五・一五事件とはどんな事件?分かりやすく解説します

五・一五事件とは、昭和初期に日本で起きたテロ事件です。昭和7年(1932年)5月15日、海軍の青年将校が民間人と結束して総理大臣官邸や内大臣官邸などを襲撃し、当時の総理大臣・犬養毅が暗殺されました。「話せばわかる」「問答無用」というやりとりは聞いた事があるかもしれません。

五・一五事件は日本の政党政治の終焉となり、軍国主義が台頭する近現代史のターニングポイントです。しかし時間が起きた背景や、時間の経過などは知らない人も多いのではないでしょうか。今回は五・一五事件が起きた背景や経過、更には事件が起こした影響などを解説していきます。

この記事を読めば、五・一五事件の理解がさらに深まる事でしょう。

五・一五事件とはどんな事件?

五・一五事件とはどんな事件?

五・一五事件を報道する新聞
出典:Wikipedia

五・一五事件は昭和7年(1932年)5月15日に起きたテロ事件。この日、武装した陸海軍の青年将校が首相官邸にいる犬養毅総理大臣を暗殺しました。襲撃部隊は複数に分かれ、牧野伸顕内大臣の邸宅、二大政党の一角・立憲政友会の本部、三菱銀行本部、東京の変電所など各地を襲撃しますが、これらは失敗に終わりました。ちなみに各襲撃隊の総人数は27人です。

各襲撃部隊の多くは警視庁で決戦を想定するものの、決戦は失敗して憲兵隊に自首します。逃走した者や武器を斡旋した民間人たちも後に逮捕されました。

当時の日本は昭和恐慌による国民の疲弊、政党政治の腐敗など多くの問題を抱えていました。世論は五・一五事件を起こした青年将校に同情的で、全国から100万通以上の助命嘆願書が届きます。結果的に青年将校は禁錮15年以下という軽い罪になりました。

五・一五事件を経て新たに総理大臣に就任したのは、海軍軍人の斎藤実という人物でした。終戦まで政党政治家が総理大臣に就任する事はなく、五・一五事件を経て戦前の政党政治は弱体化したのです。

五・一五事件が起こった背景

そもそもなぜ五・一五事件は起きたのでしょうか。この項目では、五・一五事件が起きた背景を時系列を追って解説します。

背景①:国家改造運動の高まり

五・一五事件が起こった背景

藤井斉
出典:Wikipedia

1920年代の日本は慢性的な不況が続いており、国民の中には国家の改革を謳う者が増えていきました。昭和3年(1928年)に海軍の青年将校・藤井斉中尉は国家改造を目的とした「王師会」という国家改造団体を発足します。藤井は水面下で陸軍や民間の有志と接触して支持者を増やしていきます。

昭和5年(1930年)4月に、民政党の濱口雄幸内閣はロンドン海軍軍縮会議に参加。補助艦隊の軍縮を想定以上に断行した事で、藤井達の不満は爆発し、王師会の会員は40人に増えていきました。

ちなみに当時の最大野党は立憲政友会。総裁の犬養毅と党員の鳩山一郎はロンドン海軍軍縮条約の条約内容に反対し、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と濱口達を批判。政府が統帥権事項である兵力量(軍政権)を、天皇(=統帥部)の承諾無しに決めたのは憲法違反だと主張した事で、「統帥権干犯問題」が起きています。

背景②:第一次上海事変と血盟団事件

五・一五事件が起こった背景

第一次上海事変
出典:Wikipedia

藤井は昭和7年(1932年)1月ごろから日蓮宗の僧侶・井上日召らと会合を重ね、2月11日の紀元節に政府要人の暗殺を行うクーデターを構想します。作戦は実行に移される予定でしたが、1月28日から上海で「第一次上海事変」が起こり、藤井達海軍将校の主力は上海に派遣されてしまいます。結果的に集団でのクーデターは不可能となりました。

井上は海軍残留組と相談の末、井上ら民間組による個別テロを第一波、帰国後の海軍将校によるテロを第二波にすると決定します。井上ら民間組は後に「血盟団」と呼ばれ、「一人一殺」を掲げて各地に散らばります。2月9日に元大蔵大臣の井上準之助、3月5日に三井財閥の統帥・団琢磨の暗殺に成功するものの、まもなく彼らは芋蔓的に逮捕されました。

一方の上海では、王師会の指導者である藤井斉は2月5日に戦死。井上は警察に出頭する前に、内地残留組の海軍将校の古賀清志中尉に「第二波によるテロ」を実現する事を託していました。

この第二波によるテロこそが、後に起こる「五・一五事件」です。

背景③:計画の実行

五・一五事件が起こった背景

血盟団の被告人
出典:Wikipedia

警察は血盟団と海軍将校の繋がりに気づいていなかったものの、古賀達が国家改造運動に傾倒していた事は知っておりマークを続けていました。古賀は内地残留組の中村義雄中尉と水面下で接触し、テロの計画を立てます。

古賀達は、安藤輝三中尉ら陸軍の青年将校にも決起を呼びかけるものの、安藤は「時期尚早」として計画に反対。ただ後藤映範ら11名の士官候補生は決起参加に同意しました。

またテロを起こすにも大義名分が必要であり、古賀達は農本主義者の橘孝三郎と接触し、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として参加してもらう事に成功します。彼らの参加で青年将校達は「苦しんでいる農民が止むに止まれず立ち上がった」という大義名分を得ました。

古賀達は当初、軍人である東郷平八郎を擁立するクーデターを構想していたものの、計画は二転三転。5月13日に最終的な計画が決まりました。なお、計画が5月15日に行われたのは、この日が日曜日であり、陸軍士官候補生が自由に動けた事、犬養毅が喜劇王・チャップリンを首相官邸に招くという予定を青年将校たちが分かっていた事に起因します。

・部隊を4つに分け、第一部隊は総理大臣官邸、第二部隊は内大臣官邸、第三部隊は立憲政友会本部、第四部隊は三井銀行本店を襲撃する。

・各部隊は警視庁で決戦を行った末に自首する。

・別行動として農民決死隊が変電所を襲撃して東京の電力の供給を止める。

・血盟団の残党・川崎長光に依頼し、一連の計画を時期尚早と唱える陸軍側の指導者・西田税を暗殺する。

つまり五・一五事件は犬養毅の暗殺だけではなく、各地の襲撃なども含むテロ事件なのです。

1932年5月15日に具体的に何が起こったのか?

続いて五・一五事件の経過を順を追って解説します。なお、犬養毅襲撃の際は複数の証言があり、今回取り上げる経過も証言の一つに過ぎないという事は念頭に置いていただければ幸いです。

経過①:三上卓達の首相官邸襲撃

1932年5月15日に具体的に何が起こったのか?

旧首相官邸
出典:Wikipedia

5月15日午後5時27分、三上卓たち9人は首相官邸に到着。5人警備の警察官に来客を装い対応し、警察官は犬養毅を呼ぶため奥に入ります。4人は裏門から外に回りました。不審に思った守衛が三上卓たちに近づくと、三上卓たちは拳銃を取り出して発砲。警察官の後を追いかけました。

三上卓たちは表の洋館から総理大臣の居室である日本館に向かう扉を蹴破り、そこにいた警察官の田中巡査に発砲(5月26日に死亡)。表門組と裏門組は日本館内で合流し、犬養毅を発見します。三上卓は出会い頭に犬養毅に発砲するが、既に撃ち終わった後で不発に終わります。

犬養毅は「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こうと述べ、三上卓たちを15畳敷の和室の客間に移動させました。三上卓の証言によると、犬養毅は『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と述べたとされます。

三上卓が和室で「何か言い残すことはないか」というと、犬養毅ら何か話そうとします。しかし遅れて部屋に現れた4人が後続の4名が乱入し「問答無用、撃て」と叫ぶと、全員が犬養毅に発砲。三発が犬養毅に命中し、9人は日本館から逃走しました。

犬養毅はこの時点でまだ息があり「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と強い口調で女中に言いました。急いで治療が行われるものの、犬養毅は次第に衰弱し、午後9時に亡くなりました。

経過②:各部隊の行動

1932年5月15日に具体的に何が起こったのか?

牧野信顕
出典:Wikipedia

同じく午後5時25分、古賀清志率いる第二組5人は、牧野伸顕内大臣官邸のある三田に到着し、邸内に手榴弾を投げ込んで爆発させました。さらに警備の警官を拳銃で負傷させます。ただ古賀清志は警視庁の決戦を優先したため、殺害計画を放棄して警視庁に向かいました。牧野伸顕は邸内にいたものの、奥座敷にいたため、騒動に気づきもしませんでした。

さらに中村義雄率いる第三部隊4人は、同時刻に立憲政友会本部に手榴弾を投げ込みます。ただ壁を一部破損させるに留まりました。

経過③:警視庁の決戦

1932年5月15日に具体的に何が起こったのか?

旧警視庁
出典:Wikipedia

岡田以外の各部隊は決戦のため警視庁に向かいますが、三上卓たちが来る事を知らない警視庁は何の警戒体制もとっていません。最初に到着した第一組は拍子抜けして、麹町の憲兵隊本部に向かい自首します。

遅れて第二組と第三組が到着。手榴弾を投げ込む、散発的な銃撃戦が起こるものの、警察官1名を負傷させるに留まりました。彼らは決戦の集合時間なども定めておらず、各々の行動も決めていなかったため、決戦は失敗に終わります。

第二組と第三組も憲兵隊本部に自首しますが、黒岩ら第一組4名は道中で日本銀行に手榴弾を投げ込んでいますが、こちらも壁を一部破損させるに留まりました。

第一組・第二組・第三組の計18人は午後6時10分までに自首しました。

経過④:警視庁の決戦

1932年5月15日に具体的に何が起こったのか?

西田税
出典:Wikipedia

第四組であり血盟団の残党である奥田秀夫は午後7時20分、東京が事件で騒がしくなった頃に、単体で三菱銀行本店に手榴弾を投げ込みますが、壁を一部破損させるに留まります。この日は日曜日であり、三菱銀行に人はいなかったため、負傷者はいませんでした。

農民決死隊は、午後7時に東京府下の変電所6ヶ所の配電盤の破壊を目論みますが、これも失敗。そして西田税の邸宅には、血盟団員の川崎長光が襲撃。西田税に銃弾殺発を浴びせ、西田税は重症を負わせました。

結果的に、五・一五事件で彼らが達成できたのは「犬養毅の暗殺」のみ。翌日には奥田秀夫も逮捕され、6月15日には資金と拳銃を提供したとして大川周明が、7月24日には橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕されました。

五・一五事件に関わった主要人物と彼らの目的

五・一五事件には実行犯の陸海軍の青年将校や、農民決死隊などの多くの人たちが関与しています。この項目では、五・一五事件に関わった主要人物と、彼らの目的を解説します。

主要人物①:古賀清志(1908年〜1997年)

五・一五事件に関わった主要人物と彼らの目的

古賀清志
出典:Wikipedia

古賀清志は海軍の青年将校であり、五・一五事件の計画を主導した人物です。彼の目的は国家改造の完遂と、同志である藤井斉の志を果たすため。事件の際は内大臣・牧野伸顕邸や警視庁の襲撃に参加。事件後の裁判では禁錮15年の判決が下るものの、昭和13年(1938年)に仮釈放。

その後は中国華北青島の海軍特務部新民会などに勤務し、後に古賀不二人に改名。戦後に不二流体術を創始し、平成9年(1997年)に亡くなりました。

主要人物②:三上卓(1905年〜1966年)

五・一五事件に関わった主要人物と彼らの目的

三上卓
出典:Wikipedia

三上卓は海軍の青年将校であり、事件の際は犬養毅の襲撃に参加。彼は第一次上海事変で上海に派遣されており、計画の策定には関与していません。彼が古賀達の知らせで上京したのは事件前日の5月14日の事でした。

三上の目的もまた国家改造の主導と藤井の意思をつぐため。裁判では禁錮15年の判決が下り、古賀と同じく1938年に仮釈放されます。

戦時中は、大政翼賛会の傘下団体「大日本翼賛壮年団」の理事に就任するものの、戦後は公職追放となります。昭和24年(1949年)8月には香港からの密輸事件で逮捕され、昭和36年(1961年)にはクーデター未遂事件である三無事件に関与したとして不起訴となります。昭和46年(1971年)10月に66歳で死去しました。

主要人物③:井上日召(1886年〜1967年)

五・一五事件に関わった主要人物と彼らの目的

井上日召
出典:Wikipedia

井上日召は茨城県大洗町にある立正護国堂で住職を務めていた人物です。藤井斉や古賀清志と国家改造運動に邁進し、藤井や三上が上海に出征すると、自らの同志達と一人一殺の個別テロを主導。前述した血盟団事件を起こします。井上が出頭前に古賀に自らの志を託した事が、五・一五事件の引き金となりました。

血盟団事件で無期懲役の判決が下るものの、昭和15年(1940年)に出所。翌年に三上卓らと「ひもろぎ塾」を設立。戦時中に3度も総理大臣を務めた近衛文麿のブレーンとなりました。戦後は右翼団体維新運動関東協議会の参与などに就任し、昭和42年(1967年)に死去しました。

主要人物④:橘孝三郎(1893年〜1974年)

五・一五事件に関わった主要人物と彼らの目的

橘孝三郎
出典:Wikipedia

橘孝三郎は戦前に農本主義者として活動し、五・一五事件では自らが開塾する塾の塾生7人を農民決死隊として派遣。民間人ながら古賀達に協力したのは、農民の困窮を患いていたからただと思われます。農民決死隊は、東京の変電所の破壊工作を行うものの、失敗して停電は起きませんでした。裁判では無期懲役の判決が下ります。

実際に計画を主導した古賀や、犬養毅を暗殺した三上卓が橘より妻が辛いのは、ロンドン海軍軍縮会議の内容に反対した海軍の圧があったとされます。井上と同じく1940年に出所し、戦後は郷里で執筆活動に専念しました。

五・一五事件の被害者一覧

五・一五事件では犬養毅をはじめ、多くの人たちが被害に遭いました。この項目では五・一五事件の被害者を解説します。

被害者①:犬養毅(1855年〜1932年)

五・一五事件の被害者一覧

犬養毅
出典:Wikipedia

犬養毅は第29代総理大臣であり、五・一五事件で三上卓らに暗殺された人物です。議員歴は実に41年に上り「憲政の神様」と呼ばれていました。

犬養毅は古賀や三上が計画を主導した時の総理大臣だったため、暗殺対象となりました。犬養毅は軍部主導の満洲国の承認には消極的に消極的だったものの、野党時代にはロンドン海軍軍縮会議の浜口内閣の行動を糾弾し、統帥権干犯問題を引き起こしています。さらに公債による膨大な軍事費を支出していたため、陸軍との仲は悪くありませんでした。

統帥権干犯という考えは、軍部が暴走する大義名分を与えたため、犬養毅はむしろ軍部から感謝されても良い存在です。しかし古賀達は「今の世の中は政府が悪い」という単純な構図でしか物事を見ておらず、犬養毅が暗殺の標的になった経緯があります。統帥権干犯問題はまさに犬養毅にブーメランのように跳ね返ったのでした。

被害者②:田中五郎(1892年〜1932年)

田中五郎は警視庁警衛課巡査で、五・一五事件の時は首相官邸を護衛していました。三上達が襲撃した際に応戦するものの、腹部に銃弾を受けて5月26日に殉死しました。

戦後に三上卓は犬養毅や田中五郎の鎮魂を行い、「最も忠実に命もて官邸護衛の任務を果された田中五郎の命のたふとき犠牲をおろがみまつったのも私共でした」と述べています。

五・一五事件の影響

五・一五事件が世間に与えた衝撃は大きく、日本社会に大きな影響を与えました。この項目では、五・一五事件が日本社会に与えた影響を解説します。

影響①:憲政の常道の崩壊

五・一五事件の影響

1920年代の国会議事堂
出典:Wikipedia

大正15年(1924年)6月に憲政会の加藤高明を党首とした内閣が発足してから五・一五事件が勃発するまでの間、日本では政党政治家が総理大臣を務めていました。当時の総理大臣は元老の西園寺公望が昭和天皇に推薦する形で任命されており、西園寺公望はイギリス流の立憲君主制に賛意を示していました。

この頃の総理大臣の選定基準は、

・衆議院での第一党となった政党の党首を内閣総理大臣とし組閣がなされるべき。

・その内閣が暗殺や病気などの失政でない理由で倒れた場合、第一党の誰かが総理大臣を引き継ぐ。

・その内閣が失政によって倒れた場合、組閣の命令は野党第一党の党首に下される。

というものでした。この考え方を憲政の常道と呼びます。

憲政の常道に則れば、次の総理大臣は立憲政友会の新たな総裁である鈴木喜三郎しかし鈴木喜三郎はファシズムに近い考えを持ち、西園寺公望や昭和天皇の意向に沿う人物ではありませんでした。更に三上卓や古賀清志ら海軍将校に対する同情的な世論の雰囲気もあり、西園寺公望は鈴木喜三郎の総理大臣推薦を断念します。

結果的に新たな総理大臣に推薦されたのは、穏健派の海軍軍人である斎藤実予備役大将でした。斎藤実は国難に対抗するため、政友会や民政党ら双方の党員を含めた挙国一致内閣を発足します。五・一五事件を経て、憲政の常道は崩壊し、日本の政治は新たな局面を迎えたのでした。

影響②:軍部の台頭

五・一五事件の影響

民間人の会議
出典: Wikipedia

五・一五事件を経て陸海軍は大人しくなるかといえばそうではなく、被告人にさまざまな意見を述べます。裁判が本格的に開始するのは、事件から一年後の事。報道規制も解除されると、陸軍省、海軍省、司法省は合同で事件の概要を発表。

荒木貞夫陸軍大臣や大角岑生海軍大臣は被告人に同情的な意見を述べており、五・一五事件をある程度肯定していました。裁判の最中、三上卓たちは「純粋に国家のあり方を憂い、日本の現状を打破するために決起した」と述べると、世論は被告人に同情的になります。

結果的に全国から100万通もの助命嘆願書が届くなど、世論は被告人に同調。同時に軍部も司法省に助命嘆願を主張しています。ただ三上卓たちが行った事はテロに他ならず、許される事ではありません。軍部は三上卓達の行動を棚に上げ、政府を批判するようになったのです。

影響③:青年日本の歌が流行る

五・一五事件の影響

主犯達は忠臣蔵のように取り上げられた
出典:Wikipedia

五・一五事件の首謀者の一人・三上卓は、1930年に「青年日本の歌」という歌を作詞していました。裁判で三上卓たちに同情論が高まる中、青年日本の歌も流行し、多くの人たちに歌われ始めます。

歌詞は権臣や財閥の排除を主張し、濃厚な軍国主義の色彩を帯びたもの。ただ詩句の多くは文豪・土井晩翠と思想家・大川周明の著作から無断引用されており、三上卓のオリジナルというわけではありません。「青年日本の歌」は一世を風靡したものの、昭和天皇が「歌詞が暴力を煽る」と主張し、1936年に歌う事が禁止されました。

この他にも、被告人らを讃える「昭和維新行進曲」のレコードがヒットし、被告人らを赤穂浪士になぞらえた劇が上映されるなど、五・一五事件の被告人を英雄視するブームが生まれます。一連の風潮は国民が政府の方針に反発していた事の証明であり、司法機関も被告人に厳しい判決を下しにくくなるのです。

五・一五事件の政府の対応とその後

憲政の常道が崩壊し、軍部や世論が被告人に同情的な視線を送る中、1933年9月〜1934年2月にかけて判決が言い渡されます。この時の対応は後の「とある事件」を引き起こす事になるのです。

軍部関係者への甘々な判決

五・一五事件の政府の対応とその後

戦後の三上卓
出典:Wikipedia

当初、三上卓や中村義雄らは死刑が求刑されるものの、11月にかけて以下の判決が下されます。

・三上卓、古賀清志 禁錮15年
・黒岩勇 禁錮10年
・中村義雄 禁錮10年

残りの海軍の青年将校、陸軍の士官候補生は禁錮10年〜4年の判決が下ります。計画の首謀者だった古賀清志や中村義雄、犬養毅や田中五郎巡査を暗殺した三上卓や黒川勇らは判決が他の青年将校より重たくなったものと思われます。

一方で、農民決死隊を派遣した橘孝三郎は無期懲役、武器を青年将校に斡旋した思想家の大川周明は禁錮5年。事件の関与の度合いを踏まえれば、青年将校達の禁錮15年以下の判決は非常に甘いものと言えるでしょう。

その後も三上卓たちは度重なる恩赦を経て、4年後には出所。テロを起こした者とは思えない程の期間で、彼らは社会復帰をしています。

二・二六事件の勃発

五・一五事件の政府の対応とその後

二・二六事件の様子
出典:Wikipedia

世論の同情論や実際の判決を冷静な目で見ていたのが、今回の決起に参加しなかった陸軍の青年将校です。彼らは昭和11年(1936年)2月に、昭和維新を掲げた二・二六事件を起こします。

その背景には「クーデターを起こしても、五・一五事件のように甘い判決が下される」という期待感があった事は間違いありません。二・二六事件は五・一五事件より遥かに大きな規模で行われ、昭和天皇は激怒するに至り、事件の首謀者たちは後に銃殺刑に処されます。

仮に五・一五事件で青年将校たちに適切な判決が下されていれば、後の二・二六事件は起きなかったのかもしれません。

政党政治は復活せず

五・一五事件の政府の対応とその後

東條英機内閣
出典:Wikipedia

前述した通り、西園寺公望は犬養毅内閣退陣後に斎藤実を総理大臣に推薦します。ただこの措置はあくまで暫定的なものであり、いずれ憲政の常道を復活させる予定だったとされています。ただ斎藤実内閣倒閣後に西園寺公望が推薦したのは、同じく穏健派の海軍軍人・岡田啓介でした。

その後も1936年、1937年と衆議院議員選挙が行われるものの、西園寺は政友会や民政党の総裁を総理大臣に任命する事はありませんでした。やがて西園寺公望は、1940年に日本の将来を憂いながら90歳で薨去。1941年に太平洋戦争が勃発し、昭和20年(1945年)に日本が敗戦を迎えるまでの間、日本で政党政治家が総理大臣に就任する事はありませんでした。

五・一五事件は日本の政治のあり方にも大きな影響を与えたのですね。

五・一五事件から学ぶべき点

五・一五事件は近現代史のターニングポイントであり、私たちが学ぶべき点は多々あります。この項目では五・一五事件を通じて浮き彫りになった問題点や、現代社会への教訓を解説します。

司法は世論や民意と一定の距離を置くべき

五・一五事件から学ぶべき点

襲撃直後の首相官邸
出典:Wikipedia

五・一五事件の甘々な判決は、世論や民意に迎合したものでした。さらに禁錮15年の三上卓は度重なる恩赦で4年で出所しています。

この判決が後の二・二六事件に繋がった事、軍部の台頭を助長した事を思えば、司法は自らの立場を貫く必要があったと言えます。

なお、五・一五事件の裁判を担当した裁判長の高須四郎大将は、

「死刑者を出すことで海軍内に決定的な亀裂が生じる事を避けたかっただけだ」と当時の事を述べています。殉教者を出す事で、若い海軍軍人が蜂起する可能性もあったため、高須四郎の判決も一つの選択肢にはなります。ただ彼は、この温情判決が後の二・二六事件の引き金を引いた事を、晩年まで後悔していました。

「司法と民意は一定の距離を置く」これが五・一五事件の一つ目の教訓ですね。

国民はテロを支持しない

五・一五事件から学ぶべき点

安倍晋三銃撃事件の現場
出典:Wikipedia

五・一五事件が起きた時、「老人を嬲り殺しにするとは何事だ!」と憤る声はありました。ただ世間は青年将校たちを支持し、批判の声はかき消されてしまいました。

事件を起こした時、海軍側が三上卓たちの面会に来た時、警察は「いま保護しています。酒を飲ませています」と義士でも扱う有様だったため、海軍側も唖然としたようです。それほど犬養毅を筆頭とした政党政治が不人気だったという事でしょう。

それでも国民がテロを支持すると、国の在り方に不満を持つグループが新たなテロを起こしかねません。国民は政府に不満があってもテロを支持してはいけません。

2022年に安倍晋三元総理大臣が山上徹也に暗殺された時、国民の中には山上達也を支持する声がありました。現在でもテロが起こりうる土壌は存在していると言えるでしょう。

五・一五事件ヘのゆかりの地

近現代史のターニングポイントとなる五・一五事件。事件のゆかりの地は多々あります。この項目では五・一五事件のゆかりの地を解説します。

山水閣跡と護国寺

五・一五事件のゆかりの地出典:Wikipedia

護国寺
出典:Wikipedia

山水閣は茨城県土浦町にあった料亭で、五・一五事件に関与した海軍将校は同町に下宿していました。彼らは山水閣で五・一五事件の計画を練ったとされ、5月13日に第5次計画が完了した後で、首相官邸などの各地に散らばりました。

茨城県大洗町には、血盟団を率いた井上日召が拠点にしていた護国寺があります。両者が同じ県を拠点にしていた事は、五・一五事件を引き起こす遠因となりました。

住所:茨城県土浦町(山水閣跡)
   茨城県大洗町磯浜町8244(護国寺)

内閣総理大臣官邸

五・一五事件のゆかりの地

国会議事堂(画像は現在のもの)
出典:Wikipedia

内閣総理大臣官邸は、総理大臣が執務を執り行うために設けられた庁舎の事です。現在の官邸は新しいものであり、犬養毅が住んでいた旧官邸が建てられたのは1929年の事です。

犬養毅は、旧内閣総理大臣官邸の裏にある日本館にいた時に青年将校の襲撃に遭い命を落としました。

住所:東京都千代田区永田町二丁目3番1号

五・一五事件がモデルの映画や関連作品について

二・二六事件と比べると、少々影の薄い五・一五事件。それでも五・一五事件がモデルの関連作品は多々あります。この項目では五・一五事件にまつわる関連作品を紹介します。

おすすめ書籍・本・漫画

五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」

五・一五事件が起きた背景、事件の経過、その後について掘り下げた本です。なぜ政党政治が崩壊したのか、なぜ国民が助命嘆願を望んだのか、その過程を知れば知るほど、五・一五事件が近現代史のターニングポイントである事がわかります。

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1980年に制作された映画です。五・一五事件から二・二六事件までの経過を、青年将校と妻の視点から描いています。本作のメインは二・二六事件ですが、五・一五事件から物語を始める事で、事件が起きた背景を映像的に学べます。

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【テスト対策の豆知識】五・一五事件を覚えやすくする語呂合わせ

テストや入試でも登場する五・一五事件の語呂合わせは以下のものがあります。

  • 戦に(1932)GO!(5)行こう!!(15)
  • 引き金を引く(19)惨事に(32)なった五・一五事件
  • ひどく(19)醜い(32)五・一五事件

いずれにせよ、不安な雰囲気のある語呂合わせが多いですね。

五・一五事件と二・二六事件の違い

同じくテストでも登場するのが五・一五事件と二・二六事件の違いです。両者は無関係なようで繋がってはいるものの、明確な違いが数点あります。

海軍と陸軍

五・一五事件を起こしたのは海軍の青年将校、二・二六事件を起こしたのは陸軍の青年将校です。ただ五・一五事件の計画段階では、陸軍の青年将校にも声はかけられています。ただ陸軍の青年将校は「時期尚早」とその誘いを断り、陸軍の士官候補生だけが参加する事となりました。

年号

五・一五事件は昭和7年(1932年)、二・二六事件は昭和11年(1936年)です。

経過としては五・一五事件が先に起こり、その甘い判決をみて陸軍の青年将校が二・二六事件を起こしています。

犠牲者と事件の規模

五・一五事件で犠牲になったのは総理大臣の犬養毅と、警察官の田中巡査です。事件で襲撃されたのは首相官邸の他、内大臣官邸や政友会本部など。さらに実際に襲撃を行ったのは30人程度です。

一方の二・二六事件では内大臣の斎藤実、大蔵大臣の高橋是清、陸軍の教育総監・渡辺錠太郎、総理大臣の義弟・松尾伝蔵が殺害されます。警察官も5人が殉職。さらに陸軍の青年将校は兵士約1500人を引き連れて永田町の各地を占拠するなど、五・一五事件と比較にならない規模で行われています。

陸海軍の違い、規模、年号、犠牲者。この4点をみれば五・一五事件と二・二六事件の違いがわかるのではないでしょうか。

五・一五事件のまとめ

今回は五・一五事件について解説しました。五・一五事件は海軍の青年将校を中心にして行われたテロ事件。犬養毅という人材を失った事も日本の大きな損失でしたが、その後の判決の甘さや国民がテロを歓迎する様子は、二・二六事件という新たな火種を撒き散らす事になりました。

過去も現在も日本の政治のあり方には問題があり、不満を抱えている人たちがいる事は事実。安倍晋三元総理大臣の暗殺の時も、歓声を上げる人は少なからずいました。私たちは五・一五事件で一つの教訓を得ており、それを現在の日本のあり方にも反映していく必要があるでしょう。

今回の記事を通じて五・一五事件に興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」

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