豊臣秀吉の生涯と人物像まとめ!性格・年表・死因・子孫は?

出典:Wikipedia

戦国三大武将の一人、豊臣秀吉。生まれは貧しくとも、日本史上類を見ないほどの出世をし、織田信長が果たせなかった天下統一の夢を叶えます。

群雄割拠の時代にどのようにチャンスをつかみ、天下人まで登りつめたのか。持ち前の才覚を遺憾なく発揮し、戦乱の世を平定した秀吉の波乱の生涯を追っていきます。

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豊臣秀吉とは?

豊臣秀吉とは?

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後ろ盾などない、かなり低い身分の生まれにも関わらず天下を取ってしまうという、通常では考えられない偉業を成し遂げた秀吉。織田信長という最強の上司に気に入られ、信長の躍進とともに重要な役目を担っていきます。

人の心を掴み、自分の狙いどおりに事を運んでいった秀吉は、抜け目のない策略家でした。

生まれ

秀吉の出自については、確実に裏付けされた史料はないとされています。通説では、天文6年、尾張国愛知郡中村郷(現在の名古屋市)の貧しい家庭に生まれ、父の木下弥右衛門は、織田信長の父・信秀の足軽、または農民であったといわれています。母の名は、なか(仲)と伝えられ、出世した秀吉に引き取られ、大政所の号を与えられました。生涯息子に大切にされたということです。

身長

「猿」というあだ名が有名な秀吉は、やはり見た目はあまり男前ではなかったようです。身長は低かったとされ、秀吉と会見したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも、身長の低さと見た目の良くない容貌について自身の著作に残しています。

性格

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」は、後世の人が秀吉の性格をあらわした句として非常に有名です。「人たらし」と表現される秀吉のキャラクターですが、人の心を動かす巧みな話術と陽気さで、敵も味方もコントロールしてしまう策士だったようです。

しかし晩年は、甥にあたる豊臣秀次に謀反の疑いをかけたうえ自害に追い込み、秀次の子供、側室、侍女にいたるまで容赦なく処刑するなど、恐ろしく残忍で複雑な性格も強調されてきました。

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豊臣秀吉の人生年表・生涯

豊臣秀吉の人生年表・生涯

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誕生〜織田政権下での躍進

出来事
1537年(天文6年)尾張国に誕生
1554年(天文23年)この頃から織田信長に仕官
1561年(永禄4年)浅野長勝の養女、ねね(高台院)と結婚
1568年(永禄11年)観音寺城の戦い
1570年(元亀元年)金ヶ崎の戦い
1572年(元亀3年)名を木下藤吉郎から羽柴秀吉と改める
1573年(天正元年)小谷城の戦い
1577年(天正5年)信長より中国征伐を命ぜられる
1578年(天正6年)三木合戦の開始

尾張国の貧しい家庭で生まれた秀吉は、父・木下弥右衛門の死後、今川義元の家臣・松下之綱(加兵衛)に仕えます。18歳の頃尾張に戻り、今度は織田信長に小者として仕えるようになると、生来の才覚でどんどん出世し、信長の命令で各地を転戦していきました。

信長の死〜豊臣政権確立

出来事
1582年(天正10年)・本能寺の変にて信長が死去。これを受け山崎の戦いで明智光秀を破る

・清洲会議が行われる

1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。本拠を大阪城へ移す
1584年(天正12年)小牧・長久手の戦い
1585年(天正13年)藤原改姓。従一位関白宣下
1586年(天正14年)豊臣姓を賜る。太政大臣に就任し、豊臣政権を確立。九州征伐開始
1587年(天正15年)バテレン追放令発布。聚楽第に居を移す。北野大茶会を開催
1588年(天正16年)刀狩令、海賊停止令発布
1590年(天正18年)小田原征伐。天下統一を果たす

天正10年6月、秀吉を取り立ててくれた織田信長は、明智光秀の謀反により本能寺で絶命します。秀吉の敵討ちは素早く、山崎の戦いで光秀の軍勢と激突し勝利します。光秀の天下はわずか12日ほどであり、短い期間だけ権力を握る意味の「三日天下」という言葉の由来にもなりました。

直後に尾張国清洲城で織田家の後継者を決めるために開かれた会議では、秀吉の発言力が大きくなるにつれ、柴田勝家との対立が深まり、賤ヶ岳の戦いへと繋がっていきます。天下を取るため秀吉は着々と動き出します。

天正13年、秀吉は朝廷より関白に任命されます。自身の勢力を広める政策を打ちだし全国を手中に収め、天正18年、ついに天下統一を果たします。

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天下統一後〜晩年

出来事
1591年(天正19年)関白辞職、太閤となる
1592年(文禄元年)文禄の役
1593年(文禄2年)側室淀殿との間に秀頼誕生。本拠を伏見城へ移す
1596年(慶長元年)サン=フェリペ号事件
1597年(慶長2年)慶長の役
1598年(慶長3年)伏見城にて死去

天正19年、関白職を甥の秀次へ譲り、太閤となった秀吉は、明(中国)を征服するため二度にわたって朝鮮へ出兵しますが、成功には至りませんでした。

秀次の切腹については、息子秀頼が誕生し、秀次の存在を疎ましく思った秀吉が謀反の疑いをかけたともいわれています。

天下統一まで常に時流を読み成功を掴んできた秀吉も、晩年は加齢による判断力の低下か、疑問が残る采配もみられます。

豊臣秀吉のエピソード・逸話

豊臣秀吉のエピソード・逸話

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信長の草履

織田家へ仕えた秀吉(当時の名は木下藤吉郎)は、人が嫌がる雑用や台所奉行を進んで引き受け成果をあげていきます。有名なエピソードとして、雪の降る寒い冬の日、秀吉は屋外で信長の冷えた草履を懐に入れて温め、信長を感心させました。人から喜ばれ気に入られる術は、秀吉の大いなる武器となりました。

正室・ねね

正室・ねね

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秀吉の天下統一にいたるまでの道のりに、妻・ねね(北政所)の存在は欠かせません。男社会の戦国時代においても、秀吉は女性問題以外のことは、なんでもねねに相談したといわれるほど、妻を頼りにしていたようです。戦地へ赴く際も安心して留守を任せられる存在でした。

2人の間に子供はいませんでしたが、ねねは親戚の子のみならず、人質として預かった子供達も可愛がり、優しく面倒をみました。肝の据わった頼りになるお母さんタイプだったようです。

側室の女性達にも慕われていたといわれ、ねねの人柄が周囲に良い影響を及ぼしている雰囲気が伝わってきます。秀吉は側室をたくさん迎え入れますが、正室のねねに対する愛情と信頼は別格で揺るがないものでした。

茶人・千利休

茶人・千利休

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千利休といえば茶道の大成者として知られていますが、信長、秀吉に仕え政治にも関わっていました。秀吉は文化芸術に興味を持ち、茶道も武士の大切な教養として嗜みました。茶湯は身分に関係なく楽しむもの、という意向で開催された大規模な茶会「北野大茶湯」では、千利休が中心的な役割を担いました。

茶道の師匠として、そして側近として信頼されていたはずの利休ですが、突然、秀吉から何らかの怒りを買い謹慎させられてしまいます。なぜこのような事態になってしまったのか、はっきりとした原因はわかっていません。豊臣家の家臣が、政権へ影響を及ぼす利休が疎ましく、秀吉に利休を貶めるうわさを吹き込んだものか、秀吉自身が大きくなる利休の存在を不安に思ったのか、いいがかりのような説はいくつもありますが、明確な理由は不明です。

結局、利休は切腹を命ぜられ、これを受け入れます。そして秀吉は、茶道でも政治でも片腕といえる存在を失うことになります。

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母・大政所

母・大政所

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秀吉の母は「なか(仲)」の名で伝えられています。尾張国愛知郡に生まれ、木下弥右衛門のもとに嫁ぎ、日秀(日秀尼)と秀吉を生みました。夫・弥右衛門が亡くなった後、織田信秀の同朋衆・竹阿弥と再婚し、秀長と朝日姫をもうけたとされています。

竹阿弥にも先立たれると、秀吉はなかを引き取り、妻のねねらと一緒に暮らしました。ねねとの嫁姑関係は良好であったとされます。秀吉が関白に任命されると、なかは「大政所」の号を与えられました。徳川家康に人質として差し出されるなど、政治的に利用されることもありましたが、秀吉は大変な孝行者で、母なかを生涯大切にしました。母の死の際には、秀吉は衝撃で意識を失うほどでした。

嫁のねね、母のなかとの仲睦まじい暮らしは、戦いに明け暮れる秀吉にとって、かけがえのない安らぐ場所であったと想像できます。

豊臣秀吉の死因や最後の時

豊臣秀吉の死因や最後の時

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慶長3年3月15日、秀吉は京都の醍醐寺で花見を催した後、5月から伏見城で病に伏せるようになります。死が近いことを悟った秀吉は、諸大名を呼び寄せ、家康にまだ幼い息子の秀頼の後見人になるよう頼みました。

秀吉の病は、善光寺の如来像を勝手に移したことによる祟りともうわさされ、8月17日、像をもとの地に返されることになりましたが、翌日、秀吉はその生涯を終えました。死因は様々な病気の説が唱えられていますが、定かではありません。

豊臣秀吉の名言・俳句

負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ
逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし

勝負事で自分の能力を最大限に発揮するためには、精神面も強く保つことが重要です。秀吉自身だけでなく、家臣たちにも絶対に勝つという信念を持たせたのだと考えられます。

戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである

味方の死傷者を最小限に抑えるため、やみくもに戦うのではなく、敵の戦力を消耗させるために知恵を絞り計画を練った、秀吉らしい名言です。

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢

秀吉辞世の句。貧しい出自ながら、天下を取るまで登りつめた秀吉ですが、死の間際ではその波乱の人生を露のように儚いものと感じたのでしょうか。

豊臣秀吉にゆかりのある地

豊国神社

豊国神社

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秀吉を祀る京都市東山区に鎮座する神社。秀吉の遺体は遺命により阿弥陀ヶ峰の頂きに葬られ、霊廟が建立されましたが、大阪夏の陣の結果、豊臣家が滅亡すると徳川家康の意向により廃絶となりました。江戸時代を通して再興は認められませんでしたが、その後明治天皇が秀吉の偉勲を賞賛したことにより、社殿が再興されました。

名古屋市秀吉清正記念館

名古屋市秀吉清正記念館

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名古屋市中村区で生まれたと伝わる2人の武将、豊臣秀吉と加藤清正に関する資料を展示する歴史博物館。織田信長が天下統一を目指し、秀吉が達成し、大坂の陣で豊臣家が滅亡するところまでを館蔵資料で紹介されています。秀吉が実際に着用したとされる具足などが展示されています。

豊臣秀吉の子供や子孫について

豊臣秀吉の子供や子孫について

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秀吉と正室ねねとの間に子供は授かりませんでした。たくさんの側室を迎え入れましたが、授かった子供は少なく、3人とされています。

石松丸秀勝

生母に関しては諸説ありますが、南殿と呼ばれた側室との間に生まれた第一子といわれ、幼くして亡くなりました。

鶴松

側室淀殿との間に授かった男児。秀吉は鶴松を後継者にしようと期待をかけますが、幼くして病死しました。

秀頼

秀吉57歳のとき淀殿の間に授かった男児。秀吉の子供のなかでは唯一成人し、豊臣家の家督を継ぎましたが、大坂夏の陣で破れ、母淀殿と共に自害したと伝えられています。

秀頼には側室との間に2人の子供が誕生しますが、男子の国松は、大坂夏の陣のあと徳川方に捕らえられ処刑されます。女子は処刑を免れますが、幼いうちに出家させられ尼(天秀尼)となり、豊臣の血を引くものは途絶えることになりました。

豊臣秀吉を題材とした作品(映画・小説・ドラマ)

戦国三大武将の一人である秀吉を題材にした作品は多数あります。人気の高い作品の一部を紹介します。

映画

『清須会議』2013年公開
日本史上初めて会議により歴史が動いたとされる清須会議をクローズアップした映画。秀吉のみならず、柴田勝家、丹羽長秀ら大勢の登場人物一人一人を個性豊かでユーモラスに描き、戦国時代に興味がなくても楽しめる作品です。

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小説

『新史太閤記』司馬遼太郎
歴史小説の大家・司馬遼太郎の長編作品。英雄として天下を取るまでの秀吉の壮年期が描かれ、ロングセラーとなっています。

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ドラマ

『おんな太閤記』1981年放送
秀吉の正室・ねねの視点で戦国時代を描いた大河ドラマ。秀吉との夫婦仲など、ホームドラマ的な要素もあり、女性からの支持も集めました。現在もDVDが発売されている名作です。

参考文献

池上裕子『織豊政権と江戸幕府』日本の歴史15 講談社

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講談社
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五味文彦(監修)『歴史文化遺産 戦国大名』 山川出版社

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wikipedia「豊臣秀吉」

https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉

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