【西郷隆盛の息子】西郷菊次郎とはどんな人?生涯・人物像・功績・死因・子孫を解説

西郷菊次郎は西郷隆盛の息子であり、京都市長や台湾の振興に尽力した人物です。2018年の大河ドラマである「西郷どん」にも登場しているので、覚えている人も多いかもしれません。

彼も父のような傑物でしたが、維新三傑として知られる西郷隆盛と比べると、その功績や生涯については知らない事も多いでしょう。今回はそんな西郷菊次郎の知られざる功績について解説します。

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西郷菊次郎とは?

西郷菊次郎とは?

西郷菊次郎 出典:Wikipedia

 

西郷菊次郎は万延2年(1861年)1月2日に、西郷隆盛と愛加那の長男として生まれます。後にアメリカ留学をしますが、西南戦争に薩軍の一員として参戦しました。この時に西郷菊次郎は右足を切断する大怪我を負っています。

その後は23才で外務省に入省。明治28年(1894年)には日清戦争で日本が割譲した台湾で、基隆支庁長、宜蘭長官などの要職を務めました。日本に帰国した後は京都市長となり、京都市三大事業として上水道整備などを推進します。

明治44年(1911年)に父の郷里である鹿児島に戻ると、島津家管理の永野金山鉱業長に就任。青少年の人材育成や、地域の振興に大きな功績を残しました。

西郷隆盛の生涯と人物像|名言・死因・子孫は?

氏名西郷菊次郎
通称・あだ名西郷どん
出生日万延2年(1861年)1月2日
出生地奄美大島の龍郷
死没日昭和3年(1928年)11月27日(67歳没)
死没地(亡くなった場所)鹿児島市薬師町
血液型不明
職業外務省職員・京都市長・永野金山鉱業長など
身長不明
体重不明
配偶者西郷久子
座右の銘敬天愛人

 

西郷菊次郎の人生年表・生涯

西郷菊次郎の人生年表

出来事
万延2年(1861年)奄美大島の龍郷で誕生
明治5年(1872年)アメリカ合衆国に留学する
明治10年(1877年)西南戦争に従軍し、右足を切断する重傷を負う
明治17年(1884年)外務省に入省し、3年後に再びアメリカに留学する
明治28年(1895年)台湾台北県基隆宜蘭支庁長となる
明治30年(1897年)台湾宜蘭庁長官に就任する
明治45年(1912年)島津家山ケ野金山鉱業館長となる
昭和3年(1928年)心臓麻痺で死没(享年67歳)

 

西郷隆盛の息子として生まれる

西郷隆盛の息子として生まれる

愛加耶 出典:Wikipedia

 

西郷菊次郎は万延2年(1861年)1月2日に、西郷隆盛愛加那の長男として生まれます。当時の西郷隆盛は、遠島の身分となり奄美大島に潜居していました。愛加耶は奄美一の名家・田畑氏の一族で、西郷隆盛が遠島となり10ヶ月後に結婚しています。

当時の西郷隆盛は国事に奔走する立場でしたが、薩摩藩主の父・島津久光と折り合いがつかず、徳之島に遠島になる事もありました。愛加耶と西郷菊次郎は、西郷隆盛のいる徳之島に移り住む事もありましたが、幕末の多くの時間を奄美大島で過ごしています。

やがて西郷菊次郎は明治2年(1869年)に、西郷本家に引き取られました。その後は明治政府の計らいで、明治5年(1872年)にアメリカ留学を果たします。当時の西郷菊次郎は僅か12歳。この地で西郷菊次郎は農学を学びました。

西南戦争の勃発

西南戦争の勃発

鹿児島暴徒出陣図 出典:Wikipedia

 

2年7ヶ月の留学を経て西郷菊次郎は帰国しますが、当時は不平士族による不満が昂っており、明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発します。西郷菊次郎は薩軍の一員として参戦し、右足脚を切断する重傷を負いました。

それでもなお戦地に赴く事を望みますが、最終的に叔父である西郷従道に降伏。西郷従道は西郷隆盛の弟で、政府側の人間として不平士族達を鎮圧する立場にありましたが、忘れがたみである西郷菊次郎の生存を大いに喜んだそうです。

台湾に渡る

台湾に渡る

西郷従道 出典:Wikipedia

 

やがて西郷菊次郎は叔父・西郷従通の計らいで、明治17年(1884年)23歳で外務省に入省。アメリカ公使館や本省で勤務して、順調にキャリアを重ねます。

やがて日本は日清戦争に勝利し、明治28年(1895年)に台湾は日本の領土となりました。当時の西郷菊次郎は35歳であり、台湾総督府へ赴任。この地で台北県支庁長や初代宜蘭庁長を歴任し、台湾の統治に尽力しました。

京都市長となる

京都市長となる

現在の京都市 出典:Wikipedia

 

西郷菊次郎は後に日本に帰国し、明治37年(1904年)10月に京都市長となります。在任機関は7年に及び、その間に京都市三大事業などを手がけています。彼の時代に京都の発電上下水道整備などは大幅に改善されますが、それは西郷菊次郎の功績がありました。

やがて西郷菊次郎は病気を理由に、明治44年(1911年)7月に京都市長を辞任。その後は父・西郷隆盛の同郷である鹿児島に戻り、島津家管理の永野金山鉱業長に就任。自費で武道場を建てる等、地域の振興に尽力しました。

西郷菊次郎の死因と最期の言葉

西郷菊次郎の死因と最期の言葉

鹿児島県薬師町 出典:Wikipedia

 

西郷菊次郎は大正9年(1920年)に、島津家管理の永野金山鉱業長を辞職。その後、昭和3年(1928年)11月27日に鹿児島市薬師町の自宅で死去します。死因は心臓麻痺で、享年67歳でした。

彼がなぜ心臓麻痺に至ったのかは分かっていません。彼は青年の頃に右足を切断し、その後も台湾や京都の発展に関与し続けていた為、体を酷使しすぎたのかもしれません。

西郷菊次郎の功績はその後も高く評価され続けており、2018年には門川大作京都市長より特別感謝状が贈られています。

西郷菊次郎の性格と人物像エピソード

西郷隆盛の性格を受け継いだ

西郷隆盛の性格を受け継いだ

西郷隆盛 出典:Wikipedia

 

西郷菊次郎は西郷隆盛の長男というだけあり、西郷隆盛の気質を強く受け継ぎました。西郷隆盛は清廉潔白で、信念を貫く性格でした。その一方で、その度量の深さから多くの人たちから慕われています。

西郷菊次郎もまた天真爛漫な性格で、幼少期から成人に至るまで多くの人たちに慕われていました。西郷隆盛の長男とはいえ、彼は奄美大島出身の身。その立場は本来は微妙なものでしたが、彼は叔父の西郷従道、義母の西郷糸子など、多くの人達から庇護を受けています。それは西郷菊次郎が人を惹きつける何かがあった事は間違いないでしょう。

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西南戦争での父との別れ

西南戦争での父との別れ

西郷隆盛と将兵達 出典:Wikipedia

 

西郷菊次郎は前述した通り、西南戦争に従軍していますが、右膝下を切断する重傷を負っています。これは熊本城の攻防戦で、一兵卒として銃撃戦に加わった時に、明治政府軍からスナイルド銃で銃撃を受けた為でした。

西郷菊次郎は野戦病院に運び込まれ、医師は西郷菊次郎の右足の切断を決意。病院で療養している間も、次々と薩摩軍に不利な知らせが届きます。結果的に西郷隆盛達は本営の場所を移すと決め、西郷菊次郎も歩いて移動する事を余儀なくされたのです。

西郷菊次郎は松葉杖で歩行できるまでに回復していたものの、長距離の移動は西郷家の下僕・熊吉が背負って歩く事になっていました。しかし宮崎まで敗走を続けた西郷隆盛達は、この地で疾病者達に「おはんたちの命を大切にして、家族ともども親に孝養を尽くせ」と投獄を厳命。それは西郷菊次郎に対して向けられた言葉でもありました。

翌朝、西郷隆盛を中心に400名が鹿児島に向けて出発。西郷菊次郎は父・西郷隆盛への思いを捨てきれず、熊吉と共にその後を追いかけるものの、右足を切断していた西郷菊次郎は追いつく事が出来ませんでした。結局、西郷菊次郎と熊吉は追行を断念し、政府軍に降伏したのです。

この選択肢は西郷菊次郎にとって運命の分かれ道でした。仮に西郷菊次郎が西郷隆盛と自刃する道を選んでいたら、台湾や京都の景観や発展は今とは大きく異なっていたのではないでしょうか。

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西郷菊次郎の功績

台湾で功績を残す

台湾で功績を残す

台湾宜蘭県 出典:Wikipedia

 

西郷菊次郎は1895年から台湾にわたり、多くの功績を残しています。彼は1895年に台湾台北県基隆宜蘭支庁長、1897年に台湾宜蘭庁長官に就任しました。台湾で反日感情が渦巻く中、西郷菊次郎は台湾の人々の心を掴む事に腐心します。

日本は日清戦争で清国から台湾を割譲したものの、当時の台湾は未だインフラや教育制度が整っていませんでした。当時の宜蘭川は治水工事も不十分であり、大雨のたびに氾濫を塗り替えていました。西郷菊次郎は川の堤防工事に心血を注ぎ、1年5か月の歳月と巨費をかけて1901年に堤防を完成させます。住人達は堤防の必要性や威力に半信半疑だったものの、これ以降氾濫は起こる事はなくなり、台湾の人達は西郷菊次郎に強い感謝の念を抱いたのです。

更に西郷菊次郎は農地の拡大、道路の整備、更に教育の拡充などを行い、台湾の発展の基礎を築きます。結果的に台湾の治安は良くなり、住人の生活は安定しました。現在でも台湾には親日派の人が多いですが、それは西郷菊次郎の努力の賜物なのです。

京都市長としての功績

京都市長としての功績

琵琶湖疏水 出典:Wikipedia

 

台湾で大きな功績を残した西郷菊次郎は、1904年10月12日から京都市長に就任します。当時の京都市は琵琶湖疏水の蹴上発電所の電気の供給量が、市内の需要を満たす限界に達しており、市の発展やインフラに大きな問題を抱えていました。更に人口の増加で井戸水が汚染され、伝染病が流行するなどの課題もありました。

初代京都市長・内貴甚三郎はこれらの問題を解決する為、いくつかの事業を推進するものの、政府や市会の許可を得る事ができませんでした。更に日露戦争の勃発により、一連の計画は一旦頓挫しています。西郷菊次郎が京都市長に就任して間もなく日露戦争は終局し、国内では積極的な都市改造事業が再燃します。

西郷菊次郎はその流れにのり、1906年3月の市会で、水利事業である「第二疏水開削」、衛生状態を改善する為の「上水道整備」、市内の輸送力の拡充を図る「道路拡築」を説明。この三大事業は市民や内務省から許可され、11月から本格的に計画は進行します。ただ第二疏水と上水道建設の費用は、当時の市税収入の34倍となりました。

西郷菊次郎は大阪市や東京市と同じく、外債を用いての都市基盤整備事業を推進する事を決定。彼は結核で1911年7月に市長を辞任しますが、その後も一連の工事は進み、全ての工事は1913年に完成しました。京都の電力問題や衛生問題は改善し、現在に至るまで、日本の古都としての役割を果たし続けています。

西郷菊次郎の関連人物

西郷菊草

西郷菊草は西郷菊次郎の同母妹で、文久2年(1862年)7月、奄美大島で産まれました。彼女も西郷菊次郎と同じく、明治維新を経て西郷家に引き取られています(時期は西郷菊次郎の方が先)。後に西郷隆盛の従兄弟の大山誠之助と結婚して4人の子供に恵まれますが、大山誠之助は素行が悪く後に離縁。菊草は当時京都市長となっていた西郷菊次郎の元に身を寄せています。

彼女は明治42年(1910年)9月6日に48歳で死去しますが、場所は西郷菊次郎の家でした。菊草の息子・慶吉は陸軍将校となりますが、1942年に戦死しています。

西郷糸子

西郷糸子

西郷糸子 出典:Wikipedia

 

西郷糸子は西郷隆盛の3番目の妻です。明治維新を経て西郷菊次郎と西郷菊草は糸子により養育されます。薩摩藩士は奄美諸島で妻を儲けても、その妻を国元に連れて帰る事はできませんでした。また奄美諸島で生まれた子供は島人(しまんちゅ)と呼ばれており、明確に差別されていたのです。

薩摩藩では少年青年を町単位で育てる郷中教育が盛んでしたが、島人はそれらの教育を受ける事はできません。しかし西郷糸子は西郷菊次郎と菊草にも分け隔てなく愛情を注ぎ、郷中教育も受けさせています。西郷菊次郎が台湾や京都の市政に大きな影響を与える事が出来たのも、西郷糸子のお陰だったと言えるでしょう。

西郷菊次郎の子孫

西郷菊次郎の子孫は今でも健在なのか。気になる人も多いかもしれません。西郷菊次郎は西郷隆盛の長男である為、西郷菊次郎の子孫は西郷隆盛の子孫である事を意味します。

この項目では西郷菊次郎の子孫やその後について解説します。

西郷菊次郎は7男7女をもうけた

西郷菊次郎は妻・久子との間に7男7女をもうけました。全員のその後は判明しませんでしたが、子孫の中には歴史に名を残した者もいます。

西郷準 出典:Wikipedia

 

西郷菊次郎の長男・西郷隆吉は、隆正隆徳という2人の子をもうけています。三男の西郷隆秀は、1955年(昭和30年)に拓殖大学理事長に就任しました。

また六男の西郷準は、立教大学の野球部で頭角を現します。卒業後は帝国生命に就職しますが、太平洋戦争に駆り出されており、1945年にフィリピンで戦死しました。

次女の西郷治は日本製鉄取締役の長崎栄十郎の妻となり、四女の西郷淑は中央大学の名誉教授である野津務の妻となりました。西郷菊次郎の子孫たちは多くの分野で活躍したのです。

西郷菊次郎の子孫は今も健在

これだけ多くの子孫がいるので、西郷菊次郎の子孫は今でも現在です。西郷菊次郎の四男・西郷隆泰の長男である西郷隆文は、陶芸家として現在も第一線で活躍しています。

彼はもともと西郷菊次郎や西郷隆盛の子孫という自覚はあまりありませんでした。しかし西郷隆盛の式典などに出席する機会が増えてからは、子孫である事の自覚を持つようになります。彼は薩摩焼の普及に貢献した他、特定非営利活動法人『西郷隆盛公奉賛会』を設立。西郷隆盛や一族の精神を次世代に伝える為、講演活動や執筆活動を積極的に行なっています。

また2018年には、菊次郎のひ孫にあたる女性の家で、西郷菊次郎と妹の菊草、母親の愛加那で撮られた写真が見つかっています。この子孫の女性が誰の血筋かは不明ですが、この写真は西郷菊次郎の子孫が今も存命である事の証明です。

西郷菊次郎のゆかりの地

西郷菊次郎の墓

西郷菊次郎の墓

1974年頃の常磐町 出典:Wikipedia

 

西郷菊次郎のお墓は、「西郷家のお墓」の一角にあります。元々西郷家の菩提寺は南林寺というお寺でしたが、このお寺は廃仏毀釈で取り壊され、その後もこの地には墓地だけが残っていました。

西郷菊次郎が、この墓地を現在の鹿児島市常盤町へ移転させたのは大正11年(1922年)頃の事。西郷菊次郎は、大正9年(1919年)に永野金山の鉱業館長を辞任し、常磐町の近くの薬師町に引っ越していました。そんな経緯から、常磐町への移転に関与したものと思われます。

後に西郷菊次郎は1928年に死去し、同じく西郷家のお墓に入りました。この地には西郷菊次郎の祖父や、命の恩人である熊吉も眠っています。

住所:鹿児島県鹿児島市常盤2丁目2-14

宜蘭設置紀念館

宜蘭設置紀念館

宜蘭設治記念館 出典:Wikipedia

 

台湾にある宜蘭統治紀念館は、西郷菊次郎が宜蘭庁長時代に建てた官邸を活用したものです。日本家屋に再現されたのは1997年の事であり、日本統治時代の資料や西鄉菊次郎氏の展示物が展示されています。この地は観光地としても人気があり、西郷菊次郎がこの地で今も多くの人たちに愛されている事が分かるでしょう。

住所:台湾宜蘭県宜蘭市舊城南路力行三巷3号

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西郷菊次郎についてのまとめ

今回は西郷菊次郎について解説しました。西南戦争で右足を失うという悲劇に見舞われたものの、彼は父親である西郷隆盛の意志と、母親である愛加耶の優しさを受け継ぎ、台湾や京都の発展に大きな功績を残しています。

不平士族の不満を一身に受け止め、西南戦争に散った西郷隆盛。彼は明治の発展を見る事なくこの世を去りましたが、その志は息子により引き継がれたと言えるでしょう。今回の記事を通じ、西郷菊次郎の生涯について興味を持っていただけたら幸いです。

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