始皇帝”嬴政”の生涯と人物像は?偉業・死因を解説

冷酷非情で唯我独尊。残虐性の高い暴君として現代まで語り継がれる始皇帝ですが、残酷な面が強調されるあまり、中国・秦の初代皇帝として成し遂げた偉業と功績が見えづらくなっているかもしれません。

誕生の秘密から秦の王位継承、そして中国全土を統一し巨大なキングダムを築き上げた始皇帝の生涯を探っていきます。

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始皇帝”嬴政”とは?

始皇帝とは?

出典:Wikipedia

生まれ

始皇帝は紀元前259年、趙の都・邯鄲で生まれたと伝えられてます。政(セイ)と名付けられ、趙を姓としました。

父の子楚は、秦の公子ではありましたが、妾の子のうえ他に20人もの公人がおり、後ろ盾となる人物もいませんでした。そのせいもあり、子楚は人質として趙に送られ、冷たいあしらいを受けていました。

そこに韓・陽翟の大商人である呂不韋が目をつけ、子楚に王位を継がせるべく大金を投じて工作活動を行い、子楚の評判を高めていきました。

さらに、子楚が邯鄲の踊り子(趙姫)を気に入ると、呂不韋の妾であったにもかかわらず、呂不韋は
趙姫を子楚にゆずりました。その後、子楚とのあいだに政(のちの始皇帝)を生みますが、趙姫は子楚と一緒になる頃には、すでに呂不韋の子を身ごもっていて、始皇帝の実の父は呂不韋であるとする説もあります。

身長

秦では庶民の場合、実年齢よりも身長を基準にして大人か子供かの判断をしていました。男子は約150cm以下は子供とされ、13歳で即位した頃の政は身長も低かったと想定されます。

始皇帝の容姿については、鼻は高く尖り、眼は切れ長、胸は鷹のように突き出ていて、声はやまいぬのようだとも伝えられています。

性格

始皇帝といえば暴君、冷酷非道な独裁者のイメージが強いかもしれません。他人に信頼を置かない、恩を感じることもない、始皇帝に一度疑いを持たれれば命の保証はない、など歴史書には記されています。皇帝になってから少なくとも3度暗殺の危機にさらされたことも、より猜疑心を強める原因となった可能性もあります。

確かに、万里の長城など大規模な土木工事では百万以上もの人民を酷使し、大勢の学者を生き埋めにする坑儒を行うなど、残虐性の高い性格であったようです。

しかし、戦国時代に幕を引き、文字・貨幣・度量衡を統一し、後の中国歴代王朝の基礎を築いた業績は高く評価されるべきことであり、当然君主として賢く仕事熱心な面も併せ持っていました。

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始皇帝の人生年表・生涯

始皇帝の人生年表・生涯

出典:Wikipedia

始皇帝の人生は、父である子楚が呂不韋と出会うところからはじまったといえます。王位につく可能性などほとんどなかった父が呂不韋の工作活動により荘襄王として即位し、そのあとを政が継ぐことになります。周辺諸国を次々と滅ぼし、中国全土を統一後「始皇帝」を名乗り、絶対的な存在として君臨しました。

出来事
紀元前259趙都・邯鄲で生まれる
紀元前251昭襄王死去
紀元前249安国君が孝文王として即位するも3日で死去
子楚が荘襄王として即位。呂不韋が丞相に就任
紀元前246荘襄王死去のため、王位を継承する
紀元前237呂不韋が流刑地・蜀で服毒自殺をする
紀元前230韓を滅ぼす
紀元前228趙を滅ぼす
紀元前226燕へ総攻撃を仕掛け、首都・薊を落とす
紀元前225魏を滅ぼす
紀元前223楚を滅ぼす
紀元前222燕を滅ぼす
紀元前221斉が無抵抗のまま降伏し滅び、戦国時代が終わる
中国が統一され、「秦始皇帝」の称号を設ける
紀元前220天下巡遊を始める
紀元前214万里の長城の建設、大運河・霊渠の建設に着手
紀元前213焚書を行う
紀元前212坑儒を行う。阿房宮の建設に着手
紀元前210死去

 

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始皇帝のエピソード・逸話

始皇帝のエピソード・逸話

出典:Wikipedia

万里の長城

中国統一を果たしても、すべての敵が滅びたわけではありませんでした。北方および北西の遊牧民が勢力を強めつつあったため、始皇帝は対策を講じ巨大な防衛壁の建設に着手します。元々、春秋時代にそれぞれの国が外敵に備え建設した長城を、中国統一後、始皇帝がつなげて「万里の長城」として再構築しました。

現存の万里の長城の大部分は、明の時代(1368ー1644)に造られたもので、延長6,259.6kmにも及ぶ圧倒的な歴史的建造物は、1987年、世界遺産に登録されました。

焚書

紀元前213年、丞相である李斯の提案により焚書が行われました。「温故知新」の重要性を述べる博士の意見を、李斯は現在を非難する内容に捉えました。秦の歴史・医学・占い・農業以外の書物をすべて焼却し、従わなければ、入れ墨の刑を施したうえ国境の築城の労働刑にあてるとし、始皇帝もこれを認めました。

この焚書により、旧書体が廃止され、篆書体へ統一する政策の促進につながりました。

坑儒

焚書令の翌年、不老不死を望んでいた始皇帝は、方士の盧生や侯生たちに仙薬作りを行わせていました。しかし、不老長寿の薬などできるはずもなく、盧生と侯生は始皇帝の悪口を言って逃げてしまいます。

当然始皇帝は怒り、咸陽の学者を尋問し、盧生のように人民を惑わすような者を告発するよう命じました。その結果、460人もの学者が拘束され生き埋めの刑に処されました。

水銀のエピソード

始皇帝は、即位した頃から自身の陵墓建設に着手します。徒刑者70万人以上を動員し工事を進めていました。驪山の北麓、地中深く水脈を掘り抜いた下に墓室が設けられ、墓の内部には宮殿がつくられました。また、水銀で長江、黄河、大海をつくり、機械仕掛けでその水銀を還流させ、さらに天井には天文を再現する装飾が施されたということです。始皇帝は永遠の世界を水銀を用いて表現しました。

始皇帝が水銀を重宝した理由として、「不老長寿」の薬であると思い込んでいたためとも推測されます。天下統一を果たし、始皇帝となり、あとは人間以上の存在、神に近づく存在になることを望んでいたのかもしれません。徐福という方士に不老不死の霊薬を探すよう命じ、日本まで辿り着いたという言い伝えも残っています。

しかし、本当の「不老長寿」「不老不死」の薬などあるはずもなく、現代では毒として当たり前のように知られる水銀を、古代中国では永遠の命を手に入れる薬と信じられていたようです。

結局、誤った知識と思い込みで水銀を飲み続けたことにより、始皇帝は自ら寿命を縮めることになりました。

始皇帝の死因や最後の時

始皇帝の死因や最後の時

出典:Wikipedia

不吉な出来事

始皇帝の亡くなる前年(紀元前211)より、予兆ともいえる不吉な出来事が相次いで起こります。サソリ座の位置に、災害や兵乱を招くとされる火星がとどまり動かなかったことが凶兆とされました。そして東部に隕石が落ち、何者かがその石に「始皇帝の死により天下が分断される」という文字を刻みつけました。始皇帝は犯人を探しますが見つからず、周辺の住民を全員殺害したうえ石を焼いて溶かしてしまいました。

また同年の秋、この東部の現場から使者が戻って来る途中、玉を持った男に夜道で呼び止められ、「この玉を滈池の主に渡してほしい」、そして「祖龍は今年中に死ぬ」と言い、玉を残して姿を消しました。使者は始皇帝に玉を献上し、事の次第を報告しました。祖龍とは始皇帝のことをあらわしますが、始皇帝は「祖龍とは人類の祖先ということだろう」と、不安な気持ちを打ち消そうとしました。

最後の巡幸

紀元前210年、始皇帝は最後となる5回目の巡幸に出発しました。そして平原津に着いたところで病に倒れます。容態は悪化の一途をたどり、さすがの始皇帝も長子の扶蘇にあてて「咸陽に戻り葬儀を主催せよ」との遺書をしたため、沙丘の平台で薨去しました。

しかしその遺書は、宦官の趙高により内容を改ざんされ、扶蘇には自害を勧める偽の詔が渡されてしまいます。そしてその偽の命を受け扶蘇は自決しました。

李斯は始皇帝の死により天下騒乱となることを恐れ、その死を隠し、始皇帝があたかも生きているように装い巡幸を続けたということです。

始皇帝の死因は、先に述べたとおり、不老不死を期待し水銀の入った薬を服用していたための中毒死ともいわれています

始皇帝にゆかりのある地

始皇帝陵

始皇帝陵

出典:Wikipedia

陝西省西安北東30kmに位置する驪山の北麓に始皇帝の墓があります。西北麓の地域には始皇帝の父である荘襄王、曾祖父の昭襄王の墳丘墓のほか、漢代の皇帝の墓が存在しています。

始皇帝陵の規模は非常に大きいもので、地下深くにつくられた荘厳な宮殿のような墓室には、宮中から宝物などが運び込まれ、盗賊を近づけないよう、自動で矢を発射させる装置までつくられました。死後も生前と同じ生活を送ることを願ったものだと考えられます。また、後宮の女性、墓の内部を知る工匠など、殉死者はおびただしい数にのぼったということです。

陵墓の発掘作業は行われていませんが、保存状態は良いと推測されています。現代に入り、探針を用いた調査では非常に濃度の高い水銀が検出され、水銀で装飾された墓室は伝説ではなく、本当に存在すると確認されました。

兵馬俑

兵馬俑

出典:Wikipedia

1974年3月、臨潼県西揚村の住民が井戸をつくろうと地面を掘っていたところ、人間大の陶製の人形が出てきました。当初、住民たちにはこの価値を理解できていませんでしたが、数ヶ月後、考古学者による現地発掘が開始されると、二千年もの間眠っていた始皇帝の地下近衛師団があらわれ、世界を驚愕させる大ニュースとなりました。20世紀最大の発見の一つともいわれる始皇帝の兵馬俑が、ようやく日の目を見ることとなりました。

「俑」とは、古代中国において死者の墓に副葬される人間を模した像で、戦国時代以降のものが多くありますが、「兵馬俑」といえば、規模・クオリテイにおいて、この始皇帝陵兵馬俑のことを指します。兵馬俑坑は発掘された順に「1号坑」「2号坑」と名付けられ、現在3号坑まで発見されています。

三つの坑の総面積は2万平方メートルを超え、戦車100台以上、陶馬600体、そして約8,000体の兵士俑の顔つきはどれも異なり、みな敵国のある東を向いています。圧倒的なスケールの秦始皇帝陵及び兵馬俑は、1987年世界遺産に登録されました。

始皇帝の子供や子孫について

始皇帝の子供や子孫について

出典:Wikipedia

始皇帝の妻(后妃)については不明とされていますが、始皇帝の死去にともない、後宮で子のないものは殉死させられ、その数はおびただしかったと歴史書に記されているため、多くの妻が存在したであろうと推測されます。

扶蘇

始皇帝の長男。温厚で聡明な人物であったとされ、始皇帝は扶蘇を後継者と考え、将来を期待されていました。

しかし、巡幸先で病に倒れた始皇帝が扶蘇にあてた遺書は、宦官の趙高の策略により改ざんされてしまいます。偽の遺書には扶蘇に自害をするよう書かれていました。扶蘇のもとで匈奴討伐にあたっていた秦の武将・蒙恬は、この遺書を怪しみ自殺を止めようとしますが、性格の優しい扶蘇は、「父が子に死を命じたことに、助命を請うことなどできるものではない」と言い残し自害してしまいました。

胡亥

始皇帝の末子で二世皇帝。胡亥のお守り役であった趙高は、長男の扶蘇を自殺へ追い込み、胡亥を秦の第2代皇帝に即位させました。胡亥を陰で操っていた趙高の勧めに従ったのか、兄弟を含む皇族や重臣、胡亥の皇帝即位に疑問を持つ者たちを処刑しました。

また、始皇帝陵や阿房宮、万里の長城の建築などを推進し、始皇帝の時代より人々に過酷な労働を強要したほか、贅沢な宮廷生活を追い求め、世の中の反感を買うこととなります。父のような国をまとめる才覚は持ち合わせておらず、秦帝国を崩壊へ向かわせた愚か者と見なされていますが、その原因をつくった張本人は趙高でした。

ようやく悪化の一途をたどる国の状況を知った胡亥は、趙高を責めますが、粛清を恐れた趙高により、自害させられることになりました。二世皇帝としてわずか3年の在位でした。

公子高

具体的な親族としての血縁上の関係性は不明。始皇帝から二世皇帝にかけての公子とされています。二世皇帝の恐怖政治により、公子高の一族が皆殺しとなる危機を免れようと、公子高が始皇帝に殉死する代わりに、一族の命は見逃してほしいと懇願し、二世皇帝はこれを聞き入れたとされています。

将閭

公子高と同じく始皇帝から二世皇帝にかけての公子とされ、具体的な血縁上の関係性は不明。二世皇帝の政治により処刑されることとなりましたが、「私に罪はない」と述べて自害したとされます。

子嬰

秦の最後の君主。始皇帝の弟や扶蘇の子などと伝わっていますが、血縁上の関係性は定かではありません。二世皇帝自殺のあと、趙高により人望が篤いとされる子嬰が即位させられましたが、子嬰は趙高に危険を感じ、趙高とその一族を粛清しました。

しかし、反乱軍を率いる劉邦が咸陽の目前に迫ると、子嬰は観念して降伏することとなります。
劉邦は子嬰とその一族の身の安全を約束しますが、その後、楚の武将・項羽により一族もろとも処刑されました。こうして秦は滅亡することになりました。

始皇帝を題材とした作品

キングダム

中国の春秋戦国時代を舞台にした日本の漫画作品で、のちに秦始皇帝となる政の活躍が描かれています。テレビアニメも放送され、2019年には実写映画化され大好評を博しました。史実と創作を織り交ぜて描かれた原作は、壮大なスケールの長編漫画として抜群の知名度と人気を誇っています。

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参考文献

司馬遷『史記[Ⅲ]独裁の虚実』丸山松幸・守谷洋 訳 徳間書店

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鶴間和幸『人間・始皇帝』岩波新書

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https://ja.wikipedia.org/wiki/始皇帝

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