白虎隊とは?城や飯盛山の伝説やエピソードのまとめ

白虎隊は会津藩が戊辰戦争の際に、新政府軍の襲来に備えて結成された組織です。会津藩の15歳から17歳の少年を中心として結成されました。戦争の際に、多くの若い命が失われており、戊辰戦争における悲劇の象徴として語り継がれています。今回は白虎隊にまつわるエピソードについてお伝えしていきます。

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白虎隊とは?


(白虎隊像(福島県・会津若松市)出典 Wikipedia)

白虎隊は会津藩が戊辰戦争の際に、新政府軍の襲来に備えて結成された組織です。戊辰戦争は新政府軍(薩摩・長州・土佐等)と旧幕府軍(幕臣や奥羽列藩同盟)との内戦です。会津藩は旧幕府軍派の筆頭であり、新政府軍に対し徹底抗戦を貫きました。

戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いで、旧幕府軍は敗北。会津藩首脳は新政府軍が会津藩にまで襲来する事を予想して、藩内で軍隊を編成します。

軍は年齢別に分けられ、名前は中国の伝説上の神獣からつけられました。

玄武隊(約400名)…50歳以上の予備隊
青龍隊(約900名)…36~49歳までの国境守備隊役
朱雀隊(約1200名)…18~35歳までの主力実戦部隊
白虎隊(343名)…16~17歳までの予備隊
その他白虎隊より下の年少組として従事する者がいました。

白虎隊を含めた各部隊はは会津藩士(武士)が担っており、その中でも身分の差によって隊は分かれていました。白虎隊の場合は、士中白虎隊・寄合白虎隊・足軽白虎隊となっています。白虎隊が年齢の割に人数が多いのは、年齢を偽って所属した者もいたからです。最年少は13歳でした。

上記の説明に書かれている予備隊とは、警護などの役割をする事を指しています。戊辰戦争では高齢者、子どもは本来は戦線には加わらない予定でした。しかし予備隊のはずだった白虎隊も、会津戦争の戦局悪化により、戦局に加わる事となり、多くの犠牲が出る事となりました。

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会津藩の歴史

まず最初に何故会津藩は新政府軍に徹底抗戦を貫いたのか、その理由を知る必要がありますね。会津藩の歴史について説明していきます。

保科正之の遺訓


(保科正之像 出典 Wikipedia)

会津藩初代藩主の保科正之は徳川2代目将軍の徳川秀忠の隠し子であり、家光の異母弟でした。1623年に保科正之は家光の推薦で会津藩主となり、様々な善政を行います。彼は日本史上、屈指の名君と言われています。彼は徳川家に多大な恩があり、家臣や子孫に対して家訓を残していました。

十五条からなりますが、
一条目は会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない となっていました。
他の部分は割愛しますが、兄を敬い、弟を愛すようにと言った常識的なものから、婦人女子の言一切聞くべからずといった封建社会ならではのものもありました。

以後歴代の会津藩主、家臣はこの家訓を守る事を誓いました。

松平容保が藩主となる


(松平容敬像 出典 Wikipedia)

時代が進むと日本は諸外国からの脅威に晒されるようになります。

1846年に松平容保は8代藩主の容敬の養子となり、神道や儒教、会津藩の家訓等を教え込まれまれます。これが容保の行動理念となります。1852年に容敬は没し、容保は9代藩主となります。

京都の街は尊王攘夷派の志士が不穏な動きをするようになり、1862年に松平容保は京都守護職に任命されます。会津藩の財政は火の車であり、容保は就任を再三固辞しますが、幕府は会津藩の家訓を引き合いに出し、断れない状況を作りました。

長州の恨みを買った


(松平容保 出典 Wikipedia)

容保は新撰組を指揮下におき、池田屋事件や禁門の変等で長州藩を追い詰めます。後に大政奉還に徳川幕府が崩壊し、王政復古の大号令により明治政府が発足。京都守護職は廃止されます。
その後、戊辰戦争の始まりである鳥羽伏見の戦いが勃発。会津藩は幕府軍の先鋒として働きますが敗北します。会津藩は朝敵とみなされました。

会津戦争勃発


(会津戦争 出典 Wikipedia)

容保は鳥羽伏見の戦いの敗戦後、会津に戻り謹慎します。しかし新政府軍は容保の首を要求してきたのです。会津の士族達は新政府軍を受け入れられないと主戦派が占めていました。幼い頃から会津藩氏は家訓を徹底的に教え込まれており、ここでも会津の家訓が足かせとなっていたのです。

その後、他にも新政府軍に対して抗戦する事を決めた東北諸藩は奥羽列藩同盟を組み、新政府軍と対立します。新政府軍は徐々に東北へ進出し、後に会津戦争が勃発するのです。

会津戦争では新政府軍75000 旧幕府軍10000(会津藩 3500、他の奥羽列藩同盟軍 6500)と兵力も兵器も新政府軍が圧倒的に有利でした。戦死者は新政府軍は殆ど被害はなく、旧幕府軍は女子供も含め3000人もの犠牲者が出ました。

新政府軍は白河口の戦い(1868年6月10日〜8月31日)で白河城を、二本松の戦い(9月15日)で二本松城を落城させます。ついには母成峠の戦い(10月8日)で会津藩の藩境まで辿り着きます。松平容保は会津の兵力をかき集め、戦争に加わるよう通達を出します。戦闘に加わるはずのなかった白虎隊も戦争に参加する事になったのです。

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白虎隊と飯盛山


(飯盛山より望む会津若松市街地 出典 Wikipedia)

飯盛山は、会津若松の市街から東側に位置する標高314mの山です。由来は飯を盛ったような形をしていることからです。

新政府軍と、白虎隊を含めた旧幕府軍は激しく戦いますが、各地で劣勢となります。白虎隊1番隊は松平容保の護衛の任につき、2番隊は戸ノ口原で新政府軍と戦いますが、敗走します。この時に3名の白虎隊士が戦士。残った隊士は飯盛山へ逃げ込みました。

飯盛山に逃げ込んだ白虎隊士は20人(7人、15人等諸説あり)は、もはや戦えないと悟り、自刃を決行します。唯一生き残った飯沼貞吉を除き、皆亡くなりました。これは会津藩の悲劇の象徴として語り継がれています。

何故自刃したのか


(自刃の地から見る鶴ヶ城(望遠画像)出典 Wikipedia)

通説では鶴ヶ城周辺の火災をみて、鶴ヶ城が燃えていると誤認しての自刃と言われていました。2008年に唯一生き残った飯沼貞吉の生家で「白虎隊顛末略記」という資料が見つかり、そこでその時の全貌が分かりました。

彼らは鶴ヶ城に戻って戦う者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者に分かれ、激論を交わしたそうです。「新政府軍に捕まり生き恥を晒す位なら」と武士の本分を明らかにする為に自刃する道を選んだそうです。

白虎隊と鶴ヶ城


(損傷した若松城(会津戦争後撮影)出典 Wikipedia)

鶴ヶ城は別名を若松城と呼びます。地域の名前がついているので、若松城の方が馴染み深いかもしれません。若松城という名前の城が他にもある為、区別をつける為に会津若松城と呼ぶ事もあります。地元では鶴ヶ城と呼ばれます。

鶴ヶ城での籠城戦

会津藩境を新政府軍に破られた旧幕府軍は、鶴ヶ城での籠城を決行します。籠城戦は本来は味方からの援軍が来て後詰めをしたり、敵が諦めて撤退させる事が本来の目的です。他の奥羽列藩同盟の藩も次々と降伏し、新政府軍は次から次へと援軍を派遣する状態では籠城は最後の足掻きそのものでした。

鶴ヶ城に籠城していた人達は5000人程。その中の200名以上は白虎隊士でした。その他にも女性や子ども、老人までもが戦闘の他、食事の提供やけが人の介抱などの仕事に携わり、1ヶ月もの籠城に耐えたのです。

戊辰戦争の最中、白河城や二本松城はわずか1日で落城しましたが、鶴ヶ城は1ヶ月もの間、籠城を続ける事が出来ました。要因として

・鶴ヶ城の壁は鉄板が張り詰めてあり、砲弾を寄せ付けない程頑丈だった

・城の南側の補給路は降伏直前まで会津藩が確保しており、食料や人の出入りが行えたから(中には必要なものを取りに家を往復していた人もいた)

・白虎隊を始めとした籠城内の士気が非常に高かったから

等が挙げられます。

降伏

新政府軍は、松平容保の処刑、武装解除、会津藩の解体を会津藩に迫っていましたが、松平容保の処遇を謹慎、会津藩は斗南藩へ転封と、条件を緩和します。実際には容保の代わりに切腹した家老がいましたが、会津藩は1ヶ月の籠城の末、降伏します。藩士達はそれぞれの地へ向かい、生きていきます。

白虎隊は一部では飯沼貞吉を除き、全員が自刃したと勘違いされがちですが、自刃したのは飯盛山に逃げ込んだ2番隊のみです。実際には343人の白虎隊士の内、270名以上は会津戦争を戦い抜きました。

白虎隊のエピソード

生き残った隊士

・飯沼貞吉

(晩年の飯沼貞吉 出典 Wikipedia)

飯盛山で自刃した白虎隊士の唯一の生き残りです。当時の年齢は14歳であり、年を偽っての参戦でした。自刃の際は喉をつきましたが、急所が外れたのか、一命を取り留めました。
その後、長州藩士である楢崎頼三に引き取られます。何度も自殺を図る貞吉ですが、頼三に諭され勉学に励むようになりました。後に電信技師となり、日清戦争にも出征しています。出征中に戦争は危険だからとピストルを渡された際に「私は白虎隊で死んでいるはずの人間です」と断ったエピソードがあります。昭和6年に76歳で亡くなりました。

・酒井峯治
飯沼貞吉と同じく2番隊に属していましたが、撤退の際に仲間と逸れ、飯盛山には辿り着けませんでした。その後農民の助けを借りて鶴ヶ城に帰還して、籠城戦を戦います。
維新後は精米業を営み、昭和7年に79歳で亡くなりました。死後酒井家の仏壇から、鶴ヶ城への帰還等を克明に記した記録が見つかりました。

・山川健次郎

(山川健次郎 出典 Wikipedia)

白虎隊の年少組として参加し、籠城戦を最後まで戦いました。後に技術者養成の留学でアメリカに渡り、明治12年日本最初の物理学の教授となります。明治34年東京帝国大学総長に選ばれます。朝敵と言われた会津から総長に就任した事で旧会津藩の関係者は涙を流しました。その後も貴族院議員等を歴任し昭和6年77歳で亡くなりました。

会津戦争を戦い抜いた白虎隊の生き残り達は、その後を懸命に生きて、新しい日本を支えて行ったのです。

白虎隊と新撰組


(土方歳三 出典 Wikipedia)

白虎隊士は、京都で治安維持に関わる新撰組に対して尊敬の念を持っていました。彼らが実際に新選組に会ったという確実な証拠はありません。
一説では会津戦争の最中に、白虎隊士が関門を通過しようとした際に、土方歳三が不審者と思い
少年たちに銃口を向けたという話が伝わっています。その晩に土方の宿舎に隊士が上がり込み、実戦談に一喜一憂したそうです。

白虎隊の日


(ローマ市寄贈の碑 出典 Wikipedia)

8月23日は白虎隊の日と言われています。この日は飯盛山で白虎隊士が自刃した日です。

別の日ですが、毎年4月24日と9月24日に白虎隊の墓前にて墓前祭と、会津の高校生による白虎隊剣舞の奉納が行われています。

墓前祭は1時間ほど、剣舞は20分程です。参拝の為に訪れてはいかがでしょうか。

白虎隊に女性はいた?

記録では白虎隊に女性が在籍していた記録はありません。しかし女性も武器を持ち、戦争に参加していました。有名なのは断髪男装して、スペンサー銃を持って奮闘した新島八重でしょうか。他にも女性で戦闘に参加した人達がいたのです。

婦女隊


(中野竹子 死後に描かれた肖像画 出典 Wikipedia)

新政府軍が鶴ヶ城に侵攻してきた際に、松平容保の義姉照姫が会津坂下に避難しているという情報が流れました。それを元に結成された約10名の女性だけの防衛隊です。実際には照姫は鶴ヶ城内におり、城外にはいませんでしたが、帰宅後に城は閉ざされていた為、そのまま戦闘に参加しました。
彼女らは薙刀を持って奮戦しますが、隊長とされる中野竹子は銃弾を受けて戦死。首を新政府軍に持ち去られるのを良しとせず、妹の優子は生き絶えた竹子を介錯し、首を持ち帰ったそうです。他にも数名の戦死者、自決者を出しました。
八重の桜では中野竹子を黒木メイサさんが演じていました。

白虎隊にゆかりのある地

日新館


(會津藩校日新館 出典 Wikipedia)

日新館は会津藩にあった藩校です。1803年に会津藩家老の田中玄宰の提言によって建てられました。この藩校は藩士やその子弟、さらに庶民が通う事が出来、文字や礼式、兵学等を学ぶ事が出来ました。日本最古のプールもあったそうです。10歳になると子ども達は日新館に通います。白虎隊士は皆、ここで学問を学んでいたのです。
日新館は会津戦争の最中に焼失しますが、1987年に復元されます。こちらは博物館の他、道場や弓道場、研修場や宿泊施設も兼ねています。

飯盛山


(現在の飯盛山の入り口付近 出典 Wikipedia)

白虎隊2番隊士が自刃した場所です。明治2年に墓地が作られます。その後明治23年になり自刃した隊士を19名と決定。19士銘々のお墓が建ちました。一命を取り留めた飯沼貞吉のお墓も昭和32年にここから少し離れた場所に建てられています。

旧滝沢本陣


(「旧滝沢本陣横山家住宅」の主屋 出典 Wikipedia)

会津と白河を結ぶ白河街道に作られた本陣です。飯盛山のふもとにあります。会津戦争ではここが会津の陣頭指揮の本陣となりました。白虎隊もここで命をうけて戸ノ口原戦場へと出陣していきました。

現在でも当時の姿のまま残されており、銃弾の跡が惨状を物語っています。国の重要文化財に指定されています。内部には歴代藩主の愛用品等も展示されており、貴重な資料を見る事が出来ます。

鶴ヶ城


(若松城(外観復元天守)出典 Wikipedia)

白虎隊達が降伏するまで戦った鶴ヶ城です。明治7年に取り壊されましたが、昭和40年に再建されます。平成23年には当時の天守を再現した赤瓦となりました。再建された鶴ヶ城は再び会津若松のシンボルとなっています。

参考文献

https://nisshinkan.jp/about
https://www.jiji.com/sp/v4?id=201808byakkotai0009
https://kusanomido.com/study/history/japan/bakumatu/22595/#i-4
中村彰彦 <増補決定版> 白虎隊 (PHP文庫)
星 亮一 会津落城―戊辰戦争最大の悲劇 (中公新書)

最後に


(会津藩殉難烈婦碑 出典 Wikipedia)

農民にとっての会津戦争

会津藩は身分制度が厳しく、武士という特権階級の元、搾取される農民という構図がありました。松平容保が京都守護職に任命された時、既に会津藩は火の車でした。それを補う為、会津の農民達は更に税を取られました。
会津戦争では、会津藩によって家を燃やされたり(新政府軍の拠点確保を阻止する為)、軍資金確保の為に財産を奪われた町民もおり、新政府軍に進んで協力した人もいたのです。農民町民は、征服者である新政府軍を官軍と呼び、会津藩士を会賊と呼び捨てにしました。会津戦争は会津藩士達が武士の特権を守る為に戦った一面があるのも事実です。

悲劇であれど美談にはしてはならない

会津戦争では白虎隊等、多くの命が失われました。全てが避けられなかったものかというと私はそうは思いません。会津戦争自体が会津藩の首脳部が無計画に戦争を進めていった結果に他なりません。白虎隊や婦女隊等、本来守られる立場にある人々が戦争に参加して命を落とした事は、会津藩に責任があったと思います。白虎隊の集団自決は悲劇ではあれど、徳川家に忠義を尽くした美談にしてはいけません。

もし貴方が19士銘々のお墓を訪れる事があれば、是非彼らの冥福をお祈りください。

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