木戸孝允(桂小五郎)とはどんな人物?生涯・名言・偉業も解説

木戸孝允は幕末の長州藩の指導者です。幕末の頃は桂小五郎と言う名前でしたが、明治になり木戸孝允と名を変えます。

明治維新に大きな影響を与えた人物であり、大久保利通、西郷隆盛と並び、維新三傑と呼ばれています。今回は木戸孝允(桂小五郎)の生涯、名言、偉業について解説していきます。

木戸孝允(桂小五郎)とは?


(木戸孝允(明治維新後)出典 Wikipedia)

木戸孝允は長州藩のリーダーとして倒幕を主導した人物です。明治政府樹立後は五箇条の御誓文・版籍奉還・廃藩置県などの様々な重要な仕事を任されます。将来を期待された人物でしたが、病気の為45歳でこの世を去りました。

出身地


(長州藩萩城 天守台〔左端〕と指月山 出典 Wikipedia)

長門国萩城下呉服町(現在の山口県萩市)の生まれです。

生没年月日

生年月日は天保4年6月26日(1833年8月11日)。天保の大飢饉が始まった頃ですね。
没年月日は明治10年(1877年)5月26日。西南戦争の最中に亡くなっています。

職業・身分

7歳で桂家の養子となり、武士の身分と禄を得ます。江戸時代の職業は武士です。

明治には総裁局顧問専任に任命され、庶政全般の実質的な最終決定責任者となります。その他参議や参与と言った、現在の議員のようなポストに就きます。

性格


(桂小五郎像 出典 Wikipedia)

生真面目な性格であり、誰かに住所を訪ねた時は必ず書き留めたようです。誰に対しても親切であり、誰かが家に訪ねてきた時には豪華な料理を提供しています。長州藩内や明治政府内では調整役に回る立場でした。精神的負担から明治政府樹立後は鬱傾向にあったようです。

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木戸孝允(桂小五郎)の生涯と人生年表

長州~江戸への留学の時期


(吉田松陰像 出典 Wikipedia)

天保4年(1833年) 誕生
天保11年(1840年) 桂家の養子になる
嘉永元年(1848年) 次姉 実母死去
嘉永2年(1849年) 吉田松陰に学ぶ
嘉永5年(1852年) 剣術修行で江戸へ
嘉永7年(1854年) ペリー率いる黒船を視察

桂家の末期養子になる

孝允は長州藩医 和田昌景の長男として生まれます。和田家は毛利元就の血を引く一族です。孝允は生まれつき、身体が弱く、長くは生きれないと考えた昌景は、孝允を桂家の末期養子に出します。翌年には桂家の養父母は亡くなったので、孝允はそのまま和田家で暮らします。この頃は桂小五郎と名乗っています。

その後次姉や実母の死等を乗り越え、1849年には吉田松陰から学びを受けます。当時は松下村塾ではなく、山鹿流兵学を教えていました。松陰に「事をなすの才あり」と評され、師弟、そして親友となります。

剣士として開花する

神道無念流の斎藤新太郎に剣術の才能を見出され、江戸に行きます。長州での孝允は剣術はそこそこのレベルでしたが、江戸で1年で免許皆伝で新道無念流の塾長になります。剣の強さは近藤勇が「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と言った(らしい)ので、相当の腕前だったようです。

江戸にいる間にペリーが来航し、大いに刺激を受けます。江戸では塾長を務めつつ、西洋兵学・小銃術・砲台築造術、砲術、英語等の最先端の技術を学んでいきます。

幕末期


(桂小五郎・幾松寓居跡(京都市)出典 Wikipedia)

文久2年(1862年) 長州で頭角を現し始める
元治元年(1864年) 池田屋事件
慶応2年(1866年) 薩長同盟
慶応4年(1868年) 維新後様々な要職に就く

1862年には長州藩でも頭角を現します。翌年には藩命により江戸から京都に上ります。一時期は京都に多大なる影響を持っていた長州藩ですが、八月十八日の政変で京都から追放。続く池田屋事件でも間一髪で難を逃れています。

事件後は京都や但馬に潜伏。後に長州に戻り、1866年には薩長同盟を結びます。孝允は長州藩の代表として、薩摩代表の西郷隆盛、大久保利通らと会談を重ねます。翌年の第二次征長戦にて幕府軍を退け、大政奉還を経て後、長州藩の復権に成功します。薩長主導による武力倒幕を成し遂げ、新政府を樹立します。

明治期


(岩倉使節団 一番左が木戸孝允 出典 Wikipedia)

明治2年(1871年) 岩倉使節団随行
明治7年(1874年) 参議辞職
明治8年(1875年) 大阪会議にて復職
明治10年(1877年) 死去

責任者としての苦悩

明治維新後は総裁局顧問専任となり、庶政全般の実質的な最終決定責任者となります。

1871年には岩倉使節団に随行し、欧米の発展に驚愕。内治優先の必要性を痛切に感じるようになります。1873年に起こった征韓論には大久保ら使節団と共に反対の立場をとります。

孝允は他国の武力による制圧は常に反対の立場であり、1874年に起こる台湾出兵に対して抗議の意味で政界から去ります。

1875年には大久保らが孝允の政界への復帰を望み、大阪会議を開催。孝允は立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立を条件として参議復帰を受け入れます。

このように孝允は常に日本を列強に負けない国にするよう、主に内治への近代化を図っていたのです。

木戸孝允(桂小五郎)の最期・死因


(鹿児島暴徒出陣図 月岡芳年画 出典 Wikipedia)

1877年2月西郷隆盛による西南戦争が勃発。孝允は京都に向かいますが、兼ねてから重症化していた病気が悪化。5月には京都の別邸で朦朧状態となります。最期に大久保の手を握り締め、「西郷もいいかげんにしないか」と明治政府と西郷の両方を案じて亡くなりました。

孝允の死因

正確には分かっていません。孝允の持病は急激に進んだのではなく、明治元年には1カ月もの間、腹痛を訴えたり、翌年には激しい下痢の症状がみられています。この頃から何かしらの病気はありました。

1873年には落馬により頭を打ち、強い頭痛が続いています。その後左足が麻痺しており、脳にも影響が出ていたようです。

歯痛もあり38歳までに9本の歯を抜いています。

公式には胃がんと言われていますが、酒好きが由来の肝臓肥大の可能性もあります。他には幕末期の遊郭の出入りによる梅毒説も。いずれにせよ胃がんでは頭痛や麻痺の説明が出来ません。

幕末から西南戦争まで、常に天皇や周囲からの期待も大きく、政府の様々な課題もあり、精神的に疲弊していたと言われます。

木戸孝允(桂小五郎)の人物エピソード

大酒飲みの孝允


(木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)ら。明治3年(1870年)撮影。 出典 Wikipedia)

孝允は1868年4月1日~明治10年5月6日の期間の出来事を『木戸孝允日記』として残しています。歴史上の重要な出来事も書かれていますが、割とプライベートな事も書かれています。

1868年9月18日には、天皇陛下から酒を振舞われた為、山内容堂と共に数十杯も空けた挙句、皇居で深夜2時まで眠りこけてしまったと書かれています。当時は大村益次郎や、坂本龍馬等、暗殺された志士もいたので、よく無事だったなと思います。結局深夜3時に帰宅した翌日は「曇、宿酔。不能出勤。」との事で仕事を休んでいます。

この反省を特に生かしていなかった孝允は
翌年の1月14日
今日十余年前の旧友、上田人岩崎直之進、松代人斎藤新蔵と川長楼に会し、語奮て快飲す。
1月15日
晴天、今朝宿酔のために枕を離るることかたし。

とまた二日酔いで仕事を休んでいます。

同じようなエピソードは1870年と1873年3月にも記されています。特に1874年5月には台湾出兵で孝允が激怒した時期であり、政府も大変な状態だったはずですが。ちなみにこの時にみ明かしていたのは榎本武明です。

真面目な人だった孝允ですが、こういった一面があると、人間らしさがあって良いですね。

なぜ桂小五郎は木戸孝允に改名したのか?


(毛利敬親 出典 Wikipedia)

実は孝允は10回程改名をしています。その多くは幕末期に幕府の指名手配から逃れるためでした。

孝允が木戸性を名乗ったのは1866年の第二次長州征伐前に藩主の毛利敬親から賜った為です。桂小五郎は池田屋事件後は指名手配犯となっており、そんな人物を藩の要職につけているのは危険と長州藩は判断。桂小五郎は行方不明となり、あくまで他人であると対応する為でした。

しばらく木戸貫治を名乗りますが、明治維新時に孝允を名乗ります。孝允は小五郎の諱(忌み名)であり、他人には知られないようにしている本名でした。江戸時代の人は諱を持っており、日常では通称を使うのが普通でした。

明治に入り、諱と通称を併称することが公式に廃止された為、江戸時代の人全員は諱と通称のどちらを名乗るか決める必要が出てきます。孝允は諱の方を選んだのですね。

木戸孝允(桂小五郎)の功績と偉業


(五箇条の御誓文の原本 出典 Wikipedia)

孝允の最大の功績は薩長同盟でしょう。薩摩と長州は公武合体派と尊王攘夷派と言った考えの違いや、禁門の変で戦った経緯があり、犬猿の仲でした。坂本龍馬の仲介の元で、孝允は薩摩と同盟を結びます。これがきっかけで江戸幕府を倒すと共に明治維新後の薩長の立場を大きく前進させる事が出来ました。

他にも第2次長州征伐や戊辰戦争でも、高杉晋作や大村益次郎達と幕府軍を打ち破る等、戦略面で功績があります。

明治維新後は五箇条のご誓文による明治政府の基本方針を決定づけ、版籍奉還や廃藩置県等の抜本的な改革を行います。

孝允の生きている内は果たせませんでしたが、憲法の制定や三権分立、二院制の確立の要望等、現代的かつ、開明的な提言を行っています。日本が短期間で欧米列強の仲間入りをしたのも、孝允の功績ですね。

木戸孝允(桂小五郎)の名言

事をなすのは、その人間の弁舌や才智ではない。人間の魅力なのだ
何かを達成するには、その人の口のうまさや才能ではなく、人間的魅力が大事である。
幕末期、明治期と多くの人が孝允に着いていったのも彼に魅力があったからでしょう。

大道行くべし、又何ぞ防げん。
自分の信じた道を進む事で、道を防ぐものは何もない。
倒幕を果たすという信念を持ち、進んだからこそ言える言葉です。後に逃げの小五郎と彼は言われますが、闇雲に進むのでなく、時には待つ事も立派に道を進んでいると言えます。

木戸孝允(桂小五郎)にゆかりの地


(木戸孝允の墓 出典 Wikipedia)

京都市東山区の京都霊山護国神社にあります。維新の三傑と言う事もあり、墓地の中で最も高い所にあります。隣には幾松のお墓もあります。

旧宅(資料館)

萩市呉服町に孝允の旧宅があります。厳密に言うと父の和田昌景の家です。養子に出た後も、生まれてから江戸に出るまでの20年をここで過ごしました。萩循環バス「萩美術館浦上記念館・萩城城下町入口」バス停より徒歩4分です。

旧宅は資料館にもなっており、幼少時代の手習いの書を表装した掛け軸、写真等も展示されています。常駐のガイドがおり、木戸孝允について詳しく教えてもらえます。

木戸孝允(桂小五郎)の妻や、子ども、子孫について

妻 幾松


(木戸松子(幾松) 出典 Wikipedia)

1843年 福井小浜で誕生。8〜9歳の頃に京都に出て、難波常二郎の養女になります。売れっ子の芸者になり、常二郎の妻だった芸妓「幾松」の後を継いで2代目幾松となります。幾松という名前が有名ですが、本名ではありません。
1861~1862年頃に孝允と出会います。幾松は孝允を献身的に支えます。池田屋事件で追われ、ぼろを着て橋の下に潜んでいた時もありましたが、幾松は食事を運んでいたようです。
明治維新を迎え2人は結婚する事になりますが、周囲は芸者と言う幾松の身分に反対。幾松を長州藩士・岡部富太郎の養女とすることで、晴れて結婚となりました。その時に名前を木戸幾松と変えます。
1877年に孝允が亡くなると、幾松は剃髪して京都へ引っ越しています。その後1886年に胃の病気で44歳で亡くなっています。

妻? 八重子

池田屋事件で孝允を逃した幾松は拷問にも耐え、釈放されます。幾松は孝允のいる但馬国まで向かいますが、そこで孝允は八重子と結婚していました。この時の八重子の年齢は13歳(孝允は31歳)。修羅場になるかと思いきや、幾松は八重子も連れて長州に戻る事を提案しています。しかし八重子が身を引き、孝允と幾松は長州に戻るのでした。

妻 富子

孝允は26歳の頃に富子と言う17歳の娘と結婚します。結婚後は和田家(孝允の実家)で暮らします。和田家は昌景、姉夫婦、妹夫婦が同居しつつ、姉夫婦の息子が孝允の養子になっていました。富子は舅、小姑(孝允の姉妹)、血の繋がってない息子と暮らす事になりました。富子は環境に耐えられず数ヶ月で離婚しています。

子ども 好子 1869-1887

実子は好子と言う娘がいるだけです(誰の子かも不明です。好子は孝正(孝允の養子で妹夫婦の子)と結婚しますが子どもはおらず、孝允の直系は絶えています。

養子 忠太郎 1871-1959

幾松の妹・信の実子。地質学者であり、達磨のコレクターでした。数万にもなる達磨は木戸孝允旧宅の隣の達磨堂に展示されています。1959年に88歳の長寿で亡くなります。この方は幾松の血筋を引く人なので、厳密には孝允の子孫ではないですね。

養子 正二郎 1861-1884

孝允の妹治子夫婦の次男です。イギリス・ドイツ・アメリカ等に留学しますが、再留学先のドイツから帰国する船中で病死します。

養子 孝正 1857-1917


(木戸 孝正 出典 Wikipedia)

孝允の妹治子夫婦の長男です。正二郎が亡くなった為、急遽養子になります(妹夫婦の血筋は断絶)。孝允の実の娘の好子と結婚しますが、好子は1887年に19歳で死去。後に再婚し二男二女をもうけます。彼も様々な要職に就いています。

孝正の長男は木戸幸一と言い、戦時中の内大臣です。東條英機を総理大臣に推挙したのも彼です。戦後A級戦犯となり、終身刑の判決を受けますが後に出所します。

(木戸 幸一 出典 Wikipedia)

彼の孫の木戸寛孝さんがNPO法人 世界連邦21世紀フォーラム理事長等、様々な場面で活躍しているようです。

木戸孝允(桂小五郎)を題材にした作品


(司馬遼太郎 出典 Wikipedia)

漫画

石渡治により HAPPY MAN 爆裂怒濤の桂小五郎 という漫画があります。こちらは江戸で剣術にあけくれる桂小五郎時代を描いた作品です。ちなみに吉田松陰が女性として描かれています。

主役ではありませんが、銀魂では桂小太郎というキャラクターがモデルになっています。るろうに剣心では過去編にて剣心の上役として登場。OVAでは幾松も登場しています。

ドラマ 映画

木戸孝允は意外と大河ドラマや映画の主役にはなっていません。彼は個性豊かな幕末の人材をまとめ上げた常識人でしたので、主役には添えにくいのかもしれません。近年では西郷どん(2018年)では玉山鉄二さん、花燃ゆ(2015年)では東山紀之さんが演じており、いずれもイケメン俳優の起用ですね。

小説

多くの幕末志士を題材にした司馬遼太郎ですが、孝允を主役にした長編は執筆しておらず、幕末 と言う短編集の中で逃げの小五郎 を載せています。

最近の長編では小説 木戸孝允 愛と憂国の生涯 が上下巻で発売されています。明治から150年を経た2018年に発売されています。医師作家の中尾實信氏が執筆しており、従来の司馬遼太郎観とは違った視点で描かれています。

書籍

孝允について書かれた本は沢山あります。詳しく知りたいなら松尾正人氏の木戸孝允(幕末維新の個性8)、要約して知りたいなら一坂太郎氏の木戸孝允-勤皇の志士の本音と建て前 と言った本が分かりやすくおススメです。

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参考文献

https://historivia.com/kido-takayoshi/1315/
http://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100002
http://rekishi-yomoyama.hatenadiary.jp/entry/2018/03/24/212316
https://fullspec.club/entertainment/jidaigeki/ishinsanketsucast2/
https://rinto.life/109060/4
『木戸孝允日記』

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