坂本龍馬は江戸時代末期に活躍した土佐藩郷士で、幕末の志士の中で抜群の人気と知名度を誇ります。新しい時代の訪れを強く感じていた龍馬は、自由な発想と行動力によって33歳(満31歳)の生涯を駆け抜けました。
龍馬は武力討幕ではなく、日本が平和のうちに封建社会から近現代国家に移行する道を目指していました。龍馬の功績としては、薩長同盟の成立や大政奉還の提案などが挙げられます。
また、現代に残る手紙などから垣間見える魅力的な人柄や時代を先取りする先見性、若くして暗殺されるという悲劇性も、龍馬人気をいっそう高めているといえるでしょう。
龍馬は公的な職務についていたわけではなく、在野の一志士として活動しました。この記事では、坂本龍馬の本名や生まれ、人生年表などを概観したのち、龍馬の名言や業績などを紹介し、龍馬の人物像に迫ります。
坂本龍馬とはどんな人物か?
名前 | 坂本龍馬 |
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通称、ニックネーム | 直柔、龍馬、才谷梅太郎 |
誕生日 | 1836年1月3日 |
生地 | 土佐藩(高知県) |
没日 | 1867年11月15日(31歳) |
没地 | 京都(近江屋) |
藩 | 土佐藩(高知県) |
所属 | 海援隊(元亀山社中) |
配偶者 | 楢崎龍 (1864年 – 1867年) |
埋葬場所 | 京都府京都市京都霊山護国神社 |
坂本龍馬の本名
当時の武士階級の人は、場に応じて2~3の名前を使い分けるのが一般的でした。正式な書状に署名する際などに使い、戸籍に記載されるのが実名・諱(いみな)で、日常生活で使う名前が通称です。その他、絵や詩を書くときなどに使用する号などがあります。
「龍馬」という名は通称で、本名は直陰(なおかげ)といい、後に直柔(なおなり)と名乗るようになりました。龍馬という名は、空を駆ける神馬が胎内に入る夢を母が見たことが由来と言われています。
また、龍馬は手紙を書くときにはいくつかの変名を用いていました。家族には龍馬に手紙を送る際は「西郷伊三郎」という名前宛てにするように依頼しており、自分が出す手紙には「才谷梅太郎」「取巻の抜六」「大浜涛次郎」「高坂龍次郎」などの変名を使いました。「自然堂」という号を用いた例もあります。
なお、「龍馬」の読み方は、以前は「りゅうま」と読まれていました。しかし、桂小五郎(木戸孝允)や勝海舟が「良馬」という当て字を用いていたこと、龍馬自身が姪宛ての手紙に「りよふより(りょうより)」と署名していることから、現在は「りょうま」という読み方が定着しています。
また、漢字表記は正しくは旧字体の「龍馬」ですが、教科書や新聞などでは新字体の「竜馬」と表記されることがあります。竜馬という表記は、司馬遼太郎の長編時代小説『竜馬がゆく』で用いられたことから一般に広まりました。司馬は実在の人物である「龍馬」と小説の登場人物である「竜馬」を区別するために、あえて竜の字を使ったと述べています。
坂本龍馬の身長
龍馬の身長については、龍馬を知る三人の人物がそれぞれ五尺七寸(173㎝)、五尺八寸(176㎝)、五尺九寸(179㎝)と証言しています。
また、現代に遺された龍馬の衣服の寸法から、170㎝を少し超える程度の身長だったと推測されています。平均身長が150㎝代だった時代、170㎝以上ある龍馬は目立って長身だったでしょう。
坂本龍馬の人生年表
年 | 年齢 | 出来事 |
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1835年11月15日(新暦1836年1月3日) | 1歳 | 土佐藩の郷士、坂本八平直足の次男として生まれる。 |
1848年 | 14歳 | 日根野弁治の道場に入門して小栗流の武術を学ぶ。 |
1853年 | 19歳 | 剣術修行のため江戸へ私費遊学する。 |
同年4月 | 19歳 | 北辰一刀流の桶町千葉道場に入門する。 |
同年12月 | 19歳 | 佐久間象山の私塾に入塾する。 |
1854年 | 20歳 | 土佐へ帰国。日根野道場の師範代を務める。砲術とオランダ語を学ぶ。 |
1856年 | 22歳 | 剣術修行のため再び江戸へ赴く。 |
1858年 | 24歳 | 土佐へ帰国。 |
1861年 | 27歳 | 武市半平太が結成した、尊王攘夷を掲げる土佐勤王党に入党する。 |
1862年 | 28歳 | 長州藩へ赴き、久坂玄瑞と面会する。土佐藩を脱藩する。 江戸で久坂玄瑞や高杉晋作らと交流。 前福井藩主の松平春嶽に拝謁する。 幕府の軍艦奉行並である勝海舟に面会し、門人となる。 |
1863年 | 29歳 | 勝海舟の取りなしにより、脱藩の罪を赦免される。 海舟が設立した神戸海軍操練所の運営資金調達のため、松平春嶽から千両を借り入れる。 海舟が設立した神戸海軍塾の塾頭に任じられる。 |
1864年 | 30歳 | 二度目の脱藩をする。 のちに妻となる楢崎龍(おりょう)に出会う。 海舟の紹介により、薩摩の西郷隆盛に面会する。 |
1865年 | 31歳 | 薩摩藩の出資により亀山社中(のちの海援隊)を結成する。 桂小五郎に面会し、薩長同盟のために西郷隆盛と会うよう説得する。 長州藩のために、長崎のグラバー商会から武器を買い入れる。 |
1866年 | 32歳 | 薩長同盟の締結に臨席する。 寺田屋事件に遭難するが、おりょうの機転により事なきを得る。 |
1867年 | 33歳 | 土佐藩参政の後藤象二郎との会談により、脱藩を許され、亀山社中を海援隊と改称する。 夕顔丸船内で、後藤象二郎に船中八策を提示する。 新官制擬定書を起草する。 |
1867年11月15日 | 享年33歳 (満31歳没) | 京都の近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺される(近江屋事件)。享年33歳(満31歳没)。 |
※当時は数え年。生まれた次点で1歳とし、翌年の元旦をもって2歳となります。
坂本龍馬はどんな人物だったのか?
坂本龍馬の性格
末っ子の甘えん坊
龍馬は二男三女の末っ子で、長男の権平とは22歳も離れていました。龍馬が12歳のとき母が亡くなり、龍馬は3歳上の姉の乙女に育てられました。
龍馬は乙女宛てにたくさんの手紙を書いています。「すこしエヘンにかおしてひそかにおり申し候。(中略)猶エヘンエヘン(=勝海舟という大人物に特別に目をかけてもらっていることをエヘンと自慢している)」という文面などから、茶目っ気たっぷりで明るい龍馬の人柄がうかがえます。
新しもの好き
剣術の達人の龍馬ですが、アメリカのスミス&ウェッソン社の拳銃2丁を愛用していました。よいと思ったものはどんどん取り入れる龍馬の性格が表れているのではないでしょうか。寺田屋事件の際にも、拳銃で追手を殺傷しています。
龍馬が使っていた拳銃は、一つは寺田屋事件の際に紛失し、もう一つは大正2年に火事で焼失したため現存しません。
また、龍馬は日本で初めてブーツを履いた人物とされています。龍馬の立ち姿を映した有名な写真でも、よく見ると足元にはブーツを履いています。
日本で初めて新婚旅行をする
男女が連れだって出歩くことが一般的ではなかった時代、龍馬は世間の人々の目を気にすることなく、おりょうを伴って外出していました。
おりょうとの結婚後、龍馬は寺田屋事件の際に受けた傷の治療も兼ねておりょうと薩摩へ赴き、温泉めぐりを楽しみました。日本で新婚旅行を行ったのは龍馬が初だとされています。龍馬の愛妻家としての一面がよく伝わってくるエピソードです。
同時代の人々からの評価
西郷隆盛
「直柔(龍馬)は心に天下の英傑なり」
「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず(世の中には志ある人々が多くいて、私はそのようなたくさんの人々と交友を持ったが、度量の大きさにおいて龍馬に並ぶ者には会ったことがない。龍馬の度量の大きさははかり知れない)」
土方久元
「維新の豪傑としては、余は西郷、高杉、坂本の三士を挙ぐべし」
陸奥宗光
「維新前、申請の負役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」
「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める。その識見、議論の高き、その他人を誘説、感得するの能に富める、同時の人、よく彼の右に出るものあらざりき」
大久保一翁
「この度、坂本龍馬に内々逢い候ところ、同人は真の大丈夫と存じ」
坂本龍馬が行った政策・偉業
坂本龍馬が作った日本初の株式会社「海援隊」とは?
龍馬は1865年、薩摩藩の支援を受けて長崎で亀山社中を結成しました。結成当時は単に社中と呼ばれていましたが、創業の地が長崎の亀山であったことから、のちに亀山社中と呼ばれるようになりました。龍馬は志士としてだけでなく、ビジネスマンとしての顔も持っていたのです。
亀山社中は武器や艦船の購入や運輸などを担う総合商社のようなもので、近代的な株式会社に近い形をもっていました。経済活動のみならず、政治・思想的な団体という性格を併せ持っていたところが大きな特徴です。
1867年に亀山社中は海援隊へと改編しました。海援隊は土佐藩に属し、「運輸、射利、開拓、投機、本藩の応援」を設立目的としています。海援隊は土佐藩出身者を中心に、約50人のメンバーがいました。
薩長同盟の立役者となる
二国の雄藩、薩摩藩と長州藩はそれぞれ政局に大きな影響力を持っていましたが、政治的に相いれない立場をとっていました。薩摩藩が公武合体を唱え、幕府の開国路線を支持する一方、長州藩は攘夷論をとって反幕姿勢を強めていました。
対立は避けがたく、1863年に薩摩は会津藩とともに八月十八日の政変を起こして長州勢を京都から追放し、翌年には禁門の変によって長州に大きな打撃を与えました。
幕府による統治から新しい体制に移行するには、影響力の大きい長州と薩摩が手を結ぶ必要がありました。しかし長州は薩摩に対し強い不信と憎悪の念を抱いており、和睦交渉のテーブルにつくことさえ難しいほどでした。
薩摩と長州の仲介役を担った龍馬は、両藩がそれぞれ必要なのに手に入れられないでいるものに着目しました。幕府の監視下にある長州は外国から武器や艦船を購入できず、薩摩は兵糧が不足していました。龍馬は薩摩の名義で外国から武器を購入して長州に斡旋する一方で、薩摩が不足している兵糧を長州から送る手配をしました。
両藩のわだかまりがとけたことによって、薩長は和解に至り同盟が結ばれました。薩長の連携は幕末の政局に大きな影響を与えることになりました。
船中八策で新国家の構想を描く
1867年に龍馬が藩船の中で起草した、8か条から成る政治綱領を船中八策といいます。船中八策は次のような内容のものでした。
船中八策の内容
- 朝廷に大政奉還する
- 二院制議会を設置する
- 官制改革を行う
- 条約改正を行う
- 憲法を制定する
- 海軍を創設する
- 陸軍を創設する
- 通貨政策を行う
龍馬から船中八策を提示された土佐藩参政の後藤象二郎は藩主の山内容堂に上奏し、将軍慶喜に大政奉還建白書を提出しました。
大政奉還というアイディア自体は龍馬のオリジナルではなく、ベースには横井小楠や大久保一翁、勝海舟などの考えがあります。しかし、幕府や諸藩の利害が交錯する難しい政治状況のなか大政奉還という大きな政策転換が実現したのは、龍馬の尽力によるところが大きかったといってよいでしょう。
坂本龍馬の名言
日本を今いちど洗濯いたし申し候
1863年6月、姉の乙女宛てに書いた手紙の中にある言葉です。長州が外国船を砲撃したことに対し外国船が下関を報復攻撃した際に、破損した外国船の修理を幕府の役人が援助しました。そのことに対する憤りの気持ちを表した言葉です。
世界の海援隊
龍馬は大政奉還後の新政府の組織や人事について新官制擬定書を作成しましたが、そこに自分の名前を記しませんでした。西郷隆盛がその理由を聞いたところ、役人は性に合わない、「世界の海援隊」でもやろうかと答えたというエピソードがあります。
龍馬が実際にこう述べたかは確実ではありませんが、早くから世界に目を向けていた龍馬らしさがよく表れている言葉です。龍馬は役人に収まるより、ビジネスマンとしてグローバルに活躍することに魅力を感じていたのかもしれません。
西郷は馬鹿である。ただしその馬鹿の幅がどれほど大きいかわからない。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る
1864年に西郷隆盛と面談した龍馬が西郷の印象を述べた言葉で、勝海舟の『氷川清話』で紹介されています。
世の人は/われをなにともゆはばいへ/わがなすことは/われのみぞしる
龍馬が残した和歌のうちの一つで、「世間の人はどうとでも言うがいい。私がすることを知っているのは私だけだ」という意味です。龍馬の自由で大胆な発想は当時の人々には理解しづらいところもありました。世の人々に理解されなくても、自分の道を進もうという意志が込められた歌です。
坂本龍馬の死因
坂本龍馬は1867年11月15日、京都河原町通の近江屋で中岡慎太郎と用談していたところを数人の刺客に襲われました。龍馬はその場で死亡し、中岡は重傷を負って2日後に死亡しました。龍馬と中岡、龍馬の用心棒兼世話役だった山田藤吉の遺体は京都市の霊山墓地に埋葬されました。
龍馬は新選組や見廻組からつけ狙われており、身の安全を守るために安全な藩邸に滞在するように仲間たちから忠告されていました。しかし龍馬は、脱藩の身である上に藩邸ではいろいろ窮屈な思いをするからと言って、藩邸の外に宿をとっていました。元相撲取りの世話人のほかは護衛もつけていませんでした。
また、中岡と龍馬は用談にあたって刀を手元から離れた場所に置いていたため、刺客に襲われたとき反撃ができませんでした。
龍馬暗殺の実行犯は、京都見廻組の今井信郎、佐々木只三郎らだという説が最も有力です。しかし誰が今井らに龍馬暗殺を命じたのかはわかっていません。新選組や薩摩藩、会津藩の松平容保が黒幕だという説もあります。
坂本龍馬の子孫について
龍馬と妻のおりょうや他の女性との間に子供はいません。明治になってから、龍馬の姉千鶴の息子の高松太郎が養子として坂本龍馬の跡目を相続することを許され、坂本直と名乗りました。
坂本家の本家である才谷屋は富裕な商家でしたが、明治維新後に没落しました。坂本家は龍馬の兄権平が継ぎ、その後は龍馬の姉千鶴の息子で坂本家の養子となった直寛が当主となりました。
直寛は1898年、北海道開拓のため浦臼に移住しました。坂本家の子孫は現在も北海道に残っています。