【漫画の神様】手塚治虫の生涯と人物像!生い立ちから代表作品・名言・死因は?

手塚治虫は日本を代表する漫画家です。日本の漫画・アニメを世界に誇れる文化に押し上げた功労者であり「漫画家の神様」とも呼ばれます。鉄腕アトムや火の鳥など、聞いたことのある作品も多いのではないでしょうか。

ただ名前を聞いた事があっても、生涯や人物像については知らない人も多いと思います。今回はそんな手塚治虫について徹底的に解説していきますね。

Contents

手塚治虫のプロフィール

(手塚治虫 出典:Wikipedia)

氏名手塚治虫
通称・あだ名漫画の神様・がちゃぽい(小学校の頃)
誕生日1928年11月3日
出身地大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)
死没日1989年2月9日
死没地半蔵門病院(現・千代田区)
血液型A型
出身校奈良県立医科大学
職業漫画家・アニメ監督・医師
身長170or173cm
配偶者悦子
座右の銘人を信じよ、しかしその百倍も自らを信じよ。

徹子の部屋に出演した手塚治虫です。

手塚治虫の生い立ちと人生年表

人生年表

出来事
1928年大阪府豊中町で誕生
1933年兵庫県小浜村に移り住む
1939年ペンネームを「手塚治虫」とする
1945年大阪大空襲に遭遇 7月に大阪帝国大学附属医学専門部に入学
1946年四コマ漫画「マァチャンの日記帳」の連載開始
1947年長編「新寶島」を制作
1952年医師免許取得 「鉄腕アトム」連載開始
1953年トキワ荘に入居
1961年株式会社虫プロダクション設立
1963年「鉄腕アトム」のアニメが始まる
1973年虫プロダクションが倒産
1978年日本アニメーション協会の初代会長となる
1988年胃の不調を訴える
1989年胃癌で死去

 

幼少期の手塚治虫

(豊中市の服部緑地 出典:Wikipedia)

 

手塚は1928年11月3日、大阪府豊中町に手塚粲と文子の長男として生まれます。1933年に一家は、祖父が以前住んでいた兵庫県川辺郡小浜村に移り住みます。

1935年に手塚は池田師範附属小学校に入学。母親が東京出身の為、手塚は近畿地方の言葉遣いではありません。当初の手塚はガヂャボイとあだ名されからかわれていたそうです。

そんな手塚を変えたのは小さい頃から描いていた漫画でした。手塚は小学3年生の時に「ピンピン生チャン」を小学5年生の時に「支那の夜」という漫画を完成させます。この漫画が注目を浴び、手塚はすっかり人気者になりました。

また手塚の近所は田園地帯が広がり、昆虫採集も趣味でした。手塚はある日「原色千種昆蟲図譜」という図鑑を通じて、オサムシという昆虫が存在する事を知ります。手塚はオサムシにちなみ、ペンネームとして「手塚治虫」を使い始めました。

戦争期の手塚治虫

(空襲後の大阪市街 出典:Wikipedia)

1941年に手塚は大阪府立北野中学校に入学します。太平洋戦争が近づく頃であり、手塚は以前のように漫画を描く事は許さられませんでした。1944年9月には軍需工場に駆り出されています。

1945年6月には大阪大空襲に遭遇し、九死に一生を得ています。終戦間近の同年7月には大阪帝国大学附属医学専門部に合格。実は手塚は当初は医師の道を志していました。

本格的に漫画家を志す

日本が敗戦を迎えてから手塚は漫画家として本格的に行動を開始します。隣人だった毎日新聞の印刷局の女性のツテを得て、1946年1月1日から「少国民新聞」に「マアチャンの日記帳」を連載させました。

更に1947年に手塚は酒井七馬と「新寶島」を発表。当時の出版業界において漫画のページ数は4ページ程。しかし新宝島は200ページというボリュームでした。この作品は手塚の出世作であり、戦後日本マンガの出発点とも呼ばれています。

この作品を経て手塚は人気漫画家となり、月に1〜2冊の書き下ろしの長編漫画の執筆を任されます。この頃の作品は以下の通りです。

この頃の手塚治虫の作品
・火星博士
・怪人コロンコ博士
・キングコング
・地底国の怪人
・ロストワールド
・メトロポリス
・来るべき世界  など

この頃の手塚は一応医学部に在籍していました。多忙なスケジュールを経て手塚は医業と漫画との掛け持ちを諦めました。ただ学校自体は退学はしておらず、1951年3月に医学専門部を卒業しています。

その後手塚は1952年に国家試験に合格。翌年に無事に医療登録はされる事になりました。

雑誌連載が決まる

(1953年頃の手塚治虫 出典:Wikipedia)

 

1950年4月より手塚は「少年少女漫画」という雑誌で「読み物タイガー博士の珍旅行」の連載が決まります。更に11月には「漫画少年」「ジャングル大帝」を、翌年には「鉄腕アトム」の前身である「アトム大使」の連載を開始。皆が知っている漫画も出始めます。

手塚が凄いのは1本の連載で終わらず、複数の雑誌で複数の連載を同時に始めた点でした。さすがに激務だったのか、描き下ろし単行本の方は1952年で一旦終わりを迎えています。

虫プロダクション設立

1961年に手塚は自身のプロダクションである手塚プロダクションに動画部を設立します。そこで「ある街角の物語」という40分のカラー長編アニメーション作品を発表。1956年には東映がアニメスタジオ「東映動画」を立ち上げたばかりで、アニメ業界は黎明期を迎えていたのです。

動画部は1962年に虫プロダクションと名前を変え、翌年には日本で最初の本格的連続テレビアニメがスタートします。なお手塚はこの忙しい時期にも鉄腕アトムの原作の連載や、ジャングル大帝のリメイク版の連載などを並行していました。

手塚人気の不振

日本の漫画界やアニメ界を支えた手塚でしたが、様々な漫画家やアニメが台頭するにつれ、皮肉にも手塚は古いタイプの漫画家とみなされるようになります。

1970年代には人気も思うようにとれず、1973年には虫プロダクションは倒産。手塚も推定1億5000万円の借金を抱えるなど、経済的にも漫画家としても追い詰められる事もありました。

漫画家の神様となる

(秋田書店 出典:Wikipedia)

 

そんな手塚が復活したのは、同年に「週刊少年チャンピオン」で連載を開始した「ブラック・ジャック」でした。当時は長編で読者を引きつける作品が多かった中で、ブラック・ジャックは毎回読み切り形式の作品だったのです。

ブラック・ジャックは手塚の後期の代表作となり、手塚は再帰に成功。1976年頃から漫画文庫本ブームが起こり、手塚の過去の作品も次々と復刻。手塚は「漫画の神様」としての地位を固めていったのです。

1985年にはNHKからインタビューを受け手塚は以下の言葉を述べています。

あと40年(100歳)は描きますよ僕は。アイディアだけは、バーゲンセールしてもいいぐらいあるんだ。

この時の手塚は55歳。まだ現役を退くつもりは全くなかったのです。

手塚治虫の死因と最期の言葉

(半蔵門病院 出典:Wikipedia)

手塚治虫の死因は胃癌

ところが手塚はインタビューから4年後の1989年2月9日、60歳でこの世を去りました。原因は胃癌です。

手塚は1988年3月に胃の不調を訴え手術をします。しかし次第に身体は痩せ細っていきました。11月頃には医師の診断を受け、医師は末期のスキルス胃癌と断定します。

しかし手塚に胃癌の事は告知されませんでした。手塚は間もなく半蔵門病院に入院。見舞客に「僕の病状は何なんだ」と問いかけていました。1月25日以降には昏睡状態となりますが、目が醒める度に「鉛筆をくれ」と言っていたそうです。

手塚治虫の最期の言葉

2月9日午前10時50分に手塚は死去。最期の言葉は

「頼むから仕事をさせてくれ」

でした。手塚は最期まで漫画家として、漫画を描き続けようとしたのでした。

実は胃癌と知っていた?

最期まで末期の胃癌と告知されなかった手塚ですが、彼は医師免許を持っています。自分自身が胃癌だった事を知っていたかもしれないのです。

手塚が病院で描いていた遺作「ネオ・ファウスト」では、主要な人物が胃癌となる描写があります。そして彼は「胃癌である事を告知されないが、自分が胃癌である事」を知っていました。そして間もなく彼は死去しています。

手塚は自分の境遇と彼を重ね合わせていたのかもしれません。

手塚治虫の性格と人物エピソード

(さいとうたかをの似顔絵 出典:Wikipedia)

 

超負けず嫌いだった

手塚治虫は様々なヒット作を生み出したものの、常に負けたくないという思いが強かったのです。才能ある新人に会うと、対抗心を燃やして敵意むき出しの言動をする事も珍しくありませんでした。

60年代になるとさいとう・たかを辰巳ヨシヒロによる劇画漫画が流行ります。劇画のようなタッチが不得意だった手塚は、次第にノイローゼになったともされます。

ただ手塚は負けず嫌いではあるものの、嫉妬心で終わる事はなく、感情を発散して作品に昇華していきました。劇画ブームによる試行錯誤で生み出された作品が「ブラック・ジャック」だったのです。

手塚の負けず嫌い、嫉妬心は決して悪いものではなかったのですね。

手塚治虫が医者ではなく漫画家の道を選んだ理由

(手塚がインターンをしていた大阪大学医学部附属病院 出典:Wikipedia)

 

手塚は医師免許を持っていますが、研修医時代を除いて医師として何かをした事はありません。手塚は医学生の傍で連載を続けるという激務をこなしており、最終的に漫画家の道を選んでいます。漫画家の後押しをしたのは母親でした。

手塚は「漫画家になるか、医者になるか」を母親に相談。母親は「自分の好きな事をしなさい」と手塚を後押ししたのです。手塚は医学生時代も授業中に漫画をずっと描いてあり、好きな事は漫画を描く事でした。

恩師もまた「このまま医者を続けてもろくな医者にはなれん。必ず患者を五、六人は殺すだろう。医者をあきらめて漫画家になりたまえ」と手塚に言葉を残しています。

これらの後押しもあり、手塚は漫画家の道を選んだのでした。

手塚治虫の名言

(リボンの騎士の一コマ 出典:Wikipedia)

 

”終始一貫して僕が自分の漫画の中で描こうとしてきたのは、次の大きな主張です。「命を大事にしよう!」”

”君たち、漫画から漫画の勉強するのはやめなさい。一流の映画をみろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。そして、それから自分の世界を作れ。”

”好奇心というのは道草でもあるわけです。確かに時間の無駄ですが、必ず自分の糧になる。”

手塚治虫の逸話と凄さ

(手塚治虫のサイン 出典:Wikipedia)

 

手塚は漫画家として驚異的な逸話を数多く持っています。その中のいくつかを解説します。

睡眠時間

手塚は同時に複数の連載を続けており、とにかく激務でした。睡眠時間は1日4時間程。忙しい時期には月に数時間しか眠らない事もありました。

ただ晩年の手塚はマネージャーの配慮もあり、週に一度は休日をとっていたようです。休日に思い切り休んでいたのかもしれません。

また流石の手塚も、睡眠不足だと作画は乱れたようです。1時間も寝ると作画は良くなったそうで「やっぱり寝ないとダメだ」と言ったそうです。自宅では風呂から5時間以上出てこなかった事もあり、その時に寝ていたのかもしれません。

ショートスリーパーとして知られるエジソンやナポレオンも、まとまった睡眠時間はとらず、昼寝なとをこまめにとっていたようですね。

アシスタント制度

漫画家の大いなる協力者であるアシスタント。そのきっかけは手塚がベタ塗りを編集者にお願いした事だとされます。当時は執筆の全てを1人で完成させる事が当たり前でした。

手塚のアシスタントは累計すると実に700人を超え、藤子・F・不二雄・藤子不二雄A・赤塚不二夫・石ノ森章太郎・松本零士など、日本を代表する漫画家も名を連ねています。

カラーTVアニメ

手塚は幼少期からディズニー映画に強い関心を持っており、アニメーションの制作は長年の悲願でした。漫画家となった手塚ですが、その原点はアニメ制作資金を得るという側面もあったのです。

1961年に手塚は練馬区に自分のプロダクションに動画部を設立。1962年には虫プロダクションと名を変え、鉄腕アトムのアニメシリーズは1963年に放送されました。ちなみにこの時点ではまだアニメはモノクロです。

1965年には日本初のカラーアニメ・ジャングル大帝が放送されます。色の付け方にも非常にこだわった作品となります。

これらのアニメの成功の陰には、制作者の血の滲む努力がありました。30分のアニメに必要な画像は2000枚。当初のスタッフはたったの5人。これでは1人あたり1日66枚もの原画を作成する事になります。

更に手塚はアニメをTV界に売り込むため、制作費55万円という破格の値段で売り込みました。当時のTVの制作費と同等ですが、作画を全て作る点で本来の制作費はその何倍にもなります。

結果的にアトムの大成功により様々なアニメが制作されますが、どれも低予算で予算が組まれる事になりました。現在でもアニメ制作=低予算の認識は変わらず、アニメに携わる人たちは激務にもかかわらず薄給という待遇が続いています。

手塚のカラーアニメは日本の漫画界に革命をもたらしたものの、低予算に薄給という負の側面も作り出したのです。

擬音「シーン」

手塚は漫画の技法として様々なものを発明。現在にも使われているものが多々あります。例えば擬音です。

擬音とは自然界で生じる様々な音を、言語で表現したものです。例えば「走り回る時のバタバタ」などが挙げられます。これらは聴覚的に聞こえる音なのでまだ表現はしやすいです。

では「無音」を表現するにはどうすればよいでしょうか。手塚は無音を「シーン」と表現した人だとされています(もう1人の候補は石ノ森章太郎)。

語源は「しんしんと雪がふる」などの漢語由来の「深々」とされています。ちなみに英語では「シーン」に該当するものはありません。音のない状態はSilence(静寂)と説明するしかない為、擬音がある事に驚かれるそうですね。

手塚治虫の家族・子孫

(鉄腕アトムの一コマ 出典:Wikipedia)

手塚が多忙なスケジュールをこなす事が出来たのは、間違いなく家族の支えがあったからです。この項目では手塚の奥さんや子ども、子孫について解説していきます。

岡田悦子

手塚と1959年に岡田悦子と結婚。手塚とは血の繋がりのない親戚関係にありました。結婚の時期は数々の連載を並行した超多忙な時期であり、結婚前には2回しかデートが出来ていません。更にデート中に手塚は疲れのために爆睡しています。

更に手塚は結婚式の1時間前にも漫画を描いており、披露宴は1時間半の遅刻。悦子と一緒に過ごした時間は生涯で1年未満とされています。それでも3人の子どもにも恵まれており、仲は良かった事でしょう。

3人の子ども

手塚には1人の息子、2人の娘がいます。

長男・手塚眞(1961〜)
有限会社ネオンテトラ代表取締役や手塚プロダクション取締役などの要職を歴任。映画監督から俳優として幅広く活動し、それらは高い評価を受けています。私生活では漫画家の岡田玲子と結婚しています。

長女・手塚るみ子(1964年〜)
プランニングプロデューサー・地球環境運動家。音楽レーベルのプロデュースや講演会、トークショーなど多方面で活躍しています。2017年10月に漫画家の桐木憲一と結婚しています。

次女・手塚千以子(1968年〜)
舞台女優として活躍。名前の由来は千夜一夜物語です。

子孫はいるの?

眞とるみ子は結婚しているものの、手塚治虫の孫や曾孫の存在は調べても分かりませんでした。もしかしたら2人に子どもはおらず、手塚の直接の子孫はいないのかもしれませんね。

手塚治虫のゆかりの地

トキワ荘

(トキワ荘外観の復元ブロンズ像 出典:Wikipedia)

トキワ荘は1952年から1982年まで豊島区に存在した二階建ての木造アパートです。手塚は1952年に上京して新宿区四谷の八百屋の2階に下宿。絶えず編集者が現れる為、八百屋の主人から苦情を言われました。

手塚は学童社の加藤宏泰に誘われる形で1953年からトキワ荘の住人となります。手塚の入居を皮切りに学童社はトキワ荘には多くの漫画家を入居させています。一例を挙げるなら藤子不二雄(1954〜1961)、石ノ森章太郎(1956〜1961)、赤塚不二夫(1956〜1961)などがおり、日本の漫画界を支えた巨匠達がこのトキワ荘から巣立って行きました。

手塚がトキワ荘に入居したのは1953年から1954年と短い期間でした。しかしトキワ荘は解体直前まで漫画界の聖地的存在として有名だったのです。

現在トキワ荘は解体され、日本加除出版の新館社屋となっています。しかしトキワ荘を忘れてはいけないという有志達の活動はその後も続きました。トキワ荘近くの花咲公園に記念碑が建てられたり、復元事業が続けられています。

手塚治虫記念館

(手塚治虫記念館 出典:Wikipedia)

手塚は兵庫県宝塚市で20年余りを過ごしており、この地に記念館が建てられました。テーマは「自然への愛と生命の尊さ」です。記念館では手塚の生涯について学べると共に、手塚関連のアニメが視聴できます。

住所:兵庫県宝塚市武庫川町7番65号

手塚治虫の作品一覧

(火の鳥のモニュメント 出典:Wikipedia)

 

手塚が生涯に描いた作品は実に700以上。様々なテーマの作品があるものの、根底には自身の戦争体験によりもたらされた「生命の尊厳」です。

そして漫画を描く者が遵守しなくてはならないものが、以下に反することです。

・戦争や災害の犠牲者をからかう
・特定の職業を見下す
・民族、国民、そして大衆を馬鹿にする

全ての作品を紹介は出来ませんが、ごく一部を紹介します。

新宝島

手塚が1947年に発表した作品です。亡くなった父親の書籍箱から宝の地図を見つけたビート少年が、宝探しに出かける内容となっています。戦後日本漫画の到達点とされ、影響を受けた漫画家は数知れません。

ジャングル大帝

手塚が1950年に発表した作品です。アフリカのジャングルで白ライオンのレオとその一家、人間との争いを描いた群像劇。この作品から手塚は単行本書き下ろしから、月間漫画家へと仕事を切り替えて行きました。

鉄腕アトム

1952年に発表された作品です。21世紀の未来を舞台に、人間と同じ感情を持つロボット・アトムが活躍する物語。日本初のテレビアニメシリーズとなり、世界的に知名度の高い作品です。

リボンの騎士

1953年に発表された作品です。男と女、それぞれの心をもつサファイア王女(王子)が戦うファンタジーとなっています。少女向けストーリーの先駆けとなっており、元ネタは手塚が幼少期から親しんだ宝塚歌劇団です。

現在でいうプリキュアやセーラームーンなどの変身やコスプレ、更にはツンデレなどのキャラ属性もあり、後に与えた影響は大きいと言えます。

火の鳥

1954年に発表され、手塚のライフワークとなりました。古代から未来まで、それぞれの時代を生きた者達の群像劇。生命の本質・人間の業が手塚の視点から描かれています。

作品は過去→未来→過去→未来と時系列が変わり「手塚が死亡した瞬間に作品が完結する」という手法をとっています。つまり物語を読むと作品は未完に見えますが、実際には完結しています。

ブラック・ジャック

1973年に発表された作品です。人気の低迷した手塚を救った作品であり、無免許医だが神業とも言える医師・ブラックジャックによる医療漫画です。もともとは短期連載だったものの、人気に火がつき、不定期連載を合わせて10年以上続きました。

この他にも非常に重たい作品から、ギャグ漫画まで手塚はあらゆるジャンルの漫画を執筆しています。

手塚治虫の関連人物、影響を受けた人物

手塚が日本の漫画界、アニメ界に与えた影響は計り知れません。この項目では手塚の関連人物や、手塚に影響を与えた、もしくは影響を与えられた人物を解説します。ここで解説出来るのはごく一部なので、調べてみたら意外な接点も見つかるかもしれません。

ウォールト・ディズニー

(出典:Wikipedia)

 

ウォールト・ディズニーは手塚が最も影響を受けた人物です。手塚は幼少期からディズニー映画を愛好し、最も影響を受けたのは「バンビ」だと述べています。

漫画家になった理由も「ディズニーのようなアニメを作りたい」という気持ちでした。そんな手塚は自らを「ディズニー狂い」と評しているのです。

石ノ森章太郎

「仮面ライダー」「サイボーグ009」などを生み出した漫画家です。石ノ森が漫画家を目指したのは手塚の「新寶島」に感銘を受けたからです。度々漫画を手塚に投稿する石ノ森に対し、手塚は「天才的な少年の絵」と絶賛しています。

石ノ森は鉄腕アトムのアシスタントを務めました。石ノ森は手塚の紹介により漫画家デビューが決まり、トキワ荘に住んでいた時期もあったのです。

藤子不二雄

藤本弘と安孫子素雄による共同ペンネーム。コンビ解消後に藤本弘は藤子・F・不二雄、安孫子素雄は藤子 不二雄Ⓐと名乗っています。共作として「お化けのQ太郎」、藤子・F・不二雄名義としては「ドラえもん」、藤子 不二雄Ⓐとしては「忍者ハットリくん」などがありますね。

藤子不二雄の2人が漫画家を目指したのは、手塚の「新寶島」に感銘を受けたからであり、高校生の頃には手塚の実家にも訪れています。2人は手塚が住んでいた「トキワ莊の14号室」に入れ替わりで入居。お金のない2人の為に手塚は敷金を肩代わりしました。

藤子・F・不二雄は手塚を「生涯の神様」と呼び、藤子 不二雄Ⓐもまた手塚を神と呼んでいます。手塚が「漫画の神様」と呼ばれる理由は彼らの影響もあるとされるのです。

宮崎駿

(出典:Wikipedia)

 

ジブリシリーズなどの数々の名作を生み出したアニメーター・映画監督です。彼もまた「新寶島」に衝撃を受けた1人であり、当初は漫画家を目指していました。しかし自分の絵が手塚の絵の亜流になってしまうと思い、漫画家を断念しています。

宮崎は1963年に東映動画に入社。手塚が原案を務めた「わんわん忠臣蔵」にアニメーターとして参加しています。1981年に手塚と宮崎の合作「ロルフ」が予定されていたものの、合作はご破算。企画は風の谷のナウシカとして、現在も名を残しています。

ただ宮崎は手塚に対して「アニメーションに対して彼がやったことは何も評価できない」とも述べています。アニメにおける功罪が

黒澤明

(出典:Wikipedia)

 

黒澤明は日本を代表する映画監督です。手塚より18歳年上であり、世代的には当時の親子ほど年齢が離れていました。しかし両者には強い信頼関係があった事が知られています。両者は共に仕事をしたいと考えていたようです。

黒澤は「赤き死の仮面」という作品で美術監督を要請し、手塚はそれを快諾。この作品はエドガー・アラン・ポーの短編・赤死病の仮面のオマージュであり、大いなる期待を寄せてきたものでしたが、結局は企画は頓挫してしまいます。

黒澤代わりに「影武者」という作品を新たに制作する事を決めます。脚本が完成すると黒澤は真っ先に手塚にそれを見せ、感想を書きたいと述べています。黒澤は手塚に全幅の信頼を寄せていた事が分かりますね。

尾田栄一郎

尾田栄一郎は現在国民的人気のあるワンピースの作者です。尾田が連載を開始したのは1997年。手塚は1989年に亡くなっており面識はありません。ちなみに尾田が最も影響を受けたと公言しているのは「鳥山明」でした。

そしてその鳥山明に対して手塚は「やっと私の後継者が出てきた」と高く評価していた事が知られています。手塚治虫→鳥山明→尾田栄一郎と漫画への影響は受け継がれる事になったのです。

現在、多くの少年達がワンピースに影響を受けて漫画家を志している事でしょう。その影響も元を辿れば手塚治虫に行き着くのです。

手塚治虫の関連作品

手塚が描いた漫画は数多くありますが、手塚の生涯に主眼を置いた作品も多々あります。今回はその中の一部を紹介します。

おすすめの書籍・本・漫画

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手塚は多忙なスケジュールの中で、数多くの公演にも参加しています。本書は手塚の行った数々の公演をまとめたもの。聞き手を意識した事もあり、とても読みやすい一冊です。手塚の哲学、漫画に対する思いが凝縮されています。

手塚治虫 原画の秘密

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切り貼り・描き直し・ボツ…。手塚のお蔵入りとなった原画達が掲載された一冊。漫画の神様の知られざる苦悩や、作品の裏話など、手塚の作品が大好きな人にはたまらない内容になっています。

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いわゆる偉人の生涯を漫画にしたものですが、他の似た作品と異なる点があります。それは著者の伴俊男が手塚プロダクションのメンバーであり、手塚と最後まで関わっていたという点です。

手塚の温かな人柄、漫画への熱意と苦悩、それらが伝わってくる内容です。発売年は古いかもしれませんが、色褪せない名作と言えるでしょう。

おすすめのドラマ

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2013年を生きる週刊少年チャンピオンの女性新人編集者(大島優子)が1973年にタイムスリップし、手塚治虫(草なぎ剛)の担当となる作品です。元ネタは原作宮崎克、漫画吉本浩二による「ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜」です。

漫画自体も非常に面白いので、一読をおすすめします。

手塚治虫についてのまとめ

今回は手塚治虫の生涯について解説しました。日本における漫画やアニメの文化は、手塚治虫によって大きく花開く事になりました。その生涯はまさに漫画と共に生き、漫画と共に生きたと言えます。

手塚の作品はどれも非常に質が高く、現在にも通じるものがあるのです。今回の記事を通じて手塚治虫だけでなく、その作品についても興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

僕の漫画人生
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/手塚治虫
http://www.stakaha.com/?news=黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰
https://note.com/youseea_iseeb/n/n7406f5dbb0ca
https://president.jp/articles/amp/30560?page=2
https://dic.nicovideo.jp/t/a/手塚治虫

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