北条時宗は鎌倉幕府の8代目執権です。彼は元寇…、すなわちモンゴル帝国の侵攻を2度にわたり防いだ名君として知られています。北条時宗は、大河ドラマの主演になった人物ですが、その実像や生涯は知らない事も多いのでしょうか。
今回は北条時宗の生涯や功績、死因などについて解説します。
目次
北条時宗とは
北条時宗は建長3年(1251年)に5代目執権・北条時頼の次男として生まれます。文永元年(1264年)7月に執権の補佐を務める連署に就任し、文永5年(1268年)に8代目執権となりました。当時はアジアでモンゴル帝国の影響力が強まっていた時代。高麗の使節が元の国書を携え、服属を求める事態が発生します。
鎌倉幕府は元の再三にわたる要求を無視し続けた結果、元は文永11年(1274年)に日本に襲来(文永の役)。幕府はこれを食い止めますが、多大なる犠牲者も伴います。北条時宗はいずれ訪れる元の再襲来に備え、石塁を構築するなどして国防の強化に努めました。
弘安4年(1281年)の弘安の役では、作戦の指示は北条時宗の命令で出される事になり、鎌倉幕府は2ヶ月の攻防の末に元の大軍を撃破。役目を終えた北条時宗は、弘安7年(1284年)に34歳の若さで亡くなりました。
氏名 | 北条時宗 |
---|---|
通称・あだ名 | 鎌倉幕府8代目執権さ |
出生日 | 建長3年(1251年)5月15日 |
出生地 | 相良国鎌倉の達氏の甘縄邸 |
死没日 | 弘安7年(1284年)4月4日 |
死没地(亡くなった場所) | 相良国鎌倉 |
血液型 | 不明 |
職業 | 執権 |
身長 | 不明 |
体重 | 不明 |
配偶者 | 堀内殿(安達義景の娘) |
座右の銘 | 不明 |
北条時宗の人生年表・生涯
北条時宗の人生年表
年 | 出来事 |
---|---|
建長3年(1251年) | 北条時宗誕生 |
康元2年(1257年) | 元服 |
弘長元年(1261年) | 左馬権頭に任官 |
文永元年(1264年) | 連署に就任 |
文永5年(1268年) | 執権に就任 |
弘安4年(1281年) | 弘安の役 |
弘安7年(1284年) | 死没(享年32歳) |
嫡男の子として生まれる
北条時宗は建長3年(1251年)5月15日、相模国鎌倉で5代目執権の北条時頼の次男として生まれます。幼名は正寿で、血筋的には3代目執権の北条泰時の曾孫です。兄に北条時輔がいますが、北条時宗は正妻・葛西殿の息子なので正式な後継者に指名されました。康元2年(1257年)に7歳の若さで元服し、征夷大将軍・宗尊親王から「宗」の字を加冠。時宗と名乗るようになりました。
文応元年(1260年)には将軍の供奉を務める、小侍所の別当という役職に任命されます。当時は既に北条実時(北条義時の孫)が別当の地位に就いていましたが、これ以降は別当を複数の北条家の人たちが担う事が慣例になりました。北条時宗の小侍所入りは、北条時宗が将来執権になる為の布石。北条時宗は北条実時から指導を受けて人格を形成します。
弘長元年(1261年)4月には安達家の一族である堀内殿と結婚。1272年には嫡男である北条貞時も生まれています。文永元年(1264年)7月に、6代執権の北条長時が病で出家。7代目執権に北条政村が就任します。
彼は北条義隆の息子ですが嫡男の地位にはなかった為、あくまで北条時宗の繋ぎです。北条時宗は将来の執権になる為、8月執権の補佐を務める連署に就任しました。北条時宗は北条泰村の補佐を受けながら、幕府の転覆を目論む鎌倉幕府6代目将軍・宗尊親王の廃位や、新たな鎌倉将軍・惟康親王の擁立などを行なっています。
執権に就任する
文永5年(1268年)3月、北条時宗は8代目執権に就任します。時を遡れば同年正月に、高麗の使節が元の国書を携えて太宰府を訪問し、元(モンゴル帝国)への服属を求めました。当時の元は地球上の陸地の約17%を統治し、当時の人口は1億人。人類史上、大英帝国に次ぐ2番目の巨大な帝国でした。
大陸における元の横暴を幕府は知っており、幕府は元の要求を無視。蒙古軍の襲来に備え用心するよう御家人に通達しています。文永8年(1271年)には元の使節が来日し、武力侵攻を警告すると、北条時宗は本格的な戦争の準備や異国警固番役などの軍役を設置。得宗家(北条家の嫡流)の権力を集権化する、鎌倉幕府に批判的な立場をとる僧侶・日蓮を島流しにするなど、幕府内外に熾烈な対応を課しました。
文永11年(1274年)には遂に元軍が日本に襲来。これは文永の役と呼ばれ、10月に対馬や壱岐、肥前などの各地で元軍は多くの民衆を虐殺陵辱するなど、暴虐の限りを尽くしました。多くの御家人が元軍と戦い、元軍は13,500余人もの被害を出して撤退しました。元軍の強さを目の当たりにした北条時宗ですが、翌年には降伏を進める元の使節団を処刑するなど、毅然とした対応を貫いています。
北条時宗は異国警固番役の拡充や、博多湾に防御構築物である石塁を設置するなど、いずれ起こる元の再襲来に備えました。
2度も元の襲来を防ぐ
弘安4年(1281年)に元軍は再び日本を襲来します。これは弘安の役と呼ばれ、軍船の数は4400艘、元・高麗軍を主力とした東路軍約5万人、江南軍約10万人と世界史上最大規模のものでした。鎌倉幕府は博多湾に石塁を設置していた為、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念。6月に元軍は志賀島に上陸してこの地を占領し、壱岐島にも再び侵攻しました。
7月から元軍と鎌倉幕府の激しい戦闘が行われます。7月30日には博多付近に台風が襲来し、元軍は深刻なダメージを受けました。これを「神風」と呼ぶケースもありますが、元軍は3ヶ月も博多湾に停泊していた為、遅かれ早かれ台風の被害は受けていました。閏7月5日に、伊万里湾海上で御厨海上合戦が行われ、鎌倉幕府は元軍の軍船を伊万里湾から一掃。
更に鎌倉幕府は鷹島に籠る元軍10余万を進撃し、2万〜3万の兵士を捕虜としました。弘安の役は鎌倉幕府の勝利に終わり、元軍の残党は日本から敗走したのです。北条時宗は2度にわたり元軍の襲来を防ぎましたが、御家人に恩賞問題なども発生。3度目の元寇に備える必要もあり、鎌倉幕府は一連の対応に追われます。結果的に鎌倉幕府は弱体化する事になり、元は鎌倉幕府に大きな打撃は与えたのでした。
北条時宗の死因と最期の言葉
34歳の若さで死去
北条時宗は弘安7年(1284年)に34歳の若さで死去します。死因は心臓病とも結核とも言われますが詳しくは不明。北条時宗は執権に就任した時から元の脅威に備え続けていました。こうした心労が彼の身体を蝕んでいたのかもしれません。
北条時宗はどんな人物?
鎌倉幕府8代目執権
執権は鎌倉幕府の将軍を助け、政務を統括する役職です。鎌倉幕府の執権は北条家が担っており、初代執権は北条時政。北条時宗は鎌倉幕府の8代目執権にあたります。北条時政が執権に就任したのは、建仁3年(1203年)9月から元久2年(1205年)閏7月。3代目将軍に源実朝が就任した頃でした。
1219年に鎌倉幕府3代目将軍・源実朝が暗殺され、源氏の嫡流の血筋が途絶えると、鎌倉幕府は摂関家や皇族から名目上の鎌倉将軍を迎えます。この頃から執権は鎌倉将軍の実権を完全に奪い、幕府の政務を掌握するようになりました。
北条時宗は得宗の1人
ちなみに北条一門も人数が増えてくると、北条一門の嫡流の一族が権力を持ち始めます。この嫡流を得宗と呼び、北条時宗はこの得宗の1人です。ちなみに北条時宗は北条時政の6代目の子孫にあたります。
得宗政治が確立したのは、5代執権・北条時頼の代から。彼は北条泰時の長男・北条時氏の次男にあたり、北条一族の嫡流にあたりました。彼は1256年に執権の座を北条長時に譲りますが、彼は北条義時の三男・北条重時の血筋にあたり、長男の北条泰時の血筋ではありません。
北条時頼は執権の座を北条長時に譲りつつ、自らは権力を握り続けます。1264年に北条長時が病で出家すると、今度は北条長時の叔父にあたる北条政村が7代目執権に就任。彼は北条義時の五男で、母親は北条政子と対立して流罪となった伊賀の方。北条政村は、北条時頼の嫡男・北条時宗が成長すると.彼に執権の座を譲りました。即ち、北条時宗は鎌倉幕府の執権と得宗の立場を備えた存在でした。
北条時宗は何をした人?
元寇から日本を守る
北条時宗の最大の功績は元軍から日本を守った事です。前述した通り、当時の元は地球上の陸地の約17%を統治する大国。高麗をはじめ、大陸の国々の多くは元に服従を余儀なくされました。北条時宗はそんな大国である元を、2度にわたり撃退します。対馬や壱岐では甚大な被害は出ましたが、被害は特定の地域に絞られました。
元寇が諸外国に与えた影響は大きく、元寇を経て元は海軍力のほとんどを喪失。南宋や元では「倭人は狠、死を懼(おそ)れない」「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない」と武士に対する脅威論が高まりました。やがて元は滅び、1368年に新たに「明」という国が誕生。過去の元寇の経験から、明の皇帝達は日本への侵攻を諦めています。
北条時宗による元寇への対応は、長年にわたり日本を諸外国から守る事に繋がりました。
鎌倉幕府の磐石な体制を築く
北条時宗は元寇以外にも、鎌倉幕府の体制作りにも大きな影響を与えます。文永3年(1266年)には幕府の転覆を狙ったとして、6代目将軍の宗尊親王の解任と京への送還を断行。彼は後嵯峨天皇の子息であり、皇族の血筋を解任するのは並大抵の覚悟ではできません。
更に文永9年(1272年)には、対立していた異母兄の北条時輔を謀反扱いして誅殺しました。この時に反得宗派の北条時章・教時兄弟も誅殺しており、得宗体制を強化しています。
また国防のために九州中部地方の各湾に石塁を築き、警固番役なども派遣。その任務は御家人だけでなく、寺社本所領などの非御家人も命じられ、結果的に鎌倉幕府の支配権は西国にも及びました。
南北朝時代の発端を作る
元寇に備えた北条時宗ですが、政策の中には鎌倉幕府の首を絞めたものもあります。文永9年(1272年)には後嵯峨法皇が死去し、亀山天皇と後深草上皇のどちらが治天の君になるかで対立が起きました。北条時宗が後嵯峨法皇の遺言に従い裁定をする事になり、亀山天皇が親政を行うよう命じました。亀山天皇は皇子の後宇多天皇に譲位し、政治の実権を握ります。
ただこの裁定に後深草上皇側は不満を持った為、北条時宗は後深草上皇と後宇多天皇の系統が交互に天皇を即位させる「両統迭立」を提案。後深草上皇の皇子・熙仁親王を次の天皇にするよう命じています。
北条時宗は元寇の対応に追われ、朝廷と揉め事を起こさないようにする為、「両統迭立」を提案しました。しかし両者の対立は、やがて南北朝の動乱に発展します。それは両統迭立から約50年後の事で、北条時宗は既にこの世には居ませんでしたが、鎌倉幕府の崩壊に大きな影響を与えた事は間違いありません。
北条時宗の性格と人物像エピソード
信心深い人物
北条時宗は禅宗の熱心な信者で、信心深い人物でした。彼が禅宗に帰依したのは、北条時宗の父が蘭渓道隆などの禅宗の信者と親交があった為です。北条時宗は忍性という僧侶の慈善活動を支援した他、無学祖元という臨済宗の僧を中国から招聘しました。
信心深い北条時宗なら、元軍を撃退した事を「神風のおかげ」と考えても納得ですね。
日蓮を島流しにする
仏教を信仰した北条時宗でしたが、一方で明確に対立した僧侶もいます。それは日蓮宗の開祖である日蓮です。彼は文応元年(1260年)に「立正安国論」を執筆し、「相次ぐ災害の原因は、人々が妙法蓮華経(法華経)を信じないため」と幕府を激しく非難しました。
後に元寇が起きた時、日蓮は立正安国論の正しさを主張する為、北条時宗との公場対決を要求。北条時宗は日蓮の要求を無視し、幕府の反乱因子となる日蓮を警戒。文永8年(1271年)に彼を佐渡に流罪としました。北条時宗は信心深い人物でしたが、敵対勢力には僧侶であっても容赦はしませんでした。
北条時宗の逸話と凄さ
小さい頃から大物だった
北条時宗が幼少期に将軍・宗尊親王たちと馬術の練習をしていた時の事です。その中で「小笠懸」という、乗馬したまま的を目掛けて弓を射る訓練がありましたが、誰も成功する事が出来ませんでした。父・北条時頼は北条時宗に弓を射るように命じ、北条時宗は見事一発で成功させます。
この事に感嘆したのが宗尊親王であり、自らの「宗」という漢字を与えて「北条時宗」と名乗るように命じました。北条時宗が幼少期から武術や馬術の才能に秀でていた事がよくわかりますね。
北条時宗の名言
・人間の最大の誘惑は、あまりにも小さなことに満足してしまうことである。
私達は遥か未来の事よりも、目先の事に目が行きがちです。北条時宗はそうした小さな満足を「人生最大の誘惑」であるとして、視野が狭くなる事に警鐘を鳴らしました。元寇という日本有数の危機を防いだ北条時宗ならではの名言ですね。
・精神の高邁さとは非礼を平然とした態度で耐えることである。
北条時宗は元の使者が日本に訪れた時、一連の要望を拒絶します。これは元が日本の風習や慣例を無視し、自国の要求を通そうとした為です。元寇における一連の対応は、北条時宗の「精神の高邁さ」を端的に表しています。
北条時宗の家系図・子孫
先程は北条時宗が執権に就任する過程や、歴代執権との関係性を解説しましたが、北条時宗の兄弟や正妻はどんな人物だったのでしょうか。この項目では北条時宗の血縁者や、北条時宗の子孫のその後について解説します。
北条時宗の兄弟は?
北条時宗には7人の兄弟がおり、次男にあたります。
長兄の北条時輔は異母兄弟の為、嫡男にはなれず六波羅探題南方などを務めました。後に二月騒動で謀反の疑いを受け、文永9年(1272年)の2月騒動で北条時宗に謀殺されます。彼は北条家における反得宗的な立場にいました。北条時宗は元寇に備える為、不安材料となる北条時輔を謀殺したとされます。
弟には宗政、宗時、政頼、宗頼などがおり、彼らは幕政に関与しますが、北条時宗より先に亡くなりました。生年が不明な桜田時厳という僧侶もおり、彼は北条時宗より長寿でしたが、僧侶という立場ゆえに幕政にはあまり関与していません。
北条宗政は人格者として北条時宗から信頼されていましたが、彼は弘安4年(1281年)、鎌倉幕府が弘安の役の勝利に湧く中で死去。北条時宗は彼の死を嘆いたとされます。やがて北条時宗も弘安7年(1284年)に死去。北条宗政の死は得宗権力の保持には痛手となりました。
北条時宗の息子と、北条家のその後
北条時宗は文永8年(1272年)に嫡男である北条貞時を儲けました。彼は北条時宗唯一の子どもであり、北条時宗が死去すると弘安7年(1284年)に9代目執権に就任します。当時の北条貞時はわずか12歳。北条宗政をはじめ、北条時宗の弟の多くは死没していた為、初期治世は安定しませんでした。
その為、北条貞時は外祖父で有力御家人の安達泰盛が掌握しますが、今度は得宗家執事(内管領)の平頼綱との対立が先鋭化します。弘安8年(1285年)に、安達泰盛は平頼綱の讒言により討伐され(霜月騒動)、政治の実権は平頼綱派が握りました。
ただ権勢を誇った平頼綱も8年後の平禅門の乱で滅亡し、平貞時は従兄弟(平宗政の子)である北条師時らの復権を図りました。実子が北条貞時しかいない北条時宗と異なり、北条貞時は14代執権となる北条高時など、多くの子孫に恵まれました。
ただ、鎌倉幕府は元弘3年(1333年)に滅亡し、北条家の主要な人物は東勝寺合戦を経て自害した為、北条時宗の直系の子孫はいません。彼らの壮絶な最期は、別の記事で解説したいものです。
北条時宗のゆかりの地
円覚寺
円覚寺は北条時宗が鎌倉に建立した寺院であり、北条時宗のお墓がある場所です。仏教を厚く信仰していた北条時宗は、元寇で命を落とした兵士を弔う為、円覚寺を建立しました。円覚寺には日本の武士だけでなく、元軍の兵士も平等に祀られており、北条時宗の信仰心の高さが伺えます。
北条時宗か亡くなった後、その遺体は円覚寺塔頭の仏日庵に安置されます。この地は北条家の菩提所となり、室町期に円覚寺の塔頭となりました。北条時宗に興味があるなら、是非とも訪れて欲しい場所です。
住所:神奈川県鎌倉市山之ノ内409
宝戒寺
宝戒寺は鎌倉にある天台宗の寺院です。この場所には、歴代の得宗が住む屋敷がありました。鎌倉幕府が1333年に滅亡すると、宝戒寺の裏山にある東勝寺で北条高時をはじめとした北条一族は自害します。後醍醐天皇は北条家の弔いの為、宝戒寺の建立を考えました。
結果的に後醍醐天皇の建武の新政は短期間で終了し、足利尊氏が新たな幕府を創設します。宝戒寺の建立は足利尊氏により受け継がれ、1335年に完成したと伝えられています。
住所:神奈川県鎌倉市小町3-5
北条時宗の関連人物
北条政子と北条義時
「北条」の名前がつく歴史上の人物として有名なのは、2022年の大河ドラマの主人公である北条義時と、その姉である北条政子でしょう。北条政子と北条義時、そして北条時宗の関係性を調べる人も多いようです。
北条時宗の高祖父が北条義時であり、北条政子は北条時宗からみれば大大伯母にあたります。北条時宗と北条義時は90歳ほど歳が離れている為、両者が出会った事はありません。それでも関係性を調べる人が多いのは、北条家の一族として有名な人物が少ない事の現れでしょう。
北条家の執権として有名なのは、北条時政、北条義時、北条泰時、更に北条時宗や北条高時でしょう。彼ら以外にも、北条家きは個性豊かな面々が揃っています。興味があれば調べてくださいね。
北条時宗の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
・時宗 巻の壱 乱星
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高橋克彦による北条時宗を主人公にした歴史小説です。この作品は、北条時頼の代から各人物の心理描写や立ち位置を掘り下げています。北条時宗が執権となり、元と対峙するまでの過程にも様々なドラマがありました。全4巻と大作ですが、一気に読んでしまう程の面白さがあります。北条時宗や北条家の動向を知りたい人におすすめです。
・北条時宗
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ゴルゴ13などを手がけたさいとう・たかおによる北条時宗を主人公にした作品です。元寇だけでなく、二月騒動や両統迭立など、元寇以外の北条時宗の動向についても詳しく知る事ができますよ。
・北条時宗
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蒙古襲来を主題にした歴史小説です。主人公は北条時宗ですが、架空の登場人物である佐野源左衛門の次男・小源太の活躍も見逃せません。鎌倉から動けない北条時宗に代わり、高麗で元の情報収集や京での工作など、様々な場面で暗躍します。あまり小説になる時代ではない分、物語を膨らませやすいと言えるでしょう。
おすすめの動画
・【ゆっくり解説】-英雄の日本史-北条時宗【前編】
https://m.youtube.com/watch?v=hpkmaqSdxkc
・元寇を戦った英雄ではなく、無力なリーダーだった? 北条時宗の生涯【鎌倉殿の13人】
https://m.youtube.com/watch?v=5y3TnVgeQ-w
おすすめの映画
・日蓮と蒙古大襲来
蒙古襲来は鎌倉幕府や九州各地に大きな衝撃を与えました。この状況下、日蓮という僧侶は「仏教教理から元寇を予言していた」とされます。鎌倉幕府からみた元寇、日蓮からみた元寇。それぞれの視点から物事を見る事で、元寇に対する見方も変わるかもしれません。
おすすめドラマ
・北条時宗 総集編
2001年に放送された大河ドラマです。和泉元彌演じる北条時宗を主人公に、二月騒動や元寇などを大きなスケールで描いています。中国やモンゴルでの海外ロケも行われており、大河ドラマとしては異色の作品。現在は総集編のみ販売されています。
まとめ
今回は北条時宗の生涯や人物像について解説しました。北条時宗は8代目執権として元寇に備え、日本の危機を救いました。彼は32歳と短い生涯を終えましたが、彼が日本に与えた影響は計り知れません。北条時宗は信仰深く、対抗勢力を熾烈に排除するなど、巧みに得宗体制を確立していきました。
今回の記事を通じて北条時宗の生涯について、興味をもっていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/北条時宗