大久保利通は幕末に西郷隆盛らと共に明治維新を成し遂げ、明治政府においては初代内務卿として実権を握った人物です。倒幕に果たした影響はとても大きく、木戸孝允・西郷隆盛と共に維新三傑とも呼ばれています。
同じく維新三傑の西郷隆盛は2018年に大河ドラマが放送される等、高い人気を誇ります。しかし大久保利通と聞いても、何をした人物なのかピンとこない人も多いのではないでしょうか?
大久保利通は廃藩置県や版籍奉還等を断行して、徳川幕府からの脱却を図ると共に、殖産興業や地租改正等の政策を推し進めました。大久保利通は後の日本の国作りに欠かせない政策を推し進め、近代日本の基礎を作り上げた偉人なのです。
志し半ばで暗殺されるものの、彼が作り上げたものは現在の日本にも引き継がれていると言えます。今回は大久保利通の生涯や人物像、名言や功績について解説していきます。
目次
大久保利通のプロフィール
氏名 | 大久保利通 |
---|---|
通称・あだ名 | 北洋の氷塊 ※政治に私欲を持ち込まない姿勢から |
出生日 | 1830年9月26日 |
死没日 | 1878年5月14日 |
出生地 | 薩摩国鹿児島城下高麗町 |
出身藩 | 薩摩藩 |
死没地 | 東京都千代田区紀尾井町 |
血液型 | O型 |
身長 | 175〜178cm |
体重 | 65〜70kg |
配偶者 | 大久保 満寿子 |
座右の銘 | 為政清明 ※政治は清廉でなくてはならないという意味 |
大久保利通の人生年表・生涯
江戸期の人生年表
年 | 出来事 |
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1830年 | 大久保利通誕生 |
1844年 | 元服 |
1846年 | 藩の記録所書役助として出仕 |
1850年 | お由羅騒動で父と共に謹慎処分を受ける |
1853年 | 記録所に復職する |
1857年 | 精忠組の長として活動 |
1862年 | 岩倉具視と共に公武合体路線を目指す |
1866年 | 薩長同盟 |
1868年 | 王政復古の大号令 |
幼少期の大久保利通
大久保利通は1830年9月26日に、下級藩士大久保利世の長男として鹿児島城下高麗町で生まれます。幼少期に加治屋町に移り住み、西郷隆盛や、倒幕に貢献した維新志士達と学問や武術を学びます。
大久保利通は幼い頃から胃が弱く、武術では力を発揮出来なかったものの、学問においては抜群の成績を残しました。
薩摩藩で頭角を表す
1846年に藩の記録所書役助として出仕するものの、1850年に薩摩藩を揺るがす大事件「お由羅騒動」が起こります。お由羅騒動とは斉興の長男斉彬と、五男の久光のどちらを後継者にするかで藩内が対立したお家騒動であり、大久保利通は父と共に斉彬派に属していました。
結果として大久保利通は父と共に役職を罷免されています。この騒動を経て、薩摩藩では西郷や大久保利通を中心に斉彬の藩主擁立と、藩政改革を目指した精忠組が結成されます。この精忠組は倒幕に大きな影響を与えると共に、明治期に多くの要人を輩出したのです。
西郷は斉彬の腹心として活躍していたものの、1858年に斉彬は死去。程なく西郷も一時的に失脚しました。大久保利通は精忠組のリーダーとして、新たな藩主茂久の父である久光に接近。徐々に久光の側近として重用されていくのです。
薩長同盟の締結
久光が幕府に対して恭順を示していた事もあり、大久保利通も当初はその方向で藩政を動かしていました。しかし薩摩藩と幕府は徐々に対立し、倒幕を考えるようになります。
1866年に大久保利通と西郷隆盛は、同じく倒幕を画策していた長州藩と薩長同盟を組みます。1868年には王政復古の大号令によるクーデターを経て、徳川幕府を政権の座から引きずり下ろす事に成功。明治政府において大久保利通は参与という要職に就任し、新たな国作りに着手していくのです。
明治期の年表
年 | 出来事 |
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1869年 | 明治政府で参議に就任し、版籍奉還や廃藩置県を推し進める |
1871年 | 岩倉使節団に随行 |
1873年 | 内務省を設立し、初代内務卿として政府の実権を握る |
1874年 | 佐賀の乱・台湾出兵 |
1877年 | 西南戦争を指揮する |
1878年 | 紀尾井坂の変で暗殺される(享年47歳) |
様々な改革を断行する
明治政府は中央集権的政治を行う為、版籍奉還(藩が所有していた土地や人民を天皇に返還する事)や、廃藩置県(藩を廃止して、県や府を設置する事)を実施。この時に先頭に立ったのが大久保利通でした。
1871年には大蔵卿に就任し、岩倉使節団に随行して欧米視察を行い、国力の充実が必要である事を再認識しました。1873年には使節団に随行しなかった西郷隆盛ら留守政府の中で、朝鮮に出兵するべきという征韓論が起こります。
使節団から帰国した大久保利通は、留守政府が主張する征韓論に反対。結果的に西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らは明治政府から下野します(明治6年の政変)。同年に大久保利通は内務省を設立し、初代内務卿となり政府の実権を握りました。
西南戦争
1877年には維新で没落した不平士族による反乱である西南戦争が起こります。この時に盟主だったのは西郷隆盛でした。大久保利通は国内の混乱を収束させる為、京都から政府軍を指揮しています。
西南戦争は旧薩摩藩士が多く参戦しており、大久保利通は同郷にいた多くの同志達と対立する事になりました。この時、大久保利通を含めて明治政府に残った急薩摩藩の要人達の多くは生涯薩摩に戻る事はなかったと言われます。
国内の混乱を鎮圧させる為とはいえ、薩摩藩士と対立した大久保利通の心境はいかがなものだったでしょうか。
大久保利通の死因と最期
西南戦争から1年後の1877年5月14日、大久保利通は馬車で皇居へ向かう途中に、島田一郎ら石川県の士族6人に暗殺されました(紀尾井坂の変)。
大久保利通は全身に16箇所(8箇所は頭部)に傷を受けており、首に突き刺さった刀は地面にまで達していました。その時の様子を見た前島密は「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」と表現する等、凄惨なものでした。
維新に功績を残した維新三傑ですが、1877年に木戸孝允は病死し、西郷隆盛は西南戦争で戦死しています。大久保利通の暗殺をもって維新三傑は皆この世から去り、政府で新たに台頭したのは伊藤博文でした。日本は新たな局面を迎えていきます。
なお大久保利通の葬儀は近代日本史上において最初の国葬級葬儀でしたが、薩摩の人々の反応は冷ややかでした。西南戦争で西郷隆盛が戦死した直後であり、遺骨の受け取りを地元の人たちは拒否しています。大久保利通の遺骨が鹿児島に戻る事が出来たのは、平成になってからでした。
大久保利通の性格
冷静沈着で誰も逆らう事が出来なかった
大久保利通は冷静沈着で洞察力の鋭い性格でした。武士として腕っ節の良さが重視される薩摩藩の教育において、体の弱い大久保利通は頭脳で周りに打ち勝とうと考えたのかもしれません。
理路整然とし、圧倒する威厳から大久保利通に意見を出来る人はほとんどいなかったとされます。大久保が内務省に出社すると、空気がピンと張りつめたそうです。
やがて大久保利通が暗殺されると後任の内務卿は伊藤博文となりますが、やはり大久保利通のような威厳を見せる事はなく、内務省の雰囲気は緩んでしまいました。
実は優しい性格だった?
ただこれらの厳しい雰囲気は政府として責務を果たす為でした。家庭内では子煩悩で優しい父親であり、出勤前のわずかな時間に娘を抱き上げて遊ぶ事もありました。
多忙な中でも土曜日はなるべく食事を家族と摂るようにし、大久保利通はそれを何よりも楽しみにしていたそうです。家族との様子を見る限り、本当の大久保利通は優しい性格であり、公私で性格を使い分けていたのかもしれませんね。
大久保利通の功績
大久保利通の功績は多岐にわたり、1つ1つを説明していくと文字数がいくらあっても足りません。ここでは箇条書きで説明していきますね。
大久保利通の功績
- 精忠組を結成し、薩摩藩の藩政を主導する。
- 失脚した西郷隆盛をサポートし、表舞台に引き上げる。
- 薩長同盟の締結、王政復古の大号令により倒幕を果たす。
- 版籍奉還や廃藩置県など、幕藩体制から中央政権への移行。
- 内務省を創設し、学制や地租改正、徴兵令等を実施。
- 殖産興業をスローガンに、欧米の機械設備や技術を導入。日本の工業化を推し進める。
- 西洋農法の導入を重視し、東大農学部の前身となる駒場農学校を設立。
- 海運業にも目をつけ、岩崎弥太郎の三菱汽船会社の援助をする。
明治政府は様々な政策を実施し、日本の政治システムの大元は現在にも引き継がれています。当時行われた政策のほとんどに大久保利通は関与していたと言われます。
現在の日本を使ったのは大久保利通だと言っても過言では無いのです。
大久保利通のエピソード・逸話
国の為に借金を重ねた
明治政府の実権を握った大久保利通でしたが、金には清廉潔白で、不正をする事はありませんでした。大久保利通は予算の付かなかった公共事業には私財をなげうってお金を工面。国の借金を埋めていたのです。
暗殺後、大久保利通の資産が140円に対して借金は何と8000円。8000円とは現在の価値で2億円でした。これらの借金は家族が肩代わりする事はなく、今までの功績を称えて遺族への補償はしっかりと行われています。
これ程までに国の為に資産を犠牲にした政治家は他にいないのではないでしょうか?
趣味は囲碁!他にも写真を撮ってもらうのも好きだった
多忙な大久保利通ですが多趣味であり、その中の1つか囲碁でした。元々久光に取り立てられる為に本格的に始めた囲碁でしたが、それより前から嗜んではいたようです。
また洋風のものや技術にも興味を持ち、大久保利通の肖像写真は西郷隆盛に比べると多く残っています。
その他には、漬物、タバコ、京都宇治の玉葉などの食べ物が好きだったようですね。
大久保利通の名言
目的を達成する為には人間対人間のうじうじした関係に沈みこんでいたら物事は進まない。
大久保利通は冷徹な人物と考えられがちですが、それは人間関係ではなく物事を達成する事に主眼を置いていたからです。幕末や明治維新、様々な改革が必要な時に、人間関係に囚われていては思うような事が出来ません。
この大久保利通の思想が維新期の一連の改革には見え隠れするのです。
最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたい
大久保利通は紀尾井坂の変で暗殺される直前に、日本の将来について話していました。
それは明治元年から30年までの期間を10年ごとの3期に分け、最初の10年を戊辰戦争や西南戦争などの鎮圧の時期。そこから10年を内治整理・殖産興業の時期。最後の10年を後継者による引き継ぎの時期だと考えていたのです。
大久保利通は第2期まで力を注ぎたいと述べていました。しかし大久保利通は志半ばで暗殺されてしまいます。もし大久保利通の構想がうまくいけば、日本は更に近代化を進める事が出来たのかもしれませんね。
大久保利通の家族や子孫
大久保利通は前述した通り、薩摩藩士の大久保利世の長男として生まれました。兄妹については詳しい事は分からないものの、姉であり長女のナカ、妹にキチ、スマ、ミネがいたそうです。彼女達は皆薩摩藩士に嫁いでいます。
また大久保利通は正妻の満寿子との間に四男一女、妾のおゆうとの間に四男をもうけました。子供たちは皆華々しい活躍をしており、血筋は現在にも続いています。ごく一部だけ紹介していきますね。
大久保 利和(1859〜1945年)
大久保利通の長男であり、岩倉使節団に随行しています。大蔵省主計官を務めた他、東京と青森間の鉄道建設の計画に参加しています。
牧野 伸顕(1861〜1948年)
大久保利通の次男で、生まれてすぐに牧野家の親戚に預けられています。第一次山本内閣の外務大臣を務めた他、戦前の宮中に大きな影響力を持っていました。
おそらく大久保利通の息子達の中で、最も知名度の高い人物です。ちなみに牧野の娘は吉田茂の元に嫁いでいます。
大久保利武(1865〜1943年)
アメリカやドイツに留学した経験を活かし、西郷隆盛の弟である従道の秘書官を務めています。その他には大分県、埼玉県、大阪府等の知事を務めた他、日本赤十字社の理事にも就任しています。
吉田健一(1912〜1977年)
吉田茂の息子であり、大久保利通のひ孫にあたります。文芸評論家、小説家として活動していました。1957年には『シェイクスピア』が読売文学賞を受賞しています。
麻生太郎(1940年〜)
吉田茂の孫であり、大久保利通の玄孫にあたります。内閣総理大臣を務めた他、第二次以降の安倍内閣、菅義偉内閣の副総理大臣を務めています。
このように大久保利通の一族は様々な分野で功績を残しているのです。
大久保利通のゆかりの地
大久保利通は幕末から明治にかけてあらゆる場所で活躍している為、ゆかりの地はたくさんあると言えます。今回はほんの一部だけ紹介しますね。
大久保利通誕生地
鹿児島中央駅から桜島の方向に伸びる、ナポリ通の一角に小さな石碑が建てられています。
大久保利通は間も無く西郷達が住んでいた鍛冶屋町に引っ越している為、家自体が残されているわけではありません。素っ気なく感じるかもしれません
住所:鹿児島市高麗町3−1
大久保利通像
大久保利通は西南戦争で同郷の人々と対立した事から、長らく地元から敬遠されていました。お墓だけでなく、鹿児島に像が建てられたのは、大久保利通が亡くなってからずっと先の事でした。
長い年月を経て、大久保利通の功績は鹿児島でも認められるようになったのです。
住所:鹿児島市西千石町1
維新ふるさと館
大久保利通が生まれ育った加治屋町は明治維新から日露戦争に至るまで、多くの偉人を輩出した地です。映像等を使用した体験型展示、郷中教育の概要、薩摩藩の偉人達の功績について映像・ジオラマ・ロボット等を通じて学べます。
なお維新ふるさと館のすぐ近くに、大久保利通の生い立ちの地の石碑もありますよ。
住所:鹿児島県鹿児島市加治屋町23番1号
青山霊園
大久保利通は紀尾井坂の変で暗殺された後、東京の青山霊園に葬られました。同郷の人々が遺骨の受け取りを拒否した事は先ほど述べた通りです。
3mに迫る暮石からは、大久保利通の死がいかに惜しまれたものかが分かりますね。
大久保利通の関連人物
大久保利通は幕末から明治にかけて様々な人物と関わりを持ちました。彼らとはどのような人間関係を築いていたのでしょうか?
西郷隆盛
大久保利通の生涯の盟友といえば西郷隆盛です。西郷隆盛は大久保利通の3歳上で、大久保利通が鍛冶屋町に引っ越してきた時から、仲が良かったようです。二人は共に倒幕の為に奔走しています。
やがて明治政府において二人は参与という役職につきますが、征韓論を経て対立。西南戦争では敵味方に分かれて戦う事になったのです。
ただ大久保利通と西郷隆盛は終生お互いを認め合っていた事は事実です。西郷隆盛が自刃した知らせを聞くと、大久保利通は「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる…」と号泣したのでした。
木戸孝允
木戸孝允は幕末の頃は桂小五郎と名乗っており、長州藩を主導していた人物です。薩長同盟を組むまでは両者が対立する事もありましたが、同盟締結後は日本を近代国家にするべく同志となりました。
周りとの調和を大事にし、陽気な性格である木戸孝允と、寡黙で面と向かって意見を言えない程の大久保利通。2人は日本を背負うリーダーでありながら、性格は代表的でした。
そんな2人なので対立する事もあったようですか、それは国の事を思っての為です。2人はお互いを認め合っていました。大久保利通は木戸孝允の事を「基本的な政治の考え方は木戸君と同じである」と述べ、木戸孝允も大久保利通に対して「尊敬の念を抱いている」と話していたそうですね。
坂本龍馬
坂本龍馬といえば薩長同盟の締結に尽力した人物です。しかし大久保利通と坂本龍馬の親密な関係性を思わせる一次資料はありません。
しかし徳富蘆花がという人物が、父の談話を聞書した「青山白雲」の一節の中に、坂本龍馬が大久保利通から「白の琉球絣の単衣に鍔細の大小をもらった」というくだりが残されています。鍔細の大小とは薩摩示現流で使われる刀であり、大久保利通と坂本龍馬がある程度親密であった事が伺えるのです。
資料では見つからずとも、2人は親密な関係を築いていたのかもしれません。
大久保利通の関連作品
続いて大久保利通についての関連作品の紹介です。やはり幕末から明治にかけての重要人物である為、書籍から小説、漫画、そして映画と様々な作品で大久保利通はスポットライトを浴びています。今回はその中の一部だけ紹介していきますね。
評伝
大久保利通 (講談社学術文庫)
大久保利通を知る人達に対して「大久保利通はどんな人物だったのか」をインタビューし、新聞連載されたものを基にして書籍化したものです。
少年時代、明治政府における冷静な政治家、子煩悩な父親、人情味あふれるエピソード等、様々な側面から大久保利通を知る事で、中には数十年経過してからインタビューしたものもある為、全てを鵜呑みには出来ません、
ただおおよその大久保利通の人物像に迫る事は出来ますし、読み終えた後には大久保利通に対してのイメージはガラリと変わるでしょう。是非読んで欲しい一冊です。
小説
翔ぶが如く
司馬遼太郎による西郷隆盛と大久保利通を主役にした長編小説です。大河ドラマ等では幕末の功績に焦点が当てられる事の多い2人ですが、こちらでは征韓論から西南戦争に至る過程が描かれています。
数ある司馬遼太郎作品の中でも長編であり、登場人物も多岐にわたります。その分、重厚で読み応えのある作品になっているので、興味のある人は読んでみましょう。
漫画
風雲児たち
みなもと太郎による長編歴史群像劇。幕末を描く為に関ヶ原の戦いから執筆する等、とにかく物事の過程と結果をしっかりと描いてくれています。連載から既に40年以上が経過しており、まだ未完です。2020年9月の時点で物語1863年となっています。
登場人物は多岐にわたり、大久保利通は西郷隆盛と共に精忠組のリーダーとして描かれています。江戸後期から幕末を知る上で是非読んで欲しい漫画です。
映画
海辺の映画館―キネマの玉手箱
2020年7月に封切りとなった映画です。「瀬戸内キネマ」に訪れた若者3人が、映画の世界にタイムスリップするファンタジーです。
明治維新から第二次世界大戦までの日本の様子を群像劇にしたものです。大久保利通を演じるのは稲垣吾郎。その他坂本龍馬(武田鉄矢)、西郷隆盛(村田雄浩)が登場しています。
ドラマ
翔ぶが如く
こちらは1990年に放送された大河ドラマです。大久保利通を演じたのは鹿賀丈史、西郷隆盛を演じたのは西田敏行です。先程小説も紹介しましたが、ドラマ版は半分近くが幕末編なので別作品お考えた方が良いでしょう。
難解な薩摩弁、身分の高い人物を官職で呼ぶ等、歴史考証もしっかりしています。私達が思い描くスタンダードな大久保利通の西郷隆盛を観る事が出来るでしょう。現在発売されているのは総集編です。
西郷どん
2018年に放送された大河ドラマです。大久保利通は瑛太、西郷隆盛を鈴木亮平が演じています。主役は西郷隆盛ですが、大久保利通は準主役的な立場でした。
瑛太は大久保利通を演じるにあたり、胃痛を起こす程に悩んだそうです。幕末、明治に策謀をめぐらせる様子、西郷隆盛への思い等、瑛太の葛藤は画面越しからも伝わってきます。
大久保利通の作品
大久保利通日記
大久保利通関連の書籍は沢山ありますが、実は大久保利通も作品を残しています。それは大久保利通日記です。
毎日日記を書き貯めていたのではなく、1848年〜1877年まで断続的に書かれているものです。素直な日記ではなく、大久保利通の思想、政策に対するビジョンなどが書かれており、興味深い内容となっています。
大久保利通について、より詳しく学びたい方は手に取ってみてはいかがでしょうか?値段は張りますが、読み応えはあると思いますよ。
大久保利通についてのまとめ
今回は幕末から明治にかけて大きな功績を残した大久保利通について紹介しました。薩摩藩の一介の武士でありながら、内務卿のリーダーにまで上り詰めるその手腕は見事の一言でした。
大久保利通は西郷隆盛を死に追いやったというイメージが強く、鹿児島の地では未だに大久保利通を恨んでいる人もいます。しかし大久保利通は誰よりも西郷隆盛の事を、そして国の事を思っていた人物でした。大久保利通は命をかけてこの日本を作り上げたのですね。
今回の記事を通じて、大久保利通の事に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
大久保利通 (講談社学術文庫)
大久保利通 (中公新書―維新前夜の群像)
https://historivia.com/okubo-toshimichi/1480/
https://colorfl.net/okubotoshimichisaigo/#i-9