楊貴妃とはどんな人物?死因・性格・子供・逸話・メダカについて徹底分析!

楊貴妃は中国唐代の皇妃で、世界三大美人の一人で古代中国四大美人に数えられている人物です。玄宗皇帝の寵姫となりましたが、玄宗皇帝が彼女を寵愛しすぎた為に、安史の乱が起きたと伝えられています。

彼女が絶世の美女だったという事はよく知られていますが、その人物像や生涯については詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。彼女は中国史において最も著名な女性の1人であり、それ故に様々な脚色や伝説が伝えられています。今回は楊貴妃の人物像や死因、都市伝説などを解説します。

楊貴妃のプロフィール

壁画に描かれた楊貴妃
出典:Wikipedia

楊貴妃は中国唐代の皇妃です。蜀地方の下級役人・楊玄琰の四女として生まれ、「ある経緯」を経て玄宗皇帝の妃に選ばれます。楊貴妃は玄宗から寵愛を受けると、楊一族の者達が政治の要職に就き始めます。

そんな楊貴妃ですが、755年に安禄山が安史の乱を起こすと、その最中に処刑されました。彼女の生涯は脚色されている部分が多く含まれていると推測されますが、その数奇な運命から数々の創作物に取り上げられています。

氏名楊玉環
通称・あだ名楊貴妃・傾国の美女
出生日開元7年(719年)6月1日
出生地蜀州(現・四川省)
死没日天宝15年(756年)6月14日
死没地(亡くなった場所)馬嵬(現・陝西省)
血液型不明
職業后妃
身長推測で164cm
体重推測で70kg
配偶者寿王李瑁と玄宗
座右の銘不明

 

楊貴妃の人生年表・生涯

楊貴妃の人生年表

出来事
開元7年(719年)楊貴妃誕生
開元23年(735年)寿王・李瑁の妃となる
開元28年(740年)女道士(女冠)となる
天宝4載(745年)貴妃に柵立される
天宝10載(751年)安禄山が入朝
天宝14載(755年)安史の乱
天宝15載(756年)処刑される

 

楊玄琰の四女として生まれる

楊貴妃
出典:Wikipedia

楊貴妃は開元7年(719年)6月1日に、蜀州で司戸参軍を務める楊玄琰の四女として誕生します。当時は高貴な身分の女性は周囲に名前を教えないという風潮があり、楊貴妃の楊は苗字、貴妃は高貴な身分の妃という意味があります。彼女の本名は「楊玉環」。生まれながら玉環を持っていた事から、その名前が授けられたそうです。

楊貴妃の両親は幼い頃に亡くなっており、楊貴妃は韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人という3人の姉と共に、叔父の楊玄璬に育てられました。

そんな楊貴妃は開元23年(735年)。玄宗の18子である寿王李瑁(第十八子)の妃になった事です。玄宗の妻・武恵妃は、 李林甫と協力し、我が子である寿王李瑁を次期皇太子にする事に成功します。しかし、彼女は開元25年(737年)に死去。結果的に李璵という人物が新たな皇太子に昨年柵立されています。

玄宗の妃となる

玄宗
出典:Wikipedia

そんな楊貴妃の人生の転換期は開元28年(740年)の事。李瑁の父親で現皇帝の玄宗に見初められた事でした。武恵妃が亡くなった事で玄宗は落ち込み、息子の妻である楊貴妃の虜になったのです。ちなみに、この頃の楊貴妃は21歳、玄宗は55歳と年齢差は実に34歳でした。

玄宗は楊貴妃を、長安の東にある温泉宮の女道士(女冠)に任命します。これは事実上の出家であり、息子から妻を奪う形になる事を避ける為でした。まもなく楊貴妃は玄宗の内縁の妻となり、宮中の太真宮に居住。玄宗の後宮となり、皇后と同じ扱いを受けています。

貴妃という名を与えられるのは天宝4載(745年)の事。貴妃とは、後宮の中で皇后の次に格が高い称号です。玄宗の後宮になった事で。楊貴妃の人生は様変わりしたのでした。

玄宗が楊貴妃に夢中になればなる程、楊貴妃の一族は影響力を持つようになります。楊貴妃を養育した叔父の楊玄珪は光禄卿の称号を与えられ、楊貴妃の3人の姉も「夫人」の称号を得るに至ります。また従兄の楊国忠も御史中丞に昇進しました。

8世紀前半の唐の領土
出典:Wikipedia

楊貴妃の美しさは有名となり、各地から届く贈り物を届ける使者で、宮殿の門は長蛇の列ができる程でした。玄宗はそんな楊貴妃にたびたひ嫉妬し、楊貴妃はその度に屋敷に送り返されます。しかし玄宗は楊貴妃がいないと機嫌が悪くなり、側近をムチで叩くなどの行動に出ています。その状況を聞いた楊貴妃は後宮に戻り、玄宗は楊貴妃が戻ってきた事に喜びを噛みしめました。

楊貴妃と玄宗は親子ほどに歳が離れていましたが、仲は良好でした。玄宗が遊幸する時、楊貴妃は常に玄宗の側におり、楊貴妃に支える工人も増加します。楊貴妃の院には700人もの絹織りの工人がおり、別の宝飾品を作成する工人が数百人いました。しかし楊貴妃の煌びやかな生活は「ある事」をきっかけに崩壊します。

安禄山の入朝

月岡耕漁による楊貴妃
出典:Wikipedia

この頃に玄宗と楊貴妃に熱心に贈り物を届けていたのは、節度使の「安禄山」という軍人。楊貴妃は安禄山を気に入り、宴の時には必ず安禄山の席を用意しました。楊貴妃は安禄山の言われるまま彼を養子にします。安禄山は天宝10載(751年)に入朝し、その後は玄宗の側近として仕えました。

天宝11載(752年)に李林甫が死去すると、唐の大権は楊貴妃の従兄弟である従兄の楊国忠が握ります。楊貴妃の3人の姉のうち、1人はこの頃に亡くなり、叔父の楊玄珪も亡くなりました。2人の姉である韓国夫人と虢国夫人は存命でしたが、楊貴妃の親族の横暴は激しさを増しました。

安禄山軍の進路
出典:Wikipedia

また楊国忠は専横を重ねた上、外征に失敗。多数の死者を出した事で、安禄山と対立を深めていきます。そして天宝14載(755年)11月に安禄山は遂に安史の乱を起こし、1カ月で、唐の副都・洛陽を陥落させました。また756年の正月に安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り、燕国の建国を宣言しました。

6月に蕃将の哥舒翰は安禄山に敗北し、玄宗は13日に長安にある宮廷から脱出を図ります。蜀へと敗走を図る中、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任を取り、陳玄礼と兵士達の手により惨殺されました。また韓国夫人も同様に殺害されます。

しかし陳玄礼と兵士達の怒りはこれだけに収まる事はなく、楊貴妃にも負けられました。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反と関係はない」と楊貴妃を庇いましたが、それだけで兵士達が納得する筈はありません。やむなく、楊貴妃は暗殺される事が決まるのでした。

楊貴妃の死因と最期

暗殺される

楊貴妃の墓
出典:Wikipedia

前述した通り、楊貴妃の死因は暗殺です。楊貴妃の暗殺を実行したのは、高力士という宦官でした。楊貴妃は彼の手で縊死されられます。縊死とは、要するに「首吊り」の事であり、その最期は非常に苦しいものであった事は間違いありません。

楊貴妃が亡くなった後で、南方から楊貴妃の好物だったライチが献上されており、玄宗は改めてその死を嘆いています。また安禄山も反乱は起こしたものの、楊貴妃を思う気持ちに間違いはなく、楊貴妃の死を知り数日もの間泣き続けました。陳玄礼により楊貴妃の死は確認され、楊貴妃の遺体は郊外に埋められています。

安史の乱のその後

唐時代の龍門石窟
出典:Wikipedia

ちなみに安史の乱を起こした安禄山ですが、彼は間もなく病に倒れて失明します。そして757年正月に安慶緒に暗殺され、彼が新たな燕国の皇帝になる事を宣言。後に唐・ウイグル連合軍による奪回戦が行われて、安史の乱は763年に唐の勝利で終わります。

この期間中の756年に玄宗は粛宗に皇帝の座を明け渡していましたが、762年に2人とも死去。新たな皇帝に代宗が即位しますが、長年の内乱で唐における皇帝の影響力は弱体化。新たにウイグル帝国とチベット(吐蕃)・契丹が台頭する等、安史の乱は唐に大きな影響を与えたのでした。

楊貴妃はどんな人?

楊貴妃の生涯や最後について解説しましたが、楊貴妃の人物像の掘り下げはまだまだ足りません。この項目では楊貴妃の美貌などの逸話や、後世に与えた影響などについて解説しましょう。

世界三大美人に数えられる

クレオパトラ
出典:Wikipedia

楊貴妃はクレオパトラ、小野小町と並び、世界三大美人に数えられています。世界的にはヘレネー、クレオパトラ、楊貴妃の3人が三大美人を指すともされますが、そもそも「世界三大美人」という考えが日本独特のものという説もあります。

小野小町
出典:Wikipedia

小野小町が美人というのはあくまで伝承であり、事実か否かは分かりません。平安後期に確立した「玉造小町子盛衰書」という作品には、主人公の小町という美人の女性が老衰没落する過程が描かれており、この作品と小野小町が混同した可能性があります。

またクレオパトラが三大美人に数えられているのは、1910年代に女優の松井須磨子が帝国劇場でクレオパトラを演じた事などが要因と推測されます。クレオパトラはプトレマイオス朝の最後の女王で絶世の美女とされた人物ですが、後に自殺しています。三大美人は単に美しいだけでなく、悲劇性を帯びている事も一つの基準と言えるのかもしれません。

傾国の美女

杜甫
出典:Wikipedia

一方で楊貴妃は傾国の美女とも呼ばれます。傾国の美女とは、国家の元首が政治を顧みずに寵愛した女性の事であり、しばしば亡国の元凶ともされます。楊貴妃は唐の衰退を招いた張本人として、芸術作品や小説の題材に選ばれる一方で、その評価は高くありません。

ただ『旧唐書』『新唐書』などの楊貴妃が存命の頃に書かれた書物に、楊貴妃の直接的な記述はなく、多くは玄宗を通した間接的です。楊貴妃の批判が増えるのは楊貴妃の死後の事。楊貴妃の同世代の詩人・杜甫は「北征」で楊貴妃を褒姒・妲己に例えて批判しています。やがて白居易が楊貴妃の死後50年を経て「長恨歌」を作詞すると、現在の楊貴妃像が形作られていきました。

楊貴妃にさまざまな伝説や潤色が存在するのは、楊貴妃の実像がはっきりしない為です。また楊貴妃の死後、唐は勢力を回復させる事ができなかった為、安史の乱はしばしば唐の没落を示す要因になったとされます。そのため、安史の乱の原因になった楊貴妃は批判されやすいのかもしれません。

ふくよかな女性だった

木蓮の花
出典:Wikipedia

絶世の美女とされる楊貴妃ですが、実は非常に豊満な体型だったとされます。一説では楊貴妃の身長164cm、体重は約70kg。これは現在の女性だとダイエットを考えるレベルでしょうか。

ただ当時は貧富の差が激しく、丸々と太っている事が美の象徴でした。そのため、ふくよかな楊貴妃が玄宗から寵愛を受けたものと思われます。当時と今の価値観が大きくわかる話ですね。

ちなみに楊貴妃は夏になるとよく汗をかき、臭いを放っていました。その汗を溜めた肌は赤く見え、拭うとその赤色が布に移ったそうです。このエピソードから、楊貴妃がワキガだったと考える人もいます。楊貴妃はこの臭いを誤魔化す為、木蓮や、クチナシの練香を毎日焚いていたとされ、結果的に官能的な香りを放っていたのかもしれません。

楊貴妃の性格

音楽や踊りの才能に優れていた

敦煌・莫高窟の第112窟の壁画
出典:Wikipedia

楊貴妃は美の象徴たるふくよかな体型だっただけでなく、音楽や踊りの才能に優れていました。

それは玄宗が諸王を招き、宴を開いた時の事。楊貴妃は玄宗が木蘭の花の様子に不興を感じている事を察知します。すると楊貴妃は酔いながら霓裳羽衣の曲の舞を踊り、その場を盛り上げました。玄宗も楊貴妃の踊りに魅了され、すっかり機嫌が治っています。楊貴妃は胡旋舞という西域から渡来した踊りを得意としていたようです。

また楊貴妃は琵琶の達人で、玄宗が作曲を行った演奏会では琵琶を担当。その演奏があまりに見事だった為、王や郡主(王の娘)は楊貴妃を師と仰ぎ、多くの贈り物が贈られました。

更に楊貴妃は磬(打楽器の一種)の名手でもあり、梨苑という宮廷音楽家養成所の人達も楊貴妃には敵わなかったそう。玄宗は前述した通り、作曲も行うなど、音楽に強い関心をもっていた人物です。楊貴妃が寵愛されたのは、こうした音楽的な才能を高く評価していた事も要因かもしれません。

空気を読む事に長けていた

隋国の碁盤
出典:Wikipedia

楊貴妃と玄宗は年齢が31歳も離れていましたが、双方が互いを深く愛していた事は間違いないようです。楊貴妃は玄宗の気持ちを察知する力に長け、玄宗はそんな楊貴妃に全幅の信頼を寄せていました。

それは玄宗が親王と碁を打っていた時の事。玄宗が負けそうになっている事を察知した楊貴妃は狆を放して碁盤を崩して、試合を中止させ、玄宗を喜ばせたというエピソードが残っています。これは囲碁のルールを熟知すると共に、玄宗の心中ととっさの機転がないとできません。玄宗はこうした楊貴妃の聡明さと機転の良さにも愛情を感じていたのでしょう。

楊貴妃とメダカの関係性について

メダカ
出典:Wikipedia

インターネットで楊貴妃と検索すると、関連ワードとして引っかかるのが「メダカ」です。楊貴妃とメダカにはどんな関係があるのか気になる人も多いかもしれません。この項目では楊貴妃とメダカの関係について解説します。

楊貴妃メダカという品種がある

結論から言えば、メダカには「楊貴妃メダカ」という品種があります。楊貴妃メダカは突然変異で生まれた赤朱色の個体で、その体色を固定化したものです。作出されたのは2004年ですが、現在では寸胴体形の楊貴妃ヒカリダルマメダカや、頭だけが赤い楊貴妃透明鱗丹頂メダカなどの多くの種類が存在します。

赤朱色は水槽の中で映える為、数あるメダカの中でも人気があります。妖艶な楊貴妃のような楊貴妃メダカ。もしメダカを飼育したいなら、ぜひ候補に入れてみてはいかがでしょうか。

メダカ以外にも楊貴妃をモデルにしたものが存在する

ライチの実
出典:Wikipedia

ちなみに楊貴妃の名前が使われているものはメダカだけではありません。例えばオランダのライチ混合酒の中には、「貴妃」と呼ばれる種類があります。これは楊貴妃がライチが好きだった事に因んでおり、根強い人気があります。この他にも薬酒の中には、楊貴美酒というものも存在します。

楊貴妃はその美貌ゆえ、多くの小説・漢詩・雑劇・戯曲の題材に選ばれてきました。日本では音楽作品として山田検校「長恨歌」光崎検校「秋風の曲」、小説としては井上康の『楊貴妃伝』等が存在します。楊貴妃は今後も多くの題材に選ばれ、私達を魅了していくのではないでしょうか。

楊貴妃の名言

宝山遼墓の壁画「楊貴妃教鸚鵡頌経図」
出典:Wikipedia

「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」

楊貴妃が玄宗に自殺を命じられた時に述べた言葉です。国を滅ぼした女性と称される楊貴妃ですが、玄宗に対する愛情と、国を想う気持ちがあった事は事実。楊貴妃が気丈かつ、信仰心の厚い女性である事がわかる名言です。

「羅袖動香香不已」

楊貴妃の残した漢詩です。現代語訳は「踊ってうすぎぬの衣装の袖が揺れ動き、衣装に焚きしめている香のかおりが次から次へと漂ってきて止む事がない」となります。

この作品は『全唐詩』に収録されています。上京は楊貴妃が侍女の張雲容に霓裳羽衣の曲を舞わせ、それを題材に詠み上げたもの。この漢詩を楊貴妃は玄宗に見せたと伝わっており、楊貴妃と玄宗の仲睦まじい様子が伝わってくるようです。

楊貴妃の子孫

世界三大美女と謳われる楊貴妃ですが、子孫はいるのでしょうか。仮に子孫かいるならば、その子孫もまた絶世の美女だと考える人も多いでしょう。この項目では楊貴妃の子孫について解説します。

楊貴妃に子供はいない

楊貴妃も着用した肚兜
出典:Wikipedia

結論から言えば楊貴妃に子供はいません。彼女は玄宗と李瑁という2人の妃になったものの、一度も妊娠の記録が残っていない為、確実と思われます。

ちなみに玄宗は楊貴妃以外に多くの妻を持ち、生涯に100人以上の子を儲け、李瑁も多くの子を儲けました。楊貴妃がなぜ子を授かる事が出来なかったのかは不明です。不妊症だったという解釈もできますが、子を産むと体型に変化が生じるので、楊貴妃はその事を恐れたのかもしれません。

ただ楊貴妃が玄宗の妻として影響力を待つ事ができたのは、妊娠せずに常に玄宗に寄り添う事ができた為。全ては楊貴妃の策略だったのかもしれません。

山口百恵は楊貴妃の子孫?

長門市青海島の海岸
出典:Wikipedia

ちなみに中国では「山口百恵が楊貴妃の子孫」という事を信じている人が数多くいます。2002年にCCTV(中国中央電視台)は、楊貴妃の死の謎を追究した番組を報道しました。

その時に「山口百恵は自分は楊貴妃の子孫と発言した」と紹介。更に山口県長門市には、楊貴妃が処刑されずに生き延びて漂流したという伝承があります。これらを根拠とし、中国は山口百恵が楊貴妃の子孫だと主張しているのです。

ただこの主張はデマの可能性が高いとされます。中国や韓国では、日本発祥のものを大陸発祥のものと主張する風潮があり、山口百恵もその中の一つでしょう。山口百恵は中国では未だに絶大な人気があり、女性を称賛する時に「中国山口百恵(中国の山口百恵)」と表現する事もあります。そうした山口百恵を神格化する風潮が、楊貴妃と同一視する事に繋がったのかもしれません。

山口百恵は引退した後も、中国人を魅了し続けているのです。

楊貴妃にまつわる逸話・都市伝説

楊貴妃はその美貌と壮絶な生涯ゆえに多くの都市伝説が存在します。この項目ではその中のごく一部を解説します。

陰毛が膝まであった

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楊貴妃は豊満な体型だっただけでなく、膝下まで陰毛が伸びていたという噂があります。ただ陰毛の寿命は1年程であり、伸びる長さも年に6〜7mm程とされる為、この噂は事実ではありません。性器は昔から神秘的なものと考えられており、それが楊貴妃の伝承と結びついたものと考えられます。

幼少期から貴妃になる事が決まっていた

四川省には楊貴妃の逸話が数多く存在する
出典:Wikipedia

楊貴妃は幼少期から聡明で、貴妃なる事が決まっていました。それは『定命録』という書物によれば、蜀に住んでいた頃に、張という名の仙人が「この娘は将来、大富大貴になるであろう。皇后と同等の尊貴にあるだろう」と述べたそうです。

もちろん、この話は楊貴妃の神秘性を高める為のものであり、脚色の可能性が高いです。ただ幼少期の楊貴妃もまた、皆が認める程の美しさを備えていた事は間違いないでしょう。

楊貴妃のゆかりの地

実は楊貴妃のゆかりの地は中国だけでなく、日本にも存在します。この項目では、日本に存在する楊貴妃ゆかりの地を解説しますね。

泉涌寺

泉涌寺仏壇
出典:Wikipedia

京都の泉涌寺には、楊貴妃の等身坐の観音像が存在します。この観音像が日本に持ち込まれたのは1255年の事。中国に渡った湛海が持ち帰ったものです。この観音像には、玄宗が楊貴妃の面影を偲ぶため、香木で聖観音像を造ったという伝承があります。

楊貴妃観音像は100年に一度だけ公開される秘仏でしたが、1955年以降は一般公開されています。今では女性の願いを叶えるパワースポットとして知られるようになりました。

ちなみに泉桶寺は真言宗泉涌寺派の総本山の寺院であり、皇室の菩提寺にも選ばれています。後水尾天皇から孝明天皇に至る江戸時代の天皇の陵も存在する等、歴史的にも重要な場所です。

住所:京都府京都市東山区泉涌寺山内町27

二尊院

長門市の青海島
出典:Wikipedia

前述した通り、山口県長門市には楊貴妃が日本に渡ったという伝承が残されています。長門市にある二尊院には、楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔が存在します。伝承によれば楊貴妃は、安史の乱で玄宗に自殺を命じられる前にうつろ舟に乗り、唐を脱出してこの地に漂着。しかし間もなく亡くなり、埋葬されたというものです。

後に玄宗の夢枕に楊貴妃の霊が現れ、楊貴妃の霊は自らの亡骸が日本にある事を伝えました。玄宗は追善供養の為、釈迦如来と阿弥陀如来を日本に送るものの、楊貴妃の亡骸がどこにあるのかはわからないままでした。この二尊は長らく都の寺院に置かれていましたが、楊貴妃の墓が長門にある事が後に判明。しかしこの二尊は長らく都の寺院に置かれていた為、名仏師が模刻したものを長門に送る事になったとされています。

この二尊院が建立されたのは807年の事ですが、楊貴妃が亡くなった時代より後の事。更に玄宗が日本に二尊を送った記録はなく、都にあるはずの二尊がどこにあるかもわかりません。二尊寺に伝わる伝承はどこまでが事実なのかは不明です。

しかし仮に楊貴妃が遠路はるばる日本に漂着したとするなら、何ともロマンを感じさせる話ですね。

住所:山口県長門市油谷向津具下3539

楊貴妃はキングダムに出ている?

キングダムはヤングジャンプに収録されている
出典:Wikipedia

キングダムは古代中国の春秋戦国時代末期を舞台としたマンガであり、2023年4月時点で累計部数は9700万部を突破しています。この作品に楊貴妃が登場しているのか、気になる人も多いのではないでしょうか。この項目では、キングダムに楊貴妃が登場しているのかを解説します。

楊貴妃はキングダムに出ていない

結論から言えば、キングダムに楊貴妃は出ていません。キングダムの舞台は紀元前3世紀。楊貴妃の生きた時代は700年代なので、そもそも時代が違います。

楊端和が楊貴妃のモデルの可能性がある

ただキングダムには楊端和という、楊貴妃と同じ苗字の人物が登場します。この楊端和が楊貴妃のモデルの可能性が示唆されています。

楊端和は史実では魏の衍氏を落とす等、獰猛果敢な人物ではあるものの、記述が少ない謎に包まれた人物です。しかし、キングダムの楊端和は山民族(山の民)の(最大勢力の)女王として描かれています。史実の楊端和は記述が少ない為、作者はその事を逆手に取り、女性という事にしたのでしょう。また楊端和は楊貴妃と同じ苗字なので、作者が楊貴妃となぞらえた可能性はあります。

楊貴妃の関連人物

安禄山

安禄山
出典:Wikipedia

安禄山は安史の乱を起こし、楊貴妃や玄宗に反旗を翻した軍人です。彼は康国出身のソグド人と、突厥系の混血であると伝えられており、体重が200kgもある大男でした。彼は732年に幽州節度使の張守珪に任命されて以降、玄宗と距離を深める事に成功。数々の贈り物を行い、楊貴妃に好かれる事にも成功し、やがて楊貴妃の養子になります。

安禄山は天宝10年(751年)に入朝しますが、その際に楊貴妃の赤子を演じました。それはおむつをして大きな揺り籠に入るという異様なものでしたが、玄宗はその様子を気に入り、宮中に自由に出入りする事に成功します。また安禄山は楊貴妃の後宮で夜を明かす事もあり、それは宮廷内で大きなスキャンダルになるものの、玄宗はそれを黙殺しました。

安禄山はやがて安史の乱を起こしますが、いつの時点で乱を起こそうとしていたのかはわかりません。安禄山は主人に阿諛追従の言を使いながら、その裏では主を蔑ろにする乱を画策する謀叛人として、中国では悪人というイメージがつきまといます。楊貴妃も彼に好印象を抱かなければ、命を落とす事はなかったのではないでしょうか。

白居易

白 居易
出典:Wikipedia

白居易は唐代中期の漢詩人であり、元和元年(806年)頃に『長恨歌』を作詩した人物です。長恨歌は楊貴妃と玄宗を題材にした長編の漢詩作品であり、「源氏物語」をはじめとした平安時代の日本文学に多大なる影響を与えました。またこの作品が、日本における楊貴妃像を確立させたとも言えます。

ちなみに長恨歌が生まれたのは、白居易、陳鴻、王質夫の3人が仙遊寺に集まり、楊貴妃と玄宗のエピソードを語り合った事がきっかけです。また陳鴻は小説の『長恨歌伝』を制作しており、こちらも高い評価を得ています。

楊貴妃の関連作品

今も昔も楊貴妃を題材にした作品は数多く存在します。この項目では、楊貴妃を題材にした書籍や漫画、映画やドラマなどを紹介します。

おすすめ書籍・本・漫画

・楊貴妃伝
日本を代表する小説家・井上靖による、楊貴妃を主人公にした長編小説です。時が移っても、変わらぬ人間の業。それを楊貴妃の儚い生涯を通じて描き出しています。

・楊貴妃 大唐帝国の栄華と滅亡
楊貴妃の生涯を、数々の文献と書物をもとに炙り出した一冊。楊貴妃についてより詳しく知りたい、知られざるエピソードを知りたい。そんな人におすすめの一冊です。ちなみに本書は『楊貴妃 大唐帝国の栄華と暗転』という書籍が原本になっています。

・唐―東ユーラシアの大帝国

唐の栄枯盛衰の過程を描いた一冊。安史の乱は唐の衰退を招いたきっかけになった事からも、本書でしっかりと考察されています。

おすすめの動画

・【ゆっくり解説】 楊貴妃 非命に倒れた絶世の佳人の生涯 【唐】
楊貴妃の生涯をわかりやすく解説したゆっくり動画です。

おすすめの映画

・空海―KU-KAI―美しき王妃の謎
2017年に放映された日中合作の映画では。内容は留学の為に唐に渡った空海が、詩人・白楽天と長安に存在する巨大な謎を追うというもの。本作では楊貴妃について歌われた長恨歌が重要なキーワードとなっており、楊貴妃と玄宗の愛情の日々や、その死について独自の解釈がなされています。古き良き長安も再現されており、古代中国に興味のある人にもおすすめの作品です。

・楊貴妃 レディ・オブ・ザ・ダイナスティ
唐王朝を舞台に、楊貴妃を巨大なスケールで描いた作品です。監督は中国の映画界の巨匠・チャン・イーモウ。本作の楊貴妃は愛を信じつつ己も馬に乗り、命を懸けた戦いに挑むという新たなもの。まさに楊貴妃を主題にした作品の新境地と言えそうです。

おすすめドラマ

・麗王別姫~花散る永遠の愛~
2017年に中国で放送されたテレビドラマ。本作の主人公は代宗の側室で徳宗の生母である沈珍珠。彼女は魑魅魍魎とした宮廷に身分を隠して潜り込みますが、まさに宮廷では玄宗が楊貴妃に現を抜かしていた頃でした。本作の楊貴妃はまさに傾国の美女として描かれており、安史の乱の混乱もしっかりと描かれています。

楊貴妃についてのまとめ

今回は楊貴妃の生涯や人物像を解説しました。楊貴妃は玄宗の貴妃として玄宗を魅了しましたが、それは安禄山による安史の乱を起こす原因となります。結果的に楊貴妃は最愛の夫である玄宗の命令により、命を落としました。

傾国の美女とも称される楊貴妃ですが、その妖艶かつ悲劇的な生涯は今も多くの人達を魅了しています。今回の記事を通じ、楊貴妃の魅力や人物像に興味を持っていただければ幸いです。

参考文献

・https://ja.m.wikipedia.org/wiki/楊貴妃

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