実は優しかった!?天下統一を果たした織田信長の人物像と人生年表まとめ!名言・家紋・死因も解説

織田信長は「好きな武将ランキング」で不動の首位を誇る戦国大名です。信長はなぜ、現代人を惹きつけ、強く支持されるのでしょうか。

この記事では、信長の人生年表を概観したのち、信長が行った政策や事業を解説し、政治家としてのビジョンを解説します。さらに、史料における人物評や信長の名言などを紹介し、信長の真の人物像に迫ります。

織田信長とは?

織田信長の肖像画

出典:wikipedia

 

織田信長は室町時代後期に生きた戦国大名で、秀吉・家康とともに戦国の三英傑として知られています。信長は清州三奉行の一人だった祖父信定、父信秀の跡を継いで尾張国内で勢力を広げました。尾張一国を平定したのち、駿河国および遠江国の今川氏を滅ぼし、美濃の斎藤氏を攻略。続いて、北近江の浅井氏、越前の朝倉氏、甲斐の武田氏、伊勢長島一向一揆、石山本願寺などの敵対勢力を次々と滅ぼしていきますが、天下統一を目前に本能寺の変で非業の最期を遂げました。

信長は全国を軍事的に統一する一方で、キリスト教の布教を認め、関所の撤廃や楽市楽座など革新的な政策を打ち出すなどして、社会が中世から近代へと移行する礎を築きました。

織田信長の人生年表

最初に城主となった那古野城跡(名古屋城二之丸)

出典:wikipedia

1534年5月 織田信秀の嫡男として尾張国に誕生。那古野城に居住。
1546年 元服。三郎信長と名乗る。
1548年 斎藤道三の娘、帰蝶(濃姫)と結婚。
1551年 父の信秀が病死し、家督を継ぐ。
1553年 重臣の平手政秀、信長の行状をいさめ、切腹。岳父の斎藤道三と会見する。
1555年 清州城を居城とする。
1556年 弟の信行・林秀貞・柴田勝家が謀反を起こす。
1557年 信行を清州城で謀殺する。
1559年 上洛して将軍の足利義輝に謁見。
1560年 桶狭間の戦いで今川義元を破る。
1566年 木下藤吉郎に墨俣城を築かせる。
1567年 岐阜城下の加納を楽市とする。
1568年 領国内の関所を撤廃する。
1569年 ルイス・フロイスにキリスト教の布教を許可する。
1570年 朝倉景健・朝倉義景・浅井長政らと戦う。
1571年 比叡山延暦寺を焼き討ちする。
1572年 三好義継・松永久秀が謀反を起こす。
1573年 足利義昭を追放し、室町幕府を滅亡させる。
1575年 長篠の戦いで武田勝頼を破る。家督を嫡男の信忠に譲る。
1576年 安土城を築く。
1577年 安土城下を楽市楽座とする。
1578年 荒木村重が謀反を起こす。
1579年 安土城天守閣に移る。
1582年 恵林寺を焼き討ちにする。明智光秀の謀反により、本能寺で切腹。

織田信長はどんな人物だったのか?

うつけ者と言われた青年時代

16~18歳頃の信長は馬術や水練、武術の稽古や鷹狩りに励む一方、髪を茶筅髷にして赤や黄色の糸で結い、湯帷子を袖脱ぎにして朱鞘の太刀を差すなど、いわゆる「かぶき者」でした。歩き食いをしたり他人の肩に寄りかかって歩いたりなど、まったく人目を気にせずふるまい、人々からは「大うつけ(大馬鹿者)」と言われていました。

父信秀の葬儀の折も、信長は太刀と脇差を荒縄で巻きつけ、袴も履かないという姿で現れ、仏前で抹香をつかんで投げつけるという前代未聞の行動に出ました。家臣の平手政秀が信長のうつけぶりを苦に切腹してしまうという事件も起きています。

ルイス・フロイスの信長評

1569年、京都の二条城で信長と会見した宣教師ルイス・フロイスは、『日本史』の中で信長について次のように書き残しています。

「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ひげは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった」

「酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した」

「彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった」

「きわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタンとして、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない」

フロイスの記述からは、信長の強烈な個性が浮かび上がってきます。信長の魅力は、カリスマ性や先見性、常識にとらわれない自由な発想や新しい物への好奇心に加え、容易につかみきれない多面性にあるといえるのではないでしょうか。

信長は残虐な人物?

「なかぬなら/殺してしまえ/ホトトギス」という句に見られるように、残忍なイメージの強い信長ですが、実際はどうだったのでしょうか。

信長の残忍性の根拠として、謀反を起こした荒木村重の妻子36人と家臣およびその妻子600人あまりを処刑したこと、恵林寺や比叡山を焼き討ちしたこと、長島一向一揆で火攻めによりおよそ2万人を殺害したこと、浅井久正・長政と朝倉義景の首を酒宴の添え物として披露したことなどが挙げられています。

しかし、当時は戦いや謀反を起こした者の大量殺戮は当たり前のように行われており、必ずしも信長個人の残忍性によるものとはいえません。また、信長は一度ならず謀反を起こした家臣を許すなど、温情を見せることもありました。浅井長政らの首のエピソードも、首化粧という当時の風習を考慮して考える必要があります。総合すると、戦国大名の中で信長が特に残虐だったという根拠はないと言えるのではないでしょうか。

弱い者への優しさ

自らに敵対する者に対しては、相手が僧であろうと親族であろうと、あるいは女子供であろうと容赦なく攻め滅ぼした信長ですが、弱い者には意外なほどの優しさを示しました。体の不自由な人の面倒をみるよう取り計らったり、秀吉の妻おねが夫との不和に悩んでいた際にアドバイスを送ったりなど、細やかな気遣いのできる人であったと言えるでしょう。

織田信長が行った政策

経済政策「楽市楽座」を行う

「楽」とは規制が緩和された状態を表し、「座」は商工業者などによる同業者組合を指します。楽市楽座は、独占販売権や非課税権などの既得権益を持つ商工業者を排除し、自由取引市場を作りだすことを目的とするものです。

楽市楽座によって、市に制限されていた経済活動は城下のどこでも行えるようになり、城下の者は誰でも商取引に参加できるようになりました。

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関所を撤廃し流通・交易を発展させる

戦国時代は領内に関所を設けて通行料を徴収するのが一般的でしたが、信長は1568年に領国内の関所を撤廃しました。信長は関所の撤廃とともに道路や水路の整備を進め、通行や輸送を円滑にしすることで流通や交易を促進しました。

通貨法令を出し経済活動を円滑に

信長は1569年に撰銭令を出し、貨幣流通の増加を図りました。永楽通宝を基準銭とし、それ以外の銭貨との交換レートを定めることで商取引を安定させ、商業活動を促進するという狙いがありました。

また、高額な輸入品の取引では金貨と銀貨の使用を認め、コメを通貨として利用することを禁じることで貨幣の流通を促しました。信長は自ら「名物狩り」と称して高価な茶器や絵画などを購入し、多大な金貨・銀貨を市場に投入。貨幣の流通拡大を促しました。

織田信長の名言

織田信長の肖像画

出典:wikipedia

「人を用いる者は、能力があるかどうかを選抜の基準にすべきだ。奉公年数の長さは問題ではない」

信長は庶民とも分け隔てなく接し、家柄の低い者や新参の者であっても、能力があれば積極的に取り立て、重要な役職につけました。古くからの価値観にとらわれず、合理的な考え方をする信長の性格がよくあらわれた言葉です。

「器用というのは他人の思惑の逆をすることだ」

ここでいう器用とは、有能・能力が高いという意味合いです。戦国の世を生き抜くには、他人の裏をかく知力や大胆さが必要です。他人と違うことをするのを恐れない、信長らしい言葉と言えるでしょう。

「人城を頼らば、城人を捨せん」

人が城を頼るようになれば、落城するだろうという意味です。強固な城が人を守ってくれるわけではなく、あくまで人が城を守るのだと戒めた言葉です。

「是非に及ばず」

「やむを得ない」という意味合いで、信長の最期の言葉として有名です。本能寺で襲撃を受けた信長は、蘭丸に「誰の企てか」と聞きます。「明智の手の者と見受けられます」という蘭丸の答えに対し、信長が返した言葉です。

信長が好んだ歌

「死のうは一定/しのび草には何をしよぞ/一定かたり遺すよの」

(人は誰でも死ぬもの、生きていたときのことをしのんでもらうために何をしておこうか。人々は私が生きているうちにしたことを語ってくれるだろう)
室町時代に作られた歌で、信長が好んで口にしたと言われています。

「人間五十年/下天のうちを比ぶれば/夢幻の如くなり/ひとたび生を享け/滅せぬ者のあるべきか」

幸若舞(室町時代に流行した、語りを伴う曲舞)『敦盛』の一節で、信長が好んで演じたと言われています。「人間(じんかん)五十年」とは、人の寿命は50年という意味ではなく、「人の世の50年は、天界の時の流れの中ではひと時の夢幻のようなものだ。生まれてきて、死なない者はいない」という内容の歌です。桶狭間の戦いの前夜にも、信長は『敦盛』を舞ってから出陣したと伝えられています。

織田信長の家紋ってどんなの?

尾張織田弾正忠家の家紋

出典:wikipedia

織田家は有名な木瓜紋をはじめとする7種類の家紋を用いていました。

①織田木瓜紋

木瓜紋は日本の十大家紋のうちの一つで、子孫繫栄を祈願する家紋です。織田家の木瓜紋は外郭が5つの五瓜で、「織田瓜」と呼ばれています。

②揚羽蝶紋

織田氏は平氏の子孫と称していたことから、平氏の定紋である揚羽蝶紋を用いていました。

③永楽通宝紋

永楽通宝(永楽銭)は室町時代に中国(明)から大量に輸入され、実際に使われていました。信長が永楽通宝の意匠を旗印として用いていたのは、貨幣流通に強い関心を持っていたためと言われています。

④五三桐紋

信長が足利義昭を将軍職につけた際、足利家から恩賞として与えられた紋です。五三桐紋はもともと足利尊氏が後醍醐天皇から下賜された高貴な紋で、長興寺が所蔵する信長の有名な肖像画「紙本著色織田信長像」には、五三桐紋の入った裃姿の信長が描かれています。

⑤丸に二引両紋

信長が五三桐紋とともに足利義昭から与えられた紋で、足利家代々の家紋です。

⑥十六菊紋

元々は天皇家の御紋です。信長は十六菊紋を皇室から下賜され、用いていました。

⑦無文字紋

禅の世界観である「無」の字を意匠とする紋です。

織田信長の死因とは?

静岡県富士宮市の西山本門寺の信長公首塚

出典:wikipedia

1582年5月29日、信長は毛利氏征討の準備のため、安土城を発ちました。京都に着いた信長は、わずか20~30人の小姓を連れて宿所の本能寺に入りました。

6月2日早朝、家臣である明智光秀の軍勢が本能寺を襲撃しました。信長は森蘭丸(成利)らとともに自ら弓や槍をとって応戦しましたが、最期は女房衆を逃がしたうえで、館の奥へ入って切腹したと伝えられています。

信長はなぜ討たれたのか

本能寺の変の首謀者が光秀であることは確かですが、光秀がなぜ信長を討とうと考えたのか、その動機は明確にはわかっていません。

従来までは、信長への怨恨説が通説となっていました。信長が家康を安土城に招いた際、家康を饗応する役を光秀が任されました。ところが光秀が不手際をして信長を激怒させ、暴力をふるわれたことから信長を深く恨み、謀反に及んだというものです。しかし現在では、この説は信ぴょう性が低いとされています。

また、実際に挙兵したのは光秀であっても、その背後に黒幕がいたという説もあります。代表的なものとして、

  • 朝廷黒幕説
  • 羽柴秀吉黒幕説
  • 徳川家康黒幕説
  • 足利義昭黒幕説
  • 長宗我部元親黒幕説
  • 本願寺黒幕説
  • 高野山黒幕説

などが挙げられます。

しかしいずれの説も、史料的な根拠に乏しく憶測の域を出るものではありません。

織田信長の子孫について

織田信長の肖像画

出典:wikipedia

 

信長は正室の帰蝶や側室との間に11人の男子と6人(12人とも)の女子がいました。息子たちの多くは関ヶ原の戦いで西軍についたため、改易されています。

信長の血を引く末裔としては、次男信雄、七男信高、九男信貞の子孫が存続しています。

長男信忠の子孫

信忠は本能寺の変に巻き込まれ、切腹しています。信忠の死後は嫡男の秀信が織田家の家督を継ぎました。関ヶ原の戦いで徳川家康に敵対した秀信は高野山へ送られ、25歳の若さで亡くなりました。秀信は嫡男を残さなかったため、織田信長の嫡流は断絶しました。

次男信雄の子孫

信雄の四男信良の家系は出羽高畠藩・天童藩の大名となりました。五男高長の家系は丹波柏原藩の大名となり、分家の子孫は高家旗本(徳川幕府で儀式や典礼を司る家柄)となりました。徳川幕府はのちに、信良の家系を織田本家としています。

天童藩・柏原藩の織田家は明治時代に華族の身分を与えられ、現在も存続しています。

三男信孝の子孫

信孝は本能寺の変ののち、織田家の後継問題をめぐって兄信雄・秀吉と対立し、戦いに敗れて切腹しました。妻子も処刑されたため子孫は断絶しました。

四男羽柴秀勝の子孫

秀吉の養嗣子となりましたが、17歳で病死したため、子孫は残っていません。

五男信房

本能寺の変の際に、長兄信忠と行動をともにしていた信房は二条城で戦死しました。子孫は金沢藩士となりました。

六男信秀の子孫

信秀は信長により美濃の揖斐に所領を与えられました。しかし信秀の長男重治は何らかの理由によって家督を継ぐことができず、家は断絶しました。

七男信高の子孫

信高の死後、嫡男の高重が徳川幕府の高家旗本となり、家は明治維新まで存続しました。

八男信吉の子孫

信吉は秀吉から所領を与えられましたが、関ヶ原の戦いで西軍についたため改易を受け、後に出家しました。子孫は水戸へ移り、津田姓を名乗ったとされています。

九男信貞の子孫

信貞の長男信次の子の貞幹は、徳川光友に召し抱えられて尾張藩に仕えました。次男貞置の三男貞則、四男貞輝は分家し、それぞれ旗本となり徳川幕府に仕えました。

十男信好

信長の死去後、まだ幼い頃に秀吉に引き取られ家臣となりました。

十一男長次

信長の死去後、秀吉に仕えました。関ヶ原の戦いで西軍につき、討ち死にしました。

参考文献

 

『信長公記』(太田牛一著/中川太古訳/新人物往来社)

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