夏目漱石はお好きですか?
「千円札の人」ではなく、「前の千円札の人」になって結構たちますね。
日本を代表する作家であり、今も世界に多くの読者をもつ夏目漱石とは、いったいどんな人だったのでしょうか。
目次
夏目漱石とは?
夏目漱石は、明治・大正時代に活躍した、日本を代表する文学者です。
代表作には、『坊ちゃん』『吾輩は猫である』『三四郎』などがあり、現代でも人気の高い作品ばかりです。
かれは、文化・教養をよく身につけ、英文学(イギリスの文学)を勉強し、ロンドンに留学。
イギリス人がびっくりするほど、イギリスのことを詳しく学びました。
英文学者としても優れた仕事をしましたが、のちには作家の仕事にうちこみました。
また、多くの弟子を育てたことでも知られています。
漱石は49歳で亡くなるまで、のちの世にも多くの人に感動を与える優れた作品を執筆しました。
かれの残した作品は、「人はどう生きるべきか」「人と人との関係」「恋愛」「お金」などの人々に身近なテーマが主となっています。
本名
本名は、夏目金之助。
生まれた日が庚申の日だったことから、厄除けの意味で名前に「金」の文字が入れられました。
(この日に生まれると大泥棒になるという迷信があったため)
ペンネームの由来
夏目漱石は、正岡子規の詩集文『七艸集(ななくさしゅう)』の批評を書いた際にはじめて「漱石」という号を使いました。
この「漱石」というペンネームの由来には、2通りの説があります。
ひとつは、子規の数あるペンネームのひとつを譲り受けたという説。
もうひとつは、次に挙げる中国の故事「漱石枕流」をもとにしているという説です。
昔、中国に、「石を枕にして、流れで口を漱ぎたい(洗いたい)」と言おうとして、「石で口を漱ぎたい」と言ってしまった男がいました。
その男は、負け惜しみで「俗世間のいやしい物を食べた歯を磨きたいから、石で漱ぐんだ」と屁理屈をこねた、とのことです。
ユーモア精神にあふれ、負けず嫌いだったといわれている漱石にぴったりの名前ですね。
夏目漱石の人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
1867年(誕生) | 2月9日、江戸牛込馬場下横町(東京都新宿区喜久井町)で生まれる。 父・夏目小兵衛直克(なつめ こへえ なおかつ)、母・千枝の五男、本名は金之助。 生後まもなく、四谷の古道具屋に里子に出される。 |
1868年(1歳) | 塩原昌之助(しおばら しょうのすけ)の養子となり、塩原性を名乗る。 |
1869年(2歳) | 浅草へ引っ越す。 |
1874年(7歳) | 浅草寿町の戸田学校下等小学に入学する。 |
1876年(9歳) | 養父母が離婚し、塩原家に籍をおいたまま夏目家にひきとられる。 市ヶ谷柳町の市ヶ谷学校(現・東京都新宿区立愛日小学校)に転校する。 |
1878年(11歳) | 錦華学校小学尋常科(現・東京都千代田区立お茶の水小学校)に転校し、卒業する。 |
1879年(12歳) | 東京府第一中学校(現・東京都立日比谷高校)に入学する。 |
1881年(14歳) | 1月、実母・千枝が亡くなる。 二松学舎(現・二松学舎大学)に転校する。 |
1883年(16歳) | 9月、成立学舎に入学する。 |
1884年(17歳) | 下宿生活をはじめる。 9月、大学予備門(1886年に第一高等中学校に改称)に入学する。 |
1885年(18歳) | 猿楽町の末富屋に下宿する。 |
1886年(19歳) | 腹膜炎ため2年に進級できず落第する。 |
1888年(21歳) | 1月、塩原家より復籍し、夏目姓にもどる。 7月、第一高等中学校予科を卒業する。 9月、第一高等中学校本科英文科に入学する。 |
1889年(22歳) | 5月、正岡子規の『七艸集(ななくさしゅう)』の批評を書く。 9月、紀行文集『木屑録(ぼくせつろく)』を書く。 |
1890年(23歳) | 7月、第一高等中学校本科英文科を卒業する。 9月、帝国大学(現・東京大学)文科大学英文科に入学する。 |
1891年(24歳) | 12月、ディクソン教授に頼まれ、『方丈記』を英訳する。 |
1892年(25歳) | 4月、北海道に転籍し北海道平民になる。 5月、東京専門学校(現・早稲田大学)の講師となる。 |
1893年(26歳) | 7月、帝国大学卒業、大学院に進学する。 10月、東京高等師範学校の英語教師となる。 |
1895年(28歳) | 4月、愛媛県尋常中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)に英語教師として赴任する。 12月、貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子とお見合いをする。 |
1896年(29歳) | 4月、熊本県の第五高等学校に赴任する。 6月、中根鏡子と結婚する。 |
1897年(30歳) | 6月、父・直克が亡くなる。 |
1899年(32歳) | 5月、長女・筆子が生まれる。 |
1900年(33歳) | 5月、文部省より、イギリス留学を命じられる。 |
1901年(34歳) | 1月、次女・恒子が生まれる。 |
1903年(36歳) | 1月、イギリス留学を終えて、帰国する。 4月、第一高等学校講師、東京帝国大学英文科講師を兼任する。 10月、三女・栄子が生まれる。 |
1905年(38歳) | 1月、『吾輩は猫である』を「ホトトギス」に発表する。 12月、四女愛子が生まれる。 |
1906年(39歳) | 4月、『坊ちゃん』を「ホトトギス」に発表する。 |
1907年(40歳) | 1月、『野分(のわき)』を「ホトトギス」に発表する。 4月、教師を辞め、朝日新聞社に入社し職業作家となる。 6月、長男・純一が生まれる。 『虞美人草(ぐびじんそう)』が朝日新聞に連載される。 |
1908年(41歳) | 朝日新聞で1月から、『坑夫』『文鳥』『夢十夜』『三四郎』とたてつづけに連載する。 12月、次男・伸六が生まれる。 |
1909年(42歳) | 6月、『それから』を連載する。 |
1910年(43歳) | 3月、五女・雛子が生まれる。 『門』を朝日新聞に連載する。 6月、胃潰瘍のため入院する。 8月、大量の血を吐き、一時危篤状態になる。 |
1911年(44歳) | 2月、文部省からの文学博士号授与を辞退する。 6月、朝日新聞社主催の講演会で各地へ講演旅行する。 8月、大坂で胃潰瘍が再発し入院する。 11月、五女・雛子急死する。 |
1912年(45歳) | 1月、『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』を朝日新聞に連載する。 12月、『行人(こうじん)』を朝日新聞に連載する。 |
1913年(46歳) | 1月、ノイローゼが再発する。 3月、胃潰瘍が再発する。 北海道から東京に転籍し、東京府平民にもどる。 |
1914年(47歳) | 4月、『こころ』を朝日新聞に連載する。 11月、学習院輔仁会で「私の個人主義」という講演をおこなう。 |
1915年(48歳) | 1月、『硝子戸の中(がらすどのうち)』を朝日新聞に連載する。 6月、『道草(みちくさ)』を朝日新聞に連載する。 |
1916年(49歳) | 5月、『明暗(めいあん)』を朝日新聞に連載する。 12月9日、午後7時前に、胃潰瘍により死去。 12月28日、雑司ヶ谷霊園に埋葬される。 |
夏目漱石の人物エピソード
たらい回しにされた幼少期
夏目漱石は、名主の家の六男として生まれましたが、明治維新によってその権力を失います。
口減らしのため、生まれて間もなく古道具屋に里子に出された漱石は、売り物のザルと並んで店先に寝かされます。
かわいそうに思った姉によって連れ戻されますが、またすぐに養子に出されてしまいます。
もらわれていった先でも幸せとは言えない生活が続き、結局9歳のときに養父母が離婚して、夏目家に戻ることになりました。
のちに漱石は、あちこちを転々とした幼少時代を振り返って、「自分はいらない子として扱われたものだ」と当時のさびしさを語ったそうです。
極端な負けず嫌い
漱石は英語の教師をしていました。
ある日、授業をしていると、ふところに片手を突っ込んで授業を聴いている生徒がいたそうです。
漱石がそのことを厳しく注意をすると、他の生徒が「彼は、片腕がないんです」と説明をしました。
すると、漱石は、「私もない知恵をしぼって授業をしているんだから、君もたまにはない腕をだしたまえ」と言ったそうです。
負けず嫌いもここまでくると、周りの方々は大変ですね。
病気がちだった漱石
晩年の漱石は、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、直接の死因となった胃潰瘍など多くの病気に悩まされていました。
自身の周囲の事を綴った作品『硝子戸の中』や、『吾輩は猫である』『明暗』などの小説にも、かれの病気を下敷きにした描写がみられます。
しかし、胃が弱かったにも関わらず、ビーフステーキや中華料理などの脂っこい食事が好みだったようです。
お酒を飲む習慣はあまりなく、ようかんやお汁粉、ケーキなど、甘いものが大好き。
毎日のようになめるジャムを医者に注意されるほどだった、といわれています。
夏目漱石の交友関係
正岡子規とは親友
夏目漱石と正岡子規(本名・正岡常則)は、漱石が22歳の頃に出会いました。
子規は、明治時代の日本文化における中心人物で、特に詩歌(しいか)の分野で活躍した俳人です。
漱石も子規の影響で、俳句にいそしむようになりました。
「漱石」の名はもともと子規の数あるペンネームのひとつを譲り受けたもの。
2人の友情は、1902年に子規が亡くなるまで続きました。
芥川龍之介は弟子?
漱石には、多くの門下生がいました。
「芥川賞」の名前の由来となった名作家、芥川龍之介もその一人でした。
龍之介は、知人を介し、漱石の主宰する「木曜会」に参加するようになり弟子となりました。
そして、その「木曜会」の場で、古典をベースとした作品『鼻』を漱石に絶賛され、自身の創作に絶対的な自信を持ちはじめます。
そのわずか1年後に漱石は亡くなりますが、かれは芥川龍之介に大きな影響を与えました。
芥川龍之介は、尊敬する師であり作家として世に出る機会を与えてくれた漱石を、生涯「先生」と呼んで敬愛していたそうです。
夏目漱石が行った偉業
多くの偉人を輩出した「木曜会」
漱石は、多くの知人や友人に慕われていました。
毎日のように様々な文学者たちが漱石の家を訪れ、雑談や議論に興じました。
しかし来客が増えていくにつれ、仕事に支障をきたすようになってきます。
そこで、漱石との面会は、毎週木曜日の午後3時からと決め、その会は「木曜会」と呼ばれました。
その中には芥川龍之介、和辻哲郎、寺田寅彦、内田百閒(うちだ ひゃっけん)など、そののち様々な分野で活躍する人々がいたのです。
紙幣にもなった夏目漱石
1984年から2004年までの20年間、千円札といえば夏目漱石でした。
千円札を広げると、そこに、豊かなひげをたくわえた漱石の肖像画が描かれていました。
野口英世に代替わりし、夏目漱石の旧札はほとんど見かけなくなりましたが、現在でも使用は可能です。
ただし、自動販売機などでは使えないこともあるようですので注意が必要です。
夏目漱石の名言
月が綺麗ですね
漱石は、学校を出たあと、愛媛県の松山で中学校の英語の先生をしていました。
あるとき、ひとりの学生が”I love you”という英語を”我、君を愛す”と訳します。
それを見た漱石は「日本人はそんなことは言わない。”月が綺麗ですね”くらいに訳すのが日本人の感覚と合っている」と言ったそうです。
このとき漱石はどんな気持ちでそう言ったのでしょうか。
残念ながら、この事を書いた文献や記録は残っておらず、本当にかれが言った言葉なのかどうかも不明です。
ですが、あまりストレートに愛の言葉を口にしない日本人の奥ゆかしさを表現した代表的な言葉として今も語り継がれています。
そのほかの漱石が残した言葉
- やろうと思わなければ横に寝た箸を縦にすることもできぬ。
- 真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。
- あせってはいけません。ただ、牛のように、図々しく進んで行くのが大事です。
- 古い道徳を破壊することは、新しい道徳を建立するときにだけ、許されるのです。
- みだりに過去に執着することなかれ、いたずれに将来に望みを属するなかれ。
- 人間の目的は生まれた本人が、本人自信に作ったものでなければならない。
夏目漱石にゆかりのある地
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/夏目漱石
夏目漱石のお墓
雑司ヶ谷霊園
所在地:東京都豊島区南池袋
この墓地には、ほかにも多くの文人が眠っています。
夏目漱石のお墓は少し変わっていて、安楽椅子をイメージした、ひと際目立つ大きなお墓。
夏目漱石の資料館・記念館
東北大学附属図書館 漱石文庫
所在地:宮城県仙台市青葉区川内27-1 東北大学川内南キャンパス内(本館)
夏目漱石の旧蔵書約3,000冊を中心に、日記・ノート・試験問題・原稿等の自筆資料、その他漱石関係資料等が保管されています。
また、漱石自身による書き入れやアンダーラインは蔵書全体の約3割にも及ぶ、という点にも注目。
蔵書のほとんどが、漱石が実際に手に取って読んだ本(あるいは読もうとした本)であり、貴重な資料の宝庫となっています。
閲覧は、要事前申請。
夏目漱石の死因
晩年の夏目漱石は、たびたび神経衰弱や胃潰瘍、糖尿病などに悩まされていました。
そして1910年、『門』の連載終了後、大量の血を吐いて倒れてしまいます。
伊豆の修善寺にて療養してもちなおしますが、この大病以降、漱石は生死の問題について書くようになったといわれます。
それから6年後の1916年12月9日、自宅で『明暗』執筆途中に、胃潰瘍が悪化し2度目の内出血をしました。
漱石は、家族や大勢の弟子たちに見守られながら49歳でこの世を去りました。
最期の言葉は、着用していた服をはだけて胸元を指し、「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」という何ともユーモラスな一言です。
高浜虚子の勧めで『吾輩は猫である』を書いてから12年。
職業作家となってからは10年。
小説家として活躍した期間は決して長くはありませんでしたが、かれは一生をかけて今でも多くの人に感動を与える作品を残しました。
亡くなった翌日、遺体は解剖され、その際に摘出された脳と胃は寄贈されました。
また、脳(重さ1,425g)は現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されています。
夏目漱石の代表作品
吾輩は猫である
漱石が高浜虚子(きょし)の勧めをうけて最初に書いた長編小説。
1905年~1906年に、雑誌『ホトトギス』に連載されました。
英語教師・珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)に飼われた猫(吾輩)の目から、人間たちの生態を面白おかしく、かつ風刺的に描いた作品です。
「吾輩は猫である。名前はまだない」という冒頭の一文は有名なので、誰でも一度は聞いたことがあるでしょう。
ですが一方で、結構な長編作品なこともあり、全文を読んだことはないという人も多いようです。
坊ちゃん
1906年発表の中編小説。
「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」という書き出しで始まります。
東京から四国・松山に赴任した中学教師、江戸っ子・坊ちゃんが東京に戻るまでを描いた作品です。
教頭赤シャツ、野だいこ、山嵐、うらなり、狸、マドンナ、清など、多彩なキャラクターが登場します。
漱石作品の中でも人気があり、数多くの映画化・ドラマ化・舞台化されています。
虞美人草(ぐびじんそう)
1907年発表の長編小説。
漱石が教職をやめ東京朝日新聞社に入社後、専業作家として書いた初の作品です。
秀才の小野、プライドの高い美女・藤尾、小野の婚約者であるもの静かな小夜子、藤尾の婚約者・宗近らの恋愛模様が描かれています。
すでに人気作家であった漱石の新連載とのことで、予告から大いに話題となりました。
ですが、漱石自身はこの作品が気に入らなかったようで、存命中に持ちかけられた海外翻訳や舞台化の話をすべて断ってしまいました。
三四郎
1908年に発表された長編小説。
『それから』『門』へと続く前期三部作の一つです。
熊本から上京して東京帝国大学に進学した小川三四郎の青春小説です。
都会的な女性・里美美禰子(みねこ)や英語教師・広田先生、友人・与次郎や先輩・野々宮さん、などの様々な人物との交流が描かれます。
作品の舞台にもなる東京大学の池は、本作にちなんで、「三四郎池」と名付けられました。
こころ
1914年発表の長編小説。
『朝日新聞』連載時のタイトルは『心』。
「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の三部から構成されます。
人間の深い部分にふれていると言われ、今でも多くの人に読み継がれている作品です。
大学生の「私」が「先生」に出会って心惹かれるも、先生は自殺してしまいます。
その遺書から、親友を裏切った先生の過去が明らかになっていきます。
明暗
未完でありながら、漱石最大の、最後の長編小説。
人間のエゴイズムを追い求めることを最大のテーマとしていた後期三部作の流れを引き継ぐ作品となっています。
主人公・津田を中心に、「我執」にとらわれる様々な人々の関係と行動が描かれています。
漱石が病により世を去ってしまったため、物語の途中で未完。
のちに、水村美苗『続明暗』や永井愛『新・明暗』など、他の作家により完結篇が書かれています。
参考文献
- 『夏目漱石』(西本鶏介/講談社 火の鳥伝記文庫)
- 『夏目漱石解体全書』(香日ゆら/河出書房新社)