【日本を代表する歌人】正岡子規とはどんな人?生涯・名言・死因

正岡子規は、近代俳句・短歌の創始者といわれています。
明治時代を代表する文学者の一人である子規は、いったいどんな人物だったのでしょうか。

若くして亡くなった子規の生涯や名言、死因も詳しく解説します。

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正岡子規とは?

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/正岡子規

正岡 子規(まさおか しき)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家です。

松尾芭蕉や与謝蕪村、小林一茶など、江戸時代には優れた俳人がいました。
ですがその後はこれといった俳人もいなく、俳句は「月並俳句」と呼ばれるような、つまらないものになっていました。

その月並俳句に新しい生命をあたえ、近代にふさわしいものにしたのが、明治の正岡子規なのです。
子規は、俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆などあらゆる分野で創作作品を生みだし、日本の近代文学史上偉業を確立しました。

正岡子規の生い立ちと生涯

子規が居候していた夏目漱石の下宿先「愚陀仏庵」

生まれ

故郷:伊予国(いよのくに)、現在の愛媛県松山市
生誕:1867年10月14日
死没:1902年9月19日

本名

本名は、正岡常規(まさおか つねのり)。
幼名は処之助(ところのすけ)で、「ところさん」と呼ばれていました。
そして、のちに升(のぼる)と改名してからは、「のぼさん」と呼ばれるようになります。

家族

子規の父・常尚(つねなお)は、松山藩の下級藩士でした。
かれは、子規が5歳のときに亡くなります。
大酒を飲む人だったので若くして体をだめにしてしまったようです。
当時28歳の母・八重(やえ)が、子規と妹の律を育てあげました。

幼少時代

子規は、外祖父である大原歓山(おおはら かんざん)が開いていた漢学塾で、幼い頃から漢詩をなどの学問を学びました。
泣き虫でしたが、お灸の際などによく我慢して耐えた、と言われています。
これは、晩年に病苦にめげず執筆をつづけた我慢強さの芽生えにも思われます。

小学生時代に漢詩を自作

絵を描くことが好きだった子規は、葛飾北斎(かつしか ほくさい)の木版本を模写したり、作文集「自笑文草(じしょうぶんそう)」や漢詩をよく作っていたようです。
また、友人たちと「桜亭雑誌」「松山雑誌」「弁論雑誌」などを編集して回覧し、文章で自己を表現したり、意見をのべあうようになります。
雑誌の編集では、いつも中心的存在で、リーダーとしての頭角を現しだしていました。

中学生時代は文学少年

中学生になると子規は、友人たちと漢詩をつくる「同親会」を結成します。
特に親しい竹村鍜(たけむら きとう)、三並良(みなみ はじめ)、太田正躬(おおた まさみ)、森知之(もり ともゆき)と子規の5人を「五友」と称しています。

その「五友」は、漢誌会を開き、その作品を集めて「五友雑誌」を編集し、回覧してお互いに批評しあいました。
「五友」は書画会もひらき、みんなで山水画もかいていたようです。
そして、『源平盛衰記』などの軍記物からしだいに文学に親しむようになりました。

中学を中退して上京

子規は、当時さかんになっていた自由民権運動につよく影響をうけ、政治に興味をもちだします。
政治家になりたいと一心に願う子規は、中学を辞めて上京します。

夏目漱石と出会った予備門時代

叔父をたよって上京した子規は、軽い気持ちで受けた大学予備門の試験に受かり喜びました。
この東京大学予備門(現・東京大学教養学部)で、のちに親友となる夏目漱石と出会うのでした。
そして22歳の夏、肺結核の症状が出はじめます。

東京大学を辞めて

政治家を志し東京大学に入学した子規でしたが、文学の道に興味がうつり2年で中退。
日本新聞社の記者として勤務するかたわら、文学活動も続け短歌・俳句・小説などをさかんに書き続けました。

しかし、この頃から子規は肺結核が悪化して、脊椎カリエスにおかされ一時重体にもなりました。
病床にふす身となるも俳句革新を推し進めて写生俳句を提唱し、短歌の革新にも乗り出します。

それから7年もの間、病苦と闘いながら、ほとんど寝たきりで、俳句・短歌・詩・評論など、多方面にわたって文筆活動を続けました。
そして、1902年9月19日、35歳でこの世を去ったのです。

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正岡子規の人生年表

1867年 10月14日(旧暦9月17日)、愛媛県松山市に生まれる。
1880年 松山中学校に入学。
1883年 松山中学校を中退。上京して須田学舎・共立学校に学ぶ。
1884年 大学予備門(1886年に第一高等中学校と改称)に入学。
1885年 このころから、ベースボールに熱中する。
1889年 夏目漱石と知り合う。
5月、喀血(かっけつ)して「子規」と号す。
1890年 第一高等中学校卒業。
東京帝国大学文科大学哲学科(翌年、国文科にうつる)に入学。
1891年 同郷の後輩・河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)・高浜虚子(たかはま きょし)に俳句を教える。
「俳句分類」の仕事にとりかかる。
1892年 2月、小説『月の都』を幸田露伴(こうだ ろはん)にみせるが不評。
『獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)』を発表して、俳句革新にとりかかる。
夏目漱石が、子規が帰省中の松山を訪問。
12月、日本新聞社に入社。
1893年 3月、文科大学を正式に退学。
奥羽旅行をし、『はて知らずの記』を発表。
『芭蕉雑談(ばしょうぞうだん)』を発表。
1894年 2月、下谷区上根岸町82番地(子規庵)に居住。
1895年 日清戦争に従軍。帰途喀血、入院。
松山で一時、夏目漱石と同居。
子規派の俳風みとめられる。
『俳諧大要(はいかいたいよう)』を発表して、「写生」を唱導する。
1896年 肺病に結核性の脊椎カリエスを併発。寝たきりの生活にはいる。
1897年 1月、俳誌「ホトトギス」松山で創刊。
『俳人蕪村(はいじんぶそん)』を発表。
1898年 『歌よみに与ふ(う)る書』を発表して、短歌革新にとりかかる。
虚子に「ホトトギス」の編集を命ずる。
1899年 「根岸短歌会」発足。
写生文をつくり、文章革新にとりかかる。
1900年 伊藤左千夫(いとう さちお)、長塚節(ながつか たかし)が来訪。歌会に参加するようになる。
写生文の会「山会(やまかい)」をひらく。
病状次第に悪化。
1901年 『墨汁一滴(ぼくじゅういってき)』を発表。
『仰臥漫録(びょうがまんろく)』を執筆。
1902年 『病床六尺(びょうしょうろくしゃく)』を発表。
9月19日、肺結核のため死去。

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正岡子規の性格と人物像エピソード

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/正岡子規

気が弱くおとなしい幼少のころ

幼い時の子規は、意気地がなく、弱虫・泣き虫で、引っ込み思案な男の子でした。
たこあげやコマ回しもできず、鬼ごっこやかくれんぼも嫌いで家に閉じこもっていることも多かったようです。

のちのリーダー的存在の正岡子規とは大違いですね。

根気のいい文学少年に

小学生時代、子規は貸本屋から本を借りてきては読みあさっていました。
『源平盛衰記』『保元物語』『平治物語』『水滸伝』『三国志』など、気に入ったものは筆で書き写していたのです。
滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』を筆写したときなどは、用紙が60cmほども積みあがったと言われています。
読書にしても写本にしても、子規はなかなか根気のいい子供だったことが分かりますね。

字が上手かった子規

正岡子規は、字が上手で筆写が得意だったようです。
回覧雑誌の本文も、ほとんど子規が清書していたのです。

子規とベースボール

子規は、元気だった学生時代、熱心な野球ファンでした。
そのころの野球は、今のような整理された野球ではなく、「ベースボール」と呼ばれていました。
このベースボールを「野球」と名付けたのが子規である、という説があります。
そのほか、いまも使われている「打者」「走者」「直球」「死球」などの訳語も、子規が苦心してつくったものと言われています。

子規と夏目漱石

子規には文学を愛する多くの友人がいましたが、夏目漱石もそのひとりです。
子規と漱石は、人生の友であり、また文学のよき友でもありました。
ふたりとも同い年で同じ年に大学予備門に入学。
キッカケは寄席の話で意気投合した、と伝えられています。

漱石と子規が親友でなかったら、文豪漱石は誕生しなかっただろう、とも言われます。
それほど、子規が漱石に与えた影響は大きかったのでしょう。

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正岡子規の死因・最期

病死

正岡子規は、学生の頃からおかされていた肺結核により亡くなりました。
かれは脊椎カリエス(脊椎が結核菌におかされる病気)となり、自殺すら考えるほどの苦痛を味わったのです。

脊椎カリエスは、あお向けに寝ているだけでも痛みがおそってきます。
そんな苦痛の中、子規は、まひ剤を服用してつかの間痛みを和らげながら、死の間際まで文学活動を続けたのでした。

子規は、死の2日前まで、新聞『日本』に随筆『病床六尺(びょうしょうろくしゃく)』を執筆していたのです。
どこまでもつよい精神力をもった人だ、と感心させられますね。

辞世の句

1902年9月18日の朝、子規は病床のなか、三句を書きつけました。

  • 糸瓜(へちま)咲(さい)て痰(たん)のつまりし仏かな
    意味;秋になって糸瓜がたれさがり、黄色い花もまだ咲いているが、自分はのどに痰をつまらせて死んでいくことだろう。
  • 痰一斗(たんいっと)糸瓜(へちま)の水も間にあは(わ)ず
    意味:一斗(約18リットル)にもおよぶ痰では、去痰の薬効があるという糸瓜の水では歯が立たないことだ。
  • をととひ(おととい)のへちまの水も取らざりき
    意味:陰暦8月15日の夜にとった糸瓜の水がせきや痰にきくということだが、おとといの十五夜にも、糸瓜の水をとらなかったことだ。
    これだけの痰では、どんな薬も手におえるものではない。

 

これを辞世の句として、翌日9月19日午前1時に昏睡状態となり息をひきとったのです。

歌人としての正岡子規

子規は、歌人としても活躍しています。
松山の俳誌「ホトトギス」を創刊し俳句革新をすすめる一方で、新聞「日本」にて短歌(和歌)革新にもとりかかりました。
『歌よみに与ふる書』(うたよみに あたうる しょ)は、正岡子規が1898年(明治31年)2月から10回にわたって新聞「日本」紙上に発表した歌論です。

この歌論では、それまでの伝統的な和歌の流れである『古今和歌集』やその代表歌人・紀貫之をまっこうから否定し、『万葉集』を高く評価しています。
「貫之は下手の歌よみにて」という主張は、歌壇に衝撃を与えました。

正岡子規の名言

子規は、病床にあって日々思うことを新聞に連載していました。
亡くなるおよそ3ヶ月前には、次のように記されています。

「悟りということは、いかなる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、悟りということはいかなる場合にも平気で生きていることであった」

病苦に苦しみ、そのあげく自殺すら考え、でも自殺できなかった子規。
かれは、闘病生活のなか自分を深くみつめ、ひとつの真理に到達したのです。

正岡子規のゆかりの地

出典:Wikipedia

記念館

松山市立子規記念博物館
場所:愛媛県松山市道後公園1-30

正岡子規の世界をとおして、松山の歴史や文学に親しめる記念博物館です。
こちらには、およそ6万点の実物資料や書籍を収蔵。
正岡子規の一生を紹介する常設展示をしています。

記念球場

正岡子規記念球場
場所:東京都台東区上野恩賜公園内
正岡子規は、野球の愛好者であり、この球場がある上野公園内で野球を楽しんでいました。

子規は野球を題材とした俳句や短歌・小説・随筆を発表。
また、数々の野球用語を日本語に訳し、野球の普及に貢献しました。
このような功績を称え、この名称がつけられています。
句碑には「春風や まりを投げたき 草の原」の句が刻まれているそうです。

正岡子規の作品

出典:wikipedia

俳句

  • 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺
  • 松山や 秋より高き 天主閣
  • 春や昔 十五万石の 城下哉
  • 牡丹画いて 絵の具は皿に 残りけり
  • 山吹も 菜の花も咲く 小庭哉
  • をとゝひの へちまの水も 取らざりき
  • 風呂敷を ほどけば柿の ころげけり
  • 柿くふも 今年ばかりと 思ひけり
  • 紫の 蒲團に坐る 春日かな
  • 鶏頭の 十四五本も ありぬべし
  • 赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり

短歌

  • くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる
  • 松の葉の 葉毎に結ぶ 白露の 置きてはこぼれ こぼれては置く
  • いちはつの 花咲きいでて 我目には 今年ばかりの 春行かんとす
  • 足たたば 不尽の高嶺の いただきを いかづちなして 踏み鳴らさましを
  • 足たたば 黄河の水を から渉り 崋山の蓮の 花剪らましを
  • 足たたば 北インヂヤの ヒマラヤの エヴェレストなる 雪くはましを

随想・日記

  • 『墨汁一滴』
  • 『病狀六尺』
  • 『仰臥漫録』
    子規三部作とされています。

正岡子規を題材にした作品

『子規とベースボール』

明治の文豪正岡子規と野球(ベースボール)との意外なかかわりを、子規の生涯にからめながら詳しく紹介しています。

『正岡子規ものがたり』

子規の生涯をものがたり形式でつづり、かれの遺した作品とともにたどります。
信念をつらぬいて生きた人々をわかりやすく丁寧に紹介したシリーズ作品の中の一冊です。

参考文献

  • 『正岡子規ものがたり』(楠木しげお/銀の鈴社)
  • 『図説学習 日本の歴史7 ものがたり人物事典』(旺文社)
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