佐々木小次郎の生涯と人物像まとめ!伝説・名言・死因も解説

(福井県福井市・一乗滝にある銅像、出典ウィキペディア

 

剣聖・宮本武蔵のライバルとして数多くのコンテンツで登場する佐々木小次郎
武蔵の二刀流に対して燕返しの大技で世間を唸らせたと言われる剣豪・佐々木小次郎とはどのような人物だったのでしょうか?歴史の資料を紐解くとそこには数多くの意外な事実が隠されていました。

佐々木小次郎とは?

佐々木小次郎の出生・出身

佐々木小次郎の出生地に関しては有力な説が2つあります。
1つは豊前国田川郡副田庄(現在の福岡県田川郡添田町)の有力豪族であった佐々木氏の出身である説、もう1つは越前国宇坂庄浄教寺村(現在の福井県福井市浄教寺町)の出身説です。

前者は佐々木小次郎が小倉藩の剣術指南役になるなど北九州エリアに佐々木小次郎の縁が深いこと、後者は佐々木小次郎の燕返しの技が福井県にある一乗滝で編み出されたことが起源となっているようです。

佐々木小次郎の身長や風貌

佐々木小次郎の身体的な特徴などを書き記した資料は全く残っていません。
このため、どのような風貌の人物であったのかは不明となっています。
ただ、巌流島で身長6尺(約180cm )といわれた宮本武蔵と戦ったのですから、もし身長差が大きくその事が話題になるほどならば伝聞資料などにその事が記されていたはずですが、見当たらないとなると宮本武蔵とさほど変わらない身長だったのではと推測できます。
佐々木小次郎も当時としては背の高い人物だったのではないでしょうか。

佐々木小次郎の生涯

佐々木小次郎の出生秘話

誕生からすでに謎だらけの佐々木小次郎ですが、前述した出生地候補の2ヶ所のうちの浄教寺町から10kmしか離れていないところにある浄土真宗本願寺派高善寺(福井県越前市北坂下町)には誕生説の由来が掲示されています。
そこには983年に建立された高善寺は、1464年の本堂焼失以降無住職であったのを蓮如上人の直弟子・教光坊善空が再興したと伝えられています。
この教光坊善空が宇多源氏一族の佐々木氏の子孫であったため高善寺住職はこの後、佐々木氏を名乗ります。
佐々木小次郎は第17代住職の六男でしたが、仏門を嫌い越前朝倉氏の剣術指南・富田勢源に弟子入りし剣術に開眼、2度と故郷に戻らぬ決意でこの地を去ったと伝えられています。

信憑性の高い話のようですが、この寺以外にはこれに関する記述が残っておらず真偽のほどは不明です。

佐々木小次郎の流派

越前朝倉氏の家臣・富田勢源に弟子入りし中条流(のちの富田流)を学んだと伝えられていますが、中条流から別れた鐘捲(かねまき)流の鐘捲自斎に学んだとも伝えられています。
どちらを学んだにせよ、佐々木小次郎の剣は中条流を基本にした太刀筋であったのは間違いないようです。
この後、安芸毛利氏に仕えたり諸国武者修行に出るなどをして剣術の腕前をあげ、18歳にして燕返しを編み出し巌流といわれる剣術の流派を創設、小倉藩剣術師範として召し抱えられています。

佐々木小次郎の人物エピソード

現代人の佐々木小次郎のイメージ

佐々木小次郎の生涯があまりにも謎だらけのため、いつどこで誰と戦ったか?どの様な人物であったか?の詳細な史料が残っていません。
では、佐々木小次郎は現代にはどの様なイメージで伝えられているのでしょうか?
小説や映画の中では佐々木小次郎が主役で描かれることは少なく、常に宮本武蔵のライバルとして登場します。

宮本武蔵は主役ですから小説や原作からイメージされる野性的なイケメン俳優が演じている作品が多数です。
これに対して佐々木小次郎は理知的なイケメン俳優が演じていることが多く、知性と凄みを併せ持ったイメージが佐々木小次郎にはあるようです。

ゲームの中の佐々木小次郎

最近は据え置き型ゲーム機だけではなく、スマートフォンでも多くのゲームが楽しめる時代ですが、戦国時代を舞台にしたゲームの中に佐々木小次郎が登場します。
多くのゲームに登場しているのですが、ほとんどのキャラクターがスラッとした高身長の美青年で、後ろで束ねた長い髪と陣羽織を着用しています。

どうやらこれらは現在各地に残されている佐々木小次郎の銅像のイメージをアニメ化したためだと思われますが、どの銅像も髪の毛は後ろで束ねてはいますが長くはなく、女性からの人気を考えて中性的なイケメンとして描くために長髪となっているようです。

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佐々木小次郎の伝説・偉業

(山口県下関市船島・巌流島の決闘銅像、出典ウィキペディア

宮本武蔵との対決・巌流島の決闘

日本の歴史上もっとも有名な一対一での決闘、巌流島の戦い。
二刀流・宮本武蔵と岩流・佐々木小次郎が雌雄を決した一戦は、わずか数秒での決着がついたと伝えられてきます。
小次郎の頭上高くから打ち込んだ武蔵の木刀の一撃は、小次郎の頭を見事に打ち据えましたが、地上から剣高く切り上げた小次郎の太刀はわずかに武蔵に届かず、打たれた小次郎はその場に倒れ込みました。
武蔵は小次郎の生死を確認せずに立ち去ったと言われていますが、この巌流島の戦いについては多くの文献でその内容が異なっています。

なぜ小次郎は武蔵と戦ったのか?

宮本武蔵は吉川英治の原作ほどではないにせよ、各地で有名な剣豪との勝負に勝ち名声を高め、全国にその名を轟かせました。
しかし、佐々木小次郎に関してはいつ、どこで誰と戦って、その勝敗はどうてあったかの記録がほとんど残っていません。
このような無名の剣士がなぜ巌流島の決闘のような日本一決定戦のごとき試合に望むことになったのでしょうか?

これに関して、巌流島の決闘で小次郎側の介添役であった細川家に面白い記録が残っています。

細川家に認められた佐々木小次郎

関ヶ原の合戦の後、豊前小倉へ移ってきた細川忠興には困った問題が一つありました。
それは豊臣秀吉の九州攻めの時にこの地にある岩石城(がんじゃくじょう)を拠点に徹底抗戦した佐々木氏が臣従しないことです。
そこで忠興は佐々木一族の中でも燕返しを編み出し、天才の名を欲しいままにしていた佐々木小次郎を剣術師範として召し抱え、佐々木氏を懐柔しようとしました。
山伏の修行などが盛んに行われていたこの地で多くを学んだ小次郎は自分の流派を岩石城にちなみ岩流と名付け、藩内では誰一人太刀打ち出来ないほどの実力となり、門人の数も数百を数えるほどになり細川家にとっては別の意味で厄介な存在へとなっていきました。

邪魔者扱いされた佐々木小次郎

目立つ存在となった新興勢力の佐々木小次郎を良く思わないのは、当然細川家に仕える古参の重臣達です。
その中心にいたのは筆頭家老の長岡佐渡で、彼は佐々木小次郎を排除するために一計を案じて当時京都で吉岡一門を壊滅させ、60戦無敗を誇った宮本武蔵と試合をさせることを画策しました。
宮本武蔵も細川家剣術師範であり燕返しの佐々木小次郎を倒せば、もはや国内に敵なしとなり佐々木小次郎も60戦無敗の若き天才剣士を倒せば細川家での自身の立場は磐石となります。

互いの思惑が一致した決闘は検分役以外観客にも見せないことを条件に行なわれ武蔵の一方的な勝利となりましたが、このあとに恐ろしい結末が待っていたと伝えられています。

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暗殺された?佐々木小次郎

宮本武蔵に木刀で一撃のもと打ち倒された佐々木小次郎は奇跡的にも息を吹き返したのですが、このあと陣幕の裏に隠れていた武蔵の弟子数人に襲撃を受けて撲殺されたとの記述が、当時の細川藩家老・沼田延元の書き残した記録を子孫がまとめた「沼田家記」にあります。
沼田延元自身はこの決闘をその目で見たわけではないようですが、検分役や武蔵本人、その弟子などから聞いた話が記録されており、信憑性はある程度担保されていそうです。
ところで武蔵の弟子が小次郎を惨殺した理由とはなんだったのでしょう?そこまでして小次郎の命を奪う理由があったのでしょうか?

佐々木小次郎惨殺の真実

佐々木小次郎が惨殺されたのを怒った弟子たちが仇を討とうとして武蔵を襲おうとしたのを細川家はこれを阻止し、武蔵を鉄砲隊まで動員して安全なところまで送り届けています。
なぜ細川家はそこまでして武蔵を護ったのか?
それに孤高の剣豪であったはずの武蔵に弟子がいたのも、伝聞にしてもおかしな話に聞こえます。
それもそのはず、実は小次郎を惨殺したのは細川家の家臣ではないかとの話は巌流島の決闘あとすぐに世間に流布します。
佐々木小次郎を排除したかった古参の家臣がどちらが勝利しても小次郎を暗殺しようと準備を万端に整えて巌流島で待ち構えており、小次郎を討ち取った武蔵の安全を保障、佐々木小次郎一門もこれを機会に抑え込もうとしたのが真実だと伝えられました。
そのためこの後、武蔵は肥後熊本に転封となった細川家に招かれて天寿を全うし、岩流佐々木小次郎一門は歴史の表舞台から消え去りました。

巌流島の決闘は細川家の重臣たちが佐々木小次郎を抹殺するために仕組んだ舞台だったと言う説が今もまことしやかにつたえられています。

佐々木小次郎にゆかりのある場所

一乗滝(福井市浄教寺町

(福井県福井市・一乗滝、出典ウィキペディア
 

福井市浄教寺町を流れる一乗谷川の上流にある落差12mの滝で、近くには越前朝倉氏の遺跡が数多く残る歴史的価値の高い場所です。
浄教寺町の由来となった浄教寺を泰澄(たいちょう)大師が建立したことと、佐々木小次郎が燕返しを編み出した場所として有名です。

巌流島(船島)

ご存じの通り佐々木小次郎と宮本武蔵が対決した場所で、山口県下関市にある関門海峡に浮かぶ周囲1.6km の小さな島です。
小次郎と武蔵が対決するまでは船島と呼ばれていましたが、豊前小倉藩の剣術師範であった佐々木小次郎の流派・岩流から名前をとって巌流島と呼ばれるようになりました。

佐々木小次郎の墓(山口県阿武郡阿武町)

1612年5月13日、巌流島で息を引き取った佐々木小次郎ですが、当時ユキという妻がおり妊娠していたそうです。
ユキはキリシタンだったため、1612年に布告されたキリシタン禁止令により幕府の目を逃れるために小次郎の遺髪を抱いてこの地に逃れ、ここに「佐々木古志らう」と名を刻んだ墓を建てました。
なおユキは真言宗正法寺にて尼となってこの地で菩提を弔い、生涯を送ったそうです。

佐々木小次郎の死因

宮本武蔵の一撃によって絶命したのか、息を吹き返したのち何者かによって惨殺されたのかはいまだ決着をみていませんが、1612年5月13日巌流島で生涯を閉じたのは間違いないようです。
死因は格好良く言えば決闘による討死、ただ武蔵が木刀や船の櫂(かい)を使っていたのであれば撲殺、刀で斬られたのであれば斬殺、即死でないのであれば失血によるショック死などが考えられます。

佐々木小次郎の子孫

(芦広作・佐々木巌流、出典ウィキペディア

前述した佐々木小次郎の妻といわれているユキは山口県阿武郡阿武町で子供を出産したと伝えられています。
しかしその子がどうなったのか、歴史的資料には全く記述が残っていません。
歴史は常に勝者によって後世へと伝えられていくため、敗者に関しては記録が残ることはほとんどなく、勝者の都合の良いように伝えられていきます。
武蔵が生涯を全うするまで数多くの史料や記録が残っているのに対して、小次郎の事は巌流島以降の事は全くと言って良いほど残っていないため、
子孫がどうなったかは不明のままです。
ただ、子孫かどうかはわかりませんがユキが生涯を過ごしたと伝えられる阿武郡阿武町には、佐々木姓を名乗る方が今も生活されています。

佐々木小次郎を主題とした作品(小説・映画・ドラマなど)

小説の中の佐々木小次郎

ライバル宮本武蔵の文献の中にもその名が何度も登場する佐々木小次郎ですが、当人同士が会ったのは巌流島での対決がはじめてと言われています。
小説の中では何度か対面し、その雌雄を決したのが巌流島のような描かれ方をしていますが、どうやらそれは巌流島というクライマックスへの序章として描かれており、真実とは異なるようです。
1950年に村上元三が朝日新聞に連載した「佐々木小次郎」は何度も映像化され、佐々木小次郎を主人公とした時代小説としてはNo.1の評価を受けています。

映画の中の佐々木小次郎

映画の世界では宮本武蔵のライバルとして登場するだけではなく、佐々木小次郎自身が主役となった映画も撮影され公開されています。
1950年に東宝が大谷友右衛門(四代目中村雀右衛門)主演で公開以降、東映でも東千代之介主演で前後編が公開されています。
しなやかでスラッとしたイケメン、垢抜けた剣士のイメージで演じられており、武蔵の泥臭い剣豪のイメージとは真逆のタイプとして表現されています。

ドラマの中の佐々木小次郎

映画のイメージが強かったのか、大谷友右衛門(四代目中村雀右衛門)はNHK製作のドラマで、東千代之介もMBS毎日放送製作のドラマで佐々木小次郎を主演で演じています。
七代目市川新之助(十一代目市川海老蔵)が宮本武蔵を演じたNHK大河ドラマ・武蔵MUSASHIではTOKIOの松岡昌宏が佐々木小次郎を演じて新しいイメージを作り出し、話題になりました。

佐々木小次郎の太刀

(国宝太刀銘長光・東京国立博物館所蔵、出典ウィキペディア
 

佐々木小次郎のビジュアルでなんと言っても最初に目につくのはその背中に携えた太刀の長さです。
通称「物干し竿」と呼ばれており、当時の徳川幕府が武士の刀の長さを2尺8寸(約87.5cm)以内と定めていたため、3尺余(約1m)の刀を使用していた佐々木小次郎は大変珍しがられたそうです。
制作者は備前国長船派の長光で、大般若長光など現代に国宝として指定されるほどの名工であった人物です。
一振り2500万の値が付くとも言われており、佐々木小次郎の物干し竿も相当の値打ちものの刀だったようです。

佐々木小次郎まとめ

(佐々木小次郎が師範を勤めた豊前小倉藩・小倉城、出典ウィキペディア
 

宮本武蔵の最大のライバル、燕返しの妙技を持つ天才剣士としてその名前を歴史に留めた佐々木小次郎。
しかし文献や史料を調べるほどにその存在が正確に伝えられておらず、佐々木小次郎という姓名すら正確なのかどうかもわかっていないのが真実です。
宮本武蔵を引き立てるために巌流島に登場させられ、宮本武蔵に倒されることで歴史から葬り去られた佐々木小次郎とは本当はどのような人物だったのか?
いまだにその存在を正確に示す史料がないため、もしかしたらその存在自体が一から作り出された偶像であったのかもしれません。

参考文献

佐々木小次郎(上・下)村上元三・講談社

岩国市公式観光webサイト
http://kankou.iwakuni-city.net/sasakikojiro.html

※執筆にあたり参考にさせていただいた文献、ホームページです。

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