スターリングラードの戦い(攻防戦)とは?世界に与えた影響・悲惨な背景を分かりやすく徹底解説!

スターリングラードの戦い(包囲戦)とは、第二次世界大戦においてソ連とドイツの間で起きた戦いです。戦争史上最大の市街戦と呼ばれ、ドイツ率いる枢軸軍72万人、ソ連兵110万人、スターリングラードに住む20万人の市民が亡くなりました。

スターリングラードの戦いは、第二次世界大戦の戦局を大きく変えた戦いであり、その後の世界のあり方にも大きな影響を与えました。今回はスターリングラードの戦いが世界に与えた影響や意義、背景をわかりやすく解説します。

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スターリングラードの戦い(攻防戦)とは?

スターリングラードの戦い(攻防戦)とは?

荒廃したスターリングラード
出典:Wikipedia

スターリングラードの戦いは1942年6月28日から、1943年2月2日の間に、ソ連の工業都市・スターリングラードで起きた戦いです。第二次世界大戦の最中、ドイツとソ連は激しく争っており、スターリングラードの戦いは戦争史上最も激しい戦いになりました。

ドイツ率いる枢軸軍は、スターリングラードの90%を占領します。しかしソ連軍が行った反攻作戦で形勢は逆転し、枢軸軍は敗北しました。ドイツ率いる枢軸軍72万人、ソ連兵110万人がスターリングラードの戦いで戦死しています。

またスターリングラードは瓦礫の山となり、20万人以上の死者が発生。当時のスターリングラードの人口は60万人でした。しかし戦死や捕虜になる、街から逃げ出すなどして、市民の数は激減。戦いが終わった時の住民は9796名しかいませんでした。

スターリングラードの戦いの背景

戦争史上最も悲惨とされるスターリングラードの戦い。まずはこの戦いが起きた背景を解説します。

背景①:独ソ戦の勃発

スターリングラードの戦いの背景

独ソ戦初期の様子
出典:Wikipedia

事の発端は1941年6月22日から勃発した独ソ戦です。ソ連とドイツは過去に独ソ不可侵条約を締結していました。しかしナチ党率いるヒトラーは、ドイツ人のための生存圏の必要性から東ヨーロッパ…つまりソ連方面に新たな領土を獲得すべきと考えていました。

1941年6月22日にヒトラーは独ソ不可侵条約を破棄し、突如ソ連に侵攻を開始。ソ連の指導者・スターリンにとって、ドイツの奇襲は完全に不意打ちであり、ソ連軍は大きな犠牲を払う事となります。

10月からヒトラーは、ソ連の首都であるモスクワの占領を目標としたタイフーン作戦を開始します。ただ、戦いが長期化する中で冬季が到来し、モスクワの占領は失敗に終わりました。ただスターリンは自らが指揮する赤軍がドイツの侵攻を防いだ事に大きく自信を持ち、兵力や軍事の増強を図っていきました。

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背景②:ブラウ作戦の開始

スターリングラードの戦いの背景

ブラウ作戦に参戦するドイツ兵
出典:Wikipedia

1942年の春を迎え、ドイツ軍はソ連南部の占領を目的としたブラウ作戦を指示します。ドイツの参謀本部は「ソ連経済のアキレス腱は、この地域にあるバクー油田に頼っている」と判断。まずはドン川西部でソ連軍を撃破。その後で攻撃軸を2つに分け、1つはスターリングラード近郊でボルガ河に到達し、もう一つはコーカサス他方を南下して、この地域の油田を占領する事を考えました。

つまりブラウ作戦開始時は、スターリングラードの占領は副次的な目標であり、本来は油田の占領が目的だったのです。ただ油田の占領を急ぐヒトラーは、二段構えの攻勢を想定していたブラウ作戦をドン川とコーカサス地方を同時に攻撃する作戦を構想します。7月7日に南方軍集団は行動を開始し、8月23日には枢軸軍がスターリングラードに到達。航空機のべ2000機による爆撃ざ開始され、スターリングラードの戦いは勃発しました。

背景③:スターリンの名がつくスターリングラード

スターリングラードの戦いの背景

ドイツ軍の進撃のルート
出典:Wikipedia

スターリングラードの戦いが熾烈になった要因は、この都市がソ連にとって重要な都市だった事が挙げられます。スターリングラードは名前の由来はソ連の指導者・スターリンにちなんだものです。当時のスターリングラードは、人口60万人を超える工業都市。更にコーカサスや黒海・カスピ海に至る交通の要所でした。

戦術的にも、ソ連の威信という点でも、ソ連にとってスターリングラードは、絶対に占領されてはいけない場所。そんな背景から、スターリングラードの戦いはドイツもソ連も負ける事ができない戦いになったのです。

スターリングラードの戦いの展開

続いてスターリングラードの戦いの経過を、わかりやすく解説します。

ドイツ軍優勢に立つ

スターリングラードの戦いの展開

草原を進軍するドイツ軍
出典:Wikipedia

8月23日にドイツ率いる枢軸軍は、スターリングラードに侵攻を開始。連日のように空爆が行われ、街は瓦礫の山と化しました。8月28日にスターリンは非戦闘員の退去を許可しますが、その最中に多くの市民が犠牲になります。また赤軍は続々とスターリングラードに集結しますが、瓦礫の山は遮蔽物を形成し、赤軍の要塞の代わりになりました。

9月13日から枢軸軍は市街戦を開始し、官公庁やデパートに侵入を開始します。しかし赤軍は瓦礫の山になった街を隠れ蓑にし、防衛を決行。建物一つ、部屋一つを奪い合う戦いが各地で行われます。この戦いをドイツ軍は、ネズミ戦争と揶揄しました。

赤軍の抵抗

スターリングラードの戦いの展開

爆撃されるスターリングラード
出典:Wikipedia

赤軍は冬季まで戦いを長引かせるため、持久戦を実施します。自動小銃や拳銃などを持ち、ゲリラ的に枢軸軍に襲い掛かりました。9月22日には枢軸軍はスターリングラードの中心である南部地区を制圧し、10月23日には市の9割を占領しています。

冬季に差し掛かる11月20日から赤軍は反攻を開始。11月23日にはドン川のカラチ大鉄橋を奪回し、兵力や戦車の増強によりスターリングラードの枢軸軍を包囲する事が可能となりました。包囲された兵士は30万人に及んでいます。

12月13日からドイツは包囲された兵士を救出するため、冬の嵐作戦を行いました。しかし、作戦は失敗に終わり枢軸軍は苦境に立たされていきます。

枢軸軍の降伏

スターリングラードの戦いの展開

廃墟で戦う赤軍
出典:Wikipedia

1943年1月8日、赤軍のヴォロノフ砲兵大将とドン方面軍のロコソフスキー司令官がドイツに「名誉ある降伏」を勧告します。ただドイツ側は降伏を拒否。この時点で戦いの勝敗は決しており、1月16日に赤軍がピトムニク飛行場を占領しています。ただ赤軍の損失も甚大であり、数日間は戦闘が停止しています。

1月20日に空路で2万5000人の枢軸軍の有技兵がスターリングラードから脱出しますが、軍医や2万人の傷病兵が積み残されました。1月22日から赤軍の最後の総攻撃が行われ、残された兵士や軍医。ジャーナリストや民間人の脱出は不可能になります。

寒下35度の状況下、枢軸軍は街ごと焼き払われ、多くが戦死します。生き残った者は凍死か餓死、あるいは自決しか道は残されていませんでした。2月2日に最後まで抵抗していたカール・シュトレッカー将軍の第11軍団が投降。ソ連赤軍は勝利宣言を行い、ここにスターリングラードの戦いは終結します。

ソ連・ドイツ側から見るスターリングラードの戦い

ソ連の視点から見たスターリングラードの戦い

ソ連・ドイツ側から見るスターリングラードの戦い

ヨセフ・スターリン
出典:Wikipedia

ソ連にとって、スターリングラードはスターリンの名を持つ重要な都市。更にスターリングラードはソ連有数の工業都市であり、大砲の製造拠点でした。またスターリングラードの街中を流れるヴォルガ川は、ソ連の西部と極東を結ぶ航路があります。スターリングラードが占領されると、戦争の継続が難しくなります。

またドイツはスターリングラードを占領すれば戦争を優位に進めるためのプロパガンダに利用する目的があり、ソ連にとっては今後の戦争継続のためにも絶対に占領されてはいけない場所でした。

スターリンは全てのロシア人に「スターリングラードを守る為、ライフルを持ち戦う事」を宣言します。赤軍だけではなく、民間人にも同じ命令が下されました。スターリングラードの戦いが長期化かつ多大なる犠牲を伴った背景には、スターリンがスターリングラードを死守する為に躍起になっていた事も挙げられます。

ドイツの視点から見たスターリングラードの戦い

ソ連・ドイツ側から見るスターリングラードの戦い

アドルフ・ヒトラー
出典:Wikipedia

ヒトラーは「我が闘争」という書籍において、ドイツの東方にドイツ人が住むべき「東方生存圏」を獲得するべきと考えていました。独ソ戦はヒトラーの思想が強く反映された戦争であり、奇襲をしかけたのはドイツ側。ヒトラーにとって絶対に負けられない戦いでした。

しかし、独ソ戦勃発から半年後の1941年12月8日に同盟国の日本アメリカに宣戦布告を行っており、太平洋戦争が始まりました。ドイツと対立していたイギリスも連合国側で参戦するに至り、ドイツはソ連だけでなくイギリスやフランスとも戦う必要に迫られました。

スターリングラードの戦いの直前にドイツ空軍は、イギリス空軍と「バトル・オブ・ブリテン」で敗北しています。この戦いで枢軸国は不利に立たされるようになり、ヒトラーはソ連を倒す事で、再び第二次世界大戦を優位に進める事を考えました。

前述した通りスターリングラードはソ連にとって重要な拠点ですが、元々ヒトラーはスターリングラード近くの油田の占領が目的であり、スターリングラードの占領は副次的な目的に過ぎませんでした。しかし戦いの最中にスターリングラードに大量の兵が導入されるに至り、戦いは長期化します。

ヒトラーはスターリングラードの戦いで無茶な指示を出し続けており、ドイツ率いる枢軸軍の兵力をいたずらに消費させていきました。スターリングラードの戦いの敗北は、むしろドイツの弱体化を進める結果になりました。

スターリングラードの戦いの意義

ソ連の士気の向上

スターリングラードの戦いの意義

ヴォルガ川から上陸するソ連兵
出典:Wikipedia

スターリンの名のつくスターリングラードを死守した事は、スターリンやソ連の国民の士気を大いに高めます。当時のドイツは破竹の勢いで領土拡大を進めており、ドイツは無敵という風潮が漂っていました。

スターリングラードの勝利を経て、ソ連の将軍であるゲオルギー・ジューコフは「ドイツ軍も無敵ではないのだ」と発言。この戦い以降、ソ連はドイツに勝利を重ね、1945年5月8日のブラハの戦いを最後に独ソ戦に勝利します。

ドイツ軍は劣勢に立たされる

スターリングラードの戦いの意義

工場を塹壕代わりにするドイツ兵
出典:Wikipedia

スターリングラードの戦いで、ドイツ軍は陸軍総兵力の4分の1に当たる150万人の人的損害を受けました。さらに3500両の戦車・突撃砲、3000機の航空機も喪失します。ヒトラーは第二次世界大戦の戦局において初めて公式に敗北を認め、ドイツが無敵という神話が崩れていきました。ドイツは東部戦線に充分な兵力を避けなくなり、独ソ戦はソ連が優位に戦いを進めていきました。

スターリングラードの戦いが世界に与えた影響

スターリングラードの戦いが世界に与えた影響

赤軍に連行されるドイツ兵
出典:Wikipedia

スターリングラードの戦いはドイツとソ連の戦局が逆転するだけでなく、連合国と枢軸国双方にも影響を与えました。連合国の士気は上がり、スターリングラード直後に起きたハスキー作戦でドイツは米英にも敗北。連合国は戦いを優位に進めていきます。

またスターリングラードの戦いは、ドイツ軍だけでなく枢軸軍も参戦していました。しかしルーマニア第4軍とイタリア第8軍は全滅し、枢軸軍も大きな損害を受けます。こんな状況ではドイツに友好的だった国も協力に躊躇うのも当然です。トルコやスペインなどの親枢軸国がドイツ側に立ち参戦する可能性はなくなりました。スターリングラードの戦いの敗北が、枢軸国に与えた影響は大きかったと言えます。

また同時期に日本軍とアメリカ軍の間で起きたミッドウェー海戦で、日本軍は空母4隻を失う大敗北を喫します。日本とアメリカの攻守は弱点するなど、各地で枢軸軍は劣勢となりました。

スターリングラードの戦いの死者数

スターリングラードの戦いの死者数

捕虜になったドイツ兵
出典:Wikipedia

スターリングラードの戦いでは、ドイツ率いる枢軸軍72万人、ソ連兵110万人、スターリングラードに住む20万人の市民が亡くなりました。この戦いに駆り出された枢軸軍が85万名、ソ連兵が170万人なので、死者の膨大さがよくわかります。

この戦いで生き延びた兵士の多くは捕虜となり、ドイツ兵で捕虜になった者は10万人。彼らは中央アジアやシベリアの収容所に送られますが、その最中に大体数が凍死。生きて祖国に帰ったのは6000人程度とされます。

独ソ戦の死傷者

スターリングラードの戦いの死者数

崩壊したドイツの国会議事堂
出典:Wikipedia

スターリングラードの戦いは独ソ戦の一局面に過ぎず、その前後でも激しい戦いが行われます。前述した通り独ソ戦は、1945年5月8日のブラハの戦いを経てソ連が勝利します。しかし、その過程で膨大な死傷者が出ました。

敗北したドイツ軍は戦闘員444万~531万、民間人150万~300万人が戦死。ソ連は勝利したにもかかわらず、赤軍866万~1140万、民間人450万~1000万、他に疫病や飢饉により800万~900万人が亡くなっています。この数値は他の戦争と比べても桁違いに数が多く、独ソ戦が地獄のような戦いであった事を物語っています。

スターリングラードの戦いの枢軸軍の編成

スターリングラードの戦いの枢軸軍の編成

ドイツ国の国旗
出典:Wikipedia

枢軸国とは、ドイツ、イタリア、日本の日独伊三国同盟を中心とした連合国と戦った国を指します。上記の3国以外には、ハンガリーやフィンランドの欧州の国の一部、アジアではタイも含まれます。枢軸国は各地で連合国と戦っていましたが、スターリングラードの戦いに日本軍は関与していません。

スターリングラードの戦いにおける枢軸軍の編成は以下の通りです。

ドイツ軍
イタリア軍
ハンガリー軍
ルーマニア王国軍
クロアチア独立国軍

スターリングラードの戦いにおける戦死、戦傷、捕虜になった総数は、

ドイツ軍 40万人
イタリア軍 11万4000人
ハンガリー軍 10万5000人
ルーマニア軍 10万9000人とされます。
※クロアチア独立国軍の人数は分かりませんでした。

ドイツ軍だけでなく、他の枢軸国軍も多大な犠牲者が出た事がわかりますね。

スターリングラードの戦いの現在

スターリングラードの戦いの現在

スターリングラードはヴォルゴグラードと名を変えた
出典:Wikipedia

激戦で瓦礫の山となったスターリングラードは、現在はヴォルゴグラードという名前に変わっています。2021年の人口は102万人。ロシアを代表する都市です。

スターリングラードは戦争を経て人口が激減し、街の機能を失いました。ドイツに抗った都市として戦後に英雄都市になり、激戦地を望むママエフ・クルガンには記念碑も建てられています。スターリングラードがヴォルゴグラードという名前に変わったのは1961年の事。当時はスターリンに対する批判が高まっていた時期であり、その流れに則ったものでした。

ただスターリングラードの名が消える事を悲しむ声は多くあります。2013年に市議会は8月23日のスターリングラード攻防戦開始日、2月2日のスターリングラード攻防戦終結日など、スターリングラードの戦いに関わる日だけ、市名はスターリングラードに変わります。

スターリングラードの戦いを題材とした関連作品

スターリングラードの戦いは現在に至るまで様々な作品が作られています。最後にスターリングラードの戦いにまつわる作品をほんの一部だけ紹介します。

おすすめ書籍・本・漫画

・スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943
スターリングラードの戦いを、膨大な資料や生き残った兵士の証言から考察したノンフィクション。愚行と冷酷さに彩られた戦争の実態が、この本を読めば少しは伝わるかもしれません。

・愛蔵版 ブラウ作戦 スターリングラード

ミリタリー漫画の巨匠、小林源文がブラウ作戦の全貌を克明に記した漫画です。スターリングラードの戦いは経過もややこしいので、漫画の方がわかりやすいかもしれません。

おすすめの動画

・【ゆっくり解説】人類史上最大の激戦|スターリングラードの戦い

スターリングラードの戦いの経過をわかりやすく解説したゆっくり動画です。

おすすめの映画

・スターリングラード 史上最大の市街戦

2013年にロシアで制作された映画です。スターリングラードの戦いをソ連の視点で描いており、ロシア初のIMAX及び3D公開作品です。導入部は東日本大震災の追悼から始まります。その意図として、災害や戦争の悲惨さをテーマにしているものと思われます。

・スターリングラード
1993年にドイツで制作された映画です。スターリングラードの戦いをドイツの視点で描いた作品になります。過去の作品ではあるものの現在まで評価は高く、リマスター版も販売されています。

・スターリングラード大進撃 ヒトラーの蒼き野望
2015年にロシアで制作された映画です。過去に独ソ戦に従軍していたエミル・カザフビッチの「Two in the Steppe」を映画化した作品。軍事裁判で死刑を宣告されたソ連軍中尉、中尉を「本部」へ連れて行く任務を与えられた護衛兵のお話です。

スターリングラードの戦いを舞台にしていますが、ヒトラーの野望というタイトルにはいささかの剥離はあります。ただ中尉達が戦地を駆け巡る姿は圧巻の一言であり、戦争の激しさがよくわかる映画です。

スターリングラードの戦いについてのまとめ

今回はスターリングラードの戦いの経過を解説しました。スターリングラードの戦いは世界一悲惨な戦争である独ソ戦における、最も凄惨な戦いでした。

ただ、今もなお、世界では戦争が続いています。人の歴史とはいわば争いの繰り返し。ただスターリングラードの戦いの悲惨さを見れば、戦争の愚かさがわかる事でしょう。今回の記事を通じ、スターリングラードの戦いだけでなく、第二次世界大戦の経過に興味を持っていただければ幸いです。

参考文献

スターリングラード 運命の攻囲戦 1942-1943

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