滝廉太郎とは?代表的な曲や死因や名言、作品を解説

滝廉太郎は明治時代の音楽家です。ピアノ等の西洋楽器を用いて、日本人に馴染む数々の名曲を作ります。後に肺結核にかかり、若くしてこの世を去りました。

日本語と西洋音楽を融合させた楽曲達は、その後の日本の音楽業界の発展に大きな影響を与えたのです。今回は滝廉太郎の代表的な曲や、死因、名言についてお伝えします。

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滝廉太郎の生い立ち


(滝廉太郎 出典 Wikipedia)

滝廉太郎は1879年(明治12年)8月24日に滝吉弘の長男として生まれます。滝家は日出藩(現在の大分県)の家老を務めていました。

滝吉弘は有能な人で、維新三傑の大久保利通のスカウトを受けて上京します。大久保が暴漢に襲われた時に身を呈して守る等、肝の座った人物でした。その後も大久保の右腕として働きますが、西南戦争直後の1878年に大久保は暗殺されます。その後は伊藤博文の元で働いていました。
廉太郎が生まれた頃は、地方官として全国を転々としており、廉太郎も父と共に全国を回りました。この時に西洋の文化と、数々の日本の名所に触れた事が後の廉太郎の楽曲に影響を与えています。

滝廉太郎の生涯・人生年表


(旧:麹町小学校 現:千代田区立麹町小学校 廉太郎の母校 出典 Wikipedia)

1879年(明治12年) 東京府芝区(現在の港区)で誕生
1886年(明治19年) 神奈川県の小学校に入学も富山に転校する
1888年 東京の千代田区に転校する
1890年(明治23年) 小学校を卒業 その時にピアノを演奏する
1894年(明治27年) 東京音楽学校に入学
1898年(明治31年) 卒業し研究科に進みつつ、音楽教師として働く
1900年(明治33年) 洗礼を受ける
同年 メヌエットや花を作曲する
1901年(明治34年) ヨーロッパに留学する
同年 荒城の月や箱根八里を作曲する
1902年(明治35年) 日本に帰省する
1903年(明治36年) 憾 作曲 肺結核にて死去 享年25

日本の感性に触れる


(1885年頃のアコーディオン)

滝廉太郎は前述した通り、父の転勤で全国を転々とします。

物心つく頃に住んでいた横浜はガス灯や電車など、西洋の文化に触れる機会も多かったようです。2人の姉はアコーディオンやバイオリンを習っていました。

1886年に富山県に引っ越した際には、富山県初の音楽会が師範学校講堂で開催されており、恐らく廉太郎も歌っていたものと思われます。ここで彼は唱歌 保育唱歌 神楽等に触れています。

1888年に父が非職となり、一家は東京千代田区に移り住みます(理由は諸説あり)。その後、父が大分で再就職しますが、廉太郎は祖母の家に留まり、1890年に千代田区の小学校を卒業しました。その際にピアノ演奏をしたそうですが、曲名は不明です。

小学校卒業後は大分の高等小学校に入学しますが、父の転勤で直入群(現大分県竹田市)に引っ越します。ここは荒城の月の構想を練った岡城がありました。

音楽学校への進学


(東京音楽学校 出典 Wikipedia)

1894年音楽教師を目指して東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)に進学します。最年少の16歳で入学し、卒業時には総代として答辞を述べる等、才能を開花させました。

1898年に音楽学校の研究家に進み、作曲を行いつつ、音楽教師として働いていました。1900年にはドイツ留学が命じられます。この歳に廉太郎はキリスト教に入信しています。また留学前に荒城の月等、数々の名曲を作っています。

ドイツ留学

1901年4月にドイツへ旅立ちますが、わずか5ヶ月後の11月に結核を発症。1902年に帰国を余儀なくされます。その後は父の故郷の大分で療養していましたが、症状は悪化して行ったのです。

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滝廉太郎の死因と最期


(日出城跡 出典 Wikipedia)

1903年6月29日 肺結核は改善せず、廉太郎は25歳の若さでこの世を去りました。もはや死を覚悟したのでしょうか。廉太郎は死の数ヶ月前にという曲を作りました。曲名はうらみと呼びます。

このうらみとは憎しみの気持ちの事ではなく、心残りや未練、無念といった気持ちを指していると言われています。これから沢山の曲を作りたかったと言う廉太郎の思いだったのでしょうか。

廉太郎が死去した後、沢山の楽譜がありましたが、結核菌に冒されていると判断され、多数の作品が焼却されています。もしかしたら皆が知っている曲になれた曲もあったのかもしれません。

滝廉太郎の代表曲は?


(尋常小学読本唱歌の教科書 出典 Wikipedia)

廉太郎がこの世に残したのは34曲と決して多くはありません。しかし数々の名曲を残しています。
明治に西洋音楽が輸入され、日本でも歌われるようになりました。しかし西洋で作られた音楽に日本語訳をしたメロディを無理矢理乗せるので、違和感のある曲が多く産まれました。

日本的なメロディとして、ヨナ抜き音階があります。これは音階がドレミソラの5つであり、ファとシがないものです。

滝廉太郎が作曲した曲は、西洋音楽を下地にしつつ、日本的なメロディを違和感なく乗せる事に成功しており、まさに西洋音楽と日本人の感性をうまく融合させたものでした。

廉太郎が作った曲は直ちに反響を呼び、文部省が編纂した中学唱歌に掲載されるようになります。彼は若くして音楽家として注目されるようになったのです。

作詞 武島羽衣
作曲 滝廉太郎

春のうららの 隅田川 というフレーズは皆も聴いた事があるでしょう。

こちらは歌曲『四季』の1曲目で春の曲に当たります。夏は納涼、秋は、冬は という曲がありますが、花が圧倒的に有名です。元々は花盛りと言う曲名でしたが、月と雪に合わせて、曲名もシンプルになりました。

1番2番3番と歌が続きますが、伴奏や旋律が異なります。これは日本語のメロディにうまく当てはめる為に、アレンジされた為です。

荒城の月


(土井晩翠 1951年(昭和26年)頃の撮影 出典 Wikipedia)

作詞 土井晩翠
作曲 滝廉太郎

廉太郎と言えば荒城の月ですね。1901年に中学校唱歌の懸賞作品として廉太郎が作曲したものです。現在歌われている形は、1918年に山田耕筰(1886~1965)が編曲したものです。
こちらは日本で初めて作曲された西洋音楽と言われています。

廉太郎は大分竹田の岡城址や、富山にある富山城をみて、この曲の着想を得ました。岡城址は廉太郎の時代から既に取り壊され、石垣だけが残っていましたが、それは明治政府の意向です。人々に親しまれた城は、人の世の栄枯盛衰とその哀れみの象徴であると謳っています。

箱根八里


(鳥居忱(1910年頃) 出典 Wikipedia)

作詞 鳥井枕
作曲 滝廉太郎

こちらも中学唱歌として作曲されました。タイトルの箱根八里とは、旧東海道の小田原宿〜箱根宿の四里と、箱根宿から三島宿の四里を合わせたものです。
日本人に馴染むヨナ抜き音階に加え、リズムはピョンコ節(タンタ|タンタ|タンタ)や三連符(タタタ タタタ)等が散りばめられています。そう言う面から当時は荒城の月よりも人気がありました。

お正月

作詞 東くめ
作曲 滝廉太郎

もういくつ寝るとお正月 と言うフレーズは皆が聴いた事があるでしょう。こちらも廉太郎の曲です。幼稚園の唱歌として発表されました。こちらも音階の中にファとシが含まれていないヨナ抜き音階となっています。

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滝廉太郎の人物エピソード


(瀧廉太郎像(東京都台東区上野公園)出典 Wikipedia)

滝廉太郎とキリスト教

幼少期に横浜に住んでいた頃、隣の官舎には松川という、キリスト教に熱心な家族が住んでいました。そこでよく音楽会が開かれており、廉太郎や兄妹は招かれていました。廉太郎はそこでキリスト教や外国人と出会っています。幼少期から西洋の文化に触れていた事が、後の洗礼にも繋がっているのかもしれません。
西洋音楽はキリスト教と深い関わりがありました。明治時代は、まだ西洋音楽が日本に十分に伝わっていなかった時代です。その西洋音楽の本質を知る為に、キリスト教に惹かれて、洗礼を受けた事はごく自然な事だったと思います。
彼は後に結核になった時も、大分に来ていた宣教師との交流で安らぎや安静を得ていたようですね。

多芸な滝廉太郎

廉太郎の才能は音楽だけにとどまりません。小さい頃は独楽(コマ)回しが得意でした。絵の才能もあり、大分にいた頃に、馬の絵の鉛筆画で最高の特別賞を受賞しています。
音楽学校はピアノ等だけでなく、学力も必要でしたが、廉太郎は首席で卒業しています。何をして腕はピカイチだったようで、文武両道の鏡だったようですね。

滝廉太郎の都市伝説


(仙台城にある『荒城の月』歌碑。出典 Wikipedia)
都市伝説の域を出ませんが、廉太郎の死は仕組まれたものだったと言う説があります。これはやりすぎコージーと言う都市伝説を取り上げる番組で紹介されていたものです。

1901年に廉太郎は鳩ぽっぽ雪やこんこと言う曲を作曲しています。作詞は東くめと言う廉太郎の先輩です。私達にも馴染み深い曲かと思えば、メロディも歌詞も微妙に違います。雪やこんこは廉太郎の方とはよく似ています。

私達が知っている鳩ぽっぽの曲名は雪やこんこの曲名はであり、これらは1911年に文部省唱歌に掲載されたものです。メロディも歌詞も廉太郎の曲を手本にしたとしか思えないのですが、作者不詳となっています。

うらみにこめられたメッセージ?

当時の役人は教育の一環で、子ども達に曲を作りました。しかし役人の作った曲はお固いもので流行らず、若き天才廉太郎の曲は大衆に受け入れたので、メンツを潰されましたらしいのです。その為、政府は廉太郎を日本から追い出す為、結核が流行っているドイツに留学させたという事です。

死後に蓮太郎の作品を使用したのも、役人達が自分達の手柄にしたかった為であり、廉太郎が最後に作った曲がうらみなのは、政府に対するうらみから来ているという話でした。

しかし1911年に発表された鳩や雪以外に唱歌で廉太郎の歌に類似した曲はありませんし、鳩ぽっぽや雪やこんこを作詞した東くめは1911年の唱歌については何も触れていません。盗作であれば、主張したでしょう。またドイツへの留学は当時大変名誉な事です。政府が廉太郎を追い出したかったのなら、他に方法は沢山あったはずです。
確かに鳩や雪は廉太郎の曲を参考にした可能性は高いですが、そこから国家の陰謀となるのは話が飛躍しており、都市伝説の域を出ないでしょう。

滝廉太郎の名言


(満月 出典 Wikipedia)

廉太郎は若くして亡くなった事もあり、生前の言葉は殆ど残されていません。しかし彼が作詞した曲の中に彼の思いは込められています。

光はいつも かはらぬものを
ことさら秋の 月のかげは
などか人に ものを思はする
あゝなく虫も おなじこゝろか
こゑのかなしき

滝廉太郎作曲の 月という曲の歌詞です。

廉太郎は荒城の月に代表されるように、月が大好きでした。平安時代は月の影とは、月光の意味があり、こちらの曲もそれを参考にしているものと思われます。秋の夜に浮かぶ月を見ると、何故か色々な事を思い出してしまう…そんな心境が見事にメロディに乗せられています

微力ながら日本語の歌詞に作曲した曲を世に出すことによって日本歌曲の発展に寄与したい

四季の初版の序文に廉太郎が記したものです。廉太郎の音楽への熱い気持ちが伝わってきますね。

滝廉太郎にゆかりのある地

滝廉太郎記念館(大分県)


(大分県竹田市の旧居 出典 Wikipedia)
大分の竹田市に現存する廉太郎が昔住んでいた屋敷です。蓮太郎が12歳から14歳の頃、父の転勤で引っ越していた期間のものですね。現在は記念館として、手紙や写真等、廉太郎を知る上で貴重な資料が展示されています。また館内では瀧廉太郎の生涯を紹介した15分間のビデオも上映されており、彼の生涯を知る上で大変為になります。
近くに駐車場がなく、少し離れた歴史資料館の駐車場を使いましょう。資料館から、廉太郎トンネルをくぐって右に進むとこちらの記念館が見えてきます。

滝廉太郎記念館(富山県)

こちらは富山にある記念館です。元々は滝廉太郎が富山に居た頃に遊んだ小学校跡に立てられたものでしたが、現在は富山城址公園内の松川茶屋内に移転しています。こちらの茶屋では軽食も食べる事が出来ますよ。

こちらの記念館では主に蓮太郎と富山との関係についての資料が展示されています。

岡城址


(三の丸 高石垣 出典 Wikipedia)
荒城の月のモデルになった城は何箇所かあると言われていますが、その中の一つが岡城址です。廉太郎が父の転勤で直入群に来た時に、何度も訪れていたようです。
元々は1185年に源頼朝に追われた義経を迎える為に、緒方惟義という武将が築城したのが始まりと言われます。明治の廃城で現在は城は残っておらず、高く積み上げられた石垣のみが残っています。荒城の月の世界観を堪能したい方には冬枯れの時期か夏草の茂った時期がおすすめです。

滝廉太郎 終焉之地


(瀧廉太郎終焉之地 出典 Wikipedia)
現在彼が最期に過ごした家は残っていませんが、家があった箇所には瀧 廉太郎 終焉之地という立派な看板が立てられています。近くには瀧廉太郎の像のほかに、道を挟んで瀧廉太郎の年譜や楽譜を記した板も設置してあります。

龍泉寺

大分県速見郡日出町にあるお寺です。こちらは多くの日出藩士が眠るお墓があり、元々日出藩の重役の生まれであった廉太郎のお墓もここにあります。瀧廉太郎の墓はもともとは大分市の万寿寺にありましたが、平成23年にこちらに移されました。

参考文献

https://www.jatahq.org/pdf/headquarters/document/tb-archive/332.pdf
https://www.tabirai.net/s/sightseeing/column/0008465.aspx
https://r-ijin.com/taki-rentarou/
https://history-men.com/taki-rentaro/#i-4
海老沢敏 滝廉太郎 夭折の響き

最後に


(瀧廉太郎先祖生誕地(屋敷跡)出典 Wikipedia)

廉太郎は若くして亡くなりましたが、多くの名曲を生み出しました。唱歌や童謡は私達にとって、馴染みは薄いかもしれません。しかし西洋音楽と日本人の持つ感性を融合させた音楽はその後の日本の音楽に大きな影響をもたらしました。
私達が聴いているJ-popもルーツを辿れば廉太郎の音楽に行き着くでしょう。そういう意味でも廉太郎の存在は偉大です。これを機会に廉太郎の生み出した数々の名曲に触れてはみませんか?

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