前田慶次の生涯と人物像まとめ!名言・偉業・死因・子孫は?

【日本一の傾奇者】と言われる前田慶次は漫画やゲームでも度々取り上げられ、知名度の高い人物です。実在こそしていますが、生没年も分からない事が多く、創作により彩られた人物です。今回は史実に基づいて、生涯、名言、偉業について説明していきます。

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前田慶次とは?


(前田慶次像 落合芳幾画 出典 Wikipedia)

本名は前田利益(とします)。また利太、利大、利貞など複数伝わります。一般的には前田慶次や前田慶次郎という名称が有名です。彼を取り上げた漫画やゲーム等では戦国一の傾奇者(派手な見た目や行動をする人)として知られています。

元々は織田信長の重臣滝川一益の一族と言われていますが、前田利久(前田利家の長兄)の養子となり、前田姓を名乗ります。後に前田家から出奔し、上杉家に仕えています。関ヶ原の戦い以降も上杉家に仕え、1605年、もしくは1612年に没しています。

生まれ

1533年、1540年、1541年、1542年、1543年など諸説あります。金沢系(前田家)の伝承「加賀藩史料」では1533年、米系(上杉家)の伝承「米沢人国記」では1541年とされています。このどちらかが信憑性が高いと言われています。

生まれた時の記録はなく父親も不明です。有力なのは滝川一益の甥・滝川益重が父親だという説です。少数ながら滝川一益が父親だという説もあります。滝川軍は織田信長軍の先鋒を務めており、益重はその滝川軍の中の先鋒を担っていたと言われ、気が強くないと出来る事ではありません。慶次が荒くれ者だった理由でしょうか。

身長

漫画『花の慶次』で「身の丈六尺五寸(197cm)の大柄の武士」と描かれてからは大男のイメージがついていますが、慶次の身長について記載された文献はありません。現存する兜も当時の身長に近いものであり、当時の成人男性158cm前後になるのではないでしょうか。

性格

漫画等のイメージに近く、史実の慶次も豪快な性格だったようです。

慶次は世を軽んじたり人を小馬鹿にしたりする癖があり、叔父の前田利家から注意を受けていました。ある日慶次は反省したのか、茶を一服もてなしたいと利家を自宅に招きました。それに喜んだ利家は早速家に向かいます。茶を嗜んだ後で、「今日は寒かったので茶の前に風呂はどうでしょう?」と慶次から誘われます。慶次は丁度良い湯加減だと言い残し、その場を去ります。利家が湯船に入ると、なんと冷水だったのです。

これには利家もご立腹でしたが、既に慶次はいなくなっていました。しかも利家の愛馬・松風に乗って国を去ったそうです。自由奔放な性格だったのは間違いありません。

前田慶次の人生年表・生涯


(絹本著色前田利春像(長齢寺蔵、重要文化財) 出典 Wikipedia)

誕生から放浪の生活まで

天文2年〜天分12年(1533年〜1543年) 誕生
母が前田利久と再婚し、前田家の養子となる
1560年 前田利久が前田家の家督を相続
1569年 信長の圧力で、利久から利家に家督が移る
しばらく放浪生活を送る

前述した通り慶次の生まれは不明です。どの時期かは不明ですが、慶次の母が前田利久と再婚した事により、慶次は利家の養子となりました。

前田利久は新子城主の主の前田利春の嫡男であり、有力大名前田家の跡取りにあたる人物でした。利久の養子となった事で、慶次は前田家の将来を約束されたも当然の立場だったのです。

利久は1560年に順調に家督を相続。順調にみえた慶次の将来ですが、ここに予期せぬ事が起こります。当時前田家は織田信長に仕えており、信長は桶狭間の戦いで今川義元を破るなど華々しい活躍をしています。

その信長の命令により、1569年に利久は弟の前田利家に家督を譲るように命じられます。理由としては、利久に実の子どもがいない事、利久は身体が弱く、家を継ぐにふさわしくないと判断されたからでした。利家は四男でしたが、武功もあり家を継ぐにふさわしいと判断されたようです。

結局利久と慶次は新子城から出て行きます。その間の慶次については諸説あり、説では滝川一益の元に身を寄せたとも、前田家の寄親・林秀貞の世話になった等と言われます。

利家の家臣~出奔まで


(紙本著色 前田利家像 個人蔵 出典 Wikipedia)

天正10年(1582年)頃 利家の家臣となる
天正15年(1587年) 利久病死
1590年頃 利家と徐々に仲が悪くなり出奔する

慶次もずっと浪人と言うわけにはいかず、1582年には前田利家の家臣になっています。利家から利久・利益親子には7千石が与えられています。利久2千石、慶次5千石と、慶次の方が石高が良く、武功を期待されていたのかもしれません。

その後、信長は本能寺の変で死去。小牧長久手の戦いでは末森城の救援に向かったり、神保氏張と交戦する等、活躍しています。その後も利家の家臣として活躍する中、養父の利久が病死。2千石は息子の正虎が引き継ぎます。

しかし利久が亡くなった事で前田家と関わる意味が薄れたのか、利家とは不仲となり、例の水風呂事件を起こし、前田家から出奔します。時期は不明ですが、当時の年齢では50歳であり、実はかなりの年齢の時でした。

上杉家への士官から晩年まで


(上杉景勝像(上杉神社蔵)出典 Wikipedia)

慶長3年(1598年) 上杉家に仕官する
慶長5年(1600年) 関ヶ原の戦い
慶長10年(1605年 もしくは慶長17年(1612年)死去

その後は京都で浪人生活を送り、剃髪し「穀蔵院飄戸斎」と言う名を名乗っていたそうです。この期間に秀吉は全国を統一しており、豊臣秀吉の聚楽第などもあったため、全国各地の大名やその重臣が上洛していました。今までの活躍もあり、様々な士官の誘いがありましたが、慶次は上杉景勝の家臣直江兼続と意気投合します。 1598年、上杉家が越後から会津120万石に移封されると、上杉家に仕官する事となりました。関ヶ原の戦いでは上杉家は西軍(石田三成側)直江兼続と一緒に従軍して最上勢や伊達勢を相手に、前田慶次は見事な戦いを繰り広げます。結局は石田三成は敗北し、直江兼続は自害しようとしますが、慶次はそれを止めます。そして二人は戦場から生き残る事を決めるのです。

慶次は朱柄の槍を持つ豪士5名と兵300にて、追撃する最上勢の中を縦横無尽に分け入って戦い、なんと生き残る事が出来たのです。

その後上杉家は120万石から30万石に減封され、会津から米沢に移動します。これに慶次は同行しています。関ヶ原の戦いでの武功を受け、多くの大名から高禄で誘いもありましたが、上杉家から離れることなく従ったそうです。前田家よりも仕えたいと思った者には、石高などは関係なかったのでしょう。

米沢に移った後は、伝承では地元住民と深く交わり和歌や連歌を詠むなど、自然の中で穏やかな生活を送ったと言われています。

死因

死因はおろか、死没年も不明です。米沢側の資料では、1612年6月4日に堂森で没したとされます。死因は、リウマチの悪化、腹の病気だとされますが、定かではありません。 加賀藩の資料では関ヶ原の戦い後もいたずら癖、奇行は治まる事なく、亡くなる直前に1605年に大和国刈布に隠棲したとあります。何となく加賀藩側からの記載は手厳しいです。

前田慶次のエピソード・逸話


(豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵)出典 Wikipedia)

まだある傾奇者のエピソード

豊臣秀吉は、慶次の傾奇者の評判を聞き、呼び寄せます。秀吉の前に現れた慶次のマゲは、片方に寄った形であり、平伏すとマゲは正面を向くものの、顔は横を向くという珍妙な様子でした。秀吉がそれについて言及すると「曲がっているからマゲである」と答えた慶次に、秀吉は大いに笑い褒美を与えます。

その後慶次は改めて正装で秀吉の元に現れます。その傾奇ぶりに秀吉は大いに喜び、「今後は好きなよう傾くがよい!」と傾奇御免状を与えたという事です。マゲと曲げを掛けた慶次ですが、傾奇者としての様子と韻を踏むという文学的な一面を表していますね。

愛馬の松風

江戸時代後期の随筆である翁草に載っているエピソードなので、信憑性は乏しいかもしれませんが、慶次の愛馬は松風と言います。

例の利家との水風呂事件の後、慶次は利家の元から出奔していますが、この時に利家の馬を使っています。その名前が松風です。松風は花の慶次では黒毛で紫色の目をもち、人を軽く踏み殺せるほどの巨体で描かれています。江戸時代の書物でも花の慶次程オーバーには描かれてはいませんが、立派な馬との記載があります。
ちなみに大きさについては記載があり、上杉氏の軍学書『北越軍談』には高さ四尺七寸(約141㎝)と言われており、これは現在の馬だとポニーが近いです。

小さいなと思うかもしれませんが、戦国時代の馬の平均の高さは120cm台、成人男性の平均身長が150cm後半と考えると、立派な馬という事に間違いはありません。

前田慶次の家紋


(加賀梅鉢 出典 Wikipedia)

前田慶次の家紋は「梅鉢紋」の中の「加賀梅鉢」という種類のものです。梅は菊などと並び縁起が良いと言われており、紋様として古くから用いされています。 慶次は前田家から離れた後もこの家紋を使い続けていたようで、気に入っていたのかもしれません。

前田慶次の名言・句


(直江兼続像 出典 Wikipedia)

前田慶次の名言

たとえ万戸候たりとも、心にまかせぬ事あれば匹夫に同じ、出奔せん
意味 例え多くの領地を貰える立場にあっても、思うように生きられないなら、卑しい人と同じである。御免被る。
前田利家を風呂に入れた時に、こう言い放って出奔しました。慶次の生き様を表した名言です。

生きるまで生きたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ。
意味 思うように生きたら後は死ぬだけ
無苦庵記(慶次が晩年に書いたもの)に記されています。慶次は加賀藩から出奔し、最後は自身が認めた米沢藩に仕えます。生きたいように生きた彼が最後にたどり着いた境地ですね。

前田慶次の和歌

夏の夜の 明やすき月は 明のこり 巻をままなる こまの戸の内
意味 夏の夜は短い。明けてからも留まっている月のように、木の間の家で名残りを惜しんで寝ている。

吹く風に 入江の小舟 漕ぎえて かねの音のみ 夕波の上
入江の小舟か吹いている風によって漕ぎ去っていった。後に残るのは鐘の音だけだった。

慶次と直江兼続は立場こそ違えど、生涯仲が良かったと言います。1601年に直江兼続が京都・伏見で和漢連歌会を開催し、それに慶次も参加。兼続の和歌に対して慶次が返答したものです。即興で作ったにも関わらず、風流さと四季の特徴をしっかりと表しており、教養の高さが伺えます。

前田慶次にゆかりのある地


(米沢市堂森善光寺の供養塔 出典 Wikipedia)

堂森善光寺(墓)

慶次の墓は堂森善光寺にあります。お寺の前には、「前田慶次 ゆかりの地 堂森」と目立つ看板があります。境内に入って、裏山へ向かうと目立つところにあるそうです。 また墓の他、地元民との力試しをした時に持ち上げたと伝わる石「慶次の力石」もあるので、参拝時はそちらも確認してください。イベントとして毎年命日とされる6月4日に供養祭が執り行われています。

宮坂考古館(資料館・記念館)

こちらは米沢市東町にある資料館・記念館です。慶次が所用したと伝えられる品(甲冑、徳利、笠、書状)を観ることができます。文化財としても貴重ものが沢山あります。慶次をモデルにした数々の小説や漫画を自由に閲覧できるコーナーもあり、漫画から慶次を知った人にも受け入れやすいでしょう。
その他、上杉家や直江兼続の事も学ぶ事が出来、米沢の歴史を学ぶ良い場所です。

前田慶次の子供や子孫について


(金沢城石川門(重文)出典 Wikipedia)

前田慶次の妻は、利久の弟であり、利家の兄である安勝の娘です。二人の間には嫡男の前田正虎と五人の娘が生まれたとされています(3女説もあり)
慶次は1590年以降に前田家から出奔しますが、その時に家族を置いています。安勝が存命だったので、妻や娘の立場が悪くなる事はなかったです。慶次の養父の利久が亡くなった後は、本来なら慶次が跡継ぎになりますが、慶次は出て行ったので、嫡男の正虎がその後を継ぐことになりました。

前田正虎

義理の従兄弟にあたる前田利長(利家の長男)次いで前田利常(利家の四男)に仕えました。生没年は不明ですが、加賀藩誕生後も生存し、書家として名を残します。子どもはおらず、男系の血筋はここで絶えたというのが一般的ですが、娘たちが今の岐阜県に嫁ぎ子孫がいたという伝承もあります。史実の情報がないのではっきりとは言えません。

娘たち

娘達の情報は確かなものがなく、不明な点が多いです。それぞれ結婚し、他に嫁いでいます。
長女…前田利長の側室から大聖寺藩士である山本弥右衛門と再婚
次女…北条氏邦の息子である北条庄三郎へ
三女…長谷川三右衛門に
四女…平野弥右衛門に
五女…富山藩士である戸田方経に
それぞれ嫁いだと記録がありますが、その後は不明です。もしかしたら前田慶次の血筋は現在にも受け継がれているかもしれませんね。

前田慶次を題材とした作品(小説・漫画・ドラマ等


(原哲夫 Japan Expo 2013にて 出典 Wikipedia)

一夢庵風流記(小説)

隆慶一郎による歴史小説です。この作品の前も慶次が題材の小説はありましたが、現在の荒くれ者、傾奇者のイメージはこの小説から来ており、前田慶次を一躍有名にした作品です。

花の慶次-虹のかなたに-(漫画)

北斗の拳の作者でおなじみの原哲夫が一夢庵風流記を原作にした作品です。原作に忠実と言う事はなく、年齢が極端に若かったり、豪快な戦闘描写、大男と言う描写等、ある意味で前田慶次のイメージを決定付けた作品と言えますね。

前田慶次 かぶき旅(漫画)

関ヶ原から1年後、いくさのない世に退屈をし始めた天下御免の前田慶次が、強者を訪ね歩く様子を描いた漫画です。虹のかなたにの続編となり、月刊コミックゼノンで2019年4月から連載を開始しています。

かぶき者 慶次(ドラマ)

2015年4月から6月にNHK総合テレビで放送された、慶次の晩年を描いた作品です。藤竜也が主演で、石田三成の子を自分の息子として育てている設定です。

映画は前田慶次を主役にしたものはありませんが、もしかしたら花の慶次が実写化する可能性はありますね。

参考文献

https://senjp.com/keiji/
https://kusanomido.com/study/history/japan/sengoku/20955/
httpshttp://www.miyasakakoukokan.com://nihonshimuseum.com/maeda-keiji/
https://sengoku-g.net/men/view/11
https://historivia.com/maeda-keiji/2241/

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