久光との約束を破り、待機命令を無視して動く事があった為、今度は徳之島に配流となりました。
1864年に鹿児島に戻った後の西郷は、朝敵となっていた長州藩を禁門の変で参謀として撃退しています。当初の西郷は「長州藩を叩き潰すべし」と考えていたものの、幕臣だった勝海舟の思想に影響し、強硬策から緩和策に考えを変えました。
ただ結局は幕府の方針に疑問を持つようになった西郷達は1866年に坂本龍馬を仲介とした薩長同盟を締結。犬猿の仲だった長州藩と手を結びます。その後は武力による倒幕を目指し画策しています。
1867年に15代将軍徳川慶喜が、朝廷に政権を返上する大政奉還を行うと、あくまでも倒幕を目指す薩摩・長州ら倒幕勢力は調停工作を行い「倒幕の密勅」を引き出す事に成功。更には岩倉具視と共に王政復古の大号令を宣言し、慶喜の辞官納地を命じました。
続く戊辰戦争では、西郷は東海道先鋒軍参謀に命じられ各地を転戦。勝海舟と会談し、江戸城の無血開城を達成します。徳川幕府の代わりに明治政府が台頭すると、西郷は自分の役目は終わったとばかりに鹿児島に帰還したのです。
明治時代の西郷隆盛
年 | 出来事 |
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1871年(明治4年) | 新政府軍の参議となる |
1873年(明治6年) | 明治6年の政変 |
1874年(明治7年) | 鹿児島で私学校を作る |
1877年(明治10年) | 西南戦争・城山で自決 |
明治維新後も西郷は新政府のまとめ役として重用され、1871年に西郷は参議という役職に着きます。廃藩置県に尽力した他、岩倉使節団が欧米視察に出向いた際には留守政府の最高責任者となりました。
岩倉使節団が不在の際、政府内では武力により朝鮮を開国させようという征韓論が持ち上がります。西郷はいきなり武力による開国を迫るのではなく、まずは朝鮮に使節を派遣する事を提案しました。
ただこの意見に対し、欧米から帰還した大久保利通や岩倉具視は「まずは国内の改革が先」と訴えます。西郷と大久保利通は真っ向から対立し、西郷は政府を下野します。その他にも板垣退助や後藤象二郎等の有力な政治家も政府から去り、明治政府の勢力図は様変わりしたのです。
その後の西郷は薩摩に戻り、私学校を作るなどして教育に専念。この頃は全国各地で不平士族による反乱があちこちで起きていました。やがて西郷は不平士族の最大の反乱である西南戦争の党首として担ぎ上げられるのです。
西郷隆盛の死因・最期の言葉
西郷の死因は西南戦争における自刃です。
西南戦争で西郷達反乱軍は各地で激戦を繰り広げるものの、やがて追い詰められていきました。1877年9月24日に政府軍は城山の地を総攻撃。西郷は腹と股に銃弾を浴びました。
西郷は共に戦った別府晋介に「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言います。そして襟を正して東に向かって拝礼しながら、別府に首を打たせる形で自害しました。
西南戦争は政府軍の勝利に終わります。生き残った不平士族達は武力ではなく、自由民権運動等、政治の場で自分達の意思を主張する事を決意。明治時代は西郷の手により、新たな時代を迎えたのでした。
西郷隆盛の性格
西郷どん と親しまれる西郷隆盛ですが、実際にはどのような性格だったのでしょうか?恰幅の良い体格から大らかな性格をイメージするかもしれませんが、実は西郷と日常的に接していた人達からは謹厳・実直・生真面目という話が聞かれています。
好き嫌いの激しい性格
西郷は敵と味方を分析し、敵と判断した人物とは生涯に渡り敵対しています。幕末時代に対立した島津久光とは明治維新後も対立が続きましたし、徳川慶喜に対しても処刑を命じる(勝海舟の尽力で回避しましたが)等、エピソードからもその性格が垣間見れます。
赤貧を貫く
西郷が嫌うものの一つが贅沢でした。維新後に政府高官達が豪邸に住むのを見て、西郷はそれを批判しています。
幕末に坂本龍馬を自宅に招いた時、ちょうど雨漏りがおきました。妻の糸子が客人が来るから雨漏りの修理をして欲しいと言うと、西郷は「今は日本中の家が雨漏りしている。我が家だけではない」と述べています。
やはり真面目な人間だったからこそ、倒幕を成し遂げる事が出来たのでしょう。
西郷隆盛のエピソード・逸話
西郷のエピソードは数多くありますが、全てを紹介する事は到底出来ません。今回は一部を紹介しますね。
肥満体だった西郷
プロフィールでも紹介したように西郷の体重はピークには100kgを超えており、40歳を超えてから胸の痛みを訴える等、身体に不調が出ています。これは薩摩名物の豚骨や、甘いものが大好きだったからだそうです。
西郷は明治天皇の意向もあり、1日5回の下剤(ひまし油)と食事制限と運動療法を続け、体重は3年で30kgも落ちました。ただこの過酷なダイエットは西郷の神経を衰弱させています。
征韓論が起きた時に西郷は自ら朝鮮に行く事を志願していますが、これは自らが暴殺される事で日本の交渉を有利に進める狙いがあったようです。この頃の西郷は精神的にもかなり弱っていた頃であり、明治6年の政変はダイエットによる影響もあったのかもしれません。
西郷隆盛の肖像画の真実
西郷隆盛の肖像画と聞けば、こちらのサイトでも掲載したものが有名でしょう。しかしあの肖像画を描いたキヨッソーネは西郷と一度も会った事がありません。あの肖像画は弟の西郷従道、従兄弟の大山巌の顔をモデルに作られたものです。
実は西郷は写真嫌いで、生涯に写真を残していません。更に言えば、西郷の諱は隆盛ではなく隆永です。ちなみに隆盛と言う名前は父親の諱の事でした。
明治政府樹立の功で正三位が西郷に送られる際、薩摩藩の吉井友実と言う人物が政府の役人に西郷の諱を聞かれました。しかし吉井はいつも西郷の事を、幼少期の名である吉之助と呼んでいた為、思い出す事が出来ずに隆盛と答えてしまいます。
肖像画、そして名前と西郷については私達が描くイメージと大きく違う一面があるのですね。
上野公園の西郷隆盛像はなぜ犬を連れていたのか?
東京上野には犬を連れた西郷隆盛の銅像が建てられています。
西郷は愛犬家の一面があり、それが反映されたのです。あの銅像は西郷がウサギ狩りに出かけるところだと言われます。
前述した通り西郷はダイエットをしていますが、運動も兼ねて猟犬と共に山野を駆け回っていました。その習慣は晩年まで続き、西南戦争においては西郷は犬を連れて出陣。やがて敗戦が濃厚になると首輪を外して逃したそうです。
他にも
・東京に住んでいた時には10頭以上の犬を飼い、家の中は荒れ果てていた。
・人間用の食事を犬に与えていた。
等のエピソードが知られています。一歩間違えれば近所から苦情が出るレベルで犬を可愛がっていたのです。
西郷隆盛の名言
命もいらぬ、名もいらぬ、官位も金もいらぬというような人物は処理に困るものである。このような手に負えない人物でなければ、困難を共にして、国家の大業を成し遂げることはできない。
西郷はまさに命をかけて、明治維新を成し遂げました。この言葉には西郷の理念、覚悟がにじみ出ていますね。
思い切ってやりなさい。責任は私がとる
明治維新において、政府は反発を招く事が必須だった廃藩置県を断行。西郷は明治政府の最高責任者として全ての責任を負うと断言したのです。まさに西郷の懐の大きさが分かる名言ですね。
西郷隆盛の家紋・家系図(子孫)
西郷隆盛の家紋
西郷家の家紋は違い鷹の羽であり、勝海舟と交渉を行った時にも身につけていたとされます。
他には明治維新の功から、明治天皇から抱き菊の葉に菊という家紋も授けられたそうです。
西郷隆盛の妻
西郷は生涯を通じて3人の妻がいました。
伊集院 須賀
1852年に西郷と結婚するものの、2年後に西郷は斉彬の命により江戸に旅立ってしまいます。その後離縁し、消息は全く不明です。2人の間に子どもはいませんでした。
愛加那
西郷が奄美大島に潜居していた頃に結婚した現地の女性です。出生自体は奄美大島の名門一族・田畑氏と言われています。西郷が1864年に薩摩に戻ってからは、手紙のやり取りをするだけで、ついに会う事はありませんでした。2人の間には2人の子どもが産まれています。
糸子
1865年に結婚。後に3人の子をもうけた他、奄美の子も引き取って養育しています。
西郷隆盛の子ども
西郷には前述した通り5人の子どもがいました。
西郷菊次郎
愛加那の子であり、隆盛の長男です。西南戦争では薩摩側として戦い、右膝を切断する重傷を負うものの一命を取り留めました。その後は外務省に入省して米国公使館に勤務した他、台湾の宣蘭支庁長を務める等して活躍。帰国後には京都市長も務めてました。1928年に亡くなっています。
菊草
愛加那の子であり、隆盛の長女です。西郷隆盛の従兄弟の大山誠之助の元に嫁ぎます。彼は元老であり日露戦争でも活躍した大山巌の弟でもありますが、生涯まともな職にはつかず、菊草も苦労したようです。2人の間には4人の子が産まれています。
西郷 寅太郎
糸子の子であり、隆盛の次男です。西南戦争により隆盛は薩摩軍の首魁という事で官位を剥奪され、鹿児島でひっそりと暮らしていました。1884年には勝海舟達の働きかけで、ポツダム陸軍士官学校に留学。後に陸軍軍人となりました。
三男の午次郎、四男の酉三については詳しくは不明です。午次郎は日本郵船で勤務した他、酉三は30歳の若さで肺炎で亡くなった事が知られています。
西郷隆盛のゆかりの地
薩摩、江戸、そして京都で活躍した西郷には様々なゆかりの地があります。今回はその中の一部を紹介しますね。
西郷隆盛誕生地
西郷の生まれた町は、大久保利通や東郷平八郎等、薩摩出身の大物が育った場所でした。西郷の誕生地には碑が建てられています。近所には大山巌の碑などもあり、周辺を探索してはいかがでしょうか。
住所:鹿児島県鹿児島市加治屋町
城山公園
西南戦争における城山の戦いで西郷は介錯をうけますが、現在その地は城山公園となっています。公園内には西郷隆盛洞窟や本営跡の碑等があり、当時の戦いに思いを巡らせる事が出来るのです。
住所:鹿児島県鹿児島市城山町
南洲墓地
西南戦争で戦死した西郷軍2023人が祀られている墓地です。西郷の墓もここにあります。
隣には西郷の生涯・思想・業績等を紹介する資料館もあるので、西郷に興味がある人は是非訪れてみましょう。
住所:鹿児島市上竜尾町2番地1号
西郷隆盛の関連人物
大久保利通
西郷は大久保の3歳上であり、幼少期から仲が良かったようです。2人は協力し合いながら倒幕を推し進めました。その結果もあり大久保は西郷と共に維新三傑に名を連ねています。
明治政府において二人は参与という役職につきますが、征韓論を経て対立。2人はやがて西南戦争で対立する事になったのです。
ただ2人はお互いの才能を認め合っていた事は事実です。西郷が亡くなった知った時、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と周囲に漏らしたそうですね。
坂本龍馬
1866年に西郷は坂本龍馬を仲介に薩長同盟を締結。彼らの出会いは1864年頃に勝海舟が2人を引き合わせた事がきっかけでした。
龍馬は西郷の事を「小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く」と評しています。西郷は龍馬が寺田屋事件で襲われた時に救出に向かうなど、両者は固い絆で結ばれていました。一説では龍馬暗殺は薩摩藩とも言われていますが、2人の絆をみれば誤りだと思いたいものですね。
西郷隆盛の関連作品
幕末から明治にかけて多大なる貢献をした西郷隆盛。彼に関連した様々な作品があります。今回はその中の一部を紹介します。
翔ぶが如く
司馬遼太郎の代表作品です。明治期の西郷と大久保を主役にし、私達が持つ2人のイメージはこの小説から来ているといっても過言ではありません。司馬遼太郎は他にも名作があるので、是非読んでみて下さいね。
素顔の西郷隆盛
幕末から明治にかけて西郷の思想は公武合体路線、倒幕等、時勢により大きく変わります。その為、西郷がどんな人物なのかはわかりづらいのが現状です。この本は西郷という人物を客観的な観点から客観的に評価しています。
西郷について深く学びたい時にオススメの一冊です。
半次郎
西郷を主役にしたドラマや小説は数あれど、西郷を主役にした映画は実はまだありません。西南戦争に薩摩側で従軍した中村半次郎(桐野利秋)を主役にした映画に西郷も登場しています。半次郎を演じたのはベテラン俳優の榎本孝明、西郷を演じているのは田中正次でした。
西郷どん
2018年に放送された西郷隆盛を主役にした大河ドラマです。原作・林真理子、脚本・中園ミホとなっており、西郷を女の視点・愛のあるリーダーとして描いた作品です。西郷を演じたのは鈴木亮平、大久保を演じたのは瑛太でした。
この作品以外にも、幕末の大河ドラマでは必ず西郷は登場しています。近年では花燃ゆ・宅間孝行、八重の桜・吉川晃司、龍馬伝・高橋克実となっています。
西郷隆盛についてのまとめ
今回は西郷隆盛の生涯について解説しました。恰幅が良く、懐の大きなリーダーと思われがちな西郷ですが、入水自殺を図ったり、明治期には精神的な落ち込みを見せる等、実は繊細な性格でした。それが逆に西郷の魅力を更に引き出しているのかもしれません。
西郷の思想や幕末の動向等、まだまだ書き足りない事はたくさんあります。今回の記事を通じて西郷の事に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
素顔の西郷隆盛 磯田道史
西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ 家近良樹
西郷隆盛の子供はどんな人?子孫についても調べてみた!
https://www.wanqol.com/articles/history_01
一次史料で明らかになった西郷隆盛の性格、大久保利通との仲:情熱の本箱(221)
西郷隆盛49年の生涯まとめ【年表付】誕生から西南戦争での最期まで