【伝説の剣豪】宮本武蔵の生涯と人物像!伝説・名言・死因も解説

「小次郎、敗れたり」

(宮本武蔵自画像・島田美術館所蔵、出典ウィキペディア

 

宮本武蔵が巌流島の決闘でこう叫んだあと、一撃で佐々木小次郎を倒した事は今も数多くの小説や映像で語り継がれています。
日本史上最も有名で、数多くの伝説と逸話を残した生涯無敗といわれる剣豪・宮本武蔵
彼がどのような人生を送り、どんな足跡を残したのか、多くの文献を紐解いてまとめてみました。

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宮本武蔵とはどんな人物?

名前宮本武蔵(みやもとむさし)
出生日天正12年(1584年)3月12日または天正10年(1582年)3月12日※諸説あり
幼名辨助(または弁助・弁之助)
別名藤原玄信、新免武蔵守、新免玄信、新免武蔵、宮本二天、宮本武蔵
出生地播磨国(現在の兵庫県南西部)または美作国宮本村(現在の 岡山県東北部)
死没日正保2年5月19日(1645年6月13日)62歳
死没地熊本藩 千葉城
身長6尺(換算:曲尺で約182センチメートル相当)
主君黒田如水→水野勝成
父母新免無二
養子:三木之助、伊織

宮本武蔵の誕生

(宮本武蔵生家隣の水車、出典ウィキペディア

出生

武蔵本人が書いた剣術の奥義書「五輪書」の記述から逆算すると安土桃山時代の天正12年(1584年)生まれとなりますが、小倉宮本氏の系譜では天正10年(1582年)生まれとなっています。
武蔵が誕生したときの宮本氏の家柄を考えれば、正確な誕生日が記録されていることは考えにくいため、どちらも言い伝えまたは推測によるものと考えられています。

出身地

武蔵本人は五輪書で生国播磨と記述しているため、播磨国(現在の兵庫県揖保郡太子町宮本)が出身地だと思われています。
しかし江戸時代に書かれた美作国(岡山県北東部)の郷土誌「東作誌」には宮本武蔵は美作国宮本村生まれとの記述があり、ベストセラーとなった吉川英治の歴史小説「宮本武蔵」でも美作国出身説を採用しているため、世間では宮本武蔵は美作出身ということが通説になっています。

系譜

宮本武蔵の父は播磨守護職、室町幕府では四職家の一つに名を列ねた村上源氏の流れを汲む名門赤松家の支流、新免一族出身の新免無二(しんめんむに)と伝えられています。
ただ、宮本武蔵の養子・伊織の祖父である田原家貞の次男という説もあり、出生に関してはまだ研究の余地が残っています。

宮本武蔵の生涯

(巌流島の戦いの像、出典ウィキペディア

武蔵の有名な決闘履歴

五輪書の記述によれば、13歳で新当流・有馬喜兵衛と決闘、16歳の時にも但馬で兵法者と対決、21歳の時には京都で兵法者(吉岡清十郎一門と考えられている)と数度戦って全てに勝利したそうです。
姫路藩主・本多忠刻に領国へ招かれたときには神道夢想流開祖・夢想権之助と明石で剣を交えています。1624年には尾張国において武蔵が当時名乗っていた円明流を教授、島原の乱では小倉滞陣中に宝蔵院流槍術の使い手である高田又兵衛と試合をしたと記録されています。

武蔵が参戦した合戦

西軍・石田三成、東軍・徳川家康が激突した1600年の関ヶ原の戦いでは、黒田如水(官兵衛)もしくは黒田長政に従軍し東軍側で参加したと言われていますが、新免氏が宇喜多秀家の家来であった事から関ヶ原で西軍として従軍した説もあります。
豊臣家が滅んだ大阪の陣(1614~1615年)には徳川方の水野勝成に与力として参陣、1637年に起こった島原の乱には中津藩主・小笠原長次の後見役として参戦しています。

巌流島の決闘

武蔵が戦った決闘の中で最も有名なものと言えばやはり巌流島の決闘でしょう。
巌流の創始者で燕返しの剣技を持つ佐々木小次郎との勝負は、試合時間にわざと遅れた宮本武蔵が、剣を抜き鞘を投げ捨てた佐々木小次郎に「小次郎、敗れたり」と叫びながら木刀で小次郎の頭部を一撃、倒れた小次郎の生死も確認せずそのまま小舟にのって立ち去ったと一般には言い伝えられています。
ところがこの巌流島の決闘の描写には、創作された部分が多分に含まれているようです。

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巌流島の決闘の謎

まず第一に宮本武蔵は開始時刻に遅刻したという記録は残っておらず、後世の創作のようです。
その上対戦した佐々木小次郎の名前も佐々木と明記してあるのは巌流島の決闘があったとされる年から150年以上もあとに執筆された「西遊雑記」のみで、他は巌流小次郎、津田小次郎など佐々木姓ではありません。
また対戦したときの武蔵の年齢も18歳から30歳までと幅広く、小次郎の年齢に至っては不明としているものが最も多く、下は18歳から上は70歳までと正確な年齢もその風貌もはっきりしていません。
このように巌流島の決闘は後世の創作によって、作り上げられた部分が多く、実際はどのようなものであったのかはっきりとはしていないのが現実です。

晩年の武蔵

島原の乱の後の1640年以降、宮本武蔵は熊本藩主・細川忠利に客分として招かれ、この地で「正面達磨図」「野馬図」などの絵画や黒漆塗の「鞍」、素銅製の「海鼠透鐔」などの工芸品を作製したとされています。もちろん武蔵が書いたとされる有名な「五輪書」もこの地で執筆されました。1645年6月に死去するまで著述と芸術に勤しんでいたと伝えられています。

宮本武蔵の人物エピソード

(碁石、出典ウィキペディア

宮本武蔵の見た目

武蔵の身体的な特徴の記述は、多くの文献に残されていますがとにかく背の高い大柄な男性であったようです。
「兵法大祖武州玄信公伝来」には6尺(約182cm)と具体的な数値の記述があり、当時の成人男子の平均身長160cm足らずから考えると相当体格に恵まれていたようです。

宮本武蔵の職業

宮本武蔵は幼少期から剣術に関しては自信があったようですが、自らを剣豪とか剣術家と名乗ったことはないそうです。
もちろん正式に大名家に仕官したり、家来になったこともないので、当時の支配階級であった武家というわけでもありません。宮本武蔵は多くの場合は自身の事を兵法家であると名乗っており、自身はただの剣術使いなどではないと自負していたようです。
自身を兵法家と考えていたため決闘の時の勝ち方や戦術に対してこだわりがなく、どのような方法で勝利しても勝ちは勝ちであるとの考えがあったようです。
このため宮本武蔵は、戦国時代に戦術や戦略の修業代わりに大名や武士階級でもてはやされた囲碁の腕前は相当なもので、手合割(てあいわり・ハンデをつけて対戦すること)であっても勝利するほどだったそうです。この辺りにも兵法家と称する武蔵の意気込みが感じられます。

宮本武蔵の伝説・偉業

(宮本吉岡決闘之地碑、出典ウィキペディア

宮本武蔵が剣聖と言われる理由

生涯60戦不敗、巌流島の決闘の勝利など宮本武蔵の剣豪としての名声、実績は歴史上No.1であるのは誰もが認めるものです。しかしなんと言っても宮本武蔵の実力が世に認められた大事件と言えば吉岡一門との死闘を制したことでしょう。これによって天下にその名を轟かせ、数多くの大名から興味を示され招かれる結果になりました。

吉岡一門との死闘とは?

一般に知られている宮本武蔵と吉岡一門の決闘は三度行われたと、養子・宮本伊織が執筆した「小倉碑文」に記されています。
吉岡家は室町時代では代々足利将軍家の剣術指南役で、武蔵の父・新免無二は室町幕府15代将軍足利義昭に召し出され吉岡と試合を行い、三本中二本を取って勝利し、義昭から天下一の称号を賜ります。
このような因縁が吉岡一門と武蔵の間には存在したため、京都で再び対決することになりました。

武蔵VS吉岡一門・ラウンド1

宮本武蔵と対決したのは当時の吉岡家の当主・吉岡清十郎、場所は現在の京都府北区にある京都三大風葬地の一つ蓮台野(れんだいの)でした。
勝負は武蔵の木刀による一撃で決着してしまい、命を取り止めた清十郎は回復後出家しています。

武蔵VS吉岡一門・ラウンド2

吉岡家当主・清十郎が武蔵に敗れた汚名を注ぐため、清十郎の弟・伝七郎が武蔵に勝負を挑みますが、持参した五尺の木刀を武蔵に奪われ一撃のもとに打ち倒され絶命しました。

武蔵VS吉岡一門・ラウンド3

当主・清十郎、その弟・伝七郎と吉岡一門直系の人物が次々に敗れたため、吉岡一門の門弟たちは清十郎の子・又七郎を大将に担ぎ出し、京都府左京区一乗寺下り松で武蔵を槍や弓矢などで武装した門弟100人以上で討ち取ろうと策を練りました。
しかし、いざ決戦となると先に一乗寺に到着して身を隠していた武蔵が、大将たる又七郎を討ち取り、動揺する吉岡一門を尻目に決闘場所を離脱し、この決闘も武蔵が勝利します。
この一連の決闘で名声が地に落ちた吉岡一門は断絶しました。

吉岡一門との決闘の回数の謎

一般に知られている吉岡一門との対決は、養子・伊織が執筆したものを原案とし、吉川英治などの後世の作家が武蔵の人生をドラマチックに描くために、多分に脚色されたものとなっています。
まず、勝負の回数ですが最初の清十郎との対決のみであったとする文献も存在し、二戦目の伝七郎との対決までとしたものも現存しています。
三戦目の一乗寺の対決は武蔵側と思われる人物が記述した文献のみが存在しています。
すなわち清十郎との決闘は勝敗はともかく実際にあったものとしても、伝七郎との対決以降は決闘があった事実さえ怪しいものとなっています。

吉岡家断絶の謎

小倉碑文では武蔵に又七郎を討たれた吉岡家は断絶したと記述がありますが、1614年京都で行われた猿楽興行で吉岡又三郎(または清次郎)が事件を起こしたとの文献が残っています。
また1615年の大阪の陣に吉岡源左衛門兄弟が豊臣方に加勢し籠城、敗れたのちに京都へ戻ったとの史料も残されています。
武蔵に敗れた吉岡一門は後継者を失い、断絶したとされているのはあくまでも武蔵の圧倒的勝利にしておきたかった事による脚色で、実際には武蔵と吉岡清十郎との対決のみで決着したのではないかと推測されています。

宮本武蔵の決闘の真実

剣聖と呼ばれるほどに強かった剣豪・宮本武蔵を作り上げるには、圧倒的な強さによって、絶望的に不利な状況から逆転するドラマチックな演出が必要だったのかもしれません。
残された文献の中から武蔵に都合のよい部分だけを誇大表現し、武蔵の偶像を作り上げてしまったというのが真実ではないでしょうか。

宮本武蔵の名言

(五輪書を書いたと言われる霊巌洞、出典ウィキペディア

我、神仏を尊びて、神仏を頼らず~五輪書~

私は神仏は信じており、信仰もしているが、だからといって勝負の時には神仏に祈ったり、願をかけたりはしない。己の実力のみが頼りになる唯一のものだからである。

晩年に細川家に客分として招かれ、剣だけではなく書画や工芸品の製作に携わるようになると数多くの仏像の彫刻なども製作している宮本武蔵は、若い頃から神仏への信仰心はあつかったようです。
しかし、勝負事になると神仏に頼ったり、運任せのような事はなくただひたすら己の実力のみを信じ戦いに挑んでいた事がよくわかる言葉です。

千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす。~五輪書~

千日(約3年)稽古することによって物事に習熟して役に立つようになり、万日(約30年)繰り返し稽古することでより質の高いものになっていくこと。

修練とは終わりのないものであり、3年ほど稽古すれば粗削りではあるが、多少は世の中の役に立つものとなり、30年ほど繰り返し、繰り返し稽古すればやっと、練りに練られた質の高いものとなっていくのである。

極限まで肉体と精神を鍛え上げ、信じるものは己だけ。
日々惜しむことなく修業を続ければ、自分の技や心がより質の高いものになっていく。
まさしく宮本武蔵その人が、歩んでめざした人生そのものを表した言葉です。

宮本武蔵にゆかりのある場所

宮本武蔵の生家(岡山県美作市宮本946)

(宮本武蔵生家最寄りの宮本武蔵駅、出典ウィキペディア

 

五輪書では播磨出身と記している宮本武蔵の生家はなぜか岡山県美作市にあります。これは江戸後期に書かれた東作誌に宮本武蔵が美作国宮本村生まれと記載されていたのを吉川英治が採用したためです。これを岡山県が観光資源として利用したため宮本武蔵は岡山県誕生説が広く知られることとなりました。

生家とされていた建物は、神社のそばにある「宮本の構え」と呼ばれる約60m四方の構えの中に建つ大きな茅葺きの家でした。しかし、昭和に入って焼失し現在は瓦屋根の家になっています。
岡山県観光協会の案内では、宮本武蔵はここで1584年に生まれたことになっています。

小倉碑文(福岡県北九州市小倉北区赤坂手向山山頂)

(小倉碑文、出典ウィキペデイア

 

宮本武蔵の養子・伊織が1654年に武蔵の菩提を弔うために建立した碑文です。
武蔵の没後9年、豊前小倉藩の筆頭家老となっていた宮本伊織が、藩主・小笠原忠真から拝領した墓地に巌流島の決闘、吉岡一門との死闘などを石碑に記した貴重な伝承文献です。
遠景に巌流島が見えるなど現在でも北九州市の有名観光スポットになっています。

武蔵神社(岡山県美作市宮本)

(宮本武蔵ゆかりの地にある武蔵の里五輪坊、出典ウィキペディア

 

昭和46年(1971)4月に有志による寄付によって建立された神社で宮本武蔵生誕の碑から200mしか離れていません。祖父・平田将監及び両親である無二斎夫婦の墓も立てられています。なお武蔵の遺骨は熊本県から分骨されたものだと言われています。

武蔵塚公園(熊本市龍田町弓削1丁目1232)

(武蔵塚、出典ウィキペディア

 

肥後藩主・細川忠利に客分として招かれた宮本武蔵は晩年を熊本で過ごしました。ここで五輪書を完成させ人生と剣の道の終焉も迎えたのでした。
1645年6月13日に62歳で千葉城にあった家で息を引き取った宮本武蔵の遺言で、参勤交代で通る藩主を見守ることのできる大津街道そばのこの地に墓が建立され、整備された現在は武蔵塚公園となっています。

宮本武蔵の死因

(宮本武蔵旧居跡・現在のNHK熊本放送局旧放送会館、出典ウィキペディア

宮本武蔵は1654年6月13日に熊本藩千葉城の自身の屋敷で死去しました。
享年62歳、戒名は二天道楽居士、病死または老衰が死因と言われています。
死を前にして体を起こした宮本武蔵は太刀(又は木刀)を支えにして片膝を立てて空を睨み付けて事切れたとドラマや映画、アニメの世界では表現されていますが、文献にはそのような描写は残っていません。
死因も癌、特に肺癌ではないかとも伝えられていますが、病状を正確に伝える文献は全く残っていません。
どちらも現段階では後世の創作と考えられています。

宮本武蔵の子孫

(豊前小倉城復興天守、出典ウィキペディア

妻帯することのなかった宮本武蔵

宮本武蔵を慕い続けるお通、彼女の気持ちを痛いほど感じながらも剣の修業に勤しむ武蔵、吉川英治の「宮本武蔵」の中には武蔵を取り巻く女性が出てきます。
しかし史実の武蔵は生涯独身で妻を持たず、実子も当然いませんでしたが史料に名前の残る養子が二人いたようです。

養子・宮本三木之助

養子の一人、宮本三木之助は宮本武蔵が大阪夏の陣で客分として参陣した三河刈谷3万石の大名・水野勝成の家臣・中川志摩之助の三男です。
宮本武蔵の養子となった後に播磨明石藩10万石本多忠刻の小姓として近仕しましたが、忠刻病死時に殉死しています。
三木之助のあとは実弟の九郎太郎が跡継ぎとなりますが、その子・弁之助が若死にして本多藩宮本家は断絶します。
弁之助の弟・小兵衛が備前岡山藩主・池田光政に召し出されて出仕しましたが、その子・小三郎で池田屋の記述が途絶えているため、ここで岡山藩宮本家も断絶したと考えられています。

養子・宮本伊織

宮本伊織の出身については諸説ありますが、現在では宮本武蔵の兄・田原久光の次男で15歳で播磨明石藩・小笠原忠真に仕えたのが通説となっています。
若冠20歳で家老職に名を連ねると豊前小倉への移封や島原の乱の活躍で筆頭家老まで登り詰めます。
豊前宮本家は幕末まで小笠原家の筆頭家老職を世襲し、明治維新後も小倉周辺にその子孫の方々は居住されているそうです。

宮本武蔵を主題とした作品(小説・映画・ドラマ・漫画)

小説の中の宮本武蔵

なんと言っても宮本武蔵の現代のイメージを定着させたのは吉川英治が1935年~1939年に朝日新聞に連載した「宮本武蔵」です。
宮本武蔵の出世や決闘の真偽などを独自の解釈と創作で見事にまとめあげ、剣聖・宮本武蔵のイメージを完全に作り上げました。
その後にも司馬遼太郎、柴田錬三郎、津本陽など数多くの歴史小説の大家が武蔵を題材に小説を出しましたが、吉川英治を越える宮本武蔵像はこの世には出ていないようです。

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映画の中の宮本武蔵

1929年に往年の時代劇スター片岡千恵蔵で撮影されて以降は、近衛十四郎、三船敏郎などの大スターによって何度も映画化されています。
その中でも内田吐夢監督が東映で主役に中村錦之助(後の萬屋錦之助)を迎えて1961~1965年に撮影した宮本武蔵全五部作がもっとも吉川英治原作の宮本武蔵を体現していると言われています。
吉岡一門との死闘、高倉健演じる佐々木小次郎との巌流島の決闘など宮本武蔵の見所が全て詰まった作品になっています。

ドラマの中の宮本武蔵

映像としては映画だけでなく、テレビ時代劇としても宮本武蔵は何度もドラマ化されています。
こちらも名優と言われる俳優が宮本武蔵を演じていますが、中でも12代市川団十郎(演じた当時は10代目市川海老蔵)が1975年に連続ドラマで演じた宮本武蔵と息子である13代市川団十郎(演じた当時は七代目市川新之助)がNHK大河ドラマで演じた宮本武蔵が有名です。
どちらも吉川英治の宮本武蔵を原作としており、見比べてみるのも楽しみのひとつだと思われます。

漫画の中の宮本武蔵

映像だけではなくもっと身近な漫画の世界でも宮本武蔵は数多く描かれました。
石ノ森章太郎、本宮ひろしなど大御所漫画家が手掛けていますが、武蔵を漫画界でも有名にしたのは、原作・吉川英治、漫画・井上雄彦のバカボンドです。
残念ながら2015年~休載となっていますが、単行本発行部数が軽く5000万部を越え数々の芸術賞を受賞するなど社会現象を起こした大ヒット漫画となりました。

宮本武蔵まとめ

(「報讐忠孝伝宮本武蔵」 歌川国芳画、出典ウィキペディア)

作り上げられた宮本武蔵

史上最強の二刀流剣豪、60戦無敗、剣聖など二天一流の開祖・宮本武蔵には強さに関する称号は無数に与えられています。
しかしそのほとんどは、吉川英治の「宮本武蔵」よって作り上げられたもので真実は大きく異なる部分も存在します。
「二天記」に記された柳生新陰流の大瀬戸隼人と辻風左馬助らとの江戸での試合や宝蔵院流槍術の奥蔵院日栄との対決などは歴史的裏付けがなく、二天記を執筆した二天一流師範の豊田景英の創作と言われています。
しかしこれらは映画やドラマ、小説の中では必ずと言っていいほど登場し、武蔵の強さを印象づける役割を果たしています。

宮本武蔵の真実

吉川英治の宮本武蔵が世に出てから作り上げられてきた宮本武蔵は実は本当の宮本武蔵ではないのかもしれません。
ですが、宮本武蔵が江戸時代初期に二刀流の使い手として天下に名を轟かせたことは間違いないと言い切れます。
そうでなければ徳川将軍家譜代の大名から次々に声が掛かり、客分や与力として召し出されたりすることは考えられません。ましてや晩年を九州の大藩・細川家の客分として過ごし、その地で天寿を全うすることなど、並の剣術使いではあり得ないことでしょう。

宮本武蔵とはすなわち、未だ数多くのミステリーなところを残している日本史上最高の剣豪と言ったところなのではないでしょうか。

参考文献

渡辺一郎「五輪書」 岩波書店

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吉川英治「宮本武蔵」

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井上雄彦「バカボンド」講談社モーニングKC

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島田美術館ホームページ

http://www.shimada-museum.net/musashi.html

みまさか観光ナビ

http://www.city.mimasaka.lg.jp/i/kanko/model/1485848020212.html

熊本市観光ガイド

https://kumamoto-guide.jp/spots/detail/109

※執筆にあたり参考にさせていただいた文献、ホームページです。

宮本武蔵の関連人物

佐々木小次郎

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