沖田総司は新撰組一番隊組長の天才剣士として有名な人物です。美男子、色白で華奢であるというイメージや、若くして病死した事が、その腕前とのギャップを生み、新選組の中でも絶大な人気を誇ります。
しかし沖田総司は生まれた年齢も定かではなく、本人とされる肖像画も不明な点が多く、謎の多い人物でもあります。今回は沖田総司の生涯、愛刀、名言について解説していきます。
目次
沖田総司とは
沖田総司は幼い頃より剣の才能を開花させ、若くして天然理心流塾頭を努めます。京都で新選組が結成されると、沖田は一番隊隊長に任命されます。池田屋事件を筆頭に幕末の様々な事件に関与します。新撰組内で多くの粛清を行った人物でもあり、斬った人数は組内でもトップクラスと言われています。後の鳥羽伏見の戦いには、病気の悪化もあり不参加。近藤勇の斬首の2か月後にこの世を去っています。
生まれ
沖田総司は、白河藩藩士江戸下屋敷詰めの沖田勝次郎の息子として天保13年(1842年)、もしくは天保15年(1844年)に生まれています。日付は分かっておらず、夏であった事だけが分かっています(姉のみつ、次姉のきん等の生年月日は判明しています)。
容貌・身長
新撰組関係者の八木為三郎からは「丈が高く肩の張りあがった色黒な人であった」という証言があります。また新撰組後援者の佐藤彦五郎のひ孫からは「背が高く、色黒で猫背のよく笑う人だった。ひら顔で目が細く、ひらめのような人だった」という証言もあります。
身長は5尺5寸、5尺7寸と言われています。現在の身長では167~172㎝ですが、当時の男性の平均身長が160㎝以下と言われており、大柄な部類になりますね。
沖田総司の姉ミツの曾孫の沖田哲也からは、色白の小さな男と伝わっているという証言もありますが、複数の証言と真逆な事を伝えているのが現状なので、沖田総司は美男子ではなかった可能性が高いです。
性格
いつも冗談を言って笑う人だと伝わっています。近くの子ども達ともよく遊んでいたようで、1960年代に実際の沖田総司に遊んでもらった人が証言しています。
しかし剣の指導を受けた者は、荒っぽくてすぐ怒るという印象を持っています。稽古はとても厳しかったようです。
また三浦啓之助(佐久間象山の息子)と言う隊士が、別の隊士の背中を恨みからき斬り付けた事がありました。沖田総司は三浦に対して「この馬鹿野郎!」と怒り、襟首を掴んで何度も畳に顔を押し付けたそうです。後ろから斬りつけるという卑怯な行いが温厚な沖田総司には許せなかったのでしょう。優しさと剣士としてのプライドを併せ持った人だと言えます。
愛刀「菊一文字則宗」「大和守安定」「加州清光」
沖田総司が愛用していた言われる刀は3つあります。1つずつ紹介していきましょう。
菊一文字則宗
鎌倉時代の名刀工の則宗が作った刀であり、後鳥羽上皇より菊の銘を彫る事を許された事から、そう名付けられました。二尺四寸二分。細身で腰反りが高く、とても美しい刀だったそうです。沖田総司がよく利用していた刀屋の主人から、土方歳三を通じて譲り受けたものと伝わっています。1万両(現在の価格で7000万円)と高額でしたが、沖田総司が腰に差すなら譲り渡すと言われたそうです。
あまりの名刀ぶりにあまり使われる事はありませんでしたが、新選組一番隊隊士の日野助次郎が陸援隊の戸沢鷲郎に斬り殺された際に、仇を打つ為に使用されたそうです。
沖田総司の死後に、どこかの神社に収められたそうですが、詳細は不明です。実は菊の銘が彫られた剣が則宗の作には無いと言われており、沖田総司が所有していた事自体がフィクションとも言われています。
大和守安定
続いて大和守安定です。こちらは江戸自体に作られた良業物で当時としては最先端の刀であり、斬れ味が良かったそうです。近藤勇が愛用していた長曾祢虎徹によく似ており、影響を受けたと言われています。
こちらも現物は残っておらず、実際に使用されたかは不明です。新選組隊員の大石鍬次郎や幕臣の伊庭八郎等、実際に愛用していた人もいるので、まだ現実的です。
加州清光
3つの刀の中で、最も初期に所有していたと言われます。幕末は9代目の清光が刀を作っていましたが、こちらは6代目の乞食清光と呼ばれた人が作ったものと言われています。
加州清光は、池田屋事件の際の激しい戦闘で刀の先端が折れてしまったそうです。鍛冶屋に持っていき修復を試みたそうですが、修復は出来なかったようです。その後破棄されたものと考えられ、沖田総司の使用した加州清光も残っていません。
死因・最期
沖田総司の死因は結核と言うのは有名ですね。池田屋に斬り込んでいる最中に喀血で倒れたと言うエピソードが有名ですが、本当に喀血なのかは不明です。と言うのもその2か月後には禁門の変に沖田総司は参加しているからです。結核は肺炎の末期症状なので、それからしばらく新選組の任務に参加していたのは疑問があります。
永倉新八が後世に残した「新選組始末記」では池田谷事件の最中に沖田総司が昏倒した話が載っていますが、喀血とは書かれておらず、熱中症等で一時的に体調を崩したのかもしれません。
慶応3年(1867年)になると、病状は悪化していた様子がみられます。12月には近藤勇の妾宅で療養しており、翌年1月の鳥羽・伏見の戦いには参加していません。その後、新選組と関わりが深かった幕府の医師・松本良順の治療を受けていましたが、5月30日に亡くなりました。沖田総司は最後まで近藤勇が斬首された事を知らぬまま亡くなったそうです。
沖田総司の人生年表・生涯
年 | 出来事 |
---|---|
天保13年(1842年) | 白川藩江戸屋敷(東京都西麻布)で生まれる(1844年説あり)。 |
天保15年(1845年) | 両親が相次いで死去。 姉のみつが婿(林太郎)を取り、沖田家を相続させる。 |
嘉永6年(1853年) | 姉夫婦に跡取りが生まれる。 天然理心流の試衛館に弟子入りする為家を出る。 |
安政3年(1856年) | 同門の近藤勇と周布の下仙川村に出稽古に行く。 |
文久2年(1862年) | 免許皆伝。塾長となり、近藤勇の一番弟子となる。 |
文久3年(1862年)2月 | 浪士組結成の為近藤らと共に上洛。 |
同年8月 | 八月十八日の政変の鎮圧に参加する。新選組の名を拝命。 |
同年9月 | 同志だった芹沢鴨と平山五郎を暗殺する。 |
文久4年(1863年)5月 | 池田屋事件(この時に喀血したとの説あり) |
同年8月 | 禁門の変にて御所の南の門を警護する。 新選組が小隊制になり、1番隊隊長に命じられる。 |
慶応元年(1865年)2月 | 山南敬助脱走の追跡と切腹の介錯を行う。 |
慶応3年(1867年) | この頃から病状が悪化し始める。 |
同年12月 | 沖田総司が療養していた近藤妾宅が襲われるが難を逃れる。 |
慶応4年(1868年)1月 | 鳥羽伏見の戦いに参加せず、大阪に後送。 |
同年5月 | 江戸に戻り、千駄ヶ谷にて病没。 生まれた年が定かではないので、享年は25歳、もしくは27歳です。 |
複雑な幼少時代
沖田総司は幼少期は惣次郎と名付けられます。長女ミツとは11歳も年が離れており、両親はもう跡取りが生まれないと思い、養子という形でミツに跡取りを用意していた為、惣”次”郎と名付けられたと思われます。その後、両親は早くに死去。姉のミツが婿を取り、その後跡取りも生まれた事で、沖田総司の立場は複雑なものになります。 天然理心流の試衛館に弟子入りする為家を出る際、彼は何を考えていたのでしょうか。
試衛館での出会い
試衛館で沖田総司は近藤勇や土方歳三と同門になります。試衛館での日々は大変だったと思いますが、共に稽古をする仲間は家族のようなものだったのかもしれません。
新選組として
浪士隊として近藤勇らと上洛します。その結成された新選組では、副長助勤筆頭、新選組一番隊組長、剣撃師範筆頭、小銃頭等の様々な役職を歴任します。結成までの間も、結成後も沖田総司は暗殺や粛清を繰り返します。上洛した当初は、近藤勇ら試衛館組は幕府の後ろ盾もなく、浪士隊の中でも弱い立場にありました。試衛館組の近藤勇が新選組内のトップになれたのは、権力争いに勝利した事が挙げられ、様々な暗殺を行った沖田総司の功績でもあります。
慶応4年(1868年)3月に甲陽鎮部隊として近藤勇が出陣する事になりますが、その直前に沖田総司を見舞いに来ています。その時は声を上げて泣いたそうです。2人の間に強い絆があった事を思わせるエピソードです。
沖田総司のエピソード・逸話
沖田総司はイケメン美少年だった?
沖田総司はドラマや漫画ではほぼイケメン美少年として描かれています。実際には「丈が高く肩の張りあがった色黒な人であった」と言った証言が多く残っています。
最近では沖田総司の肖像画として出回っているものがありますが、これは姉のミツの孫である要と言う人がモデルで描かれています。ミツがどことなく似ていると思い、描き残してもらったそうです。
実際には沖田総司の写真や肖像画は残っていません。元々謎の多い人物である上、剣士としての実力を持ちつつ、若くして結核で亡くなるという悲劇的な生涯が、イケメン美少年というイメージを作ったものと思われます。
沖田総司は女だった説
こちらは完全なフィクションです。つかこうへいが作った演劇「幕末純情伝」で、沖田総司が女と言う設定で登場していま\す。そこから女説が浮上したものと思われます。
その他の逸話
沖田総司が読んだとされる辞世の句に
動かねば闇にへだつや花と水
と言うものがあります。1つの解釈として、花は沖田総司、水は土方歳三を指しており、「戦えなければ、土方さんと離れ離れになってしまう」と言う意味が込められているそうです。しかし原本は残っておらず、真偽は不明です。
沖田総司の剣の実力
沖田総司は剣の達人として知られています。若干12歳にして白河藩の指南役と試合をして勝利したという記録が残っています。その後も頭角を現し天然理心流の免許皆伝しています。天然理心流の奥義は三段突き、正式名称を無明剣と呼びます。これは平晴眼と言う間合いから、一歩足音を踏み込む音を聞くと既に3度の突きが入っているというものです。天然理心流は突きを得意とした流派であり、非常に実践向きだったそうです。様々な任務にも役立った事でしょう。
永倉新八からは「沖田と本気で立ち合えば師匠の近藤もやられるだろう」と言う証言もあり、新選組の中でも最強候補の一人とされています。沖田総司の偉業
偉業として真っ先に挙げられるのが、池田屋事件による討幕派の行動の阻止でしょう。討幕派が御所を焼き払い、天皇を拉致する計画があり、これらが実行されれば京都は大変な騒ぎになりました。この時の活躍により、新選組の名前は天下に轟いたと言います。沖田総司自体は慶応3年(1867年)には戦線を離脱しており、鳥羽伏見の戦いでは活躍はありません。
新選組自体は明治以降は敗者という事もあり、現在程の人気はありませんでした。特に戦前の映画では悪役として描かれる事が多かったのです。戦後になり、司馬遼太郎の小説等の影響もあり、新選組の人気に火が付きましたが、これは沖田総司の人となりの影響も大きかったと言えます。そういう意味では新選組の人気の火付け役にも一役買ったと言えますね。
沖田総司の名言
・「大刀を損じれば小刀を抜きなさい。小刀を損じれば鞘で、鞘を損じれば素手でも戦いなさい 。戦場では誰も待ってはくれないのですよ。」
戦いに妥協をせず、どんなものでも武器にして戦わないと、逆に自分がやられてします。戦いの場面では1つの失敗が命取りになります。彼が一流の剣士であった事が分かる名言です。
沖田総司にゆかりのある地
試衛館
沖田総司が近藤勇や土方歳三と剣術を磨いた場所ですね。現在は東京都新宿の住宅街の中にその跡地があります。
旧八木邸
沖田総司や土方歳三が芹沢鴨らを暗殺した場所ですね。新選組の屯所として有名です。芹沢鴨暗殺の際に出来た刀傷が生々しく残っており、歴史的にも価値のある場所です。京都市中京区にあり、和菓子を食べる事が出来ます。
池田谷跡地
池田屋事件の跡地です。京都三条木屋町にあります。当時の池田屋は廃業しており、現在は池田屋をテーマにした居酒屋があります。
沖田総司の墓
沖田総司の墓は東京都港区西麻布にある専称寺にあります。六本木駅から歩いて8分程ですが、気軽に参拝する事は出来ません。以前は気軽に参拝が出来ましたが、沖田総司のファンが勝手に墓石をもって帰る事が多発した為、現在は沖田総司忌しか参拝が許されていないからです。年に1回の参拝も新選組友の会を経由して行われており、専称寺は関与していないとの事です。今後もお寺や地域住民に迷惑がかかると、年に1回の参拝も中止になる可能性があるので、注意が必要です。
沖田総司の子孫
沖田総司は若くして亡くなり、結婚もしていなかったので、子孫はいません。直系の子孫はいませんが、前述した通り、姉のミツと婿の林太郎の間に跡取りが生まれており、その血筋は現在まで残っています。また次姉のキンも結婚しており、子どもが生まれています。
沖田総司を題材とした作品(小説 ドラマ)
経歴やその最期から、昔から様々な作品に登場しています。小説では司馬遼太郎の「燃えよ剣」「新選組血風録」が有名です。現在の沖田総司のイメージは司馬遼太郎のイメージが大きいかもしれません。
NHK大河ドラマ 新選組!では藤原竜也が沖田総司を演じています。その他幕末の大河ドラマでもよく登場し、イケメン俳優が起用される事が多いですね。2020年公開予定の「燃えよ剣」ではHey!Say!JUNPの山田涼介が演じています。
参考文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/沖田総司
歴史旅人 Vol.1【新選組】