徳川慶喜は江戸幕府最期の将軍を務めた人物です。彼が将軍在任中に行った大政奉還により政権は天皇に奏上され、幕府は終わりを迎えました。慶喜の将軍就任期間はたったの1年。慶喜は江戸幕府の最期を担う為に生まれてきた人物なのです。
教科書で必ず取り上げられる人物ですが、その生涯について知らない人も多いでしょう。今回は慶喜の人物像や生涯などについて詳しく紹介していきます。
目次
徳川慶喜のプロフィール
氏名 | 七郎麻呂→ 松平昭致 → 徳川慶喜 |
---|---|
通称・あだ名 | ケイキ様・家康公の再来 |
出生日・誕生日 | 天保8年(1837年)9月29日 |
出生地 | 江戸・小石川の水戸藩邸 |
死没日 | 大正2年(1913年)11月22日 |
死没地 | 東京都文京区 |
血液型 | AB型 |
身長 | 150cm(推定) |
配偶者 | 正室 一条美賀子 側室 一色須賀、新村信、中根幸、お芳 |
徳川慶喜の人生年表・生涯
徳川慶喜の人生年表(幼少期から蟄居処分まで)
年 | 出来事 |
---|---|
天保8年(1837年) | 徳川慶喜誕生 |
弘化4年(1847年) | 一橋家を相続し、慶喜と名乗る |
嘉永6年(1853年) | 黒船来航 次期将軍の有力候補なる |
安政2年(1855年) | 一条美賀子と結婚 |
安政6年(1859年) | 安政の大獄で蟄居処分を受ける |
徳川慶喜誕生
慶喜は江戸・小石川の水戸藩邸で、水戸藩九代藩主・徳川斉昭の7男として生まれます。斉昭は「子女は江戸の華美な風俗に馴染まぬように国許(水戸)で教育する」という水戸藩の方針に則り生後7ヶ月の慶喜を水戸に連れていきました。
慶喜は幼き頃から聡明と知られ、将軍家の有力な候補になる御三卿の一橋家に養子になります。この時に慶喜は十二代将軍家慶から「慶」の字を賜り、慶喜と名乗ります。それ以前は松平昭致という名前でした。
将軍継嗣問題と安政の大獄
嘉永6年(1853年)に黒船が来航。ペリーは幕府に開国を迫りました。この混乱の最中に家慶が死去。次期将軍は徳川家定となります。ただ家定は病弱で言動も定かではなく、実子もいませんでした。
次期将軍候補の擁立が急務となり、島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭達は「大事に対応できる将軍を擁立するべき」と慶喜を次期将軍候補に推しました。対して井伊直弼等の保守的な譜代大名は「血筋を優先するべし」と主張し、従弟の紀州藩主徳川慶福を次期将軍に推したのです。
やがて安政5年(1858年)に家定の病状が悪化。この頃に井伊が大老に就任すると、幕府は家定の名で後継者を慶福にする事を決定します。その後、行われた大弾圧・安政の大獄で慶喜は蟄居処分を受ける事になり、自宅で謹慎する日々を送りました。
徳川慶喜の人生年表(文久の改革から戊辰戦争まで)
年 | 出来事 |
---|---|
文久2年(1862年) | 文久の改革で将軍後見職に任命される |
元治元年(1864年) | 禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に就任 |
慶応2年(1866年) | 徳川宗家を相続。その後十五代将軍に就任 |
慶応3年(1867年) | 大政奉還 王政復古の大号令 |
慶応4年(1868年) | 鳥羽伏見の戦い後に謹慎する |
文久の改革で表舞台に
文久2年(1862年) に薩摩藩主の父親の島津久光が兵を率いて上京し、幕府に様々な改革を要求します。いわゆる文久の改革です。その中で久光は慶喜を「将軍後見職」に、松平春嶽を「政事総裁職」に任命しました。
慶喜と春嶽は久光の要望した、参勤交代の緩和や国防の強化などの政策を行っていきます。
禁裏御守衛総督となる
ただ慶喜は外様大名の薩摩藩が文久の改革の一件のように、徐々に発言権を持ち始めた現状に警戒感を抱いたそうです。
当時の京都は尊王攘夷派の志士が暗躍し、京都の治安が悪くなっていました。薩摩藩は京都にいる孝明天皇への影響力を増していく事を画策。慶喜はそれを牽制する形で元治元年(1864年) に禁裏御守衛総督という役職に就任します。これは京都の治安を守る事を目的としていました。
慶喜は、京都守護職に任命されていた会津藩主の松平容保らと京都で勢力を拡大。幕府と離れ、半ば独立した勢力を確立しています。
7月には京都での復権を狙った長州藩士による禁門の変が勃発。慶喜は御所守備軍を指揮し、戦渦の真っ只中を刀を交えて戦っています。禁門の変は慶喜のおかげで幕府側の勝利となり、慶喜は孝明天皇から信頼されていきました。
十五代将軍に就任
慶応2年(1866年)の6月から行われた第二次長州征伐は、幕府側が終始劣勢を強いられます。これはその少し前に薩摩藩が長州藩と薩長同盟を締結し、秘密裏に支援していた事も要因でした。
その最中の7月20日に十四代将軍の家茂が薨去。長州征伐は将軍の死を理由に休戦となりますが、幕府が雄藩に事実上敗北した事は、幕府の権威を失墜させました。
慶喜は8月20日に徳川宗家を相続するものの、周囲からの要請である将軍職を固辞。慶喜は12月5日にようやく将軍に就任したのです。
大政奉還
ところが12月25日に慶喜の後ろ盾だった孝明天皇が崩御。慶喜の政権は最初から苦境に立たされる事になります。慶喜は後述する慶応の改革を行い、幕府の立て直しを図るものの、幕府の弱体化を止める事は出来ませんでした。
薩摩藩と長州藩による武力討幕が現実路線になる中、慶喜は幕府は土佐藩の元藩主・山内容堂から「大政奉還の建白書」を提言されます。
もともと幕府は「朝廷から政権を委任されている」という建前で政権を担ってきました。大政奉還は政権を朝廷に返上する事であり、慶応3年(1867年)10月14日に大政奉還は実施されました。260年以上続いた江戸幕府は終わりを迎えたのです。
ただ大政奉還は慶喜の作戦でした。慶喜は薩摩藩長州藩による武力討幕に対する大義名分を失わせる為に大政奉還を行いました。また仮に政権を朝廷に返上しても、朝廷には政権を担う制度も人材もなく、引き続き徳川家が政権を担うと考えたのでした。
王政復古の大号令と戊辰戦争
ただあくまでも自分達が政権の実権を握りたいと考えた薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛、公家の岩倉具視達はクーデターを画策します。12月9日には明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられ、以下の事が決められます。
- 慶喜の将軍職辞職を勅許
- 京都守護職・京都所司代の廃止
- 幕府の廃止
- 摂政・関白の廃止
- 新たに総裁・議定・参与の三職をおく
また慶喜の辞官納地(慶喜の内大臣を辞任し、幕府領を没収する事)が決められました。この王政復古の大号令には旧幕臣だけでなく、多くの藩主から反対の意見も出ました。追い詰められたのは、大久保や岩倉だったのです。
やがて新政府軍は旧幕臣を挑発する形で、慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽伏見の戦いを引き起こします。鳥羽伏見の戦いで慶喜は大阪城に陣を構えていました。
慶喜は旧幕府軍が不利になった事、新政府軍が錦の御旗を掲げたという知らせを聞きました。錦の御旗とは天皇から官軍の大将に与える旗の事であり、旧幕府軍が朝敵(朝廷に刃向かう賊軍)になった事を意味しました。
慶喜はそれを聞くと、僅かな側近を連れて大阪城から江戸城に敵前逃亡してしまいます。慶喜が逃亡した事を聞き、旧幕府軍の戦意は喪失。鳥羽伏見の戦いは旧幕府軍の敗北に終わりました。
ただその後も、旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争は続きます。慶喜はその間、ずっと恭順の意を示し、謹慎を続けたのでした。
徳川慶喜の人生年表(晩年)
年 | 出来事 |
---|---|
明治2年(1869年) | 謹慎解除 |
明治30年(1897年) | 東京巣鴨に移住 |
明治35年(1902年) | 徳川慶喜家を興す 貴族院議員に就任 |
明治43年(1910年) | 慶久に家督を譲り隠居 |
大正2年(1913年) | 死去 (享年77) |
明治維新後の徳川慶喜
明治2年(1869年) 9月に戊辰戦争は新政府軍の勝利に終わります。慶喜は特に政治的野心を持たず、潤沢な隠居手当を貰いながら静岡で、悠々自適の生活を送りました。
地元では「ケイキ様」と呼ばれて親しまれていたようです。その後慶喜は明治30年(1897年)11月に東京の巣鴨へ、明治34年(1901年)12月に現在の文京区へ移り住んでいます。
明治35年(1902年)には公爵となり、慶喜は貴族院議員となります。30年を経て慶喜は政治の世界にも関わる事になりました。ただ既に政治に興味はなかったのか、明治43年(1910年)には議員を辞職して隠居しています。そして再び、趣味に没頭する生活を送ったのです。
徳川慶喜の死因と最期
慶喜は風邪からくる肺炎を発症し、大正2年(1913年)11月22日に死去します。享年77歳。これは歴代将軍の中で、最も長寿です。
大正2年は寒い年で、11月20日の葬儀の頃には雪が降り、地面は凍結していました。それでも慶喜の葬列を見送る為に、多くの人達が足を運んでいます。
慶喜の死は「江戸時代の名残が終わった」事を示す象徴的なエピソードであり、人々を感傷的にさせました。
徳川慶喜の性格
どこか冷めた性格だった
慶喜は幼少期から聡明かつ冷静な性格でした。父斉昭が慶喜の寝相を治す為、枕の両端に剃刀を立てて寝かせていた事があります。慶喜は「寝ている時に剃刀を外すんだろう」と考える等、客観的に物事を判断出来る性格でした。
やがて将軍継嗣問題が起きた時、慶喜は将軍職に擁立されます。その頃に慶喜が斉昭に宛てた手紙には「将軍に成って失敗するより、最初から将軍に成らない方が良い」といった内容の事が書かれているのです。
また明治期に一切政治的野心を持たなかったのも、冷静な性格が関係しています。下手に自分が何かを主張する事で、新たな政治的混乱が起きるかもしれません。冷静に身を引く事で、慶喜は趣味に没頭する日々を手に入れたのです。
徳川慶喜の功績と評価
新政府に恭順の意を示し、江戸を戦火から救う
鳥羽伏見の戦いで慶喜は戦局が不利になった途端、敵前逃亡しています。慶喜は旧幕臣から激しい非難を浴びましたが、謹慎を続けました。
この間に西郷隆盛ら新政府軍は、江戸に総攻撃をする事も構想していたのです。結果的に江戸城は旧幕臣の勝海舟の交渉により、新政府軍に明け渡されました。
もし慶喜が徹底抗戦を訴えていたら、江戸の町はどうなっていたでしょうか?江戸は火の海になっていた事は間違いありません。慶喜は(理由がどうであれ)新政府軍に恭順の意を示した事で、争いを未然に防ぎました。
かつては非難された敵前逃亡も、今では国内の内乱を最小限にとどめたという点で評価されているのです。
慶応の改革
慶喜は将軍に就任した際に「慶応の改革」を行なっています。これはフランス公使・ロッシュの助言により行われたものでした。目的は「諸藩や朝廷の権力を削減する事」「幕府を頂点とする中央集権国家を作る事」でした。
慶喜は以下の改革を行なっています。
- 陸軍総裁・海軍総裁等の総裁職に老中を任命させ、現在の内閣制度に近い体制を作り上げる
- 新税導入も含めた財政改革
- 新制陸軍の整備
- 横須賀製鉄所の建設
- 幕臣の留学 等です。
横須賀製鉄所とは、軍艦などを作る造船所の事です。幕府が瓦解した後は明治政府がその事業を引き継ぎ、1871年に造船所は完成しました。後に横須賀造船所からは日露戦争で活躍した数々の軍艦が作られる事になります。
また幕臣の留学としては、渋沢栄一等がフランスへ派遣されています。彼らの知識や経験は明治になり活かされる事になるのです。
徳川慶喜のエピソード・逸話
カメラマンを志した慶喜
明治維新を経て将軍職を退いた慶喜は一切政治的野心を持ちませんでした。慶喜はその長い後半生を趣味に没頭して過ごしています。
慶喜は本当に多趣味で、写真や狩猟、弓道に謡曲など、様々な事に取り組みました。特に写真にはかなり熱中しており、写真家の徳田幸吉に技術を教わるものの、あまり成長はしなかったようです。
ちなみにひ孫の徳川慶朝はフリーのカメラマンとして活躍していました。慶喜の写真への思いは、次世代へ受け継がれて行ったのです。
なぜ慶喜は敵前逃亡をしたのか?
家康公の再来と呼ばれた慶喜の評価を難しくしているのが、鳥羽伏見の戦いの時の敵前逃亡です。なぜ慶喜が逃亡したのかは諸説あるものの、水戸藩出身という点は見逃せません。
水戸藩は徳川光圀を輩出した土地で、勤皇精神の強い藩でした。水戸藩には先祖代々「朝廷に弓を引いてはならない」という家訓がありました。
鳥羽伏見の戦いで、新政府軍が錦の御旗を掲げた時、慶喜は新政府軍に逆らう事が出来なかったのかもしれません。
徳川慶喜の名言
千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ
鳥羽伏見の戦いの戦局が不利になった時に、旧幕府側に言い放った言葉です。慶喜はその後で僅かな側近と妾を連れて大阪城から江戸へ敵前逃亡します。
自分は朝敵になる事を回避しつつ、一方では旧幕府軍に徹底抗戦を訴える。慶喜の評価を難しくさせている名言とも言えますね。
これからはお前の道を行きなさい
戊辰戦争時に幕臣だった渋沢栄一は、謹慎中の慶喜と面会。その時に慶喜から言われた言葉です。慶喜は周囲から期待され続け、自分の行きたい道を進めなかった人物でもありました。
慶喜は、敗北者となる幕府と自分に仕えるのではなく「渋沢が行きたい道へ進めるように道を示した」とも言えますね。
徳川慶喜の家族や子孫
慶喜の妻
慶喜は正妻の他に、妾を含めて4人の側室がいました。
一条美賀子(正室)(1835〜1894)
安政2年(1855年)に結婚。慶喜が本来結婚する予定だった千代君が疱瘡になった為、代役で結婚したという経緯もあり、慶喜とは不仲であったとされます。
安政5年(1858年)に女児が生まれるものの夭折。慶喜は文久の頃からは京都を中心に活動する為、長い別居生活が続きました。2人が同居を始めたのは慶喜が謹慎に入った明治の頃からでした。その頃には夫婦仲は徐々に改善していたそうです。
一色 須賀(側室)(1838〜1922)
元は一条美賀子の女中でした。後に慶喜の側室となりますが、子どもは生まれませんでした。
新村 信(側室)(1852〜1905)
明治維新後も慶喜の側室として静岡で暮らします。五男五女をもうけました。
中根 幸(側室)(1851頃〜1915)
明治維新後も慶喜の側室として静岡で暮らします。五男六女をもうけました。
後は慶喜が鳥羽伏見の戦いで大阪城から江戸に戻った時に、お芳という妾を連れていたと言う話があります。明治以降はお暇を出されており、静岡で暮らす事はありませんでした。
慶喜の子ども
慶喜は生涯に10男12女の子をもうけます。長女のみ正妻・美賀子の子ですが夭折。他の子は明治以降に生まれており、側室の須賀と信の間に出来た子どもです。多くの子どもがいる中で成長したのは6男8女となっています。
徳川慶久(1884〜1922)
慶喜は戊辰戦争を経て、宗家の座を田安徳川家の亀之助に譲りました。明治35年(1902年)に慶喜は公爵を授けられ、宗家とは別に「徳川慶喜家」を興す事が認められたのです。やがて慶喜の七男だった喜久が2代目徳川慶喜家の当主となりました。
喜久は第一銀行取締役等を歴任しています。
徳川厚(1874〜1930)
慶喜の四男ですが兄達は夭折し、事実上の長男です。明治15(1882年)に徳川宗家の分家になる事が許されました。東明火災保険の取締役等を務め、実業家として活躍しました。
徳川誠(1887〜1968)
慶喜の九男です。後に徳川慶喜家の分家を継ぎました。浅野セメント監査役や横浜正金銀行等を歴任しました。
彼らの他にも、娘達は有力大名だった家に嫁いでいます。慶喜の血筋は様々な家に受け継がれていきました。
慶喜の子孫
徳川 慶朝(1950〜2017)
慶喜のひ孫で徳川慶喜家の四代当主。カメラマンとして活躍しました。二男一女をもうけるものの離婚し、親権は妻が得ています。慶朝の死去により、徳川慶喜家の嫡流は途絶えています。
結果的に慶喜の嫡流は途絶えたものの、厚による徳川慶喜家の分家は現在にも続いています。厚の孫である康久は2013年から2018年まで靖国神社の宮司を務めていました。
徳川慶喜の家紋
徳川慶喜の家紋は「三つ葉葵」です。葵紋は江戸時代頃には、徳川将軍家以下一門と極一部の家しか使用する事が出来ませんでした。また徳川将軍家や御三家等、同じ徳川一門でも微妙に家紋のデザインは違うのです。
慶喜が家紋を使用したのは明治35年(1902年)で徳川慶喜家を興した時です。その時に三つ葉葵の家紋を使用しました。
徳川慶喜のゆかりの地・墓
弘道館
かつて水戸藩にあった藩校です。慶喜は生後7ヶ月から9年間水戸に住んでいます。慶喜は弘道館で水戸学や自然科学など、様々な学問を学びました。
慶喜の人格や聡明さはこの弘道館で培われたのです。
住所:茨城県水戸市三の丸1丁目6番内
浮月楼
明治維新を迎えた慶喜が住み続けた場所です。もともとこの地には慶喜の屋敷がありました。しかし近くに東海道線が開通し汽車の音がうるさくなり、慶喜はこの地を離れます。
やがて屋敷は火事で焼失。現在は庭園や一部の建物が残すのみです。この他は現在は浮月楼という料亭になっています。
住所:静岡市葵区紺屋町11-1
谷中霊園
台東区にある谷中霊園には慶喜のお墓があります。家康と家光増上寺か寛永寺に埋葬されており、慶喜のみ場所が異なるように見えます。ただ谷中霊園で慶喜が埋葬されている場所は元々寛永寺の敷地だそうです。
慶喜の墓は一般皇族と同じ円墳状の墓です。これは朝敵だった自分を許し、自分を華族の最高位・公爵を与えてくれた明治天皇に感謝していた為とされます。そのため、慶喜は歴代将軍同様の仏式による葬儀ではなく、皇族と同じ神式での葬儀を臨みました。
住所:東京都台東区谷中七丁目
徳川慶喜の関連人物
慶喜は幕臣や身内を含め、生涯にかかわった人が沢山います。今回はその中の一部を解説していきます。
渋沢栄一
日本銀行を創設した「日本資本主義の父」と呼ばれる人物です。幕末には勤皇派の志士として活躍し、八月十八日の政変後に慶喜に仕えています。
やがて慶喜が将軍になった時、渋沢も幕臣となりました。渋沢は時代が明治に移った後も、慶喜が関わりを持ち続けた数少ない人物でした。渋沢は慶喜の名誉を回復する為に長年にわたり、様々な活動を続けたのです。
西郷隆盛・大久保利通
この2人は木戸孝允と並び、維新三傑と呼ばれています。薩摩藩は慶応3年(1867年)5月の四侯会議の時点まで、列侯会議で幕府(および慶喜)から主導権を握る事を考えていました。薩摩藩はこの時点まで倒幕は考えてはいなかったのです。
禁門の変等では協力体制にあったのに、幕府と慶喜を裏切った薩摩藩。慶喜は隠居後もあまり良い気持ちを抱いていませんでした。
後年に渋沢栄一は慶喜の伝記の編纂を目指し、慶喜から直で話を聞く座談会を行います。この時に慶喜は「長州は最初から敵対していたから許せるが、薩摩は裏切ってゆるせない」と述べました。
西郷は明治10年(1877年)に西南戦争で自決し、大久保は翌年に暗殺。慶喜はそれを聞いてどう思ったのでしょうか。
徳川慶喜の関連作品
慶喜を主題にした作品は多々あります。今回はその中の一部を紹介していきますね。
おすすめの書籍・本・漫画
最後の将軍 徳川慶喜
司馬遼太郎がずっと書きたいと考えていた徳川慶喜の小説です。聡明ゆえに周囲から期待され、聡明ゆえに幕府の崩壊が見えている。そんな慶喜の苦悩を余す事なく描いた小説です。司馬遼太郎の世界観を、この小説から感じてくださいね。
その後の慶喜: 大正まで生きた将軍
幕末と明治維新後で慶喜の生き方は180°異なります。本書は慶喜が明治維新後にどのような生活を送ったのかを詳しく解説しています。微笑ましい慶喜の余生を是非知ってほしいものです。
幕末・維新人物伝 徳川慶喜
慶喜の生涯を漫画で解説した一冊。複雑な幕末の政局も絵で見る事ですんなりと頭に入ってくる事でしょう。ただ本書はあくまで「歴史が苦手な人向け」です。この本を入り口に、幕末や慶喜についてより詳しく学べると良いですね。
おすすめの動画
こちら慶喜について詳しくまとめられた動画になります。
おすすめのドラマ
1998年に放送された徳川慶喜を主人公にした大河ドラマ
主演は本木雅弘です。今まではあまり評価の良くなかった慶喜について、真っ向から描いた作品です。
ただ慶喜は安政の大獄から文久の改革までの期間は謹慎している等、表立った活動が出来ない期間もありました。本作品にはオリジナルキャラクターが多々登場する等、史実とは異なる部分もあります。その点を踏まえた上で観て下さいね。
徳川慶喜についてのまとめ
今回は徳川慶喜について解説をしました。慶喜は家康公の再来と呼ばれ、幼少期から常に期待され続ける人生を歩んできました。
聡明ゆえに幕府の瓦解を誰よりも予感していたにもかかわらず、江戸幕府の最期を担う事になった慶喜。私達が思う以上にプレッシャーは大きかった事でしょう。将軍を退いた後の慶喜は、平穏な生活を手に入れてホッとしていたのかもしれません。
今回の記事を通じて慶喜の事に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/徳川慶喜
徳川慶喜―将軍家の明治維新 松浦玲
幕末の天才 徳川慶喜の孤独: 平和な「議会の時代」を目指した文治路線の挫折 鈴木荘一