源義経は平安時代末期の武将で、鎌倉幕府を創設した源頼朝の弟です。頼朝が挙兵した時に馳せ参じ、治承・寿永の乱で大活躍。後に頼朝と反目し、悲運の死を遂げています。
義経は語り継がれる様々な伝説や悲劇的な最期も相まって、根強い人気があります。ただ義経がどのような活躍をしたのか、何故頼朝と対立したのかは知らない人も多いでしょう。
今回は義経の生涯や人物像、彩られた伝説について解説していきます。
目次
源義経ってどんな人物?
氏名 | 源義経(牛若→遮那王→義経・義行・義顕など) |
---|---|
通称・あだ名 | 牛若丸 遮那王 |
出生日 | 平治元年(1159年) 2月2日 |
出生地 | 牛若丸誕生井(京都市北区) |
死没日 | 文治5年(1189年) 閏4月30日 |
死没地 | 衣河館(岩手県平泉町) |
職業 | 武将 |
身長 | 150cm(推定) |
配偶者 | 正妻・郷御前 側室・蕨姫 |
源義経の人生年表・生涯
前半生の年表
年 | 出来事 |
---|---|
平治元年(1159年) | 義経誕生 |
平治2年(1161年) | 父・義朝が平治の乱で戦死 |
嘉応元年(1169年) | 鞍馬寺に預けられる |
承安4年(1174年) | 鞍馬寺を抜け出し平泉へ下る |
源義朝の九男として誕生
義経は平治元年(1159年)2月2日に義朝の九男として誕生し、牛若丸と名付けられます。母は側室の常盤御前で、義経の他に2人の子(今若と乙若で義朝にとっては七男と八男)を産みました。
義朝が平治の乱で敗死すると、常盤御前は今若・乙若・牛若を連れて大和国へ移ります。義経は嘉応元年(1169年) 鞍馬寺に預けられ、その時に遮那王と名乗りました。
源義朝の九男として誕生
やがて義経は自分の生い立ちを知ると、鞍馬寺を抜け出します。承安4年(1174年)に元服を行い、奥州藤原氏宗主の藤原秀衡の庇護を頼って平泉に下りました。
史実では常盤御前の再婚相手・一条長成のツテを得たものでしたが、伝承では金売吉次という金商人の手配により行われたとされています。
治承・寿永の乱時の年表
年 | 出来事 |
---|---|
治承4年(1180年) 8月 | 頼朝が挙兵 |
治承4年(1180年) 10月 | 黄瀬川で頼朝と対面する |
寿永3年(1184年) 1月 | 木曽義仲を倒す |
寿永3年(1184年) 3月 | 一ノ谷の戦いで平家に勝利 |
文治元年(1185年) 正月 | 西国へ出陣 2月 屋島の戦い 3月 壇ノ浦の戦い |
頼朝の挙兵に呼応する
治承4年(1180年)4月に後白河法皇の皇子・以仁王が諸国の源氏に打倒平家を掲げた令旨を通達。頼朝が8月に挙兵すると、義経は頼朝の元へ馳せ参じます。
頼朝は武家政権の樹立を目的に本拠地の鎌倉に腰を据え、義経や範頼(義朝の六男で、頼朝の弟)に平家や平家寄りの勢力の討伐を命じました。
寿永2年(1183年)に、以仁王の令旨で京入りを果たした木曽義仲は後白河法皇と対立。義経は寿永3年(1184年)1月に宇治川の戦いで、義仲軍を撃退してきます。
壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす
2月になると平家との戦いは本格化し、2月4日に播磨国で起きた三草山の戦いを夜襲で勝利。7日に摂津国で起きた一ノ谷の戦いでは、鵯越の峻険な崖からあえて攻める「奇襲」を行い大勝利を収めます。
その後、義経は京で治安維持の任務に就いていますが、九州への進軍を命じられました。元暦2年(1185年)2月には瀬戸内海沿いの平家の拠点・屋島を奇襲で攻め落とします(屋島の戦い)。
3月24日には壇ノ浦の戦いが起こり、そこでも義経は勝利します。数年にわたる治承・寿永の乱は義経の活躍で源氏が勝利したのです。
晩年の年表
年 | 出来事 |
---|---|
文治元年(1185年) 5月 | 頼朝の対立 11月 都落ち |
文治3年(1187年) | 奥州に落ち延びる |
文治5年(1189年) | 衣川の戦いで自害 |
頼朝との対立
壇ノ浦の戦いで義経は、天皇の皇位継承を引き継ぐ為に必要な「三種の神器」のうち草薙剣を取り返す事が出来ませんでした。また義経は後白河法皇から左衛門少尉、検非違使等の役職に命じられています。
頼朝は朝廷ではなく、武家による政権の樹立を画策していました。三種の神器を平家から取り返して、頼朝達が擁立する後鳥羽天皇にスムーズに皇位が継承されれば、頼朝は後鳥羽天皇から統治の権限の許可を得られます。
頼朝は後白河法皇から距離を置く姿勢を見せましたが、義経は後白河法皇から役職を得てしまっており、これでは東国武士達に示しがつきません。頼朝は独断が目立つ義経に対する不満が爆発し、これ以降本格的に対立が始まるのです。
都落ち
5月に義経は平家の棟梁・宗盛と、その息子・清宗を護送して鎌倉入りを計画しますが、義経は鎌倉に入る事が出来ませんでした。24日には自分が謀反を起こすつもりがない事を記した「腰越状」を頼朝に提出するものの、対立は続きました。
10月頃に義経は叔父の行家と手を組んだ他、後白河法皇から頼朝追討の宣旨を得る等、本格的に対立を始めます。義経は京に潜伏するものの、行家が討たれたり、各地の郎党達も殺害される等して、徐々に形成は不利になります。
11月に義経は京を抜け出し、伊勢・美濃を経て文治3(1187)年2月には奥州まで逃走したのです。奥州にはかつて義経を庇護した奥州藤原氏・藤原秀衡がいました。頼朝も流石に義経に手を出せず、両者は膠着状態に陥ります。
義経と秀衡は臨戦態勢を整え、来るべき時に備えていましたが、10月に秀衡が病死。ここに来て義経は窮地に陥るのでした。
源義経の死因と最期
秀衡は息子の藤原泰衡に義経を守るように遺言を残していました。しかし泰衡は頼朝の圧力に屈服。秀衡の死から僅か1年半の文治5年(1189年)閏4月30日に、泰衡は500騎の兵を連れて衣川館にいる僅か10数騎の義経達を襲いました。
多勢に無勢の義経軍は尽く討たれます。死を悟った義経は持仏堂に籠り、一切戦う事をしていません。正妻の郷御前と娘を殺害し、自分も自害しています。享年は僅か31歳だったのです。
源義経の功績・活躍
治承・寿永の乱での活躍
義経の最大の功績は治承・寿永の乱で平家を滅ぼした事です。頼朝の挙兵から僅か5年で平家は滅亡。平清盛という偉大な指導者が病死した事も要因ですが、一ノ谷の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦いでは型破りな発想で大勝利を収めます。戦いの内容は後述しますね。
結果的に義経は平家という勢力を一掃し、鎌倉幕府の創設に大きな影響を与えたのでした。
戦は上手だったが…
一方で義経は政治的な駆け引きや、頼朝の考えを理解出来ませんでした。頼朝は平家を滅亡させるつもりはなく、壇ノ浦の戦いでは三種の神器を取り返す事を最大の任務として義経に命じています。源氏に政権が移れば平家は没落するからです。
義経は治承・寿永の乱による一連の戦いを、武家の政権争いではなく親の仇という私怨という枠組みで考えていました。この点が義経の限界だったと言えるでしょう。
源義経のエピソード・伝説
天才的な戦術
義経は治承・寿永の乱で天才的な戦術を披露しています。
一ノ谷の戦い
義経は「鹿も馬も足は四本。鹿が下れるなら馬も下れる」と平家が構える陣の後方にある崖を下り、奇襲を仕掛けています。後世には「鵯越の逆落とし」も呼ばれており、平家の没落を決定つけました。
屋島の戦い
一ノ谷の戦いで敗北した平家は四国の屋島に逃亡し、陣を構えます。干潮時に馬で屋島に渡れる事を知った義経は奇襲を断行。更に周辺の民家に火をつけ、大軍と錯覚させて平家を混乱させました。
壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦いは周知の通り海上戦でした。関門海峡の潮の流れに最初は翻弄される義経ですが、義経は船を操縦していた平家方の水夫を射殺し、平家方の指揮系統を混乱させたとされます。
水夫は非戦闘員であり、彼らを狙うのはタブーであると暗黙の了解があったそうですが、義経は「勝てば官軍」と考えていたのかもしれません。義経の一連の戦いをみて分かる通り、戦術的には奇襲が得意だったようですね?
ただ一連のエピソードは平家物語や義経記等に記述があるものの、創作の可能性も高いと言われています。どこまでこれらの戦闘が行われたのかははっきりしないのです。
源義経はイケメンだった?
義経は歌舞伎や猿楽等の題材に選ばれる事が増えていき、現在に至るまでイケメンというイメージが定着しています。ただ当時の義経の容姿等を評した資料はない為、実際の義経がイケメンだったかは分かっていません。
平家物語では「色白で背の低い男で出っ歯」、義経記では「女と見まごうような美貌」、源平盛衰記では「色白で背が低く、物腰も優雅である」と称されています。これらは軍記物で一級史料とは言いがたいのです。
義経の容姿について分かる資料が見つかる事を望むばかりですね。
源義経の数々の伝説的なエピソード
義経は戦や容姿の他にも様々な伝説的なエピソードがあります。これは義経が優れた軍才を持ちつつも、若くして非業の死を遂げた点が人々の同情を買ったからです。
義経は英雄化されると共に、様々な架空の物語や伝説が付け加えていきました。
有名な伝説的なエピソードは以下の通りです。
・義経は衣川で死なず、蝦夷(北海道)へ落ち延びた。更に海を越えてチンギスカンになった。
・壇ノ浦の戦いで義経は八艘飛びを披露し、船から船への飛び乗った。
・鞍馬寺に預けられた時に天狗と会い、武芸を伝授してもらう。
他多数あります。
源義経の性格
その悲劇的な最期と後世の創作、判官贔屓の風潮も相まって、義経は「兄を慕う健気な青年」と思われがちです。ですが、実際の義経はかなりの野心家だったと言われています。
平家物語でも「命がけで平家を倒したのだから、関東は当然ながら私のものだ」と述べています。また後白河法皇から官位を貰ったのも、清盛のような形で映画を築こうとした為だと言われます。
後に頼朝と義経が対立した時、武士達の多くは頼朝につき、義経の味方はほとんどいませんでした。頼朝が武家の棟梁として武士の恩恵を保証した為です。史実と創作における義経には大きな隔たりがありそうです。
源義経の名言
義経は行動や言動は伝説に彩られた創作も多い為、「本当にこのように述べた」という確証はありません。今回は創作も含めた上で、義経の名言について解説します。
勝つということは味方に勝つ事である。味方に勝つというのは我に勝つ事だ。我に勝つというのは、気をもって体に勝つ事である
義経が歴戦に勝利した理由はこの名言に集約されています。実際、義経の無茶な作戦は多くの味方から反発を受ける事もありました。しかし義経は主張を押し通し、勝利に貢献しています。味方に勝つ、そして勝利を得る為には己の精神も強くなくてはいけません。
この義経には武功はあっても、過ちを犯したことはありません。兄君の御勘気を蒙るに及び、この義経、空しくて涙に血が滲む思いで過ごしております。
腰越状の一文です。義経は自らの武功を賞賛する一方で、何故頼朝が自分を冷遇するのかという理由は分かっていません。腰越状は義経の性格や思想が分かると共に、義経の限界が分かる名言でもあるのです。
源義経の家族や子孫
義経には正妻の他に2人の側室がいたとされます。それぞれの歩みを解説していきますね。
郷御前(1168〜1189年)
義経の正室であり、系譜は武蔵国の豪族・河越重頼の娘とされます。義経に嫁いだのは1184年と頼朝と義経が対立し始めた頃です。郷御前は頼朝側のスパイという説もありましたが、婚姻は元から決まっていたともされます。
郷御前は1187年に義経が奥州に行く時に1186年に産まれた娘と随行。1189年の衣川の戦いで、自らの死を悟った義経に娘と共に殺害されています。
静御前(生没年不詳)
義経が京在住中に妾になりました。義経が京を追われた時に静御前も随行しましたが、奈良の地で義経から京に戻るように命じられ、袂を分かちました。
文治2年(1186年)3月に鎌倉に送られ、頼朝達から取り調べを受けています。この時に静御前は妊娠しており、頼朝から「女子なら助けるが、男子なら殺す」と命じられていました。
閏7月29日に静御前は男児を産み、その赤子は由比ヶ浜に沈められています。静御前はこの時に泣き叫んで赤子を離さなかったそうです。
9月に静御前は京に返されますが、その後の消息は分かっていません。入水した、義経を追って客死したとも言われています。
蕨姫(生没年不詳)
平家の重鎮・平時忠の娘です。平家が壇ノ浦で滅亡した時に、捕虜として生き残った時忠が、保身の為に差し出したという経緯がある為、ほとんど情報がありません。
義経の子孫
義経の子は郷御前との間に出来た女児、静御前との間に出来た男児がいる事は確定しています。その他、清和源氏系図には千歳丸と言う男児が衣川の戦いで誅されたとの記載がありますが、真偽は不明です。
幼くして皆、戦乱に巻き込まれて亡くなった結果、義経の血筋は断絶しています。
源義経の関連人物
義経はその短い生涯のうちに多くの人達と関わっています。代表的な関連人物を解説していきます。
源義経と源頼朝の関係|仲が悪くなった理由
頼朝と義経は異母兄弟です(頼朝の母親は由良御前で義経の母親は常盤御前)。年齢差は12歳もあり、義経は2歳の頃に頼朝は伊豆へ、義経は大和国に落ち延びています。
頼朝と義経が再開するのは頼朝の挙兵の時です。ただ離れていた期間も長く、両者の間には「兄弟」という絆は殆どなかったのかもしれません。
仲が悪くなったのは前述した通り、頼朝と義経の考え方の違いです。頼朝が武家政権を作る為に奔走する中、義経は対立相手であるはずの後白河法皇から勝手に官位や役職を貰っています。
義経は戦い上手ではあっても、政治的な駆け引きは苦手でした。この考えの違いが、2人の仲が悪くなった原因です。
源義経と弁慶の関係|安宅の関の逸話の真相
義経の相棒といえば弁慶が有名ですが、史実には弁慶の記載は殆ど見られません。鎌倉時代に執筆された「吾妻鏡」では、義経が京から落ち延びた時に「弁慶」という僧侶がいたと書かれているものの、外見の特徴や弁慶の生い立ち等は触れられていないのです。
弁慶と義経にまつわる有名な逸話には以下のものがあります。
・京都の五条大橋を渡る義経(当時は牛若丸)が弁慶を打ち負かし、弁慶は義経の家来となった。
・義経が平泉に落ち延びる時、安宅の関という関所で正体がバレそうになったが、弁慶が義経を叱り杖で殴る芝居をして難を逃れる。役人は義経の正体を見抜いていたが、主君を思う弁慶に騙されたふりをした。
等です。弁慶は衣川の戦いでは義経のいる建物を守る為、多くの矢を射抜かれました。弁慶は立ったまま亡くなったとされます。これらは全て創作の域を出ていません。ただ弁慶という僧侶が、義経に付き従った事だけは間違いありません。
源義経と常盤御前の関係|清盛の子を産む?
常盤御前は義経の母親です。史実では平治の乱の後に一条長成との間に一条能成を設けています。一条長成は奥州藤原氏とも関わりがあり、義経が奥州で庇護を得たのも一条長成が影響しているともされます。
一方で常盤御前は清盛の庇護を求める為、清盛の妾となり女児をもうけた事が平家物語には記載されているものの、伝説の域を出てきません。
源義経のゆかりの地
牛若丸誕生井
義経生誕の地。この地にはかつて父・義朝の屋敷があり、洛北の名所とも呼ばれる地域でした。すぐ隣には胞衣塚というへその緒と胎盤が埋められた塚もあります。
住所:京都市北区紫竹牛若町
鞍馬寺
平治の乱を経て義経が預けられた寺です。天狗を相手に剣術の修行をした等、数々の伝説があります。毎年9月15日には「義経祭」が開催され、義経を偲んでいるそうです。
住所:京都市左京区鞍馬本町1074
壇ノ浦古戦場跡
治承・寿永の乱の最期の戦いである壇ノ浦の戦いの跡地です。現在は古戦場の近くにみもすそ川公園があり、義経と平知盛の銅像が建てられています。
住所:山口県下関市みもすそ川町1番
高館義経堂
義経最期の地・衣川館に建てられたものです。高館義経堂は1683年に仙台藩4代藩主・伊達綱村の命で建てられました。御本尊は木造の源義経公像であり、併設されている資料館には貴重な資料がたくさんあります。
皆さんも興味があれば、ゆかりの地を是非訪れてみましょう。
源義経の関連作品
書籍・本・漫画
源義経/五味文彦
平安時代・治承・寿永の乱研究の第一人者である五味文彦による研究書。当時の資料をもとに本来の義経像をあぶり出した一冊です。より踏み込んで義経を学びたい人にオススメです。
https://www.amazon.co.jp/源義経-岩波新書-五味-文彦/dp/400430914X
源義経/司馬遼太郎
義経を主役にした司馬遼太郎の小説。司馬は義経を戦術的には天才、政治的には阿呆であると捉えています。躍動感のある戦闘を経て、徐々に追い詰められていく過程は、読み手に焦燥感を与えます。
義経を主役にした小説を読みたいなら、是非オススメしたい一冊です。
遮那王義経/沢田ひろふみ
牛若丸に瓜二つな少年が身代わりとなり、打倒平家に関わっていくストーリーです。作者は山賊王等の鎌倉末期の作品も世に送り出しており、その世界観は圧巻です。
この他に義経を主人公にした作品として、チンギスハンとなった義経を描いた「ハーン -草と鉄と羊-」や歴史上の人物が異世界で闘う「ドリフターズ」等の異色な作品もありますね。
動画
こちらは義経の生存説に言及した動画です。興味がある方は視聴してみてくださいね。
大河ドラマ
平安末期を題材にした作品では義経は大抵出てきますが、従来のイメージを踏襲する為にイケメンの俳優が起用される事が多いですね。
義経(2005年)
義経を主役にした作品であり、滝沢秀明か義経を演じました。ディレクター・黛りんたろうの意向により「美しい映像」に拘った作品となっており、桜、金粉、紅葉を撒き散らす大胆な演出がされています。
平清盛(2012年)
平清盛を主役にした作品であり、義経を演じたのは神木隆之介です。神木は「義経」で幼少期の義経を演じた事で話題になりました。ドラマ自体は清盛と義朝・頼朝の対立軸がメインだった為、義経による派手な戦闘場面はあまりありません。
ただ弁慶との出会い、義経の最期の場面等は躍動感のある戦闘が光りました。
鎌倉殿の13人(2022年)
2022年に予定されている北条義時を主役にした作品であり、義経を演じるのは菅田将暉です。近年クローズアップされている「戦闘に特化しているが、政治面の才能は皆無だった」という義経像をうまく演じてくれそうですね。
源義経についてのまとめ
今回は源義経について解説しました。義経は優れた軍略家であるものの、結局は頼朝と対立して自害しています。悲劇のヒーローと思われがちですが、史実を紐解くと必ずしもそうとは言えない部分もあるのです。
ただ義経が平家を壇ノ浦の戦いで滅ぼし、鎌倉幕府の創設に大きな影響を与えた事は間違いありません。そういう意味でも義経は日本史における重要な存在と言えそうです。今回の記事を通じて義経の生涯に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/源義経
https://history-land.com/minamoto_no_yoshitsune/
http://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/genpuku/zenkoku.html
源義経/五味文彦