ジョン・レノンはビートルズのギターボーカルを務めた人物です。ジョン・レノンはビートルズのリーダーを務めた他、同メンバーのポール・マッカートニーと数々のヒット曲を作曲し、音楽文化に多大なる影響を与えました。
ビートルズは1970年に事実上解散するものの、ジョン・レノンはその後も精力的に音楽活動を展開します。しかし、1980年にマーク・チャップマンという人物に殺害され、わずか40年でその生涯を終えました。
ジョン・レノンが偉大な音楽家である事は皆さんもご存知かと思いますが、その生涯や人物像については知らない事も多いのではないでしょうか。ジョン・レノンは音楽家としてだけでなく、平和活動家として活躍する等、さまざまな肩書きを持つ人物でもあります。
今回はジョン・レノンの生涯や死因、名曲や名言などについて、分かりやすく解説していきますね。
目次
ジョン・レノンとは?
ジョン・レノンは1940年にイギリスのリヴァプールで誕生。15歳の頃に音楽に目覚め、17歳の頃から作曲やバンド活動にのめり込んでいきました。1960年にビートルズが結成され、1962年10月5日にレコードデビューを果たします。
ビートルズは母国のイギリスで12作ものオリジナルアルバムを発表し、11作が全英アルバムチャートで週間第1位を獲得。2枚のアルバムが1年にわたり、チャートで1位を独占し続ける等、多くの伝説を生み出しました。ジョン・レノンはビートルズにおいて、数々の名曲を作曲し、ビートルズの中心人物として活躍します。
やがてビートルズは1970年にポール・マッカートニーが脱退し、事実上解散します。ジョン・レノンはソロ活動に専念して「イマジン」などのアルバムを制作するものの、育児に専念する為1975年に活動を休止。1980年に活動を本格化するものの、同月の12月8日に殺害され、わずか40年の生涯を終えたのでした。
氏名 | ジョン・レノン |
---|---|
出生日 | 1940年10月9日 |
出生地 | イングランド マージーサイドリヴァプール |
死没日 | 1980年12月8日 |
死没地(亡くなった場所) | アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク |
血液型 | O型 |
職業 | 音楽家 |
身長 | 179cm |
体重 | 63kg〜72kg |
配偶者 | シンシア・パウエル、オノ・ヨーコ |
座右の銘 | 人生とは、人生以外のことを夢中で考えているときにあるんだよ |
ジョン・レノンの人生年表・生涯
ジョン・レノンの人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
1940年 | 誕生 |
1952年 | クオリー・バンク校に入学 |
1956年 | ギターの練習を始め、翌年に作曲を開始 |
1957年 | 級友達とクオリーメンというバンドを結成 |
1962年 | ビートルズとしてメジャーデビュー |
1966年 | キリスト発言 |
1970年 | ビートルズが事実上の解散 |
1975年 | 育児に専念する為、音楽活動を休止 |
1980年 | 活動を再開するものの、同年に殺害される |
少年時代にギターに目覚める
ジョン・レノンは1940年10月9日にイギリスのリヴァプールで誕生します。父は商船の乗組員で家を空ける事が多く、母親は別の男性と愛人関係にあった為、ジョン・レノンは母方の伯母の家で育てられました。
やがてジョン・レノンは1952年9月に、グラマー・スクールであるクオリー・バンク校に入学。やがて1956年にエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールに強い衝撃を受けています。初めてギターを購入し、1957年に「ハロー・リトル・ガール」という曲を作りました。
同年3月にジョン・レノンは、級友達と級友達とスキッフルバンド「クオリーメン」を結成。メンバーは固定されなかったものの、7月のコンサートでポール・マッカートニーを紹介されます。ジョン・レノンの才能に強い感銘を受けたポール・マッカートニーは10月にクオリーメンに加入。更に1958年にはジョージ・ハリスンもギターとして加入しました。
ビートルズの結成と解散
やがてジョン・レノンは1958年9月に、美術専門学校であるリヴァプール・カレッジ・オブ・アートに入学。この頃からクオリーメンは西ドイツでも演奏をする等、頭角を現していきました。1961年4月にベーシストのスチュアート・サトクリフが脱退すると、ジョン・レノンはポール・マッカートニーにベースに転向する事を打診しています。
1961年12月にクオリーメンは、レコード店経営者のブライアン・エプスタインとマネージメント契約を開始。この時の売り込みが功を奏し、1962年6月から、パーロフォンとレコーディング契約を結ぶ事になりました。
しかし、この時にドラマーであるピート・ベストは技術力や協調性からパーロフォンから不合格の扱いを受けていた為、ジョン・レノン達は8月にピート・ベストを解雇。新たにリンゴ・スターを迎えます。やがてベストメンバーとなったクオリーメンは、10月5日、「ビートルズ」としてレコード・デビューを果たすのです。
デビュー当日に「Love Me Do」というレコードシングルをリリース。ビートルズの知名度は飛躍的に上がり、翌年にはテレビ出演や全英ツアーも行われました。1963年1月にリリースされた「Please, please, me」はヒット・チャートで1位となり、5月にリリースしたアルバムである「Please, please, me」も1位を記録。12月にリリースしたアルバム「I Want To Hold Your Hand」は世界中で1200万枚も売り上げています。
ビートルズは1964年にアメリカに進出し、アメリカでも一大センセーショナルを巻き起こし、若者音楽に多大なる影響を与えていきます。一方で多忙な日々が続く中で、ジョン・レノンの疲労や精神的疲労は高まり続け、麻薬に手を染めていく事になりました。
1966年にはビートルズはライブ活動を休止し、レコーディングのみの活動に専念する事を決定。マネージャーのブライアン・エプスタインはビートルズの今後の方針に悩み、1967年3月にアスピリンの過剰摂取で死去しています。
彼の死に伴い、ビートルズのメンバー内の関係性は悪化。新たな音楽のあり方の開拓を目指すジョン・レノンと、ライブを続けたいと考えるポール・マッカートニー。2人のすれ違いは特に顕著でした。やがて1970年5月にビートルズは、13枚目のアルバムである「Let It Be」をリリース。
その1ヶ月前にポール・マッカートニーはビートルズを脱退しており、ビートルズは事実上解散したのでした。
ソロ活動としてのジョン・レノン
ジョン・レノンは、1968年から既にソロ活動を開始していましたが、ビートルズが事実上解散してからは本格的に活動を進めていきます。1971年6月から、ジョン・レノンはアルバム「イマジン」の制作を開始。このアルバムは10月に発表され、世界中で大ヒットになりました。
この他にもジョン・レノンは、反体制活動家らと政治的活動に参加する、刑務所の慰問コンサートなどの慈善活動も展開していきます。その後も数々のヒットアルバムをリリースするものの、1975年には次男の育児に専念する為、音楽活動を一旦中止しています。1976年にはアメリカの永住権も取得しています。
育児に専念する間もレコーディング活動は続けられており、1980年に活動を再開。11月には配偶者であるオノ・ヨーコとの共作アルバム『ダブル・ファンタジー』をリリースしています。このアルバムは全世界で500万枚を超えるヒットを記録。5年以上のブランクが空いても、ジョン・レノンの人気は衰える事はありませんでした。
ところが、このアルバムのリリースから1ヶ月後に、ジョン・レノンは非業の死を迎える事になるのです。
ジョン・レノンの死因と最期
ジョン・レノンは1980年12月8日22時50分頃に、ニューヨークのダコタ・ハウスの入口で、マーク・チャップマンという人物に銃撃されて殺害されました(享年40歳)。ジョン・レノンは、オノ・ヨーコとレコーディングスタジオから帰宅する途中の事でした。
犯人のマーク・チャップマンは、「ミスター・レノン?」とジョン・レノンに近づきながら発砲。1発目は命中しなかったものの、続く2発目から5発目の銃弾はジョン・レノンの背中左側に命中しました。ジョン・レノンはダコタ・ハウスの受付の階段まで歩いたところで倒れ込み、まもなく意識を失いました。すぐに病院に運ばれるものの、23時時過ぎに死亡が確認されます。
ジョン・レノンの死は世界中に大きな悲しみを与えました。12月14日にはオノ・ヨーコの呼びかけで、世界中で黙祷が捧げられます。
犯人の動機
犯人のマーク・チャップマンは警察や救急隊が駆けつける間、逃走する様子もなくその場に留まっていました。殺害動機は「彼が狂信的なジョン・レノンだった」というものが通説ですが、陰謀的暗殺説、CIAの関与した催眠術説なども囁かれています。ジョン・レノンは反戦運動などで社会的に大きな影響力を持っていた人物であり、うとましく思っていた人がいたのも事実です。
マーク・チャップマンは「禁錮20年ないし終身の無期刑」が言い渡され、2022年現在も服役中です。
ジョン・レノンの性格と人物像エピソード
アーティストらしく気難しい性格
慈善活動や丸いサングラスやメガネのイメージから、ジョン・レノンは心優しい人物像と思うかもしれません。しかしジョン・レノンは気分屋な一面があったようです。
ジョン・レノンは作曲に必要なコード理論などはあまり詳しくなく、エンジニア達に具体的な指示を出す事はありませんでした。同じ曲を繰り返し録音する事も嫌いであり、楽器にもこだわりはなかったようです。
ところが当然の変拍子に変わったコード進行を用いるなど、ジョン・レノンにしか作れない楽曲も多々ありました。ジョン・レノンは左脳の働きが強い天才であったと言えるでしょう。
一方でジョン・レノンは楽曲を生み出す中で徐々に追い詰められていき、解散前の1969年にはヘロインを多用していたとされます。ジョン・レノンは、芸術家ゆえの苦悩や葛藤と戦っていたのかもしれません。
キリスト発言
ジョン・レノンはマスメディアにさまざまな発言をしていますが、最も議論を引き起こしたのが「キリスト発言」です。これは1966年にジョン・レノンが「僕たちはキリストより人気がある」と述べた事で、アメリカなどキリスト教圏の国々が立腹した騒動のことです。
結果的にジョン・レノンは記者会見で釈明を行い、騒ぎは沈静化します。今も昔も炎上というものがあったという事が分かりますね。
ジョン・レノンがやったこと・功績
天才音楽家と称されるジョン・レノンですが、その具体的な功績などについては知らない事も多いのではないでしょうか。この項目では、ジョン・レノンの足跡や功績について解説していきます。
音楽の発展に寄与する
ジョン・レノンが生み出した楽曲は、多くの若者に支持される事になり、ポップ・カルチャーやロック・ミュージックと呼ばれる分野に影響を与えました。特にポール・マッカートニーの明るくポジティブな作風と、ジョン・レノンの内省的な作風は相乗効果を与えたとされ、ビートルズの楽曲に多様性をもたらしたのです。
またビートルズ中期になると、メンバーはソフトドラッグ(ジョン・レノンはヘロイン)に手を出し始め、サイケデリックな楽曲を作り出します。一連の楽曲を聴き、多くの若者がロックンロールの凄さを痛感。エルトン・ジョンやデヴィッド・ボウイなど、多くの天才達もビートルズに魅力されました。
これらの楽曲に感銘を受けた事で、また新たなるアーティストが誕生していきます。こうした流れを繰り返す事で音楽は深化される事となり、現在音楽にも繋がって行くのです。つまり、ジョン・レノンの楽曲はJ-POPやロックなど、現在の音楽にも多大なる影響を与えていると言えますね。
反戦運動や慈善活動などの展開
ジョン・レノンは楽曲制作に意欲を燃やす中で、「音楽の力で世界平和を達成する事」を考えます。これはジョン・レノンが1965年から勃発したベトナム戦争に強い不満を抱いていた事や、オノ・ヨーコとの出会いが関係しています。
1969年3月にジョン・レノンはオノ・ヨーコと共に、平和を訴えるパフォーマンスとして「ベッド・イン」という会談を実施。更にイギリスがベトナム戦争を支持すると、大英帝国勲章を返上するなどして、国家に対する反抗を示しています。
ソロ活動になるとその傾向は更に著明となり、ボビー・シールら多くの反体制活動家やミュージシャンと出会い、政治的活動も展開しました。この他には、刑務所の入所者家族のための慈善コンサートや、反体制活動家ジョン・シンクレアに対する救済コンサートに出演しています。
こうした行動を続ける中で、ジョン・レノンはアメリカ連邦捜査局の監視対象となっています。それに対してジョン・レノンは、アメリカ政府の対応を痛烈に批判するなど、一才怯む事はありませんでした。ジョン・レノンの行動は賛否両論あれど、平和を愛する人たちに一定の支持を受けています。音楽家としてだけでなく、反戦運動家としてもジョン・レノンは大きな影響を与えていたのです。
ジョン・レノンの代表曲
ジョン・レノンの代表曲と言えば、イマジンが有名かもしれませんが、それ以外にも数々の名曲を残しています。そこで今回は、ジョン・レノンの代表曲をほんの少しだけ紹介していきますね。
ハロー・リトル・ガール
ジョン・レノンが初めて作曲した作品です。時期的には1957年の事であり、母がよく歌ってた古い歌をヒントにしたとされます。
初めて作ったとは思えない程のクオリティですね。
イマジン
イマジンはジョン・レノンが1971年にリリースしたアルバム「イマジン」のタイトルトラックです。ジョン・レノンを代表する一曲であり、2002年にギネスワールドレコーズが「英国史上最高のシングル曲は?」というアンケートをとった際に、堂々の2位となっています。
歌詞は、国家や宗教により生まれる対立や憎悪を否定し、人類愛や平和を勧めるもの。後年のジョン・レノンの活動にも影響を与えました。
ハッピー・クリスマス
ハッピー・クリスマスは、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの共作による作品です。リリースされたのは1971年12月の事であり、戦争終結後のクリスマスを歌ったもの。イマジンに並び、政治的なメッセージが込められた作品でした。
本作品はジョン・レノンやオノ・ヨーコの期待に反し、それほどのヒットにはなっていません。ただ1980年にジョン・レノンが殺害されてから評価が高まり、リリースから約10年を経て全英シングルチャートで2位にランクインしています。
ラヴ
ラヴは1970年に発売された『ジョンの魂』に収録された一曲です。愛の概念をシンプルに歌ったものであり、松尾芭蕉の句集にインスパイアされています。松尾芭蕉の影響もあり、日本での人気は高く、和田アキ子や西城秀樹、フジファブリックなどがカバーしています。
ウーマン
ジョン・レノンが1980年に発表した『ダブル・ファンタジー』に収録された作品です。妻のオノ・ヨーコを筆頭に、世の中の女性に対して歌った曲であり、ジョン・レノン死去後にシングルカットされました。この曲は僅か15分で曲の枠組みが完成したとされ、ジョン・レノンの卓越した才能が発揮された作品となっています。
ジョン・レノンの名言
・Life is what happens to you while you’re busy making other plans.
(人生とは、人生以外のことを夢中で考えているときにあるんだよ)
ジョン・レノンは優れた作詞家である為、数々の名言を残しています。この名言はジョン・レノンが常日頃から格言として用いていたものです。何かに夢中になっていると、人はそれ以外の事を忘れてしまいます。それは趣味であったり、家族であったり、仕事かもしれません。そうした日々の積み重ねが人生を形作っていくのです。
・Life is very short and there’s no time for fussing and fighting, my friends.
(人生は短い。だから友よ、空騒ぎしたり、争ったりする暇なんてないんだ)
人生とは限りあるもの。だからこそ、争ったり空騒ぎする時間はありません。自分がしたい事に邁進する必要があります。ジョン・レノンは僅か40年でその生涯を閉じる事になりましたが、その人生は非常に濃密なものだったと言えるでしょう。
ジョン・レノンの家族や子孫
世界的に有名なジョン・レノンですが、その家族も世界的に有名です。ジョン・レノンの家族といえばオノ・ヨーコが有名ですが、2人の間に子孫はいるのでしょうか。この項目では、ジョン・レノンの家族や子孫について解説していきます。
シンシア・パウエル(1939年〜2015年)
シンシア・パウエルはジョン・レノンの最初の妻です。2人は1958年に美術専門学校であるリヴァプール・カレッジ・オブ・アートで出会いました。2人は1962年8月23日に結婚していますが、レコード会社との話し合いもあり、結婚は数年にわたり秘密にされています。
後述しますが、ジョン・レノンは1966年頃からオノ・ヨーコと関係を持つようになり、シンシア・パウエルは1968年に離婚しました。ちなみにシンシア・パウエルもまた恋多き女性であり、4回の結婚をしています。2019年に癌により75歳で死去しています。
オノ・ヨーコ(1933年〜)
オノ・ヨーコはジョン・レノンの後妻であり、本名は小野 洋子です。彼女は前衛芸術家、音楽家、平和運動活動家などのさまざまな肩書きを持ち、そのキャリアは50年以上に及びます。父親の転勤で幼少期からアメリカで生活しますが、20歳の頃から本格的にアメリカでの活動を開始しました。
ジョン・レノンとオノ・ヨーコが出会ったのは1966年の事。元ジョン・レノンは日本の文化に強い興味を抱いており、その概念を反映させたオノ・ヨーコの描く絵画に惹かれて行ったのです。当時はジョン・レノンもオノ・ヨーコも既婚者でしたが、2人は恋仲となり、後に共に離婚。晴れて2人は1969年3月20日に夫婦となったのです。
ただ程なくビートルズは事実上の解散状態となっており、オノ・ヨーコは「ビートルズを解散させた女」として非難される事となり、2人はマスコミの格好の餌食になっています。一時的に別居する事はあったものの、1975年に2人にはショーン・タロー・オノ・レノンが誕生。ジョン・レノンはこの時から5年間、育児に専念する日々を送っています。
ジョン・レノンが亡くなった後も、積極的に一連の活動を続けています。 2009年にはプラスティック・オノ・バンドを結成しており、何歳になってもその熱意は衰える事はありません。ジョン・レノンが家庭を捨ててまで、オノ・ヨーコと一緒になる事を選んだ理由がよく分かりますね。
ジョン・レノンの子孫
ジョン・レノンはシンシア・パウエルとの間にジュリアン・レノン(1963年〜)、オノ・ヨーコとの間にジュリアン・レノン(1975年〜)を設けています。2人ともジョン・レノンの才能を受け継ぎ、音楽家として活動しています。ジュリアン・レノンとショーン・レノンも結婚歴はあるものの、子供はいないようです。とはいえ2人の息子はまだ音楽家としては現役であり、私たちの心を揺さぶる名曲をこれからも生み出してくれる事でしょう。
ジョン・レノンのゆかりの地
ジョン・レノンのゆかりの地といえば、アメリカやイギリスが多いと思うかもしれません。しかし、ジョン・レノンは親日家の1人であり、日本にも数多くのゆかりの地が存在します。この項目では、日本に存在するジョン・レノンのゆかりの地を紹介していきます。
万平ホテル
ジョン・レノンは軽井沢の静かな雰囲気を気に入っていました。1976年になると、毎年夏には軽井沢にある万平ホテルのアルプス館128号室に宿泊していたようです。
このホテルのカフェテラスも、ジョン・レノンのお気に入りでした。この場所でジョン・レノンはロイヤルミルクティーを特別にオーダーしており、そのメニューは今ではホテルの看板となっています。
また一階のロビーにはホテルが購入したピアノがあり、ジョン・レノンはそのピアノを買い取りたいほどに気に入っていたとの事。万平ホテルはジョン・レノンのファンなら是非とも訪れたい場所ですね。
住所:長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢925
樹の花
ジョン・レノンは武道館でもライブを行なっており、東京にもお気に入りの場所を持っていました。その中の1つが、銀座にある「樹の花」です。樹の花は1979年にオープンした喫茶店で、コーヒーに強いこだわりを持っています。
ジョン・レノンはコーヒーに愛着を持っており、樹の花のコーヒーを特に気に入りました。この店にはオノ・ヨーコと訪れていたとされ、2人が見つめ合いながら座っていた席がそのまま残されています。またジョン・レノンが書いたメモ書きなども展示されており、ジョン・レノンの足跡を知る上でも発見の場所です。
住所:東京都中央区銀座4-13-1
ジョン・レノンの関連人物
ジョン・レノンがクオリーメンやビートルズに所属し、メンバーと苦楽を共にしたのは約10年。メンバーとはどのような関係を築いていたのでしょうか。結論から言えば、彼らの仲は徐々に悪くなっていきました。
この項目では、ジョン・レノンと他のメンバーの関係性について解説していきます。
ポール・マッカートニー(1942年〜)
ポール・マッカートニーはビートルズのベースやボーカルを担当していた人物です。ただレコーディングなどでは、ギターやピアノも担当していました。2人が出会ったのは、1957年7月6日の事であり、10月18日にクオリーメンに加入しています。ビートルズでは多くの楽曲の作詞作曲を手がけており、ジョン・レノンに並ぶバンドの両輪として活躍しました。
ただバンドの方向性の違いや、オノ・ヨーコに対する嫌悪感などから、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの関係性は悪化。結果的にポール・マッカートニーの脱退により、ビートルズは事実上解散します。
2人の不仲説はビートルズのファンならば有名な話です。ただ1974年頃から2人は徐々に和解し、一度だけセッションもしています。ままなくジョン・レノンは殺害されますが、その前に和解できた事は2人にとって幸せだったのかもしれません。
ジョージ・ハリスン(1943年〜2001年)
ジョージ・ハリスンはビートルズのリードギターを担当していました。ジョージ・ハリスンがクオリーメンに加入するのは1958年2月の事。彼のギターの腕は卓越しており、オーディションを受けると即座に加入が決まりました。
ジョージ・ハリスンはビートルズ結成直後は、ジョン・レノンやポール・マッカートニーに比べると立場も人気も劣っており、「Quiet Beatle(静かなビートル)」と呼ばれていました。ギターの腕前は本物であるにもかかわらず、演奏方法に注文をつけられる事も多々あり、彼自身の不満は溜まっていたとされます。
1969年1月には、レコーディングの際にジョージ・ハリスンがジョン・レノンと口論になり、ジョージ・ハリスンがスタジオから出て行く事もありました。ポール・マッカートニーとジョン・レノンの不仲がバンドの行く末に大きな影響を与えたのは事実ですが、ジョージ・ハリスンの不仲も影響としては大きいでしょう。
なお、ジョージ・ハリスンは、ジョン・レノンが殺害された後で才能を大きく開花させます。本格的な初のソロアルバム「オール・シングス・マスト・パス」は、全英全米で1位となりました。彼は2001年に死去しますが、Rolling Stone誌が行った「史上最高のギタリスト100人」では11位にランクインしています。彼もまた、類まれな才能を持つギタリストでした。
リンゴ・スター(1940年〜)
リンゴ・スターはビートルズのドラマーです。加入時期はメンバーの中では一番遅く、1962年の事でした。メンバーの中では1番目立たない存在でしたが、彼のドラムテクニックはビートルズのバンドサウンドに大きな影響を与えており、「20世紀のベスト・ドラマー100」では2位にランクインしています。
他のメンバーの仲が悪くなる中で、リンゴ・スターは緩衝材のような役割を果たしていたとされます。彼がいなければ、ビートルズの解散はもっと早く訪れていたとされ、Let It Beという不屈の名作が生まれる事はありませんでした。
リンゴ・スターはビートルズ解散後も、ジョン・レノンの作品に参加するなど、交流は続いていたようです。
ジョン・レノンの関連作品
ビートルズ、そしてジョン・レノンは音楽作品以外にも、数々の関連作品があります。この項目では、その中のごく一部を解説していきます。気になる作品があれば、ぜひ手に取っていただければ幸いです。
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音楽に対する熱意や苦悩、そしてビートルズの楽曲の偉大さは何年経っても色褪せる事は無いのです。
ジョン・レノンについてのまとめ
今回はジョン・レノンの人物像や生涯について解説しました。ジョン・レノンは20世紀を代表する音楽家であり、何年経っても色褪せる事のない名曲を生み出しました。神格化される事もありますが、バンドに対する苦悩やドラッグに手を染めてしまう人間的な弱さも持ち合わせていた事が分かります。
ジョン・レノンはオノ・ヨーコという生涯の伴侶に出会い、日本を愛する人物でもありました。そうした一面を知る事でジョン・レノンに対する親近感が湧いてくるのではないでしょうか。今回の記事を通じてジョン・レノンやビートルズについて興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ビートルズ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジョン・レノン