犬養毅は明治後期から昭和初期に活躍した政治家です。議員期間は1890年から実に42年。まさに政治家として人生を捧げたのです。普通選挙法の制定や、昭和恐慌の立て直しに尽力したものの、五・一五事件により海軍の青年将校に暗殺されます。
犬養毅は「憲政の神様」「五・一五事件で暗殺された」などのエピソードが有名ですが、その功績や生涯については知らない人も多いでしょう。
今回は犬養毅の人物像や死因、子孫などについて解説していきます。
目次
犬養毅とは?
氏名 | 犬養 毅(いぬかい つよし) |
---|---|
通称・あだ名 | 木堂・憲政の神様 |
出生日 | 1855年6月4日 (安政2年4月20日) |
出生地 | 備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山県岡山市) |
死没日 | 1932年5月15日 |
死没地 | 総理公邸 |
血液型 | A型 |
職業 | 政治家 |
身長 | 150cm |
体重 | 40kg |
配偶者 | 正妻・千代 妾・仙 |
こちらは犬養毅の生涯についてまとめたゆっくり解説動画です。
犬養毅の人生年表・生涯
江戸・明治期の年表
年 | 出来事 |
---|---|
1855年 | 犬養毅誕生 |
1876年 | 岡山から上京し、慶應義塾に通う |
1877年 | 郵便報知新聞の新聞記者として西南戦争に従軍 |
1882年 | 立憲改進党に入党 |
1890年 | 第1回衆議院議員総選挙で当選。以降42年間議員を務める |
1898年 | 第1次大隈内閣の文部大臣となる |
誕生から上京まで
犬養毅は安政2年(1855年)4月20日に備中国で庄屋を務めていた犬飼源左衛門の次男として生まれます。犬飼家は庭瀬藩から苗字帯刀を許されるなど、格式の高い家柄でした。この頃の犬養は漢学や儒教を学んでいます。
やがて1868年に日本は明治という新たな節目を迎えました。同時期に父・源左衛門が死去。維新の混乱もあり犬養家は苦境に立たされます。家業は兄が継ぎ、犬養は小田県の職員として勤務。この頃から国際法や議会政治などの政治的な分野にも関心を向けます。
もっと勉強したいと思った犬養は家族の工面もあり、1876年に上京したのです。
新聞記者や官僚を務める
上京後の犬養はいくつかの学校を転々とし、慶應義塾に入学します。在学中に慶應義塾で英語を学びつつ、郵便報知新聞で寄稿してお金を稼ぐなど、多忙な日々を送っています。
1877年に西南戦争が勃発し、犬養は記者として従軍。現地から執筆された「戦地直報」の記事は反響を呼びました。やがて犬養は慶應義塾を卒業する直前の1880年に、旧幕臣の栗本鋤雲に誘われて「郵便報知新聞」の主筆となります。結果的に慶應義塾を卒業直前に退学したのでした。
その後も犬養は東海社を興し「東海経済新報」を刊行するなど、ジャーナリストとして活躍。その功績もあり、犬養は明治政府の参議・大隈重信に誘われて統計院権少書記官に任命されます。
犬養が大隈に誘われた背景には、政府内で立場の弱かった大隈が「慶應義塾」という学閥を率いて、薩摩閥や長州閥に対抗する目的がありました。大隈は佐賀藩出身の人物です。
やがて大隈が1881年に「明治十四年の政変」で失脚すると、犬養も統計院を辞職。この頃は自由民権運動も高まりを見せており、大隈が立ち上げた「立憲改進党」に犬養も入党します。
衆議院議員となる
その後、1890年に第1回衆議院議員総選挙が開催されると犬養は岡山3区で当選。それ以降は18回連続当選、42年議員を続けるという驚異的な記録を打ち立てています。
その後、犬養は立憲改進党(1890〜1894年)→中国進歩党(1894〜1896年)→進歩党(1896〜1898年)→憲政党(1898年)→憲政本党(1898年〜1910年)と様々な政党を立ち上げ、そして合同を繰り返していきました。
犬養は国民の立場に立ち、一貫して国民の為の政治の重要性を主張していました。しかし1900年には伊藤博文が「政友会」という政党を立ち上げ、1901年から1913年までは陸軍・桂太郎と政友会総裁・西園寺公望が交互に政権を担う桂園時代が到来。
犬養率いる憲政本党は議席も少なく、辛酸を舐めながら小政党を率い続ける日々が続いていくのです。
大正・昭和期の年表
年 | 出来事 |
---|---|
1913年 | 第一次護憲運動を主導し、憲政の神様と呼ばれる |
1924年 | 加藤高明内閣に入閣 |
1925年 | 政治家を引退する |
1929年 | 政友会の党首に担ぎ出される |
1930年 | 統帥権干犯問題 |
1931年 | 犬養毅内閣発足 |
1932年 | 五・一五事件で暗殺される(享年78歳) |
憲政の神様と呼ばれる
1912年12月には桂太郎が3度目の内閣を発足。この内閣に対して国民は「陸軍が軍備拡張を目指す為に発足された内閣」と判断。この頃には犬養達の功績もあり、議会政治を望む声が国民の中にも高まっていました。
立憲国民党を結成していた犬養は、政友会の尾崎行雄と共に「閥族打破・憲政擁護」を掲げて第一次護憲運動を展開。群衆もそれに呼応し、国会議事堂に押し寄せる事態に発展しました。結果的に第三次桂内閣は50日程で総辞職します。
この一件は国民の民意が内閣を倒したという点で重要であり、「大正デモクラシー」を象徴する出来事でした。この一件をきっかけに犬養と尾崎は「憲政の神様」と呼ばれるのです。
少数政党を率い続ける
1922年に犬養は革新倶楽部を立ち上げます。ただこの頃は「政友会」と「憲政会」が政権争いをしており、犬養率いる革新倶楽部は蚊帳の外に近い状態でした。
やがて犬養は1923年に発足した第2次山本内閣で逓信大臣を務めています。この内閣は関東大震災直後に組閣されており、犬養は郵便・通信インフラの復旧に努めています。
政治家を引退する
その後犬養は1924年に発足した加藤高明内閣に逓信大臣として入閣。この内閣では「25歳以上の男子に選挙権を与える」という普通選挙法が制定されています。この法律は犬養が兼ねてから主張していた法案で、犬養は悲願を達成したのです。
しかしこの内閣では憲政会:政友会:革新倶楽部に対し、閣僚の割合は3:2:1となっており、犬養は少数政党として苦しい立場にありました。犬養は少数与党を率いる事に限界を感じ、1925年に革新倶楽部を政友会に吸収させ、自身は70歳で政治家を引退したのです。
少数政党の党首から、二大政党の党首となる
政治家を引退した犬養でしたが、岡山の支援者は犬養を勝手に立候補させ、勝手に当選させていました。つまり犬養は政治家を辞めてはいなかったのです。
革新倶楽部が吸収された政友会は後に投手が不在となり、犬養は懇願される形で1929年10月に政友会総裁に担ぎ出されます。当時の政友会は民政党による二大政党制となっており、犬養は74歳にして大型政党の党首となりました。
1931年11月には関東軍による満州事変が勃発。満州事変を収束出来なかった憲政会の第二次若槻禮次郎内閣は失政の責任をとり、総辞職します。当時は「衆議院第1党の党首が総理大臣になるが、その政権が失政で倒れた場合、野党第1党に政権が移る」という憲政の常道という体制が確立していました。
結果的に民政党の内閣は倒閣し、犬養は議員生活41年目を経て、総理大臣に就任したのでした。
犬養内閣で行った政策の内容とは?
犬養内閣は1931年12月13日から1932年5月26日まで発足した内閣です。この頃は世界恐慌により誘発された昭和恐慌による深刻な不景気が訪れており、農村では娘の身売りが行われるなどの悲惨な状況が続いていました。更に関東軍が満州事変を起こし、満州を占領するなどの軍部も暴走していました。
犬養は「昭和恐慌からの脱却」「満州事変の解決」という目標を掲げて政策を実行したのです。
大蔵大臣に高橋是清を起用
犬養は昭和恐慌の立て直しの為に、大蔵大臣に高橋是清を起用します。当時の日本は金本位制という「貨幣価値を金に裏付けする」という制度をとっていました。
金本位制は安定した貿易ができ、円の信用を高めるというメリットがあったものの、当時は昭和恐慌の真っ最中。輸入超過となり、国外に大量の金が流出した結果、深刻なデフレを招いていたのです。
高橋は財務大臣就任と同時に金本位制を廃止。紙幣を大量に擦り、デフレからの脱却を図ります。お金を回す為に「満州事変の為の軍備」にも予算を大きく振り分けています。その他に公共事業の拡充も図り、景気を回復させていきます。
結果的に日本は1円 = 0.5ドル→円 = 0.24ドルの円安となり、輸出が急増。日本は世界最速で世界恐慌から脱却したのです。
第18回衆議院議員総選挙
犬養は1932年1月に衆議院の解散を行います。犬養が総理大臣に就任時、政友会は174議席で少数与党でした。しかし1月の時点で高橋によるインフレ政策で、景気回復の兆しが見えていた点、満州事変も節目を迎えていました。
犬養はこのタイミングなら議席の獲得を狙えると確信し、衆議院を解散。結果的に政友会は301議席、民政党は146議席と、政友会の圧勝でした。犬養は時流を読んで政友会の基盤を盤石にしたのです。
軍部への抵抗
犬養は「満州事変の為の軍備」に大きく予算を振り分けるなど、必ずしも反軍的な人物ではありませんでした。ただ関東軍の暴走には批判的な意見を述べています。
犬養は蒋介石などの中国の重要人物と独自のパイプを持っており、このパイプを用いて満州事変の交渉を考えていました。しかし政友会にいる親軍的なグループからは犬養の行動は反感を買っており、これらの交渉の打診は握りつぶされていたのです。
1932年3月には関東軍は満州に満州国を建国。犬養はあくまで承認をしませんでした。この事が軍部から反感を招いたとも言われます。
犬養毅の死因と最期|五・一五事件「話せばわかる」の真実とは?
犬養の死因は皆さんも知っての通り、五・一五事件による暗殺です。首謀者は海軍の若手将校達であり、首相官邸に乱入して犬養を殺害しました。
五・一五事件の経過
1932年5月15日17時頃、犬養が首相官邸でくつろいでいると青年将校が乱入。犬養に発砲するが偶然、弾は入っていませんでした。
犬養は動じる事なく、彼らに「話せばわかる」と彼らを客間まで案内します。そして彼らに自分の考えや、今後の日本のあり方を諭そうとしたのです。
しかし青年将校達は「問答無用、射て、射て」と犬養に発砲。9発の弾のうち、3発が犬養に被弾します。しかし犬養はなおも意識ははっきりしており、女中に「今の若い者を連れてこい。よく話して聞かせる」と命じたのです。
18時40分に医師団により診察が行われます。犬養はなおも意識がはっきりしていたものの、徐々に衰弱。23時26分に絶命しました。犬養は青年将校が発砲しても動じる事はありませんでした。
「話せば分かる」は命乞いの言葉ではなく、政治家として言論の力で青年将校を説得しようとした言葉だったのです。
統帥権ブーメラン
五・一五事件の影響もあり、犬養は悲劇の政治家と思われるかもしれません。ただ暗殺は犬養自身にも責任があったと言えます。
犬養は1930年の野党時代、民政党が軍の許可なく「ロンドン海軍軍縮会議」で補助艦の保有割合を決定した事がありました。犬養は野党として与党を攻撃する為、「民政党の行動は統帥権の干犯である」と主張したのです。
統帥権とは軍を動かす権利であり、天皇のみが持つ権利とされていました。そして統帥権をサポートするのが、陸軍の参謀本部と海軍の軍令部です。犬養は「内閣が軍の意向に口出しをするのは憲法違反」と主張したのです。
この統帥権干犯問題が起こるまで、軍は政治のコントロール下にありました。しかし統帥権という言葉を使えば、軍は天皇のみに責任を負えば軍の言う事を無視しても良い事になります。
犬養のこの発言は軍部の暴走を助長する事になり、結果的に犬養は「統帥権を干犯した」ために暗殺されました。ある意味で統帥権干犯問題は犬養にブーメランのように跳ね返ってきたのでした。
犬養の葬儀
国民に親しまれてきた犬養の死は国民に衝撃を与えました。5月19日に葬儀が行われ、2万人もの参列者が集まっています。
実はこの頃、世界的に有名なチャップリンが日本に来日しており、事件の起きた5月15日にチャップリンは犬養と会う予定もありました。予定を延期した結果、チャップリンは襲撃に巻き込まれる事はなかったのです。
チャップリンは犬養に「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」と電報を送り、国民を驚かせました。
犬養毅の功績
政党政治を根付かせる
犬養は1890年に第一回衆議院議員となりますが、それより前から国会期成同盟に尽力したり、自由民権の重要性を新聞で説いてきました。
犬養は衆議院議員就任後も民力休養や減税などを訴え、国民に寄り添った政治のあり方を説いたのです。やがて日本は大正デモクラシーなどの民主主義が根付いていきますが、犬養の努力の成果とも言えますね。
普通選挙法の導入
犬養は1924年に発足した第一次加藤高明内閣で逓信大臣に就任します。犬養は加藤高明達と協力し、翌年に普通選挙法を制定させました。25歳以上の男子全員に選挙権が与えられたのです。
1890年時点では選挙権は15円以上納税をする男子に限られており、国民の1%程しか対象がいません。犬養達の尽力により、有権者は国民全体の20%まで上昇。女性に参政権が導入されるのは戦後ではあったものの、今回の普通選挙法に伴い、国民の選挙への関心は高まってもいきました。
犬養毅の性格
毒舌家であり弁舌家
犬養は思った事はすぐに口に出し、更に毒舌家でした。この毒舌は正義感があり悪を憎む性格であった事、演説に無駄がなく、迫力に満ちていた事も要因です。五・一五事件の時も、最後まで演説の力で将校達を説得しようとしていました。
ただ政敵を増やす為、犬養の妻・千代夫人は「犬養が出かける時は国を慎むように言ってくれ」と言われる事もあったのです。この毒舌と高潔な性格から、長年少数政党を率いて苦労する事になるのでした。
犬養毅のエピソード・逸話
書道家としての姿
犬養は幼い頃から筆を習っており、優れた書道家としても知られています。議会の合間には新聞記者と話をするか、求めに応じて書を仕上げるなどして過ごしていたそうです。
犬養は常日頃から「出鱈目は書の極意」と述べていました。出鱈目とは無邪気さによるもので、この境地こそがその人の書に現れると考えていたのです。犬養の書に対する姿勢と、その優れた文体は今でも高い評価を受けています。
無欲の人
毒舌で有名な犬養ですが、私生活では全くの無欲の人でした。食事も着るものもこだわりがなく、出されたものを食べ、出されたものを着ていたそうです。
その他には中国の活動家を無償で支援した他、議会で働く身寄りのない少年を引き取って学校に進学させています。
犬養毅の名言
すなわち記者諸君は公平なる地位にあって、各政党の正不正を裁く裁判官であると同時に、政党が正義に向かって進むことを躊躇する場合、これを鞭撻し激励する役目にあるものである。
全国護憲記者大会の演説で述べた者です。犬養はジャーナリストとしても活躍していました。記者は中立であると共に政党の腐敗を監視する役目であると主張しました。現在の報道のあり方にも警鐘を鳴らすものと言えますね。
九つのうち三つしか当らんようじゃ兵隊の訓練はダメだ
五・一五事件で襲撃された時、9発の弾丸のうち3発が犬養の身体を貫きます。犬養は狙撃された事に怒るのではなく、暗殺対象に銃弾を3発しか当てられない若手将校の腕前を嘆いたのでした。
犬養毅の家系図・子孫
犬養は正妻・千代との間に長女の操が生まれ、妾・仙との間に長男の彰と次男の健がいました。健は三男という説もあるものの、詳しくは不明です。また犬養の子孫は現在も第一線で活躍しています。その中には皆さんも知っている人もおり、まさに「華麗なるファミリー」と呼ぶに相応しい家系図です。
犬養健(1896〜1960年)
犬養の次男(もしくは三男)です。1930年に衆議院議員となり、戦後は第4次、第5次吉田内閣の法務大臣を務めました。造船疑獄事件で佐藤栄作が逮捕されそうになった時、健は指揮官を発動して逮捕の無期限延期と任意捜査に切り替える荒技を成し遂げています。
ちなみに健は長男ではなかったものの、彰は犬養毅の正妻とソリが合わずに廃嫡されています。その為、健が犬養家の嫡男となりました。
犬養道子(1921〜2017年)
健と健の妻・仲子の長女です。犬養毅の孫にあたり、聖書研究やエッセイストとして活躍しました。
犬養康彦(1928〜2015年)
健と健の妻・仲子の長男です。共同通信社の社長を務めていました。波多野智子との間に1男1女をもうけるものの離婚。
長男の犬養千春はPro Light Japan代表兼オーナーを務め、長女の亜美はエッセイストとして活躍しています。この2人は犬養のひ孫にあたる人物ですね。
安藤 和津(1948〜)
健の次女ですが愛人の子であり、道子とは親子ほど年が離れています。エッセイストやタレントとして活躍し、か8夫は俳優や映画監督を務める奥田瑛二です。
安藤サクラ(1986〜)
安藤和津の娘であり、犬養のひ孫にあたります。1986年に柄本佑と結婚し、2017年に女の子が生まれています。柄本佑の親は同じく俳優の柄本明であり、両家のルーツを辿ると超有名な人達に行き着くのです。
ちなみに安藤サクラの姉は映画監督の安藤桃子です。
緒方貞子(1927〜2019年)
犬養の曾孫にあたり、日本人初の国連難民高等弁務官やアフガニスタン支援政府特別代表を務めた人物です。2002年には外務大臣に推される声もありましたが、本人が辞退しています。
血筋としては犬養の長女・操の家系であり、操は犬養内閣で外務大臣を務めた芳澤 謙吉と結婚。その娘・恒子の娘にあたるのが緒方貞子です。
こうしてみると、犬養の子どもや子孫は多方面で活躍している人ばかりですね。
犬養毅のゆかりの地
お墓
犬養のお墓は東京の青山霊園にあります。青山霊園はいくつかエリアがあり、犬養のお墓の近くには加藤高明・東京駅で襲撃された濱口雄幸・加藤友三郎等の戦前の首相経験者のお墓も存在するのです。
また犬養は中国の孫文やインドのラス・ビハリ・ボースなどのアジアの革命家とも深い繋がりがありました。犬養はアジア主義を掲げた巨頭・頭山満とも仲が良く2人のお墓は向かい合うように建っています。
犬養木堂記念館
犬養の功績を讃えると共に、地域文化の振興に役立てる事を目的に建てられた記念館です。木堂とは犬養の称号で、名前とは別に使用する名称になります。
犬養の手紙や五・一五事件で襲撃された際の血染めの布団など、貴重な資料が展示されています。隣には旧犬養家住宅があり、こちらは1978年に重要文化財に指定されました。
住所:岡山市北区川入102-1
犬養毅の関連人物
犬養は実に40年以上衆議院議員を務めた人物です。当然、多くの関連人物がいます。今回はその中でも特に有名な人物について解説します。
福沢諭吉
犬養にとって福沢は「師」と言える存在です。犬養は上京後に、福沢諭吉が創設した慶應義塾に入学し、英語などの学問を学んでいます。
福沢が犬養に注目したのは、犬養が西南戦争に従軍した時に執筆した「戦地直報」でした。戦地の状況を生々しく表した記事を見て、福沢は犬養を認めるようになりました。
福沢は当時高まり始めていた自由民権運動にも思想面で大きな影響を与えていました。福沢の思想は犬養にも大きな影響を与えたと言えるでしょう。
大隈重信
犬養は1880年に統計院の書記官となりますが、この背景には大隈重信の画策がありました。大隈は福沢諭吉と仲が良く、福沢の設立した慶應義塾出身者を統計院に送り出しています。犬養は大隈と共に立憲改進党に所属し、国会開設にむけて尽力した同志とも言える存在でした。
ただ後に大隈は1914年に第二次大隈重信内閣を発足。大隈は立憲同志会・中正会から多くの閣僚を招き入れています。しかしその頃の犬養は立憲国民党に所属しており、いわば与党と野党という立場で対立する事になります。
政党政治は合同と分裂の繰り返しという事がよく分かります。
犬養毅の関連作品
犬養について解説した書物は膨大です。今回はその中の一部を紹介しますね。
おすすめ書籍・本・漫画
恕の人 犬養毅
本書は昭和天皇実録などを踏まえ、新たな犬養像に迫った一冊です。犬養の志や、知られざるエピソードにも触れる事が出来ます。
近代日本の政治家 (岩波文庫)
伊藤博文 大隈重信 原敬 犬養毅 西園寺公望という5人の政治家に焦点を当てて、リーダーシップの本質に迫った作品です。犬養だけでなく、他の総理大臣経験者の政治姿勢や政策を知る事で、見えてくるものがあるでしょう。
角川まんが学習シリーズ 日本の歴史 14 大正デモクラシー 大正~昭和時代初期
本作品は大正デモクラシーの始まりと軍部の台頭までを舞台にした学習漫画です。犬養を主人公にしたわけではないものの、犬養の暗殺は軍部の台頭を象徴する出来事として描かれています。
子供だけでなく大人にも読んでほしい作品です。
おすすめのドラマ
実は犬養毅を主人公にした作品は今のところありません。ただいくつかの作品にはその壮絶な最期が描かれています。
経世済民の男 高橋是清
経済発展の礎を築いた人々を取り上げた作品です。三部作構成になっており、大蔵大臣の高橋是清、阪急電鉄を立ち上げた小林一三や、東邦電力を立ち上げた松永安左エ門の3人が主人公です。
犬養毅は本シリーズの高橋是清編に登場。犬養と高橋は昭和恐慌の立て直しに尽力するものの、犬養は五・一五事件で、高橋は二・二六事件で暗殺されてしまいます。
いだてん〜東京オリムピック噺〜
2019年に放送された大河ドラマです。東京オリンピックを主題にしており、犬養は28話の「走れ大地を」に登場。東京は一度戦前に候補地となりましたが、戦争が原因で延期になっています。
犬養は本作品でも五・一五事件で暗殺されます。鬼気迫る演技は大きな話題を呼びました。
犬養毅についてのまとめ
今回は犬養毅の生涯について解説しました。犬養は自由民権運動に携わり、政党政治を根付かせた人物です。それと同時に統帥権干犯問題を引き起こし、自らが暗殺される事で政党政治の終焉も招きました。犬養は政党政治の始まりと終わりを担った人物と言えます。
ただ銃を構える青年将校に対し、最後まで言論の力で解決しようとした姿勢は賞賛に値します。犬養は死を恐れずに自らの政治家人生を全うしたのでした。
今回の記事を通じて、犬養毅について興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/犬養毅
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/五・一五事件
http://www.maroon.dti.ne.jp/inukai.bokudo/
【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール