清少納言の生涯と人物像まとめ!枕草子や性格・死因も解説

清少納言といえば「春はあけぼの…」で知られる枕草子が有名でしょう。千年以上前に執筆されたこの随筆は現在にも通じるものがあり、人間の感性は変わらない事を伝えてくれます。
とはいえ、清少納言の生涯や性格等はわからない人も多いのではないでしょうか?今回は清少納言の生涯や、枕草子が出来た経緯等について紹介していきます。

清少納言とは?


(清少納言 枕草子絵巻 鎌倉時代 出典:Wikipedia)

清少納言は平安時代中期に活躍した女性です。優れた教養を持ち、藤原定子の女房として活躍する傍ら、枕草子を書き上げています。清少納言が宮廷で出仕したのはわずか7年程ですが、その時のエピソードは枕草子でいきいきと描かれています。定子が亡くなった後は出仕を辞め、その後については良く分かっていません。

容姿

平安時代は真っ直ぐな黒髪が女性の美しさとして、大きな意味合いを持っていました。清少納言はくせ毛だったようで、かなりのコンプレックスを持っていました。枕草子で「灯した灯で自分の髪の節が昼間より見えて恥ずかしい」等と何度も自身の髪について触れています。宮廷では付け毛をしていたとも言われます。
また顔については不明ですが、百人一首のイラストでは横向きに描かれている事が多いです。一説では容姿が良くないから正面から描くのを避けたとも言われています(モンストでは美女ですが)。
とは言え清少納言は2回結婚しており、宮廷では多くの男性からアプローチを受けています。容姿は優れなかったとしても、人間的な魅力に溢れていた事は想像出来ます。

本名は?

清少納言の本名は不明です。この時代、女性は結婚する男性にしか名前を教えないという習わしがありました。清少納言に限らず多くの女性は名前が分かっていません。諾子(なぎこ)と言う説もありますが、確証はありません。

また清少納言の少納言とは職名の事であり、正式な読み方は「せい・しょうなごん」です。しかし親族に少納言職を務めた人物はおらず、名前の由来は不明です。

清少納言の生涯・年表

清少納言の前半生


(清原元輔 出典:Wikipedia)

生没年は不明で、966年頃と言うのが定説です。父親は清原元輔と言う著名な歌人であり、万葉集の訓読や後撰和歌集の編纂をしています。曽祖父は清原深養父と言い、古今和歌集を代表する歌人でした。清少納言は幼少期から漢学を学び、この時代の最高水準の教育を受けています。

981年頃、15歳前後で陸奥守の藤原則光と結婚し翌年には則長を生みます。しかし則光は無骨な性格だったようで教養深い清少納言とそりが合わず、10年程で離婚しています。

宮廷への出仕


(藤原定子 枕草子絵巻より 出典:Wikipedia)

993年の27歳頃に、関白藤原道隆から娘の定子の女房として出仕をお願いされます。定子は977年生まれなので、清少納言より10歳程年下でした。

女房は政務、朝廷行事等の必要事項を主人に伝える仕事です。男性貴族からの贈答や、機知をかけた応酬等に対し返答も求められます。女房は優れた教養も必要だったので、清少納言には天職でした。

道隆が清少納言に定子の女房役をお願いしたのは、定子の教育係も兼ねていたからです。
当時は藤原家が権力を握りつつあった時代。道隆は定子を一条天皇に嫁がせました。定子が一条天皇の子を産めば道隆の権力はさらに高まります。道隆は定子が一条天皇から寵愛される教養ある妃になって欲しかったのです。

定子は清少納言に教育を受ける前から聡明な資質を持ち、父親譲りの明朗快活な性格でした。清少納言は定子に献身的に仕え、強い尊敬の念を持っていました。
清少納言は貴族と対等に応酬を交わし、その教養は評判を呼びます。定子のサロンは活気に満ちていました。また多くの貴族と親交を持ち、特に藤原実方とは恋仲であったと言われます。

定子の没落


(一条天皇像 出典:Wikipedia)

清少納言が定子に仕えた頃、道隆の家系は隆盛を誇っていましたが、995年に道隆が糖尿病で病死すると、家運は傾いていきます。

道隆の弟である藤原道長が朝廷で力を持つようになり、定子の兄弟も左遷させられ、道隆派は朝廷内で没落していきます。清少納言はそんな中でも定子に献身的に仕えていましたが、「藤原道長と通じている」と噂を立てられてしまい、定子の為に宮中での出仕を辞めてしまいます。

定子も権力闘争に疲れ出家をしていましたが、一条天皇は定子を深く愛しており、宮廷に呼び戻します。定子は清少納言に再び女房として出仕して欲しいと要請し、清少納言は再び出仕を始めます。2人には年齢を超えた信頼が芽生えていたのです。

定子と一条天皇の仲は良好でしたが、1000年に定子は難産の末に24歳で亡くなります。清少納言の悲しみは大きく、朝廷への出仕を辞めてしまいます。

出仕を辞めた後の清少納言


(藤原実方(菊池容斎『前賢故実』より)出典:Wikipedia)

宮廷での出仕を退いた後は親子程離れた年の藤原棟世と再婚し、子馬命婦と言う娘が生まれます。再婚の時期ははっきりせず、離婚後まもなくと言う説もありますが、宮廷で実方と恋仲だったと言われる事から、朝廷時代に夫がいるとは考えづらいです。1000年頃の再婚だとすると当時ではかなりの晩婚かつ高齢出産です。

その後は藤原棟世がいた摂津国で暮らしたと言われます。死因やその時の状況は不明ですが、晩年には父親の山荘のあった東山月輪に住み、宮廷で親交のあった貴族や女房と親交を持った形跡があります。後述する枕草子は1008年頃まで執筆していたようです。

清少納言の死因

その後は1025年頃に59歳で亡くなったと言われます。醜い老婆になったとも言われますが、これは「才を持つ女性は不幸になる」という鎌倉時代の思想から来ています。実際には宮廷の事を思いながら慎ましく暮らしたのではないでしょうか?

清少納言の生涯年表

966年 誕生
981年 藤原則光と結婚。翌年に則長誕生
991年 則光と離婚(その後も宮廷で関わりあり)
993年 藤原道隆の要請で定子の女房となる
995年 道隆死去。翌年に定子の兄弟が左遷
この頃に定子も清少納言も宮廷から退く。
997年 定子の還俗に伴い出仕再開
1000年 定子死去に伴い宮廷から退く
後に藤原棟世と結婚し子馬命婦誕生
1008年?頃まで枕草子を執筆する
1025年頃死去

清少納言と紫式部との関係は?


(紫式部 (土佐光起筆 石山寺蔵)出典:Wikipedia)

清少納言と紫式部はライバルだったと言われていますが、2人に面識があった記録はありません。

999年に藤原道長が権力を掌握する形で、娘の彰子を一条天皇に嫁がせます。この時点で一条天皇には妃が2人いました。しかし1000年には定子は死去。清少納言は宮廷勤めを辞めてしまいます。
道長は彰子の女房を勤めて欲しいと打診しましたが断られています。1006年に紫式部は彰子の女房となり宮廷勤めをしています。2人が宮廷に出仕した時期はずれているのです。

紫式部日記に書かれた事


(紫式部日記絵巻 出典:Wikipedia)

面識がないとは言え、紫式部が清少納言の事を強く意識していた事が紫式部日記から伺えます。現代語訳すると

・清少納言は得意顔で漢字を書き散らしてるけど、よく見たら間違いも多い。風流を気取る人は、周囲と違う感性を持とうとするあまり、大した事ではない事に感動したり『素敵』と思う。いずれ一般的な感覚とかけ離れてしまい、中身のない人間になる。そんな人は将来ロクな事にならない。

と辛辣な評価を下しています。紫式部が宮廷に出仕する頃は枕草子は貴族の間でも評判になっており、その中には清少納言が教養で男性をやり込めたり、いきいきとしたサロンの様子が綴られていました。

紫式部は漢字が読めるのに読めないフリをする等、優秀さを表に出さない性格でした。清少納言の社交的な性格は根本的に合わなかったのでしょう。

紫式部は一方的に清少納言の事を悪く言っていますが、清少納言は紫式部の存在さえも知らないままだったのかもしれません。
歴史にifはありませんが、もし2人が同じ時期に宮廷にいたら、性格の違いや立場の違いからライバル関係にあった可能性はありますね。

清少納言の代表的な作品

枕草子


(枕草子絵巻 出典:Wikipedia)

清少納言を代表する作品です。紫式部の執筆した源氏物語は日本最古の長編小説ですが、枕草子は日本最古の随筆でありブログです。「をかし」という知的な趣を楽しむ様はこの枕草子から始まったと言われます。

枕草子は定子が冊子を清少納言に持ってきた事から始まります。

定子「この冊子に何を書こうか迷っています。一条天皇は史記(中国の歴史書)を書き写しているようです」と尋ねると
清少納言はそれは枕でございます」と答えました。

定子は返答に感嘆し、その冊子を清少納言に渡します。

当時は紙は貴重であり、天皇の妃から頂くのは名誉な事でした。清少納言はその日から枕草子を書き連ねます。

枕の意味


(白楽天・『晩笑堂竹荘畫傳』より 出典:Wikipedia)

清少納言は中国の詩人、白居易の詩文集の一節である「書を枕にして眠る」を引用して答えたと言われます。

書を枕にして眠るという事は、枕元に冊子を置いておき、気づいた事を書き留めておけばどうですか?という事になりますね。

枕の意味は諸説あり、他にも一条天皇が書いている史記を敷きと掛け言葉にし、「帝が敷き布団だから、皇后は枕ですね」と返答したとも言われます。

枕草子の内容

清少納言が感じた事を書き綴ったものです。内容は大きく3つに分けられます。

①類聚的章段:清少納言が気になった山や池等、テーマに沿ったものを次々と書き連ねたものです。

憎たらしいもの。長話するお客。硯に髪の毛が入ってすられたもの…etcという感じです。あるテーマで感想を書きながら、清少納言の独自の感性が書き記されています。

 

②日記的章段:こちらは清少納言が宮廷で過ごした日々の備忘録です。

定子との思い出や、とある貴族をやり込めた話等、清少納言の生き方がありありと記されています。例は後の百人一首の項を参照して下さい。

 

③随想的章段:清少納言が風情を感じたものをテーマに書き連ねたものです。

最も有名なのはやはり枕草子の冒頭のフレーズでしょう。

春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは 少し明かりて紫だちたる雲の細くたなびきたる

こちらは随想的章段と言われています。

これらの章段が約300あります。実際には各章段は区切られておらず、時系列もバラバラです。章段数については未だに議論が分かれています。

枕草子の歴史的な意味は?


(藤原道長 出典:Wikipedia)

枕草子が作られた背景には、清少納言が生涯尊敬し続けた定子の存在があります。枕草子を読むと定子の聡明さを示した文章が随所に盛り込まれています。

枕草子を執筆し始めた頃、宮廷では藤原道長が台頭し道隆派は左遷されます。定子も宮廷で居場所をなくして、出家していた事もありました。後に復帰はするものの、定子の立場は微妙なものでした。清少納言は女房として枕草子を通じて、定子の魅力や楽しかったサロンの様子を皆に発信しようとしたのです。広報やSNSに近い意味合いもあったのです。

日記的章段の項目は定子が没落した頃のエピソードは描かれず、定子が唯一の一条天皇の妃だった頃の楽しかったエピソードばかりが書かれています。定子死去後も執筆は続き、1008年頃までその様子が確認されます。

枕草子は定子が存命時から既に宮廷で読まれ始めており、定子死去後は評判となっていました。藤原彰子が子どもを産み、権力が道長に定着した後も枕草子を読んで「定子がいた頃は良かった」と懐かしむ貴族や女房はいたようです。

清少納言と百人一首


(小倉色紙(蝉丸)出典:Wikipedia)

清少納言は枕草子だけでなく、和歌にも優れていました(本人は苦手だと枕草子で言っていますが)。

清少納言の和歌は漢詩の知識を活かした作品が多く、象徴する歌が百人一首に選ばれています。

夜こめて 鳥のそらねは はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ

意味は「函館谷の鳥の声真似は騙せても、逢坂の関は開きません。私は騙されて扉を開ける事はしませんよ」です。

この和歌だけだと意味が分かりませんが、この作品は宮廷での清少納言の様子や性格等を端的に表したものなのです。

和歌の意味


(新安県の函谷関 出典:Wikipedia)

この和歌は清少納言と藤原行成のやり取りの中で生まれたもので、枕草子にも載っています。

夜明けまで清少納言と話が弾んできた藤原行成ですが、突然帰ってしまい、後日「鶏の鳴き声が聞こえたから、朝だと思って帰ってしまった」と手紙を送ってきます。

清少納言は「鶏の声は、函谷関の鶏の声だったのではありませんか?」の手紙を送ります。

函谷関の鶏の声とは、孟嘗君が函谷関の関所を越える際に鶏の鳴き声を真似し、門を開けさせたエピソードの事です。行成が聞いた鶏の声は嘘であり、早く帰りたかったのではないか?と尋ねているのです。

行成は「開いたのは逢坂の関です」と手紙を送ります。逢坂とは実際にある関所ですが、逢という言葉と掛け、逢坂の関を抜けて清少納言に逢いたいと言っているのです。

その返答に対して清少納言が歌ったのが、先程の和歌になります。

函館谷の鳥の声真似は騙せても、逢坂の関は開きません。私は騙されて扉を開ける事はしませんよ

と返答したのです。清少納言は深い教養を駆使して、男性相手に一歩も引かずに、機知に富んだやり取りを行なっていたのです。

清少納言の性格は?


(枕草子絵巻 出典:Wikipedia)

先程の和歌からも分かる通り、清少納言はとても強気な性格でした。枕草子にはこのような応酬が多く収録されています。

当時は漢字や漢詩は男性が書くもので、女性が学ぶものではないと言われていました。そんな宮廷においても、漢詩を使った応酬で、多くの男性をやり込めています。

現在に例えるなら、バリバリのキャリアウーマンというところでしょう。

とは言え枕草子には清少納言が始めて宮廷に出仕した時に、緊張のあまり半泣きになり、物陰に隠れていたエピソードが残されています。また宮廷での仕事も定子が亡くなるとあっさりと辞めてしまう等、定子を尊敬する思いは生涯変わりませんでした。

勝ち気な性格の中にも、繊細で優しい一面もあったのですね。

清少納言にゆかりのある地

京都御所


(京都御所 御所正門・建礼門 出典:Wikipedia)

清少納言が宮廷に出仕していた京都御所・内裏の清涼殿です。現在の御所はその時よりも小さいようです。枕草子で語られるエピソードはこの地で沢山生まれました。

清水寺


(清水寺 本堂 舞台 出典:Wikipedia)

京都で最も有名なお寺の1つです。平安時代も由緒正しい神社として、枕草子に何度も出てきます。

さわがしきもの 走り火。板屋の上にて烏の齋の産飯食ふ。十八日に清水に籠りあひたる…等です。

千年前も十八日の縁日の日は大混雑だったのですね。

清少納言は生没年も不明であり、居住地等も不明な点が多いです。枕草子には清水寺等、現在の京都の名所の話が多く執筆されています。

参考文献

https://hiizurukuni.com/syounagon_shikibu_hyakuninisyu/
https://study-z.net/3247#h24
https://hiizurukuni.com/makuranosoushi_nyuumon/
https://merosu.com/seishounagon.html
枕草子
山本淳子:枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)

最後に

今回は清少納言の生涯と枕草子について紹介しました。清少納言の性格や、枕草子に込められた思いを知ることが出来たでしょうか?
枕草子は千年経っても色褪せる事はなく、私達も共感できる部分が沢山あります。読みやすく現代語訳されたものもあるので、ぜひ「をかし」を感じてみませんか?

おすすめの記事