ラスプーチンは、ロシア帝国のニコライ2世の宮廷下で実権を握った僧侶です。彼は「怪僧」と呼ばれ、宮廷の人事や政策に口出しするなど、ロシア帝国に絶大なる影響を与えました。結果的に彼は1916年2月に暗殺されますが。独特なキャラクター性から、現在でも数々の創作物に登場しています。
そんなラスプーチンですが、その人物像や生涯は知らない人も多いのではないでしょうか。今回は、ラスプーチンの生涯や性格、実像について解説します。
目次
ラスプーチンのプロフィール
ラスプーチン(1869年〜1916年)は、帝政ロシア末期に実在した祈祷僧です。農民の出生ですが、23歳の時に謙遜な修行僧に転身。身分制度が厳格な帝国ロシアにありながら、皇帝・ニコライ2世の支持を得る事に成功し、宮中で絶大な影響力を持つに至ります。
一方で多くの愛人関係を持っており、次第に宮中内で厄介者扱いをされ始めます。結果的にラスプーチンは1916年12月17日に暗殺されますが、一筋縄では行きませんでした。彼はロシア帝国の衰退を招いた張本人とされ、歴史的な評価は極めて低いです。ただその特異な風貌と数奇な生涯から、現在でもさまざまな創作物に登場しています。
氏名 | グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン |
---|---|
通称・通称 | 怪僧 |
出生日 | 1869年1月21日 |
出生地 | ロシア帝国・トボリスク県ポクロフスコエ村 |
死没日 | 1916年12月30日 |
死没地(亡くなった場所) | ロシア帝国・ペトログラード |
血液型 | 不明 |
職業 | 農民・(自称)祈祷僧 |
身長 | 193cm |
体重 | 89kg |
配偶者 | プラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナ |
座右の銘 | 不明 |
ラスプーチンの人生年表・生涯
ラスプーチンの人生年表
年 | 出来事 |
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1869年 | 誕生 |
1887年 | プラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚 |
1905年頃 | サンクトペテルブルクに移り住み、ニコライ2世と謁見 |
1907年 | 血友病を患っていた皇太子を治療し、ニコライ2世から絶大な支持を得る |
1911年 | 巡礼団の一員となる |
1914年 | 暗殺されかけるが、難を逃れる |
1915年 | ロシア帝国の内政を司る |
1916年12月17日 | 暗殺される(享年47歳) |
農民の子として生まれる
ラスプーチンは1869年1月9日に、シベリアの寒村・ポクロフスコエ村で誕生します。翌日に洗礼を受け、グレゴリーと名付けられました。幼少期のラスプーチンは学校に通っていない為、生涯を通じて読み書きはできません。ただ当時のロシア帝国では村人の大半が読み書きができなかった為、特別珍しい事ではなかったようです。
当時のラスプーチンの動向は、詳しくは不明です。娘のマリア・ラスプーチナが幼少期のラスプーチンの様子を記録に残していますが、信憑性は低いとされます。確実とされているのは、1887年にプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚した事。粗暴だったラスプーチンがロシア正教会古儀式派のスコプツィ派の教義の影響を強く受けた点です。
そんなラスプーチンは、1892年に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔。数ヶ月間、ヴェルコチュヤの修道院で修行を行い、熱心な修行僧となりました。後に村に帰省しますが、1903年に再び出奔。キエフ・ペチェールシク大修道院などをめぐり、上流階級の貴族達からも注目される存在となりました。
サンクトペテルブルクを訪れる
ラスプーチンがロシア帝国の帝都・サンストペテルブルクを訪れたのは、1903年から1905年頃とされます。この地でラスプーチンは、人々に病気治療を施して「神の人」と呼ばれ始めました。ラスプーチンは、ミリツァ大公妃とアナスタシア大公妃の寵愛を受け、1905年11月1日にロシアの皇帝・ニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見。当時のロシアは日露戦争による敗北や、身分制度の疑問などから混乱の渦中にありました。
1906年10月には大臣会議議長・ピョートル・ストルイピンの娘が爆弾テロで負傷しており、ラスプーチンはニコライ2世の要請で治療にあたります。1907年4月には血友病患者でもあったニコライ2世の息子・アレクセイ皇太子の治癒にあたりました。この時にラスプーチンはアレクセイ皇太子の発作を改善させたとされ、ニコライ2世におけるラスプーチンの信頼は絶大なものになります。
やがてラスプーチンは宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女からも絶大な支持を得るに至り、宮中に自由に出入りをし始めます。ただニコライ2世の信頼感は衰える事はなく、ラスプーチンはニコライ2世の指示で1911年初頭には巡礼団の一員に加わります。1912年初頭にはフリスト派の儀式にも参加しました。
しかしラスプーチンは文字もあまり読めず、農民の身分でしかありません。ラスプーチンの行動を批判する貴族も多く、王族からも聖務会院からも警戒され始めます。宮中の風紀を乱す行動も多く、ラスプーチンは徐々にあらゆる層から嫌われていきました。
暗殺未遂事件
1914年6月29日、ラスプーチンは故郷のポクロフスコエ村に帰郷していましたが、キオーニャ・グセヴァに襲われます。ラスプーチンは腹部を短刀で刺されますが、自宅を飛び出して近くにあった棒で応戦。キオーニャ・グセヴァを撃退した後は自宅に留まり、ニコライ2世の要請で派遣された医師団の治療のおかげで一命を取り留めました。
キオーニャ・グセヴァは精神異常者として病院に収容され、この他にラスプーチンの反乱因子だった人物達も暗殺や逮捕、国外逃亡などの憂き目に遭い、ラスプーチンを批判する者は一掃されます。
国際情勢をみれば7月29日から第一次世界大戦が勃発しており、欧州やロシア一帯は更なる混乱に見舞われました。ニコライ2世は2日後の7月31日に、ロシア軍総動員令を布告しドイツ軍との戦闘を宣言。ラスプーチンはドイツとの戦争に強く反対しましたが、内政に口出しする姿勢からニコライ大公、ピョートル大公との対立を招きます。
当時は、「戦争はクリスマスまでに収束する」という見方が主でしたが、第一次世界大戦は長期化の一途を辿ります。多数のロシア兵が前線に駆り出され、ロシア帝国は疲弊していきました。
反ラスプーチンの機運高まる
ロシア帝国が混乱の一途を辿る中、ニコライ2世は国民の士気を維持する為、大規模な遠征を計画。帝都を離れる事を理由に、1915年8月23日にニコライ2世は内政をとアレクサンドラ皇后に任せると決断。この時に相談役に抜擢されたのがラスプーチンでした。
この決断にロシア政府から反対意見が噴出しますが、首相のゴレムイキンはその意見を封殺。ニコライ2世の遠征後、アレクサンドラ皇后は慣れない政務に追われます。ラスプーチンは堂々と政務に関与する事はなかったものの、アレクサンドラとの手紙のやり取りを経て影響力は拡大します。
1916年2月2日にラスプーチンを支持するボリス・スチュルメルが首相に就任。一方で内務大臣のアレクセイ・フヴォストフはラスプーチンの暗殺を計画。「アレクサンドラとラスプーチンはドイツのスパイ」という噂を流した事で、3月3日にアレクセイ・フヴォストフは罷免され、ボリス・スチュルメルが内務大臣も兼務するに至ります。
ただラスプーチンに対する批判は日増しに高まり、議会でもラスプーチンを批判する者も現れます。ニコライ2世にラスプーチンを国外追放する事を進言する者もいましたが、それらの意見は採用されず。議会では「皇帝の大臣たちは皇后とラスプーチンの傀儡となっている」と演説する者もいました。
11月10日に議院内閣制の導入を目指すアレクサンドル・トレポフが首相に就任します。当時の内務大臣はラスプーチンの推薦で選ばれたアレクサンドル・プロトポポフでしたが、アレクサンドル・トレポフは彼の留任を拒絶。アレクサンドラ皇后は、アレクサンドル・プロトポポフの留任を望んでいた為、目指すアレクサンドル・トレポフとアレクサンドラ皇后の対立は先鋭します(アレクサンドル・プロトポポフの内務大臣留任は12月7日に決定)。
アレクサンドル・トレポフは宮廷内の切り崩しを図り、ラスプーチンに「政治から手を引くなら大金と屋敷、護衛を贈る」と打診を持ちかけています。ただアレクサンドル・トレポフの行動はアレクサンドラ皇后に知られる事となり、12月13日には彼の元に警告文が届きました。ラスプーチンはこの頃には「自らの死期」を悟っており、ほとんど外出する事もありませんでした。
12月16日にラスプーチンは自宅のアパートに戻り、数人の来客の対応をしています。内務大臣のアレクサンドル・プロトポポフもアパートを訪れていますが、その時に「今夜は外出を控えるように」と忠告。そしてこの日にラスプーチンは暗殺されるのでした。
ラスプーチンの死因と最期
前述した通り、ラスプーチンの死因は暗殺です。ラスプーチンを暗殺したのは、フェリックス・ユスポフを中心とした貴族グループです。彼はニコライ2世の姪イリナ・アレクサンドロヴナと結婚しており、ニコライ2世と血縁関係にありました。
フェリックス・ユスポフは以前からラスプーチンを暗殺する為、良好的な関係を築いていました。その為、ラスプーチンが「彼から暗殺される事」を予想してはいなかったようです。ラスプーチンは彼やドミトリー大公などの手により暗殺されますが、その最期はまさに「伝説」であり、ラスプーチンの恐ろしさを知らしめる事になったのです。
撃たれても毒を飲んでも死ななかった
12月17日午前1時、ラスプーチンはフェリックス・ユスポフ一派に招かれ、モイカ宮殿を訪れます。フェリックス・ユスポフはラスプーチンに青酸カリ入りの紅茶とデザートを振る舞いますが、ラスプーチンはペロリと平らげたのです。
この事に驚愕したはフェリックス・ユスポフは、ラスプーチンを泥酔させ、2発の銃弾をラスプーチンに発砲。ラスプーチンは肺と心臓を撃たれて床に倒れました。しかしラスプーチンは起き上がった為、フェリックス・ユスポフは身の危険を感じて中庭に逃走しています。
騒ぎを聞いて駆けつけたフェリックス・ユスポフの一派が、ラスプーチンに向けて4発の銃弾を発砲。4発のうち1発は右腎静脈から背骨を貫通し、ラスプーチンは雪の上に倒れましたが、再びラスプーチンは起き上がったとの事です。その為、フェリックス・ユスポフはラスプーチンの右目を靴で殴り、更に額に1発の銃弾を撃ち込んでいます。
ラスプーチンの遺体は、凍りついたネヴァ川に投げ捨てられました。遺体は12月19日早朝に、投げ捨てられた場所から140mほど離れた岸辺で発見されます。遺体の手足はロープで縛られていましたが、手首のロープはほどけていました。検死でラスプーチンの死因は頭部を狙撃された事であると結論つけられています。ただこの検死の報告書は紛失しており、現物を見る事はできません。
ラスプーチンはそれでも生きていた?
ラスプーチンの死因は前述した通り、頭部を狙撃された為とされます。しかし「肺に水が入っていた為、死因は溺死である」と主張する人も少なくありません。それが事実なら、ラスプーチンは頭部を狙撃されても生きており、川に投げ込まれた事が要因で亡くなったという事になります。この主張により「ラスプーチン=規格外の人物」という風潮が広まったと言えます。
ただラスプーチン暗殺に伴う資料の多くは紛失しており、本当の事はわかりません。ラスプーチンを暗殺したフェリックス・ユスポフは1960年代まで存命でしたが、証言を何度も変えています。いずれにせよ、その死に伴いラスプーチンは「伝説の人物」に変貌したと言えるでしょう。
ラスプーチンの伝説や武勇伝
ラスプーチンは、その壮絶な最期ゆえに伝説の人物となりましたが、この他にも多くの武勇伝を持っています。この項目では有名なラスプーチンの伝説や武勇伝を紹介します。
神の手を持っていた?
ラスプーチンがニコライ2世や皇后のアレクサンドラから敬愛されたのは、彼の祈祷がアレクセイ皇太子の血友病の発作を治した事です。ラスプーチンは神の手を持っており、アレクセイ皇太子以外にも多くの貴族の病を治したとされます。
ただこの治療は祈祷ではなく、解熱鎮痛剤であるアスピリンを投与する事だったと推測されています。アスピリンは1899年以降流通し始めましたが、当時はロシアの貴族の間には馴染みの薄いものでした。当時の貴族達は神秘主義に傾倒しており、ラスプーチンの治療を「奇跡」と判断したものと思われます。
ラスプーチンは熱心な祈祷僧でありつつ、当時最先端の医学の知識を持っていた事がわかります。
凄まじい程の好色家だった?
宮中に出入りし始めたラスプーチンは、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めました。その中で生まれたのが「ラスプーチンが子女達をはべらかして酒池肉林のような生活を送っている」という噂です。
一説ではラスプーチンの男根は30cmもあったとされ、子女達がラスプーチンを支持したのは人徳や信仰心なのではなく、巨根と絶大な精力によるものだったとされます。
この噂が事実とされるのは、秘密警察の職員による調査報告書です。彼らはラスプーチンの宮廷での生活を「醜態の限りをきわめた、淫乱な生活」と報告しています。この報告は新聞で大々的に取り上げられ、「ラスプーチンは好色家」という噂が加熱しました。
ただ近年では、この噂は「ラスプーチンをとぼしめる為に意図的に出されたもの」という節が濃厚です。当時は貴族達の間で反ラスプーチン陣営が構築されており、彼らはラスプーチンのスキャンダル探しに明け暮れていました。
これらのイメージはほぼ脚色と考えて間違いありませんが、いまだにラスプーチン=好色家というイメージは根強く残っています。ロシアには「ラスプーチン」の名を冠したストリップ・クラブが存在します。
ラスプーチンの性格
怪僧と呼ばれるラスプーチンですが、噂で語られる姿と実像には大きな隔たりがあります。この項目ではラスプーチンの知られざる性格について解説します。
信仰心が厚く金銭には無頓着だった
ラスプーチンはあくまで祈祷僧であり、権力や地位に固執する事はありませんでした。彼は十分な教育を受けておらず、聖書も独自の解釈を持っていましたが、その熱心な姿が支持者から良い印象を与えていたようです。
またラスプーチンは金銭にも無頓着であり、金銭を受け取ってもすぐに誰かに譲っていました。街頭の托鉢や劇場でも気前よく大金を払う為、無私の男という評判を得ていたようです。こうした信仰心の厚さや、気前の良さが宮中子女達から支持を集めていたのかもしれません。
実は慎重な一面も
豪快なイメージのあるラスプーチンですが、実は慎重な一面もありました。それは1914年6月29日にキオーニャ・グセヴァに暗殺されかけた後の事です。暗殺未遂事件以降、ラスプーチンは暗殺を恐れるようになり、ストレスから胃酸過多に苦しむようになります。また苦しみから逃れる為、砂糖を飲んで難を凌ぎました。
更に暗殺される数日前には、「年内に自分が死んでしまう」と述べており、ほとんど外出はしなくなります。また自分の預金を娘の口座に移しており、死ぬ前の準備をしていました。結果的にラスプーチンは暗殺されてしまいますが、既に己の死期を悟っていたのです。
ラスプーチンは何した人?功績について
ラスプーチンはロシア帝国の崩壊を招いた人物として、現在に至るまでロシアにおける評価は低いです。ただそれは「胡散臭い存在ゆえに研究が進んでいない」という側面もあります。この項目ではラスプーチンがロシア史に与えた影響や、功績について解説します。
農民の身分でありながら皇帝から信頼を勝ち得る
ラスプーチンの凄い点は、身分制度の厳格なロシア帝国にもかかわらず、ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の信頼を勝ち得た点です。ラスプーチンはアスピリンの力でアレクセイ皇太子の発作を治しましたが、農民の生まれである事もまた事実。
ラスプーチンがここまでニコライ2世達から信頼を勝ち得たのは、ロマノフ王朝の安寧を願っていた姿勢があったからです。ラスプーチンを「国家転覆を画策する犯罪者」と考える人もいますが、彼自身はニコライ2世達の相談相手のような存在でした。悩める人達の心理状況を的確に理解し、的確なアドバイスや寄り添った励ましで勇気づける。ラスプーチンは心理カウンセラーの先駆けのような存在だったのかもしれません。
様々な創作物に登場する
その特異なキャラクター性と最期から、ラスプーチンは様々な創作物に登場するようになりました。創作におけるラスプーチン像が定まるのは、1932年にアメリカで放映された「怪僧ラスプーチン」であり、これ以降ラスプーチンは悪役というイメージが確立。2004年に放映された『ヘルボーイ』では、現在に甦り世界の破滅を目論むなど、100年近くが経過してもその存在感は健在です。
日本でもラスプーチンが登場する作品は多々あります。小説では山田風太郎の『ラスプーチンが来た』、皆川博子の『冬の旅人』、池田理代子の『オルフェウスの窓』などが有名です。この他にも、劇場アニメ名探偵コナン『世紀末の魔術師』ではラスプーチンの子孫が犯人として登場します。ラスプーチンはこれからも様々な創作物に登場し、メディアを盛り上げてくれる事でしょう。
ラスプーチンの名言
「戦争を避けるためならば、どんな努力も惜しみません」
ニコライ2世は第一次世界大戦への参戦を決断しますが、ラスプーチンはそれに反対しました。またラスプーチンは電報で「戦争が始まれば、ロマノフ家とロシアの君主制は崩壊する」と述べており、それは数年後に真実となります。ラスプーチンがただの怪しい祈祷僧なのではなく、ロマノフ王朝の行く末を憂う人物だった事がこの名言からもわかるでしょう。
「もし私を殺す者の中に陛下のご一族がおられれば、陛下とご家族は悲惨な最期を遂げる事となりましょう」
ラスプーチンは自らが暗殺される予兆を感じており、暗殺の前にニコライ2世にこのように述べたとされます。ラスプーチンを殺害したのはニコライ2世の姪の夫であり、ニコライ2世(陛下)の一族でした。ニコライ2世達が後に暗殺された事を考えるなら、ラスプーチンの予想は当たったと言えるでしょう。
ラスプーチンの子孫
さて怪僧と呼ばれたラスプーチンですが、子孫は現在も健在なのか、気になる人もいるかもしれません。この項目ではラスプーチンの子孫について解説します。
ラスプーチンの家族のその後
ラスプーチンはプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナという人物と結婚し、7人の子供に恵まれました。ただ当時は医療も虚弱な時代であり、成人を迎えたのは娘のマトリョーナ、ヴァルヴァーラ、息子のドミトリーの3人だけです。
元々ラスプーチンの妻・プラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと3人の子供達はラスプーチンの故郷の村で暮らしていました。ただラスプーチンが宮廷で影響力を持ち始めた1913年頃に、ドゥブロヴィナとマトリョーナ、そしてヴァルヴァーラの3人はサンクトペテルブルクに移り住みました。ただ家族が移住してからわずか3年後にラスプーチンは暗殺されており、家族の生活は一変しました。
家族はサンストペテルブルクから追われ、妻のドゥブロヴィナと息子のドリトミー、そしてヴァルヴァーラはラスプーチンの住む村に移り住みます。ただ家族は1920年代に選挙権を剥奪され、1930年代に逮捕された末に北方に流刑となりました。ドゥブロヴィナとドリトミーは流刑地で亡くなり、ヴァルヴァーラは1920年代に赤痢で亡くなっています。唯一生き残ったのは、長女のマトリョーナでした。
マトリョーナの数奇な運命
長女のマトリョーナは1917年に軍人のボリス・ソロヴィヨフと結婚していますが、1920年にパリへ亡命。生活は困窮の一途を辿り、ボリス・ソロヴィヨフは様々な仕事をしますが、1926年7月に結核で死去。マトリョーナは2人の娘を抱えつつ、ロンドンやアメリカで生活します。
1935年にはアメリカのサーカス団で働きますが、これは興行主が「世界を驚愕させたロシアの怪僧の娘」と宣伝する為。彼女は猛獣のいる檻に入れられる日々を送り、5月に熊に襲われ負傷。その後はサーカスを退団し、ロシア語の教師やベビーシッターとして働きますが、1977年9月27日に79歳で死去します。彼女はラスプーチンの娘として回顧録を執筆しており、それは後世のラスプーチン像に大きな影響を与えています。
ラスプーチンの子孫は現在も現在
ラスプーチンの子孫は現在でも存命です。マトリョーナの間には、タチアナ・ソロヴィエヴナとマリア・ソロヴィエヴナいう2人の娘が生まれました。タチアナの娘であるロランス・ユオ=ソロヴィエフは現在アメリカに在住しています。彼女は現在3人の孫もおり、孫達はラスプーチンの昆孫にあたります。
ロランスの家では、ラスプーチンの事を話す事はタブーとされ、友人達に自らの血筋を話す事はなかったようです。ただロランスは「曾祖父の生涯について正しい情報を広めることが自分の役目」と述べ、ラスプーチンの子孫である事を公言するようになりました。
ラスプーチンが神格化されていたのはもはや過去の話。等身大のラスプーチンの実像を再評価する流れが来ているのかもしれません。
ラスプーチンのゆかりの地
ラスプーチン博物館
ラスプーチン博物館が存在するのは、ラスプーチンの生まれ育ったチュメニ州ポクロフスコエ村です。現在はラスプーチンの生家は残されていませんが、跡地の向い側にラスプーチン博物館が建てられています。ラスプーチン博物館が建てられたのは1991年の事であり、ロシア初の私立博物館です。
この博物館を建てたのはウラジーミル・スミルノフとマリーナ・スミルノワ夫婦。2人は1970年代からラスプーチンの書類、手紙、写真などを集めており、それを展示する為に博物館を建てました。この場所には、座ると出世すると言われているラスプーチンの椅子も展示されており、興味がある人は訪れてみましょう。
モイカ宮殿
モイカ宮殿は、ロシアのサンストペテルブルクにあるユスポフ家の居城です。1916年12月17日ラスプーチンはフェリックス・ユスポフ公爵に呼び出され、モイカ宮殿で暗殺されます。やがてロシア革命が勃発してソビエト連邦が権力を持つと、貴族の財産は没収。モイカ宮殿は公共の公共の博物館として保存されます。
ラスプーチンが暗殺から逃れようとした中庭は、現在では隣接する幼稚園の遊び場になっています。
住所:набережная реки Мойки, 94, Sankt-Peterburg,
ラスプーチンの関連人物
ニコライ2世
ニコライ2世は、ロマノフ朝の第14代にして最後のロシア皇帝です。日露戦争や第一次世界大戦を指揮しましたが、内政の混乱を招き、ロシア革命を経て1918年7月17日未明に暗殺されました。革命勢力の弾圧をおこなった点、ロシア革命を招いた点から、歴史的な評価は低いです。
ニコライ2世はラスプーチンを重用した人物としても知られています。ニコライ2世がラスプーチンを宮廷に呼んだのは1905年11月の事。アレクセイ皇太子の血友病の発作を改善させた事で、ニコライ2世はラスプーチンを信用し、たびたび宮廷に呼び寄せるようになります。ラスプーチンは2人から「我らの友」と呼ばれるに至り、政治にも口を挟むようになりました。
ラスプーチン亡き後、1917年1月には民衆の放棄が始まり、ロシア帝国の崩壊は加速。3月15日には退位させられ、ロマノフ朝によるロシア帝国の支配は幕を閉じています。ラスプーチンと関わりを持たずとも、ロシアの崩壊とロマノフ王朝の崩壊は避けられる事は出来なかったでしょう。優柔不断な人物だったとされますが、彼もまた歴史に翻弄された1人です。
アレクサンドラ皇后
アレクサンドラ皇后はニコライ2世の妃です。彼女もまたラスプーチンの信者の1人でした。彼女がラスプーチンに心酔したのは、ラスプーチンが息子のアレクセイ皇太子の血友病の発作を改善させた事に起因します。どちらかといえばラスプーチンに心酔していたのは、ニコライ2世ではなくアレクサンドラ皇后であり、それは神格化に近いものだったと言われます。
アレクサンドラ皇后は、第一次世界大戦を経てニコライ2世が戦地へ赴くと、ラスプーチンの意見を聞きながら内政を掌握。宮中におけるラスプーチンの影響力は更に高まり、ラスプーチンに対する批判も増えました。
アレクサンドラ皇后とラスプーチンの間に「男女関係があった」という噂はほとんど聞かれません(ないわけではありませんが)。皇后がラスプーチンを神格化したのは、あくまでアレクセイ皇太子の事を思っての事でした。
アレクサンドラ皇后はイギリス女王ヴィクトリアの孫娘であり、血友病の遺伝子の保因者でした。特に彼女の血友病の型は最も重い部類のB型。この病に罹患した各国の王族の男子は若くして亡くなるケースが多く、若きアレクセイ皇太子もわずかな傷で生死を彷徨う事も多かったようです。そんな皇太子の発作や痛みをラスプーチンが治療で改善させた事は事実であり、アレクサンドラ皇后がラスプーチンに心酔したのも無理はないのかもしれません。
そんなアレクサンドラ皇后も、ラスプーチンのおかげで生き延びる事のできたアレクセイ皇太子も、ニコライ2世と共に1918年7月17日未明に暗殺されています。
ラスプーチンとプーチンの違い
現在のウクライナ情勢に大きな影響を与えているのが、ロシアの2.4代目大統領であるウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンです。彼とラスプーチンは苗字が似ている為、子孫なのかと考える人もいます。この項目ではラスプーチンとプーチンの違いについて解説します。
ラスプーチンとプーチンに血縁関係はない
結論からいえばラスプーチンとプーチン大統領に血縁関係はありません。ラスプーチンの「ラス」という部分に特に意味はなく、ラスプーチンという単語で一つの苗字になります。ロシアでは「ラスプーチン」という苗字を持つ者は多く、むしろ「プーチン」という苗字の方が珍しいとされています。
ただラスプーチンの存在があまりに大きくなり、ロシア革命以降は「ラスプーチン」の苗字を持つ者は改名する者が続出しました。かのプーチン大統領の先祖もまた改名した1人という説があります。ちなみにプーチン大統領の祖父スピリドン・プーチンは、ラスプーチンが牽制を誇った頃のサンストペテルブルクで料理人をしており、晩年にはレーニン、スターリンの料理人をしていました。
なお、某トンデモ系の本でプーチンがラスプーチンの子孫であると解説したものもありますが、それは間違いとなります。
ラスプーチンの関連作品
現在に至るまで様々な創作物に登場するラスプーチン。最後にラスプーチンが登場する書籍や映画などをいくつか紹介します。これらの作品を観ればラスプーチンへの興味が更に沸くかもしれません。
おすすめ書籍・本・漫画
ラスプーチンが来た
日露戦争の影の立役者である明石源二郎を主人公にしたフィクション小説。ニコライ2世が襲撃された大津事件の黒幕が実ラスプーチンであり、彼の暗躍を明石源二郎が暴くという内容になっています。フィクションといえばフィクションですが、森鴎外や乃木希典、更には二葉亭四迷などの歴史上の人物も登場するので、興味のある人は一読をお勧めします。
名画で読み解く ロマノフ家 12の物語
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怪僧ラスプーチン Boney M.
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劇場版名探偵コナン 世紀末の魔術師
1999年に放映された名探偵コナンの劇場版。ロマノフ王朝の遺産である「メモリーズ・エッグ」を怪盗キッドが盗み出すというストーリー。物語の舞台は1999年(世紀末)ですが、ニコライ2世やラスプーチン、マリア・ニコラエヴナ・ロマノヴァなどの歴史上の人物も物語のキーパーソンになっています。ロシア革命前夜のロシア帝国の知識があると、本作の面白さは倍増する事でしょう。
ルパン三世 ロシアより愛をこめて
1992年に放送されたTVスペシャルシリーズ。本作の敵役は世界的な宗教団体の教祖であるラスプートン。彼はラスプーチンの隠し子であり、テレパシーによる読心術の能力を持っています。超能力に対応するルパンの頭の良さに脱帽する作品です。
ラスプーチンについてのまとめ
今回はラスプーチンの生涯を死因や伝説なども踏まえて解説しました。ロシア帝国崩壊を招いた張本人として、ラスプーチンの評価は現在に至るまで評価は低いです。
ただ好色家としての一面は反ラスプーチン派が彼をとぼしめる為に広めた噂の可能性が高く、ラスプーチン自身はロマノフ王朝の安寧を願い、信仰心の厚い人物だった事が伺えます。ラスプーチンの研究はまだ進んでおらず、いずれはラスプーチンの再評価も進む可能性もあります。今回の記事を通じてラスプーチンや末期の帝国ロシアの動向に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/グリゴリー・ラスプーチン