日露戦争のきっかけとは?いつ、どこで、なぜ起こったのか分かりやすく徹底解説!

日露戦争は明治時代末期に起きた、日本とロシア帝国による戦争です。日本は、列強の一角だったロシアに歴史的勝利を収め、ロシアの南下政策を阻止します。さらに他の列強からの評価も変わり、日本が五大国の一角を占める契機となりました。

日露戦争は明治期の日本を語る上で、とても重要な部分です。しかし日露戦争が起きたきっかけや、戦争の経過、日露戦争がその後の国際関係に与えた影響は知らない人も多いのではないでしょうか。今回は日露戦争について徹底的に解説します。

この記事を読めば日露戦争について更に理解が深まることでしょう。

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日露戦争はいつ起こった?

日露戦争はいつ起こった?

日露戦争の様子
出典:Wikipedia

日露戦争は1904年(明治37年)2月6日から、1905年(明治38年)9月5日に起きた戦争です。

1894年(明治27年)に起きた日清戦争で、日本は眠れる獅子たる清国に勝利。日本は近代的な国民国家に脱皮しますが、一方で南下政策を取り続けるロシアとの対立が表在化します。日露戦争は日本とロシアの緊張が高まった時に起きました。

日露戦争は日清戦争以上に大規模な戦争であり、後の第一次世界大戦に代表される「国家総力戦」の要素を含んでいます。さらにアメリカやイギリスなどのさまざまな勢力も関与していました。そのため、日露戦争は「第0次世界大戦」と呼ぶこともあります。

何時代に起きたのか

日露戦争はいつ起こった?

日露戦争を指揮した明治天皇
出典:Wikipedia

前述した通り、日露戦争は1904年(明治37年)2月6日から、1905年(明治38年)9月5日に起きました。時代的には日本が明治維新を迎えて30年以上が経ち、少しずつ国際的な立場を高めている時期でした。

国際情勢を見れば、アメリカやイギリス、ロシアなどの大国がアジアやアフリカの国々を植民地にしていました。まさに日露戦争が起きた時代は「帝国時代」が最盛期を迎えていました。

日露戦争のきっかけ

原因についてわかりやすく説明すると

日露戦争のきっかけ

帝政ロシアの国家
出典:Wikipedia

日露戦争の目的は「ロシアの南下政策」を阻止し、日清戦争を経て独立した朝鮮半島を守ることで、日本の安寧を保持する事にありました。

ロシアは広大な領土を持つものの、その多くが寒冷地。冬でも凍らない港である不凍港を獲得するため、黒海方面、バルカン半島、東アジアなどで勢力を南下させていました。19世紀末における東アジア方面のロシアの南下政策は、朝鮮半島の獲得でした。

日本は日清戦争に勝利し、1895年(明治28年)4月17日に清国と下関条約を締結。朝鮮の独立、台湾・遼東半島・澎湖列島の日本への割譲を認めさせます。日本が朝鮮を独立させたのは、清国の冊封体制にあり、近代化の進まない朝鮮を近代化させてロシアとの緩衝地帯にするためでした。

しかし、東アジアにおける日本の影響力の拡大を恐れたロシアはフランスとドイツと結束。日本に遼東半島の返還を求めました。この要求は「三国干渉」と呼ばれ、列強の脅威を恐れた日本は遼東半島の返還を決断します。

ただ三国干渉を経て日本政府はロシアの思惑を感じ取ると共に、仮想敵国をロシアに定めます。ただ当時のロシアは日本が勝てる相手ではありません。日本は「臥薪嘗胆」をスローガンに日本の国力を強化させ、「来たる時」に備えたのでした。

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義和団事件について

日露戦争のきっかけ

義和団の乱の様子
出典:Wikipedia

日露戦争のきっかけになったのが、明治33年(1900年)に清国の華北や満州で起きた義和団事件です。義和団は「扶清滅洋」を掲げた宗教的秘密結社。当時の日清戦争を経て清国は列強の植民地化が進んでおり、清国の国民の不満が溜まっていました。6月21日に義和団は列強に宣戦布告しますが、彼らは日本を含めた八カ国連合軍にあっという間に鎮圧されました。

9月7日には清国と八カ国連合軍は北京議定書を締結。清国は4億5000万両という天文学的な賠償金を支払う事、列強が北京付近付近に軍を駐留させることが決まりますが、連合軍が満州地方から撤廃することも決まりました。しかしロシア軍は撤兵の期限を過ぎても満州から撤廃せず、駐留軍の増強を図ります。

朝鮮半島を見れば、1897年から李氏朝鮮に変わり、大韓帝国が建国されています。理由は清国が李氏朝鮮の独立を認めたためであり、初代皇帝には高宗という人物が君臨しました。しかし当時の韓国は近代化とは程遠い状態にあり、国内では反日感情も激化していました。

日露戦争のきっかけ

大韓帝国の皇帝・高宗
出典:Wikipedia

高宗は日本ではなくロシアに歩み寄る姿勢を見せており、鍾城・慶源の鉱山採掘権、朝鮮北部の森林伐採権、関税権などのさまざまな権限をロシアに明け渡します。ロシアは着実に朝鮮半島における支配権を固めていました。

満州、そして朝鮮半島の支配が完了すれば、ロシアか次に狙うのは日本です。日本政府はロシアの南下政策を警戒し早期の開戦論を主張する声と、ロシアの強大から開戦を回避する声にわなれ、激しい議論が交わされていました。

日英同盟の締結

日露戦争のきっかけ

日英同盟
出典:Wikipedia

一連のロシアの南下政策に強い警戒感を抱いたのが、列強の一角であるイギリスでした。イギリスは東アジアで急速に近代化する日本を評価し、明治35年(1902年)に栄光ある孤立を捨てて、日英同盟の締結に踏み切りました。この条約では、日本が2国以上と戦う時はイギリスは日本側について参戦する事が明記されます。この記載はロシアへの牽制となり、清国や韓国がロシア側で宣戦布告する事はなくなりました。

水面下では日本はロシアと交渉を続けていたものの、ロシアは朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とするなど、南下政策で日本に圧力を加え続けました。政府首脳部はロシアとの交渉は最早無意味と悟ります。

時を同じくして日本軍の軍備の拡張は順調に進んでおり、1904年に入ると日本の海軍力は、イギリス、フランス、ロシアに次ぐ第4位に成長。海軍大臣の山本権兵衛は「この状況ならロシアに勝てる」と判断し、開戦に同意しました。

そして外務大臣の小村寿太郎は、2月6日にロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡します。こうして日本とロシアによる戦争…、いわゆる日露戦争が勃発しました。

日露戦争の経過

日露戦争における重要な事柄は以下のとおりです。

日露戦争開戦後の年表

出来事
1904年2月8日日本海軍が旅順要塞のロシア艦隊を攻撃する
2月9日仁川沖海戦勃発
2月〜5月旅順口閉塞作戦や鴨緑江会戦が勃発する
8月10日黄海海戦
8月〜1905年1月旅順包囲戦
1月22日第一次ロシア革命が起こる
3月1日奉天会戦勃発
5月27日日本海海戦が勃発
9月5日ポーツマス条約締結

旅順口攻撃

日露戦争の経過

旅順口攻撃
出典:Wikipedia

日露戦争の前哨戦として行われたのは旅順攻略戦です。日露戦争の戦争の目的は、韓国や満州で影響力を行使するロシア軍を撤退させる事。各戦いは朝鮮半島を中心に行われています。

旅順要塞は遼東半島先端部の旅順にあった要塞です。当時は多くのロシアの軍艦が存在し、日本の脅威になっていました。日本軍は満州や朝鮮半島に存在するロシア軍を撃破するため、2月8日に旅順要塞に存在するロシア軍艦を奇襲攻撃。更に2月9日に黄海・仁川沖で仁川沖海戦も勃発します。

旅順口攻撃で日本軍はロシアの戦艦に損傷を与えますが、修理可能なレベルに留まります。ただ仁川沖海戦で日本軍は巡洋艦ヴァリャーグとコレーエツを撃沈させており、初戦を有利に進めました。2月10日に日本はロシアに宣戦布告し、本格的に戦闘が始まりました。

旅順港閉塞作戦

日露戦争の経過

現在の旅順
出典:Wikipedia

初戦を優位に進めた日本軍ですが、やはり旅順要塞の攻略は戦争の勝利には不可欠です。そのため、日本海軍は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて港の封鎖を図ります。この作戦を旅順港閉塞作戦と呼び、3度にわけて作戦は行われますが、失敗に終わりました。5月15日には6隻あった戦艦のうち「初瀬」「八島」を失うなど、日本海軍は追い詰められます。

一方の日本陸軍は、4月に朝鮮半島に上陸し、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破りました。更に5月26日には旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略。6月14日の得利寺の戦い、7月23日の大石橋の戦いでも勝利するなど、戦局を優位に進めます。

ロシアは旅順要塞以外にも、バルト海にも複数の軍艦を配備していました。バルト海の軍艦はバルチック艦隊と呼ばれ、バルチック艦隊の極東回航はほぼ確定となります。日本海軍は開戦当初から陸軍と共闘する事を拒絶していましたが、バルチック艦隊の極東回旋を知ると、遂に共闘に同意します。

ただ8月10日には黄海沖で黄海海戦が勃発し、日本海軍はロシア艦隊に大打撃を与えています。

旅順攻囲戦と黄海海戦

日露戦争の経過

黄海海戦における戦艦・敷島
出典:Wikipedia

陸軍の旅順参戦の指揮を担ったのは、明治天皇からの信頼も厚い乃木希典でした。8月19日から旅順要塞の攻略を目的とした旅順攻囲戦が起こりますが、日本軍は苦戦。13万人の兵力が投入され、6万人が死傷する事態となりました。しかし乃木の指揮で1905年1月に難攻不落の旅順要塞は陥落しています。

ロシアでは長期化する戦争に国民の不満が高まり、同月に第一次ロシア革命が起こるなど、大きな混乱も起きはじめていました。

当時のロシア軍の拠点は奉天という場所であり、2月21日から奉天で日本軍24万人、ロシア軍36万人という大規模な戦闘が始まりました。この戦いを奉天会戦と呼び、日本軍は満州の占領に成功します。しかし日本軍は今までの戦いで約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していました。政府は戦争遂行が不可能と考え、講和の機会をうかがいます。

一方のロシアは国内の混乱や、度重なる敗北はあれど、戦争を継続する姿勢を見せていました。理由は昨年にバルト海を出航したバルチック艦隊が極東に到着すれば、日本と戦争を続けられるためです。そんなロシアの計算を大きく狂わせたのが「日本海海戦」でした。

日本海海戦における

日露戦争の経過

日本海海戦を指揮する東郷平八郎
出典:Wikipedia

バルチック艦隊は7か月の航海を経て日本海に到着します。5月27日に東郷平八郎率いる連合艦隊は、バルチック艦隊と対峙し、日本海海戦が勃発しました。日本軍は、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を完膚なまでに叩きのめし、海戦史上稀に見る勝利を挙げました。

戦える軍艦を全て失ったロシアは、アメリカの仲介で日本と講和条約を結ぶ事を決めます。9月5日にポーツマス条約が締結され、日露戦争は日本の勝利で幕を閉じました。

日露戦争の結果について

日露戦争は前述した通り、日本の勝利で終わりました。日本はロシアの南下政策を阻止する事に成功し、当初の目的を達成します。

当時の日本は清国に勝利したとは言え、発展途上の中小国にすぎません。一方のロシアは世界有数の大国です。日本が列強の一角であるロシアに勝利した事は世界中を驚かせました。

特に列強の植民地支配を受けていた国々の歓声は大きく、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命など、アジアの各地で独立運動の機運が高まります。日露戦争はその後のアジアの解放にも大きな影響を与えたのです。

日露戦争はなぜ勝てたのか?勝てた理由について

結果的に日本は日露戦争でロシアに勝利しましたが、なぜ日本は列強の一角たるロシアに勝つことができたのでしょうか。日本海海戦や旅順攻略線などで日本が歴史的な勝利を収めた事、日英同盟の影響も大きいですか、この他の要因も日本の勝利に貢献しています。

日本勝利の要因は以下の2つです。

・ロシアの混乱
・アメリカの仲介

当時のロシアが混乱の最中にあったから

日露戦争はなぜ勝てたのか?勝てた理由について

第一次ロシア革命の様子
出典:Wikipedia

勝因の1つが当時のロシアが混乱の最中にあったためです。ロシア帝国は1721年に建国されますが、日露戦争か起きた頃には、貧富の差や階級社会に対する紛糾していました。日露戦争も当初は支持されたものの、当時のロシア軍は、貴族の上級士官が庶民の兵士を支配する構造にありました。

軍の士気は上がらず、時に対立や非効率化を生んでいます。日本軍が各地で勝利を収めると、更にロシア軍の士気は下がる悪循環が起きました。更に1905年1月29日には第一次ロシア革命が起こり、戦争の遂行が不可能となります。ロシアも内政の対応を優先するため、戦争の早期の幕引きを図ったのでした。

また日本は政府や陸海軍はもちろん、国民が一丸となり戦争に勝つために戦争に協力していました。増税などに耐え忍び、新聞で日本の勝利が報道されると歓喜の声を上げる。国民全体の士気の違いも日露戦争の勝敗に繋がった事は間違いありません。

アメリカの仲介

日露戦争はなぜ勝てたのか?勝てた理由について

セオドア・ルーズベルト
出典:Wikipedia

第一次ロシア革命、日本海海戦で戦える艦隊が無くなろうとも、ロシアは鉄道などで物資を運んで戦争を遂行する事はできました。それでも日本との講和に応じたのは、アメリカの仲介があったからです。

1905年5月27日の日本海海戦を経て、小村寿太郎は高平小五郎駐米公使宛てに訓電を出し、中立国アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領に日本とロシアの仲介を頼みます。米友協会会長の座にあった金子堅太郎はルーズベルトと旧知の中であり、ルーズベルトは日本に好印象を抱いていました。更にロシアや日本との利害なども踏まえ、講和の仲介役を務める事に同意。

講和会議はアメリカ・ニューハンプシャー州ポーツマスで行われました。8月1日から17回も行われ、日本もロシアも激しい駆け引きを繰り広げています。最終的に9月4日にポーツマス条約が締結され、日本はロシアに辛勝する事ができました。

日露戦争におけるポーツマス条約について

ポーツマス条約で定められた内容は多岐にわたりますが、重要なのは以下の部分です。

・日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める
・ロシアは満州から撤退する
・ロシアは清国の関東州の租借権・該租借権を日本に譲渡する
・ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
・ロシアは極東方面において海軍力を増強しない

日露戦争の目的はロシアの南下政策の阻止でした。ポーツマス条約を経てロシアは韓国の独立を認め、日本は旅順や大連における租借権を獲得。これらの地域からの撤兵も約束されたため、日本は当初の目的を果たしました。

ポーツマス条約ではロシアが日本は賠償金を支払う事はなく、樺太の50度以北の領土はロシアが領有する事も認められています。ポーツマス条約はロシア側にとっても、決して悪い条件ではありませんでした。

場所はどこで結んだ?

日露戦争におけるポーツマス条約について

ポーツマス海軍工廠
出典:Wikipedia

ポーツマスは地名であり、アメリカのニューハンプシャー州ロッキンガム郡にある市を指します。公式会場に選ばれたのは、公式会場となったポーツマス海軍工廠という場所。ポーツマス条約の締結はロシアの南下政策の阻止という点で、アメリカにとっても重要な案件でした。

歴史的にも価値のある場所なので、1994年には会議当時の写真や資料を展示する常設の「ポーツマス条約記念館」が開設されました。現地では日米露3国の専門家による「ポーツマス講和条約フォーラム」が開催されています。更に条約が締結された9月8日が記念日に定められるなど、今でもポーツマス条約に対する関心は高いです。

関係した国はどこ?

日露戦争におけるポーツマス条約について

ポーツマス条約の正文
出典:Wikipedia

ポーツマス条約は日本とロシアの間で締結された条約ですが、仲介役を担ったのはアメリカでした。前述した通り、当時のアメリカ大統領・セオドワ・ルーズベルトは米友協会会長の金子堅太郎と仲が良く、日本に親近感を抱いています。

更にアメリカもロシアの南下政策を警戒しており、満洲、蒙古、シベリア、沿海州、朝鮮への権益介入を目的に日本を支援する事を決めました。講和に応じたアメリカですが、その背景にはさまざまな思惑があったと思われます。

もしポーツマス条約で講和せず戦争が継続していたら

日露戦争におけるポーツマス条約について

ポーツマス条約の交渉で使われたテーブル
出典:Wikipedia

仮にアメリカが講和会議の仲介に応じなければ、日露戦争は更に長期化した可能性があります。日本はロシアに比べると全ての戦力で劣っており、戦争の期間を1年定め、戦況が優勢な間に講和へ持ち込む事を考えていました。

日本は快進撃を続け、1905年3月に起きた奉天会戦でも勝利を収めます。しかし奉天会戦を経て日本側の弾薬や物資は底をつき、戦争の継続が不可能になっていました。そのため、5月に起きた日本海海戦は講和を行う絶好の機会でした。

ロシアは第一次ロシア革命が起きたものの、物資を鉄道で輸送する事で戦争継続が可能な状況。仮にその後も戦争が続けば、日本はジリジリと押されて劣勢になった事は間違いありません。不利な状況で講和を結べば、ロシアの南下政策を阻止できません。ましてや遼東半島の租借権を得る事は不可能です。

更に日本が敗戦しようものなら、ロシアは朝鮮だけでなく、日本の領土の割譲に動いたはずです。そうなれば北方領土は早くからロシアの手に落ち、北海道すらロシアが領有した可能性も否めません。戦争は始めるより終わらせる方が難しいと言いますが、当時の日本は絶妙なタイミングで戦争を終わらせたと言えます。

日露戦争の賠償金について

ポーツマス条約でロシアの南下政策を阻止した日本ですが、ロシアから賠償金を得る事はできませんでした。その理由は大きく分けて2つです。

・日本がギリギリの勝利だったため
・日露戦争の目的が防衛戦争だったため

賠償金はもらえなかったのか

日露戦争の賠償金について

日露戦争の経過
出典:Wikipedia

日本は奉天会戦と日本海海戦で歴史的勝利を収めたものの、すでに戦争を続けられる状態にありませんでした。既に日本は約180万の将兵を動員し、死傷者は約20万人、戦費は約20億円に達していました。バルチック艦隊が撃破されたロシアも同様ではあるものの、ロシアは広大な領土を持ち戦争を続けることは可能です。そのため、ポーツマス条約を締結する際に、強気に出る事はできません。

外務大臣の小村寿太郎は、ロシアの南下政策を阻止する事を前提に交渉に臨んでいます。政府は最初から賠償金は取れず、ポーツマス条約の交渉が国民の望んだものにならないとわかっていました。ポーツマス条約を締結する前の7月8日、交渉役を担った小村寿太郎は日本を出発しますが、その道のりを多くの国民が歓声を上げて見送っています。この時に小村寿太郎は「帰国する時には、人気は全く逆でしょうね」と呟きました。

ポーツマス条約で日本は賠償金を取る事を最初から考えておらず、仲介役のアメリカにも意向を伝えています。「金が欲しくて戦争した訳ではない」という姿勢を貫いた事は、アメリカやイギリスにも好意的に捉えられており、ポーツマス条約の交渉でもアメリカは日本を支持。各国のメディアも「平和を愛するがゆえに成された英断」と称賛しました。

賠償金の使い道について

日露戦争の賠償金について

日清戦争で日本は清国に圧勝する
出典:Wikipedia

日清戦争で日本は2億テールという莫大な賠償金を得ています。この資金を元に日本では貨幣法などが施行され、銀本位制から金本位制に移行しました。日露戦争で日本は20億円もの戦費を消費しており、日清戦争の2億円に比べると、戦費の差は実に10倍。現在の金額にして2兆6000億円に相当します。当時の政府の歳入は4億円であり、国家財政をはるかに超えたものであり、大部分は外債で賄われています。

仮に賠償金が支払われた場合、賠償金は外債の返済に使われたでしょう。また工業化の推進や軍需産業などにも賠償金は使われ、日本の近代化が進んだ事も予想されます。

当時の国民の不満状況について

日露戦争の賠償金について

日比谷焼き討ち事件で焼き討ちに遭った施設
出典:Wikipedia

日本国民は日露戦争の戦利品として、50億円ほどの賠償金を得られると確信していたため、ポーツマス条約の内容を知り立腹します。9月1日の新聞では「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」などの見出しが並びます。

9月3日には大阪市公会堂で集会が開かれ、「講和条約を破棄してロシアとの戦争継続を求める」などの過激な主張も飛び出しました。9月5日には日比谷公園で大規模なデモである日比谷焼き討ち事件も発生。各地の警察署も放火され、9月6日には戒厳令が敷かれています。

日本人が賠償金を得られると思っていたのは、新聞では連日連夜日本の勝利が報道されていたため。新聞が日本が戦争の遂行が困難である当時の情勢を正確に伝えていれば、ロシアにも情報は漏洩され、ロシアが戦争の継続を望む可能性がありました。国民は政府に欺かれた形になりましたが、メディア側にとってもやむを得ない事情がありました。

国民は立腹したものの、政府にとってポーツマス条約は満足のいく内容でした。後に小村寿太郎が帰国した時、国民は激しい罵声を浴びせており、海軍大臣の山本権兵衛と総理大臣の桂太郎は小村寿太郎を抱えるようにして歩きます。理由は小村寿太郎が狙撃された時に、身を挺して守るためでした。

日比谷焼き討ち事件により死者は17名、負傷者は500名以上、更に検挙者は2000名以上に登るなど、日露戦争時の国民の不満は大きな余波として現れたのでした。

日露戦争時のイギリスやアメリカの関係について

日露戦争勝利に大きく貢献したのは、日英同盟を締結したイギリスと、ポーツマス条約の仲介役を担ったアメリカです。両国は当時世界有数の大国であり、なぜ中小国の日本を支持したのか、疑問に思う人もいるかもしれません。この項目では、日露戦争時のイギリスやアメリカとの関係について解説します。

イギリスやアメリカはどのような支援をしてくれたのか

日露戦争時のイギリスやアメリカの関係について

第二次日英同盟調印記念はがき

イギリスが日本と日英同盟を締結した理由は、ロシアの南下政策を阻止するとともに、東アジアにおけるイギリスの植民地や権益の保持を図る事にありました。

日英同盟が締結されたのは1902年の事。主な内容は以下のとおりです。

・イギリスの清国における特殊権益、日本の清国と韓国における特殊権益を相互に承認する。
・第三国と戦争となった場合、他の一方は中立を守る。
・2国以上との交戦となった場合に、同盟国は締結国を助けて参戦する。

ロシアとてイギリスを敵に回す事は避けたいと考えていたため、日英同盟は日本にとっての大きな牽制となります。更に日本とイギリスは秘密協定を結び、日本は単独で対露戦争に臨む方針を伝えています。イギリスは日本の姿勢に好意を持ち、好意的中立を約束しました。

日露戦争時のイギリスやアメリカの関係について

アメリカはフィリピンを植民地にしていた
出典:Wikipedia

アメリカがポーツマス条約の仲介役を担った事は先ほど解説しました。アメリカが日本に好意的な立場を取ったのは、イギリスと同じく東アジアにおける権益や植民地の保持を図る事が目的でした。

日本海海戦後の1905年7月29日、総理大臣の桂太郎とウィリアム・タフト陸軍長官は会談を行い、桂・タフト協定を締結します。この協定の内容は以下のとおり。

・日本はアメリカの植民地であるフィリピンに野心のないことを表明する。
・極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
・アメリカは、日本の朝鮮における指導的地位を認める。

アメリカは日本が急速に近代化する様子に懸念も抱いていたものの、フィリピンに野心を持っていない事を知り、日本に良い印象を抱きます。この協定がその後のポーツマス条約締結に大きな影響を与えた事は間違いありません。

日本とイギリスとアメリカはこの頃は良い関係を築いてはいたものの、それは領土や植民地の権益を保持する線引きがあっての事。日露戦争は外交面でも大きな駆け引きが行われていた事がわかりますね。

支援によりどのような効果、影響があったか

日露戦争時のイギリスやアメリカの関係について

エドワード・ヘンリー・ハリマン

日英同盟を経てイギリスは表向きは中立の立場を守ります。しかし、実際は日本を勝利に導くために様々な手を打ちました。諜報活動やロシア海軍へのサボタージュ、更に戦費調達などで日本を大いに助けました。

アメリカも桂・タフト協定より前から日本を支持しており、鉄道王のエドワード・ヘンリー・ハリマンは、戦時中に日本の国債を買い支えるなど、金銭面で日本を支援します。ポーツマス条約の仲介だけでなく、アメリカはずっと日本に協力を続けていました。

日露戦争で活躍した人をまとめてみた

日露戦争では政治家や軍人をはじめ、多くの人達が活躍しています。全てを解説はできませんが、日本人外国人問わず、簡単にまとめていきたいと思います。

日本人①・桂太郎

日露戦争で活躍した人をまとめてみた

桂太郎
出典:Wikipedia

桂太郎は長州藩出身の陸軍軍人であり、日露戦争勃発時の総理大臣です。桂太郎は日露協商や満韓交換論を説く伊藤博文・井上馨を退け、日露戦争に踏み切りました。日英同盟の推進は小村寿太郎、海軍の軍費の拡張は海軍大臣の山本権兵衛の手腕が大きく、桂太郎自体が協力なリーダーシップを発揮したわけではありません。

とは言え小村寿太郎を外務大臣に起用したのは桂太郎であり、日露戦争に踏み切った決断もある意味で成功に繋がりました。また桂内閣は政友会に増税についての根回しを行う等、他の勢力との複雑な駆け引きを行い、戦争を遂行し続ける事に成功しています。桂太郎もまた日露戦争を勝利に導いた1人と言えるでしょう。

日本人②・小村寿太郎

日露戦争で活躍した人をまとめてみた

小村寿太郎
出典:Wikipedia

小村寿太郎は桂太郎内閣の総理大臣であり、ポーツマス条約の締結に尽力した人物です。150cm以下の身長と外見から「ネズミ公使」とも呼ばれています。彼は細身の身体ながら、ポーツマス条約締結時にロシア相手に一歩も引かない駆け引きを見せ、ロシアの南下政策を阻止する事に成功しました。

小村寿太郎は第一次桂太郎内閣総辞職後に一度外務大臣を辞任しますが、1908年から第二次桂太郎内閣の外務大臣として再び外交の場に立ちます。小村寿太郎は幕末に締結された不平等条約の改正に着手し、関税自主権の撤廃に成功します。更に韓国の併合にも着手するなど、後の日本の政策にも大きな影響を与えました。

日本人③・山本権兵衛

日露戦争で活躍した人をまとめてみた

山本権兵衛
出典:Wikipedia

山本権兵衛は「日本海軍の父」と呼ばれた海軍軍人です。1898年から1906年まで海軍軍人を務め、日本の海軍の近代化に大きな影響を与えました。戦艦6隻装甲巡洋艦6隻を中核とした六六艦隊計画を主導し、士官には海外留学を奨励。更に国内の製鉄所・造船所の整備や日英同盟の推進などにも関与します。

山本権兵衛のおかげで、日本の海軍力は日露戦争勃発時には世界第4位まで浮上しました、日露戦争の勝利は、彼がいなければ成立しませんでした。山本権兵衛は政治家としても優秀で、2度も総理大臣に就任しています。日露戦争の前後に彼が海軍大臣に就任していた事は日本にとっては幸運でした。

日本人④・東郷平八郎

東郷平八郎
出典:Wikipedia

東郷平八郎は連合艦隊司令長官として、日露戦争の海戦を指揮した人物です。彼が指揮した日本海海戦は海戦史上稀に見る勝利となり、ロシアをポーツマス条約の講和に応じさせる決定的な要因となりました。東郷平八郎の名前は世界に轟き、ロシアに虐げられていたトルコなどの国では子どもに「トーゴー」という名前をつけた親もいた程です。

日露戦争の華々しい功績から、後に東郷平八郎は元帥の称号を授けられます。ただ神格化されすぎた結果、海軍における発言力は無視できないものとなり、しばしば軍政における弊害にもなりました。やはり東郷平八郎は生粋の軍人だったという事でしょうか。

日本人⑤・乃木希典

日露戦争で活躍した人をまとめてみた

乃木希典
出典:Wikipedia

乃木希典は日露戦争における激戦の一つである旅順攻囲戦の指揮した人物です。乃木は半年かけて旅順要塞を攻略するものの、多くの日本兵も犠牲になりました。乃木希典は責任を感じ、日露戦争終結後に明治天皇に自決する事を申し出ています。

しかし明治天皇は「どうしても死ぬというのであれば、朕が去った後にせよ」と述べます。更に乃木希典を学習院の校長に任命するなど、彼に生きる意味を与えました。やがて明治天皇が1912年7月30日に崩御します。乃木希典は明治天皇の後を追い、9月13日に自決しました。

外国人①・アナトーリイ・ステッセリ

日露戦争で活躍した人をまとめてみた

アナアーリイ・ステッセリ
出典:Wikipedia

アナトーリイ・ステッセリは日露戦争で旅順要塞司令官を務めた人物です。旅順包囲戦で乃木希典率いる日本軍を追い詰めるものの、長期戦の末に旅順要塞は陥落します。旅順要塞陥落後、乃木希典はステッセリと会談しますが、乃木希典はあくまで紳士的な対応を厳守します。ステッセリに帯剣を許し、酒を飲み交わして打ち解けました。

ステッセリは旅順包囲戦で敗北した経緯から、低い評価を下されがちです。しかし旅順要塞の前に多くの日本兵が犠牲になった事は事実。一度はロシアで死刑判決が下りますが、後に禁錮10年となり、更に恩赦で予定より早く出所します。その背景には乃木希典の紳士的な背景があったとされます。出所後は茶商人として穏やかな余生を送りました。

外国人②・セルゲイ・ウィッテ

日露戦争で活躍した人をまとめてみた

セルゲイ・ウィッテ
出典:Wikipedia

セルゲイ・ウィッテは帝政ロシアの政治家であり、ポーツマス条約の講和で小村寿太郎と折衝を重ねた人物です。身分の差か明確な帝政ロシアにおいて、鉄道会社勤務から政治家に転身した異色の人物で、ロシアの工業化に貢献します。

ポーツマス条約の締結の際には、小村寿太郎に一歩も引かない姿勢を見せ、賠償金の支払いを回避することに成功。樺太の領土の一部をロシアが領有する事も認めさせ、その手腕はロシアでも評価されました。後に帝政ロシアの初代首相になり、ロシアの経済の立て直しに尽力しています。

まとめ

今回は日露戦争の経過や、日露戦争が起きた経緯などをまとめました。日露戦争は、日本が列強の一角であるロシアに勝利した歴史の転換点です。多くの犠牲者を伴ったものの、当時の日本国民は一致団結してロシアに立ち向かいました。結果的な日本はロシアの南下政策を阻止し、東アジアの安寧をもたらす事に成功します。

今回解説したのは日露戦争のごくごく表面的な部分です。今回ほ記事をきっかけに日露戦争について興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/日露戦争

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