北里柴三郎は日本の細菌学の父と呼ばれ、ペスト菌の発見や破傷風の治療法を確立する等、日本の医学会に多大なる貢献を残した人物です。2024年から発行される千円札の肖像になる事から名前を聞いた事がある人もいるでしょう。
今回は北里柴三郎の生涯と人物像に迫っていきたいと思います。
目次
北里柴三郎のプロフィール
氏名 | 北里柴三郎 |
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通称・あだ名 | 日本細菌学の父 |
出生日 | 1853年1月29日 |
出生地 | 肥後国阿蘇郡小国郷北里村 |
死没日 | 1931年6月13日 |
死没地 | 東京都東京市麻布区 |
職業 | 医学者・細菌学者・教育者・実業家 |
配偶者 | 松尾乕 |
座右の銘 | 終始一貫 |
こちら司馬三郎の他、渋沢栄一や津田梅子についてもまとめられた動画になります。
北里柴三郎の人生年表・生涯
北里柴三郎の年表①
年 | 出来事 |
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1853年 | 肥後国北里村に誕生 |
1871年 | 熊本医学校に入学 |
1875年 | 東京医学校に入学 |
1883年 | 医学士となる |
腕白だった幼少期
柴三郎は1853年に肥後国北里村で誕生します。父の惟保は庄屋を務めていました。母の貞は豊後森藩士の娘であり非常に教育熱心。柴三郎は8歳の時には漢学者の祖父の元に預けられ、儒学等を学びます。
北里家は元々源氏の流れをくむ名門の家系であり、柴三郎は幼い頃は武士になりたいと考えていました。明治維新後はその夢は軍人へと変わるものの、両親の強い勧めで熊本医学校へと進学します。その後はオランダ人医師マンスフェルトの影響もあり、本格的に医療の道を志しました。
東京医学校に進学する
1875年には東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学し、そこで予防医学の道を志します。なお、医学校時代は教授の論文に口出しをよくしており、柴三郎は何度も留年しています。
北里柴三郎の年表②
年 | 出来事 |
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1885年 | ベルリン大学に留学 |
1889年 | 破傷風菌の純粋培養法に成功する |
1890年 | 血清療法をジフテリアに応用 |
1892年 | 国立伝染病研究所の所長となる |
1894年 | ペスト菌を発見する |
破傷風菌の純粋培養法に成功
1885年には東大教授兼衛生局試験所所長だった緒方正規の計らいで、ベルリン大学に留学しました。1889年には世界で初めて破傷風菌の純粋培養法に成功した他、翌年には破傷風菌抗毒素を発見する等、医学会に衝撃を与えるのです。
1892年には、欧米各国からの誘いを断って帰国。しかし恩人とも言える緒方正規が唱えた「脚気は細菌が原因」という説に対して、「それは違う」と批判した事で、母校と対立します。医学界で多大なる功績を残した柴三郎は、一転して国内で孤立したのです。
私立伝染病研究所の所長となる
そんな現状を福沢諭吉は憂いており、福沢諭吉の全面協力と資金援助により、「私立伝染病研究所」が設立。柴三郎は所長となりました。柴三郎はそこでも研究を続け、ペスト菌を発見する等の功績を残しています。
北里柴三郎の年表③
年 | 出来事 |
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1914年 | 私費を投じて北里研究所を設立 |
1917年 | 慶應義塾大学医学部の創設に尽力する |
1923年 | 日本医師会を創設 |
1931年 | 脳溢血により死去(享年80歳) |
私立北里研究所を創設
柴三郎が研究の拠点にしていた私立伝染病研究所ですが、1914年には東大の下部組織となりました。これは柴三郎に一切話しはなく、長年の東大の教授陣と柴三郎の対立が原因とされています。
柴三郎は所長を辞任。研究所職員の多くもそれに続きました。そして柴三郎は私財をなげうって、私立北里研究所を創設したのです。その後は慶應義塾大学医学部を創設し、志賀潔等の名だたる研究所職員を医学部に送り込む等して、慶應義塾大学医学部の発展に大きな影響を与えたのです。
日本医師会の初代会長となる
明治後期になると、全国各地に沢山の医師会が設立されていました。これらをまとめる「大日本医師会」が1917年に発足し、柴三郎は初代会長となります。やがて1923年には大日本医師会は法令に基づいて日本医師会と形を変え、ここでも柴三郎は初代会長となりました。
柴三郎はまさに生涯を通じて、医学界の発展に尽くしてきたのです。
北里柴三郎の死因と最期
柴三郎は1931年6月13日に脳溢血を発症。そのまま自宅で死去しています。享年80歳でした。
なお柴三郎は年齢的なものもあったのか、1928年に医学部長を辞任しています。ただこの時点でもかなりの高齢であり、晩年近くまで働いていた事が分かります。
柴三郎の葬儀は6月17日に執り行われ、青山墓地に葬られました。
北里柴三郎の性格
日本の医療に多大なる貢献を果たした柴三郎ですが、どのような性格だったのでしょうか?浮かび上がるのは、終始一貫に自分の信念を貫く性格です。
ドイツ留学時代は下宿先と教室以外の道を通る事なく、研究に没頭。例え大学の恩師でも説に間違いがあると思えば、声を上げています。その性格から、研究先がなくなり苦労する事もありました。
ただそれは日本の医学の発展の為です。まさにそんな信念を貫く柴三郎の事を教え子達は「ドンネル先生(ドイツ語で雷親父)」と呼びました。
柴三郎の性格の根底にあるのは、幼少期に学んだ儒学です。四書五経などの書物から、自分良心に忠実である事、他人の身になって物事を考える事を柴三郎は無意識のうちに実践していたのです。
北里柴三郎の功績は?何をした人だった?
医学界に多大なる影響を与えた柴三郎ですが、具体的にどのようなものが挙げられるのか、分からない方も多いでしょう。この項目では、代表的な功績を解説していきますね。
破傷風菌の純粋培養法に成功する
破傷風は傷口に破傷風菌が入る事で、全身の筋肉の痙攣を引き起こす病気です。当時破傷風は病原菌を特定出来なかった為、明確な治療法がありませんでした。その為、破傷風は非常に恐れられていたのです。
柴三郎は破傷風菌の純粋培養に成功。更には破傷風菌の毒素を無効化する抗毒素を発見し、菌体を少量ずつ動物に注射して血清中に抗体を作り出す血清療法を開発したのです。これにより、破傷風の治療法が確立し、多くの人が救われたのでした。
ペスト菌の発見
ペストは古代ローマやエジプトの時代から恐れられた疫病です。そのペストが1894年に中国南部で発生し、香港にも広がっていました。柴三郎は現地に向かい、病死した患者の解剖等を通じてペスト菌を発見する事に成功します。
更に様々な研究を行い、加熱や消毒液への耐性や、推定される感染経路等を次々と解明していきます。柴三郎は消毒や、菌を媒介するネズミの駆除等を行い、公衆衛生の対策を行う事でペストの流行を収束させたのです。
多くの優秀な弟子を輩出する
柴三郎は後進の指導にも熱心であり、伝染病研究所から北里研究所時代での日々の中で、多くの優れた弟子を輩出しました。
・赤痢菌を発見した志賀潔
・黄熱病を研究し、紙幣の肖像画にもなった野口英世
・ハブ毒の血清療法に成功した北島多一
等がいます。柴三郎の意志は弟子達に受け継がれていきました。
テルモの設立発起人となる
テルモとは体温計等の医療機器を扱う大手のメーカーです。前身は赤線検温器株式会社と言い、柴三郎はその創設に大きく関わりました。元々日本の体温計はドイツからの輸入品が主でしたが、第一次世界大戦が勃発するとそれらは輸入されなくなります。
当時の東京医師会会長は国内産の体温計を作る事を考え、柴三郎もそれに賛同しました。赤線検温器株式会社の創設にあたり、柴三郎は設立趣意書の賛成人を務めています。
現在テルモでは世界初のホローファイバー型人工肺の作成に成功する等、世界的な医療メーカーになりました。医療機器の世界にも柴三郎の功績は残されているのです。
北里柴三郎のエピソード・逸話
ノーベル賞第一号候補だった?
日本で初めてノーベル賞を受賞したのは1949年。湯川秀樹が最初です。しかし柴三郎はそれよりもずっと前である1901年に第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に上がっていました。研究内容は血清療法をジフテリアに応用するというものです。
結果的にはノーベル賞に選ばれたのは、共同研究者のベーリングでした。何故柴三郎が選ばれなかったのか、それについては未だに多くの憶測があり、判明はしていません。
北里柴三郎の名言
細菌学者は、国民にとっての命の杖とならねばならない
ベルリン大学から帰国する時に、コッホに言った言葉です。コッホは常日頃から、細菌学を学ぶ意味を「命の杖」と呼んでおり、その信条を反映したものでした。
医者の使命は病気を予防する事にある
東京医学校在学中に柴三郎が確信したものです。病気を治す事が医療の全てではありません。病気にならないように公衆衛生を学ぶ事、病気にならない身体を作る事は何よりも重要です。
柴三郎は若くしてその事に気付き、「医道論」を書いて予防医学の大切さを説きました。
北里柴三郎の家系図・子孫
柴三郎は1883年に松尾乕(1867 – 1926年)と結婚し、3男3女をもうけます。また乕の父親は松尾臣善と言い、第6代日本銀行総裁を務めた人物です。
乕との子ども達は以下の通りです。
- 長男 俊太郎 (法学士)
- 次男 善次郎 (理学博士)
- 末男 良四郎 (工学に進み実業家へ)
- 長女 安子 (東京帝国大学助教授の渡辺銕蔵に嫁ぐ)
- 次女 美代 (外務省の千葉蓁一に嫁ぐ)
- 末女 寿恵子 (石田二郎に嫁ぐ)
記録には見当たらないものの、善次郎の次の男児が良四郎である事から、三男は早逝した可能性もあります。
また柴三郎は柴崎ナカとの間に文太郎・武次郎という子がいた他、三村こをとの間にもトミ・陽子・正十郎が生まれており、非常に子だくさんでした。
柴三郎の孫にあたる人物として、明治製菓の会長を務めた北里一郎、熊本県議会議長を務めた北里達之助が挙げられます。
北里柴三郎のゆかりの地
北里柴三郎記念館
北里柴三郎記念館は、柴三郎が生前に建てた貴賓館や北里文庫があった土地に、柴三郎の生家等を移築して作られたものです。
記念館の中には、柴三郎の遺品や写真等も展示されています。柴三郎が建てた貴賓館からは湧蓋山の絶景も望む事が出来ますよ。
住所:熊本県阿蘇郡小国町北里3199
北里大学
北里大学は医療系・理系の学部が多く設置された日本の私立大学です。キャンバスは五ヶ所。前身は1912年に柴三郎が私費を投じて立ち上げた北里研究所ですね。創立50年を経た1962年に学校法人北里学園が創立され、北里大学が作られました。
2015年には大村智がノーベル賞を受賞する等、様々な研究が行われています。
北里研究所病院
前身は福沢諭吉の協力のもとで設立された日本初の結核サナトリウムである土筆ヶ岡養生園です。その後1917年に付属病院が設立され、柴三郎の死去後にこれらは併合されました。
戦争で病院が焼け落ちた事もあるものの、1954年に再建。2008年には北里大学の法人と統合され、北里大学北里研究所病院となりました。
柴三郎が建てた病院は今も日本の医療を支えています。
北里柴三郎の関連人物
柴三郎には多くの関係者がいますが、今回はその中のごく一部を紹介しますね。
野口英世
野口英世は1898年に柴三郎が所長を務める伝染病研究所に入職。当初は医学ではなく、語学の才能を買われて文献の翻訳等に携わっていました。後に頭角を現し、梅毒や黄熱病の研究で功績を残しました。
2人は当時国際的に知名度の高かった日本人であり、共に日本の紙幣の顔にも選ばれでいますね。
福沢諭吉
福沢諭吉もまた紙幣の肖像に選ばれた人物です。2人の間には強い友情がありました。柴三郎がベルリンから帰国して灯台と対立した時、福沢諭吉は私立伝染病研究所の創設に尽力しています。
また福沢諭吉が死去後、柴三郎は福沢諭吉が創設した慶応義塾大学医学部の創設に尽力しています。そして北里研究所の優秀な人材を医学部に派遣。更に柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽くしたのでした。
北里柴三郎の関連作品
北里柴三郎(上)(下)-雷と呼ばれた男
柴三郎の生涯を克明に記した書籍です。彼の生涯を通じて、日本の医療現場、細菌学、予防医療のあり方なども知る事が出来ます。上下巻でボリュームも多いですが、柴三郎を知る上ではオススメの一冊です。
北里柴三郎
評伝や伝記はボリュームが多くて大変と考えた時には漫画で学ぶ事がオススメです。このマンガは絵も綺麗で読みやすく、柴三郎の生涯を分かりやすく伝えでくれます。子どもにも勧めたい一冊です。
マンガ&物語で読む偉人伝 渋沢栄一 津田梅子 北里柴三郎
2024年から新たなお札の顔になるのは柴三郎だけだはありません。この書籍では渋沢栄一・津田梅子についても詳しくまとめられています。この本を読むと、この3人が何故お札に選ばれたのかが良く分かると思います。
北里柴三郎の映像作品
柴三郎を主役にしたドラマはまだ放送されていません。1946年には「愛の先駆者」というタイトルで柴三郎を主演にした映画が作られていますが、随分昔の話です。
ただ時期的には戦後1年目であり、この時期に柴三郎の功績を映画にした事は称賛に値します。
その他の映像作品としては、2020年7月8日の歴史ヒストリアで柴三郎が取り上げられています。題材は「ペスト 最悪のパンデミック」であり、昨今のコロナウイルスに対するメッセージが感じ取れます。
こちらDVD化はされていませんが、amazonのprime videoで視聴可能です。
北里柴三郎についてのまとめ
今回は北里柴三郎の生涯や人物像について解説しました。医学界に多大なる功績を残した柴三郎ですが、その性格から対立する事も多くありました。ただそれは日本の医学の進歩の為であり、自分の信念を貫いた事の裏返しでもあります。
今回の記事を通じて柴三郎に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
北里柴三郎(上)(下)-雷と呼ばれた男