レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネサンス期を代表する芸術家である他、建築学や数学などの様々な分野で功績を残した人物です。モナリザや最後の晩餐などの絵画は、とても作品ではないでしょうか。
彼は未だに多くの人達から称賛されていますが、その生涯については知らない事も多いでしょう。今回はレオナルド・ダ・ヴィンチの生涯や、彼の残した作品などについて解説していきます。
目次
レオナルド・ダ・ヴィンチとは?
レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年にトスカーナで誕生し、後にその時代を代表する画家や彫刻家に従事します。1482年からはミラノ公国に渡り、「最後の晩餐」などの有名な作品を完成させました。1502年には軍事技術者としてチェゼーナに渡り、要塞を建築する地図なども作成しています。
彼は1519年に死去しますが、その間にも多くの作品を作り、様々な分野で研究を続けました。彼の死から20年後、フランソワ1世が「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか」と述べるなど、その生涯は非常に優れたものだったのです。
氏名・本名 | レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ |
---|---|
通称・あだ名 | 天才・史上最高の画家の一人 |
出生日 | 1452年4月15日 |
出生地 | トスカーナのヴィンチ |
死没日 | 1519年5月2日 |
死没地(亡くなった場所) | フランス王国アンボワーズ |
血液型 | 不明 |
職業 | 芸術家 ※他多くの肩書きあり |
身長 | 173cm |
体重 | 不明 |
配偶者 | なし |
座右の銘 | 私は実行することの重要性を痛感してきた。知っているだけでは不十分だ。知識は応用しなければならない。意欲があるだけでは不十分だ。実際にやらなければならない。 |
レオナルド・ダ・ヴィンチの人生年表・生涯
レオナルド・ダ・ヴィンチの年表
年 | 出来事 |
---|---|
1452年 | 誕生 |
1466年 | 芸術家ヴェロッキオに弟子入り |
1472年 | 聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得る |
1476年 | 同性愛の裁判にかけられるが赦免される |
1482年 | 1499年までミラノで活動 |
1499年 | 第二次イタリア戦争が勃発 |
1502年 | チェゼーナを訪れる |
1519年 | 死去(67歳) |
謎に包まれた幼少期
レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年にトスカーナのヴィンチで、フィレンツェの裕福な公証人である父と、農夫の娘である母親との間に生まれました。彼の本名は「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」であり、ダヴィンチという姓は、「ヴィンチ(出身)の」を意味します。
彼の幼少期は謎に包まれています。西洋教育史の初等学校には通う事が出来ず、ヴィンチ村の青年・少年達から授業で習った事を見聞きする程度でした。レオナルド・ダ・ヴィンチは野山や谷川を好み、村の馬小屋で馬の世話をしながら、スケッチなどをして自然の摂理や現象を学んでいきます。正式な教育を受けたのは成人になってからですが、すでに学者並みの知識を蓄えていたのです。
1466年に、当時14歳のレオナルド・ダ・ヴィンチは、芸術家ヴェロッキオに弟子入りします。彼の工房でレオナルド・ダ・ヴィンチは絵画、彫刻などの芸術面だけでなく、機械工学、木工などの様々な分野の分野の知識を吸収していきました。
1472年〜1475年頃から、ヴェロッキオと「キリストの洗礼」という作品を共同で作成しています。レオナルド・ダ・ヴィンチの才能は開花し、その才能に驚いたヴェロッキオは二度と絵画を描く事はありませんでした。
なおレオナルド・ダ・ヴィンチは1472年までに、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を獲得。これ以降、レオナルド・ダ・ヴィンチは独立して仕事を持つ事が出来るようになったのです。1478年1月から初めて独立した依頼を受けています。
ミラノ公国で活動する
1482年から1499年からレオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノ公国で活動しています。彼はミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられました。
『岩窟の聖母(1483年〜1486年)』や『最後の晩餐(1495年〜1498年)』を完成させたのはこの頃です。この他には、山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂円屋根の設計なども命じられています。レオナルド・ダ・ヴィンチの名声は高まっており、多くの人達が彼を称賛しました。
1499年に第二次イタリア戦争が勃発すると、ミラノ公国はフランスに敗北しました。レオナルド・ダ・ヴィンチはは弟子のサライや友人の数学者ルカ・パチョーリらとヴェネツィアへと避難していますが、この時にヴェネツィアを守る役割の軍事技術者として雇われています。
1502年には要塞を建築する為、イーモラという都市やトスカーナの渓谷地帯ヴァルディキアーナの地図を製作。その為、イタリア中を行脚しています。
晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチ
1513年9月から1516年にかけてレオナルド・ダ・ヴィンチは、ヴァチカンで過ごしました。1515年10月にミラノ公国がフランス王フランソワ1世に占領されると、居城アンボワーズ城近くのクルーの館が邸宅としてあてがわれています。
レオナルド・ダ・ヴィンチの名声はフランソワ1世にも届いており、彼を手元に置いておきたいという気持ちの現れだったのです。このクルーの館でレオナルド・ダ・ヴィンチは弟子や友人と探しており、死ぬまでに得た年金は10000スクードと莫大な金額でした。
ただ晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチは、転倒に伴う右手の尺骨神経麻痺を患っており、右手をうまく使う事が出来ませんでした。『モナリザ』を含め、最後の5年に手掛けた作品の多くが未完に終わっているのもその為です。レオナルド・ダ・ヴィンチは創作意欲を作品ではなく、弟子達への指導に注いだのでした。
レオナルド・ダ・ヴィンチの死因と最期
死因は脳卒中?
レオナルド・ダ・ヴィンチは1519年5月2日に、クルーの館で67歳で死去します。「晩年の右手の麻痺」は通説では脳卒中の後遺症であり、死因自体も脳卒中だと言われていました。ただ近年の研究で麻痺は「尺骨神経麻痺」と判明しており、むしろ死因については逆に分からなくなったと言えます。
レオナルド・ダ・ヴィンチの最期は謎に包まれており、死の数日前に司祭と過ごして告解を受けた、フランソワ1世の腕の中で息を引き取ったなどと伝わっています。元々伝説的な逸話が多い人であり、本当の事は分かっていないのです。
遺産を貧者に分け与える
レオナルド・ダ・ヴィンチは遺言を残していました。それは「会葬者として参列した60名の貧者に施しを与える事」であり、それは実際に行われました。レオナルド・ダ・ヴィンチの葬儀には60名の貧者が参列し、彼らは金銭だけでなく絵画や道具なども相続しています。
また長年の弟子にはワイン用葡萄畑を、兄弟には土地を、給仕係の女性には最高級の黒いマントを遺しています。給仕係の女性がマントを与えられたのは、女性が葬儀に着用する喪服に困らないようにというレオナルド・ダ・ヴィンチの配慮だったそうです。彼が皆に優しい人物だった事が、よくわかるエピソードです。
葬儀の後、彼の遺体はアンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬されています。
レオナルド・ダ・ヴィンチの性格と人物像エピソード
皆から心望される人格者
レオナルド・ダ・ヴィンチは社交的で紳士的な人物であると共に葬儀の一件のように、身分が違っても分け隔てなく相手に敬意を払う人格者でした。またベジタリアンを貫き、籠に入って売られている鳥を購入しては、その鳥を外に逃してあげるような優しい一面も見せています。
身長は175cm程(平均身長は150cm後半)であるとされ、歳を取っても長い髭と挑発というスタイルを貫き、短パンにカラフルな服というオシャレな服を見に纏っていたのです。
人格者であり、ルックスもセンスにも優れたレオナルド・ダ・ヴィンチです。彼を慕う者は多く、レオナルド・ダ・ヴィンチより少し後の世代の、画家であるジョルジョ・ヴァザーリはレオナルド・ダ・ヴィンチを「あらゆる面で人を惹きつける人物だった」と評しています。レオナルド・ダ・ヴィンチが未だに多くの人から支持を受けるのは、この人格にもあるのかもしれません。
レオナルド・ダ・ヴィンチがやったこと・功績
彼は万物の天才だった
レオナルド・ダ・ヴィンチの凄さは「多才さ」と、「各分野における功績の数々」です。彼の本業は芸術家ですが、彼はバリバリの理系の人間でもありました。
彼の功績を学校の理科に例えるなら、
- 解剖学や生理学などの人体や生物にまつわる分野
- 天文学や気象学などの地学
- 物理学、光学、力学、土木工学などの物理
- 物質の構造などの化学
いわゆる理科の選択科目である生物地学物理化学。これら全てにおいて卓越した知識を持っていました。ちなみに自然科学のすべてを研究する学問を「博物学」と言います。あらゆる学問が体系化されている現在では、博物学という学問は存在しません。
これらの知識を下地にして、軍事工学や建築学、更には飛行機や潜水艦などのアイデアも既に頭に生み出しています。更には音楽家として楽器の製作から演奏、演劇などのシナリオも手がけていました。
彼がここまでマルチな才能を持っていたのは、現在には相反すると思われている「芸術」と「科学」が極めて近い存在だった事が挙げられます。人物画を描く為には、生物学や生理学、解剖学的な知識が求められますし、自然の法則も理解しないといけません。芸術の下地に科学が存在していたからこそ、レオナルド・ダ・ヴィンチは様々な学問を吸収したのでした。
「神の手を持つ」画家
レオナルド・ダ・ヴィンチは1490年時点で、「神の手を持つ」画家と評されていました。その下地にあるのは、多くのデッサンやドローイングでした。彼は日常の中で気になるものが有れば、積極的に書き記しており、現存するだけで900種もあるのです。
彼は一連のデッサンやドローイングを通じ、様々な技法を編み出しました。代表的なのは以下の通り。
スフマート
これはイタリア語の煙という言葉から派生した語であり、簡単に言えば「ぼかし」の技法を指します。当時の絵画の輪郭は「はっきりと描く事」が主流でした。しかしレオナルド・ダ・ヴィンチは、「自然界に線は存在しない」と主張し、スフマート技法を使って女性の身体や衣類の輪郭を表現したのです。
空気遠近法
これは「遠くの物体をぼやかして描いて、遠くにあるように感じさせる技法」の事であり、元々は北方フランドル地方で用いられていたものです。この技法のお陰で背景に奥行きが生まれ、より写実的な絵を生み出す事が出来ました。
当時は背景…いわゆる自然というものは、人物の添え物にすぎないと考えられていました。レオナルド・ダ・ヴィンチはこの技法を駆使して、自然を脇役ではなく表情豊かな存在として生み出す事に成功したのです。
他にも様々な技法を取り入れ、レオナルド・ダ・ヴィンチは数々の名作を生み出していきました。
後世の人々の尊敬を集め続ける
レオナルド・ダ・ヴィンチは、死後500年を経ても多くの人達から称賛を集め続けています。死後間もない1528年にバルダッサーレ・カスティリオーネという人物は、「他に世界最高の画家がいたとしても、彼(レオナルド)の懸絶した芸術の前では顔色を失うだろう」と述べました。
ただ彼の当時の名声はミケランジェロやラファエロらに比べれば控えめでした。賞賛が高まったのは、19世紀ごろとされています。この頃にレオナルド・ダ・ヴィンチの多くの手記が発見され、同時にヘリコプターや衛星地図など、当時では思いつきもしない図面なども判明したからです。
作品にまつわる様々な技法と謎。それにまつわる書籍や映画も次々と生み出されており、レオナルド・ダ・ヴィンチという存在自体が一つの芸術のジャンルだと言えるのです。きっとレオナルド・ダ・ヴィンチは、これからも多くの人達を魅了していくのでしょう。
レオナルド・ダ・ヴィンチの作品
レオナルド・ダ・ヴィンチの作品として認められているのは13点であり、これらの作品の他に900点以上の手記やデッサンが残されています。それら全てを解説する事は出来ませんが、今回はその中の一部について解説していきます。
モナ・リザ
モナ・リザは、レオナルド・ダ・ヴィンチが1503年から1506年頃に制作した版絵です。上半身のみが描かれた女性の肖像画であり、世界で最も知られた美術作品と言われています。この作品自体はレオナルド・ダ・ヴィンチは未完であると述べており、晩年にいたるまで加筆を続けていました。現在、こちらの作品はフランスのルーブル美術館に展示されています。
最後の晩餐
最後の晩餐はレオナルド・ダ・ヴィンチが1495年から1498年にさけて制作した壁画です。イエスキリストが12使徒と最後の晩餐を行い、「12使徒の中の一人が私を裏切る」とキリストが予言した場面が描かれています。レオナルド・ダ・ヴィンチが完成させた数少ない作品ではあるものの、乾いた漆喰にテンペラで描かれた事、所在する環境の問題から、激しい損傷も伴っている作品です。
遠近法、明暗法、解剖学とそれまでの絵画の常識を覆した作品とされ、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品の中でも特に有名な作品と言われています。
ウィトルウィウス的人体図
ウィトルウィウス的人体図は、レオナルド・ダ・ヴィンチが1485 年〜1490年頃に描いたドローイングです。レオナルド・ダ・ヴィンチは人体比率に強い関心を持っており、人と自然の融合という意味でレオナルド・ダ・ヴィンチを象徴する作品と言われています。
レオナルド・ダ・ヴィンチは芸術の関係という意味で作ったものですが、医学のシンボルとして用いられるようになりました。
レオナルド・ダ・ヴィンチの名言
芸術家とは自らも美しくあらねばならない
レオナルド・ダ・ヴィンチは老齢になってからも、センスのある服装と優れた容姿を維持し続けました。それはレオナルド・ダ・ヴィンチが芸術家という仕事に、矜持を持っていたからに他なりません。彼は常に自分というものを持ち続け、時代に流されない姿勢を貫いたのです。
芸術に決して完成ということはない。途中で見切りをつけたものがあるだけだ
レオナルド・ダ・ヴィンチは芸術に心血を注いだ人物ですが、同時に妥協を許さない一面がありました。彼の完成作品は絵画では約20点とされており、モナリザを含めて多くが未完成となっています。私達がもてはやすレオナルド・ダ・ヴィンチの完成作品は、彼にとっては見切りをつけた作品のなのかもしれません。
レオナルド・ダ・ヴィンチの家族や子孫
「レオナルド・ダ・ヴィンチは結婚していたのか」
「子孫は今でも健在なのか」
そうした疑問を持つ方も多いでしょう。こちらの項目ではレオナルド・ダ・ヴィンチの家族や子孫について解説していきます。
生涯独身を貫いた
結論から言えばレオナルド・ダ・ヴィンチは生涯独身を貫いた為、直系の子孫はいません。前述した通り、彼は高身長のイケメンでした。女性からも人気があったようなので、彼が独身だった理由は謎の一つとされています。
レオナルド・ダ・ヴィンチは同性愛者だったという説もあり、1476年のフィレンツェの裁判記録では同性愛者として告発され、後に無罪になった記録が残っています。謎に包まれている分、様々な憶測が流れているのも事実なので、新たな資料などが発見されると良いですね。
父親の直系子孫は現在も現在
レオナルド・ダ・ヴィンチの直系の子孫はいませんが、彼の血を引いた子孫は現在でも存命です。レオナルド・ダ・ヴィンチの父親であるセル(メッセル)・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチは恋多き人物であり、多くの女性と関係を持っていました。
セルはレオナルド・ダ・ヴィンチの他に22人もの子どもを作っており(全員がレオナルド・ダ・ヴィンチの異母兄弟)、その子孫の家系図の調査が1970年代から進められてきました。結果的に父親の直径子孫14人がその時点で存命である事が分かったのです。
父親の血筋は、2022年時点でも脈々と受け継がれている事は確実であるとされ、中にはレオナルド・ダ・ヴィンチの才能が引き継がれている人もいるのかもしれませんね。
レオナルド・ダ・ヴィンチのゆかりの地
レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館
レオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館は、彼が長年に渡り住み続けたミラノにある国立科学技術博物館です。科学的思考の発達と工業技術の発展を目的に、1953年に設立されました。
この博物館にはレオナルド・ダ・ヴィンチの発明した器具や、デザインの版画、彼にまつわる膨大な資料が展示されています。科学技術の発展や、彼の人物像を学ぶにはとても良い場所です。もしイタリアに来る機会があれば、訪れて欲しい場所ですね。
住所:イタリア VIA S.Vittore,21 – 20123 Milano
ヴィンチ
ヴィンチはレオナルド・ダ・ヴィンチが生まれ育った町です。トスカーナ州に位置し、州都フィレンツェから西へ約28km離れた場所にあります。人口は1万5000人で、ブドウ畑やオリーブ畑が広がっています。こうした風景は、レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれた頃とあまり変わってはいません。
レオナルド・ダ・ヴィンチの生家は現存しており、町の中には規模は小さいながらレオナルド・ダ・ヴィンチ理想博物館や、レオナルド図書館もあります。レオナルド・ダ・ヴィンチが育った空気感を知りたい人には、ぜひ訪れて欲しいですね。
レオナルド・ダ・ヴィンチの関連人物
ミケランジェロ
ミケランジェロはレオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロと並び、ルネサンス芸術の三大巨匠の一人とされる人物です。ミケランジェロはレオナルド・ダ・ヴィンチより23歳年下ではあるものの、同世代を生きた人物。互いを意識しており、相手の技法や技術を研究していたとされます。
ただレオナルド・ダ・ヴィンチが「絵画こそが最高の芸術である」と考えていたのに対し、ミケランジェロは「彫刻こそが最高の芸術である」と考えていた為、あまり仲は良くなかったそうです。またイケメンで人気者のレオナルド・ダ・ヴィンチに対し、ミケランジェロは気難しい性格で醜男だった為、性格的にも合う事はありませんでした。
そんな2人は1504年8月に顔を合わせる機会がありました。それは、ヴェッキオ宮殿内の大広間の一方にダヴィンチが「アンギアーリの戦い」を、もう一方にミケランジェロが「カッシーナの戦い」を描く事を命じられた時です。これはまさに「世紀の対決」でした。
ただ結果的に双方共に早い段階でこの企画から降りる事になった為、どちらの作品も完成する事はなかったのです。仮に完成していれば、この大広間の歴史的な価値は凄まじいものだったでしょうね。
サライ
サライは1490年から1518年にかけてレオナルド・ダ・ヴィンチの弟子だった人物です。本名はジャン・ジャコモ・カプロッティと呼び、同性愛者だったレオナルド・ダ・ヴィンチの愛人関係にあったという説もあります。彼はレオナルド・ダ・ヴィンチの『バッカス』や『洗礼者聖ヨハネ』のモデルだと言われています。
ちなみにサライとはイタリア語で小悪魔という意味があり、彼は弟子時代にレオナルド・ダ・ヴィンチの貴重品や絵画などを少なくとも五回は盗みました。それでもレオナルド・ダ・ヴィンチは彼のことをとても大切に思っており、小遣いやプレゼントをたくさん贈っていたようです。
彼は画家としての才能はそれなりでしたが、多くのレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を模写しています。モナリザのヌードバージョンである『モナ・ヴァナ』など、「現存はしていないが、サライが模写した作品」は数多く残されており、その作品からレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を推測する事が出来るのです。
そういう意味で、サライの功績は大きいのではないでしょうか。
レオナルド・ダ・ヴィンチの関連作品
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レオナルド・ダ・ヴィンチの作品と完全に断定できる作品は「13点」。そして膨大な未完の作品と手稿が存在しています。本作品はそれらのレオナルド・ダ・ヴィンチの作品等を徹底解説した作品です。レオナルド・ダ・ヴィンチの作品、そして思想や当時の時代背景を知る上で欠かせない一冊と言えるでしょう。
ダ・ヴィンチ・コード
2003年にアメリカで出版された推理小説です。ウィトルウィウス的人体図、モナ・リザ、最後の晩餐。様々なレオナルド・ダ・ヴィンチの作品に存在する流布や謎が、ルーヴル美術館館長の殺人事件と複雑に絡み合っていきます。世界44カ国で翻訳され、全世界で7000万部を売り上げた大ベストセラーであり、日本でも1000万部を売り上げています。2006年には映画化もされているので、観に行った人もいるかもしれません。
本作品は完全なるフィクションですが、筆者が「事実に基づいている」と述べた為、未だに様々な憶測を呼んでいます。小説は小説と割り切って読む事が重要ですね。
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レオナルド・ダ・ヴィンチについてのまとめ
今回は万物の天才レオナルド・ダ・ヴィンチについて解説しました。レオナルド・ダ・ヴィンチは天才でありながら、その人格から多くの人達を惹きつけた人物でした。作品の質もその人となりも、何百年経っても衰える事はありません。
今回の記事は、レオナルド・ダ・ヴィンチの魅力をほんのわずかしか伝える事は出来ていません。ただその一部だけでも伝わったのではないでしょうか。今回の記事を通じてレオナルド・ダ・ヴィンチや、彼の作品に興味を持っていただけたら幸いです。