ジャンヌダルクの生涯と人物像!功績・名言・死因・子孫は?

ジャンヌダルクは1400年代にフランスで活躍した軍人です。当時のフランス王国はイングランド王国との百年戦争で劣勢に立たされていましたが、ジャンヌの指揮で歴史的勝利を収めます。後にジャンヌはイングランド軍に捕らえられ、僅か19歳で宗教裁判にかけられて火あぶりとなりました。

ジャンヌは国を救った英雄であると共に、その悲劇性から未だに多くの人達に語り継がれています。今回はジャンヌの知られざる生涯と人物像について解説していきます。

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ジャンヌダルクとは?

ジャンヌ・ダルクとは

(1900年頃に描かれたジャンヌダルク)

 

氏名ジャンヌ・ダルク
通称・あだ名オルレアンの乙女
出生日1412年1月6日?(不明な点が多い)
出生地バル公領ドンレミ
死没日1431年5月30日
死没地イングランド王国、ルーアン
職業軍人
身長推定158cm
体重不明(壮健な肉体とされる)
配偶者なし
座右の銘一度だけの人生。それが私たちの持つ人生すべてだ。

 

ジャンヌダルクの人生年表・生涯

ジャンヌダルクの人生年表

ジャンヌダルクの人生年表

(ジャンヌダルクの紋章 出典:Wikipedia)

出来事
1412年頃ジャンヌダルク誕生
1424年頃神の声を聞く
1429年1月ニシンの戦いの敗北を予知
1429年4月戦地・オルレアンに到着。フランス軍を指揮し、次々と勝利をもたらす
1429年7月シャルル7世の戴冠式が執り行われる
1429年12月ジャンヌと家族は貴族に列せられる
1430年5月コンピエーニュ包囲戦でジャンヌが捕虜となる
1431年1月異端審問裁判が開催される
1431年5月火あぶりの刑となる(享年19歳?)

ジャンヌダルクの生涯①

ジャンヌダルクの生涯①

(ジャンヌの生まれた村 ドンレミ 出典:Wikipedia)

 

ジャンヌは1412年頃にバル公領の村ドンレミでジャック・ダルクイザベル・ロメの娘として生まれます。ジャンヌは熱心なキリスト教徒だった他、熱心に村の教会に通っていました。

ジャンヌは1424年頃に突如「神の声」を聞いたとされます。ジャンヌが生まれた時代、フランス王国はイングランド王国と百年戦争(1337〜1453年)に明け暮れていたものの、戦地の多くはフランス王国内で、国土は荒れていました。更にフランス王国は劣勢を強いられ、窮地に立たされていたのです。

ジャンヌは「神の声」として、

  • イングランド軍を駆逐する事
  • 王太子シャルルをランスへと連れていく事
  • シャルルをフランス王位に就かしめる事

を聞きました。

ちなみに神の声の主は大天使ミカエルアレクサンドリアのカタリナアンティオキアのマルガリタの姿をしており、声を発し終えると姿を消しています。

(ジャンヌが訪れたヴォクルール 出典:Wikipedia)

神の声の通りに行動する為、1428年にジャンヌは親類に頼んでヴォクルールという街に向かいます。そして当地の守備隊隊長・ロベール・ド・ボードリクール伯王太子(シャルル7世)へ謁見する許可を得るよう画策しました。しかしこの時のジャンヌは一介の村娘に過ぎず、この時は相手にされていません。

(オルレアン包囲戦の様子 出典:Wikipedia)

 

1429年1月にジャンヌは再びヴォクルールを訪れています。
この時にジャンヌはオルレアン近郊で行われていた「ニシンの戦い」でフランス軍が破れる事を予知しました。この時点でフランス王国はフランス北部の国々をイングランドに取られており、代々のフランス王が戴冠式を行っていた街・ランスも奪われています。

更にイングランド軍はオルレアンという都市を包囲。この都市は「フランス中心部の侵攻を食い止める最期の砦」です。この都市が陥落する事は、フランス王国が完全にイングランド王国の手に落ちる事を意味していました。

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ジャンヌダルクの生涯②

ジャンヌダルクの生涯②

(オルレアン包囲戦を指揮するジャンヌ 出典:Wikipedia)

 

ニシンの戦いの予知をもとにボードリクール伯は、ジャンヌとのシャルル7世の謁見を許可します。「神の声」を聞いたジャンヌの存在はフランス王国における最後の希望となったのです。

ジャンヌの従軍は認められ、1429年4月29日にジャンヌはオルレアンに到着。ジャンヌは今までの指揮官が執った消極的な作戦を一掃し、積極策を指示します。

5月4日にフランス軍はサン・ルー要塞を攻略。翌日にはジャンヌ自らが兵を率いてサン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠しています。オルレアンでの劇的な勝利はフランス王国を奮い立たせる事になりました。

(ノジャルジョーの戦い 出典:Wikipedia)

 

ジャンヌ率いるフランス軍は6月12日のジャルジョーの戦い、6月15日のモン=シュル=ロワールの戦い、6月17日のボージャンシーの戦いで次々と領土を奪回。7月16日には遂にランスも奪い返します。翌日にシャルル7世の戴冠式がこの地で行われ、王家は失墜していた権威を回復しました。ジャンヌは「神の声」の通りに行動したのです。

(パリ包囲戦におけるジャンヌ 出典:Wikipedia)

 

ただ戦いは終わったわけではありません。9月8日にシャルル7世とジャンヌは、パリ奪還の為にパリ包囲戦を展開。ただパリ市民の抵抗もあり、奪回は失敗に終わります。この戦いでジャンヌは脚を負傷するものの、軍の指揮を執り続けています。

傷が癒えたジャンヌは10月に起きたサン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦で軍に復帰。11月にはラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦に参加するもの、惜しくも敗北しています。しかしこの半年間の功績は目覚しいものがあり、12月29日にジャンヌと家族は貴族に列せられました。

ジャンヌダルクの生涯③

ジャンヌダルクの生涯③

(コンピエーニュ包囲戦で捕縛されるジャンヌ 出典:Wikipedia)

 

一時的にフランス王国とイングランド王国との間に休戦協定が結ばれるものの、間もなく失効。5月にジャンヌはコンピエーニュ包囲戦の援軍として参戦しますが捕虜となってしまいます。

ジャンヌは身代金と引き換えにイングランド軍へと引き渡されます。当時は神や悪魔が信じられていた時代です。ジャンヌは「神の声」を聞いた事を咎められ、異端審問会で裁判にかけられる事になりました。

ただこの異端審問会は初めからジャンヌを極刑にする為に行われたものです。ジャンヌには本来の権利である弁護士をつける事も許されず、審理を主導した司教はそもそもジャンヌへの司法権を有していません。イングランド王国はフランス王国を奮い立たせたジャンヌを葬る事を計画していたと言えます。

(尋問を受けるジャンヌダルク 出典:Wikipedia)

ジャンヌの裁判記録は改竄され、裁判出席者の多くは強制的に召喚された者達でした。宗教裁判ではジャンヌのような立場の女性は、修道女の監視に置かれる事になっています。しかしジャンヌは男性兵卒の監視下に置かれ、身の危険を感じる事もありました。

ジャンヌは性的暴行から身を守る為、収容期間は男装をしていましたが、男装は宗教的観点からは異端とされます。後の裁判でジャンヌは異端を悔い改め改悛するものの、男性兵卒に襲われそうになった為、再び男装をしました。

ジャンヌは「異端行為を再び行った事」を咎められ火刑となりますが、一説ではドレスが盗まれており、男性用の服しかなかったともされます。結果的に1431年にジャンヌは異端行為を二度も行った事で死刑判決を受けていますが、これらは初めから仕組まれたものだったと言えるでしょう。

ジャンヌダルクの死因と最期

死因は火あぶり

死因は火あぶり

(火あぶりとなるジャンヌ 出典:Wikipedia)

 

ジャンヌは1431年5月30日にルーアンのヴィエ・マルシェ広場で火あぶりとなります。ジャンヌが確実に死んだ事を知らしめる為に、ジャンヌの黒焦げになったジャンヌの遺体は人々の前に晒されます。そして再び遺体に火がつけられ、ジャンヌの遺体は灰になりました。

ジャンヌの灰はセーヌ川へ流さていますが、これは墓などが作られ、ジャンヌが神格化される事を防ぐ目的があったのです。

ジャンヌの名誉回復

ジャンヌの名誉回復

(カスティヨンの戦いでフランスは百年戦争に勝利する 出典:Wikipedia)

 

ジャンヌはイングランド王国の手によって火刑にされましたが、百年戦争はその後も続いています。ジャンヌの遺志はフランス王国の中にあり続け、1453年に百年戦争はようやく終わりを告げました。

百年戦争終結後の1455年にジャンヌの復権裁判が行われています。結果的にジャンヌは1456年7月7日に無罪判決が言い渡される事になったのです。

フランスはその後もフランス革命等、様々な混乱を経て今に至ります。その過程でジャンヌは少しずつ神格化されていきました。1920年5月16日にジャンヌは列聖(信仰の模範として聖人の地位に挙げられる事)となり、カトリック教徒の模範となったのです。ジャンヌの偉業は今でも多くの人達の心の中にあり続けていると言えますね。

ジャンヌダルクの性格と人物像エピソード

真面目なごくごく普通の女の子

真面目なごくごく普通の女の子

(ノートルダム大聖堂に安置されるジャンヌダルク像)

 

オルレアン包囲戦の指導者となったジャンヌですが、ドンレミに住んでいた頃は家族の手伝いを行い、教会に通い、幼馴染と遊んでいました。「神の声」を聞くまでのジャンヌはごく普通の村の娘だった事が分かります。

ジャンヌはこの村で家族や村民から愛情を受け育っています。この頃の愛情こそが、ジャンヌのフランス王国への愛国心や多くの人達から愛される土壌を作ったと言えるのです。

文字が読めなかった

ちなみにジャンヌは文字を読む事が出来ませんでした。当時は教育を受けていない者も多く、文字を読めない事自体はごく普通の事です。異端審問裁判でジャンヌは自らのサインを「十字架」にして筆記しています。

ジャンヌは文字が読めなかった為に、裁判記録が改竄された宣誓供述書にサインをしています。この行動がジャンヌが火刑になる決定的な理由となったのです。

神の声の真実とは?

神の声の真実とは?

(神の声を聞くジャンヌ 出典:Wikipedia)

 

ジャンヌを解説する上で避けて通れないのは「神の声」の存在です。神の声のくだりは異端審問の記録がもとになっており、どこまでが事実なのかは分かりません。

幻視や幻聴はてんかん、偏頭痛、結核、統合失調症などが原因という説もあるものの、ジャンヌの日常生活に問題があったとは思えず、前線に立って果敢に戦っています。異端審問裁判でもジャンヌは頭脳明晰な返答をしており、精神に問題があったとも思えないのです。

ジャンヌが聞いた神の声が何だったのか、それは今でも謎のままです。

ジャンヌダルクの功績

百年戦争でフランスを勝利に導く

百年戦争でフランスを勝利に導く

百年戦争最初期のスロイスの戦い

 

前述した通り、ジャンヌが神の声を聞いた時、フランス王国はイングランド王国との百年戦争で敗北を重ねていました。オルレアン包囲戦はフランス王国の存亡をかけた戦いでした。ジャンヌが指揮官としてこれらの戦いを勝利に導いた事で、フランス王国は再起を図る事が出来たのです。

ジャンヌがいなければ現在のフランスはイギリスの領土になっていた可能性もあり、ヨーロッパのみならず世界の歴史も大きく変わっていた事でしょう。

フランス軍の指揮を高める

ちなみにジャンヌに「指揮官としての才能があったのか」「兵士の士気を鼓舞する為の旗振り役になったのか」という点は長年議論されています。ただジャンヌがフランス軍が採用していた消極案を積極案に切り替える等して戦果を挙げた事は確実とされています。

またジャンヌは戦地で足を負傷しても前線に立つ事を辞めませんでした。コンピエーニュ包囲戦では弓矢で撃たれて馬から転げ落ちた後も、最後まで戦いを続けています。これらの姿勢が兵士に与えた影響は計り知れなかった事でしょう。

数々の作品を生み出すきっかけになる

数々の作品を生み出すきっかけになる

(シェイクスピア 出典:Wikipedia)

 

ジャンヌの数奇な運命は後世の様々な作品に影響を与えました。敵国だったイングランドの戯曲家・シェイクスピアは、『ヘンリー六世 第1部』で、フランスの詩人・ヴォルテール『オルレアンの乙女』でジャンヌを取り上げました。

その他にもチャイコフスキーによる歌劇、マーク・トウェイン小説などが挙げられます。

やがて映像が作られる時代になってもジャンヌを主題にした作品は作られ続けました。1927年にはカール・テオドア・ドライヤーがサイレント映画・『裁かるるジャンヌ』を制作。現在音楽においてもイギリスのバンド・オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク『ジャンヌ・ダルク』という楽曲を作曲しています。

死後600年が経過しても、これほど様々な分野で作品の題材に選ばられる人はいません。きっとジャンヌダルクをテーマにした作品が今後も作られ続ける事でしょう。

ジャンヌダルクの逸話と凄さ

異端審問裁判での返答

異端審問裁判での返答

(騎乗するジャンヌダルク 出典:Wikipedia)

 

ジャンヌが聡明な人物だった事が分かる記録が残されています。それは異端審問裁判でのやり取りです。裁判員はジャンヌに「神の恩寵を受けていた事を認識していたか?」と質問しますが、これは誘導尋問でした。

当時は神の恩寵は人間に見えるものではないとされています。つまりジャンヌが「神の恩寵を認識した」と答えれば、それは異端な事であり罰を受ける対象になります。反対に「神の恩寵を受けていない」と答えたらどうでしょうか。ジャンヌは「神の声」を聞いて戦地に赴いた経緯があったので、それを否定する事は「自分の罪を認める事」に繋がります。

裁判員はジャンヌがどんな返答をしてもジャンヌを有罪にするつもりだったのです。ジャンヌは裁判員の質問の意図を理解し、このように答えたとされます。

  • もし私が恩寵を受けていないならば、神がそれを与えて下さいますように。
  • もし私が恩寵を受けているならば、神がいつまでも私をそのままの状態にして下さいますように。
  • もし神の恩寵を受けていないとわかったなら、私はこの世でもっともあわれな人間である。

つまりジャンヌは否定も肯定もしなかったのです。ジャンヌは裁判員の誘導尋問をうまくすり抜けました。このやり取りを見れば、ジャンヌが聡明な人物である事がよく分かりますね。

ジャンヌダルクの名言

ジャンヌダルクの名言

(ジャンヌのランス進駐の様子 出典:Wikipedia)

 

Act, and God will act.(行動しなさい。そうすれば神は動くだろう。)

百年戦争で劣勢に立たされたフランスを奮い立たせたのは、ジャンヌの行動力でした。神は動かない者の前には現れません。行動を始める事こそが、物事を成功させる第一歩と言えます。

I am not afraid. I was born to do this.(私は恐れてなどいない。私はこれをやるために生まれてきた。)

ジャンヌは戦地を勇猛果敢に駆け抜けました。その脳裏には死に対する恐れは一切ありません。ただただ百年戦争に終止符を打つ事にジャンヌは生涯を捧げたのです。

I would rather die than do something which I know to be a sin, or to be against God’s will.(罪になることや神の意志に反することをするくらいなら、むしろ死んだほうがましだ。)

ジャンヌが正義感が強く、信仰心の強い人物である事が分かる名言です。当時は今以上に宗教の観念が強い時代であった事も分かりますね。

ジャンヌダルクの家系図・子孫

ジャンヌは19歳で亡くなっており、その時点で結婚もしておらず子供も当然いません。ただ前述した通り、ジャンヌには4人の兄弟がいました。彼らの血筋はジャンヌが火刑になった後も続いています。

ジャック・ダルク

ジャック・ダルク

(ジャック・ダルク像 出典:Wikipedia)

 

ジャンヌの父親であり、ドンレミで租税徴収係と村の自警団団長を務める等、名士として知られていました。ジャンヌの事をとても愛しており、ジャンヌの裁判が断行される前には悲しみの胸中を子供たちに話しています。

没年はWikipediaでは1440年とされるものの、邦訳・日本語文献にはそれらの記載はありません。実際にはもっと早い段階で悲しみに暮れて死去したともされています。

イザベル・ロメ

ジャンヌの母親で、熱心なキリスト教徒でした。ジャンヌの死後、1440年にピエール(ジャンヌの兄)の住むオルレアンに移住。1455年にはピエールとジャンヌ・ダルク復権裁判開会に参加しています。ジャンヌの復権を見届けた後に1458年に亡くなりました。

ジャックマン

ジャンヌの長兄ですが、記録はほとんど残っていません。1425年以前に結婚で別居後しており、ジャンヌの死去後に亡くなったとされます。

カトリーヌ

ジャンヌの姉もしくは妹ですが詳細は不明。ジャンヌと年はあまり離れていなかったとされます。結婚したものの、出産の際に亡くなっています。当時はまだ医療も未発達の時代。出産はリスクの伴うものでした。

ピエール

ジャンヌの次兄(三兄説あり)。ジャンヌが村を出た後にジャンヌ・ダルク部隊の一員として戦争に参加。ジャンヌの一族が貴族に列せられた時にピエールも貴族に叙せられています。

後にジャンヌが捕虜となった時にピエールも捕虜となり、1430年代後半まで虜囚としての日々を過ごします。後に釈放されてオルレアンに家族と住むものの、対イングランド戦争を転戦しました。後のジャンヌ・ダルク復権裁判開会にも尽力しています。

ジャン

ジャンヌの三兄(次兄説あり)。ピエールと共に戦争に参加。1436年にはジャンヌ・デザルモワーズがジャンヌダルクの偽物を語った時にジャンは彼女をジャンヌだと認めて金銭を受け取っています。

ジャンは長兄ジャックマンの娘と結婚し、後のジャンヌ・ダルク復権裁判開会にも尽力。ヴォークルールの守備隊長として10年以上もその任を努めます。

ジャンは一家の生家に住み続け、ジャンの一族の家系はその後も続きました。ジャンの末裔としてはルイ13世に仕えたシャルル・デュ・リスという人物が伝わっています。その後も一族の末裔は現在にも続いているのです。

ジャンヌダルクの直系は途絶えても、その一族の末裔が現在も存命というのは凄い事ですね。

ジャンヌダルクのゆかりの地

ドンレミ=ラ=ピュセル

ドンレミ=ラ=ピュセル

(ジャンヌの生家 出典:Wikipedia)

 

ジャンヌが生まれ育った町です。村の名前は「ドンレミからドンレミ=ラ=ピュセル」と名を変えています。

ジャンヌの一族の住んでいた生家は現在も残されています。生家の中にはジャンヌや兄弟の部屋、中庭にはジャンヌが「神の声」を聞いたとされる石碑もあります。

生家の隣にはジャンヌが通った教会が残され、洗礼を受けた時の洗礼盤も残されているのです。

更に生家の真後ろに存在するのはジャンヌの信仰通訳センターです。こちらは再現されます当時の衣装、短編動画などを見る事が出来ます。ジャンヌだけでなく中世の歴史を学ぶ意味でもオススメの場所です。

シノン城

シノン城

(シノン城の大広間跡 出典:Wikipedia)

 

フランスの世界遺産・「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」の一角に存在する城です。こちらの城でジャンヌとシャルル7世は出会いました。ジャンヌはこの時に「フランスをイングランドから解放する事」を主張し、それは認められます。

ボージャンシー城

ボージャンシー城

(ボージャンシー城 出典:Wikipedia)

 

ジャンヌが関与した激戦地だった城の多くは現在は残されていません。ただボージャンシー城は現在も取り壊される事なく残存しています。ロワール渓谷のすぐ近くに存在しており、シノン城と合わせて見学しましょう。

ジャンヌダルクの関連人物

シャルル7世

シャルル7世

(シャルル7世 出典:Wikipedia)

 

フランス・ヴァロワ朝の第5代国王。即位したのは1422年で当時は僅か19歳でした。当時の王家の勢力争いの結果で即位した経緯もあり、正式にフランス王として即位する事は出来ていません。

シャルル7世は1429年5月からジャンヌを指揮官に起用し、次々と領土を奪回。7月17日に悲願の戴冠式を挙行しています。シャルル7世はその後も軍制改革を推進する等して、1453年のカスティヨンの戦いでギュイエンヌを奪回。イングランド王国から多くの領土を奪回した上で、百年戦争に終止符を打っています。

歴史的には多大なる功績を残した人物ですが、ジャンヌダルクを知る人達からの評価は高くありません。それは「ジャンヌが捕虜になった時に、彼女を助けなかった事」が関係しています。

シャルル7世がジャンヌを助けなかった理由は定かではなく、「助ける為の後ろ盾を持っていなかった」「王位に就いた時点で用済みだった」など、真逆の説も唱えられています。彼もまた再考が必要な人物と言えますね。

ジル・ド・レ

ジル・ド・レ

ジル・ド・レ

 

彼はジャンヌと共にオルレアン包囲戦に参加し、パテーの戦いでは「救国の英雄」と呼ばれた人物です。ただジルの名前をそれ以上に有名にしているのは、彼が「シリアルキラー」という事でしょうか。

ジルはジャンヌが火刑になった頃から荒れた生活を送るようになり、錬金術で詐欺まがいの事を繰り返した他、手下を使って何百人もの少年を拉致して殺害。正確な犠牲者は不明で150人から1500人とも言われます。後にジルは捕らえられ1440年に火刑になっています。

彼もまた数奇な運命を辿ったとも言えますね。

ジャンヌダルクの関連作品

前述した通り、ジャンヌの作品は膨大な量があります。その為全てを解説する事は出来ません。今回は膨大な作品の中のごく一部を紹介させていただきます。

おすすめ書籍・本・漫画

ジャンヌ・ダルクまたはロメ

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2012年に佐藤賢一が発表した作品です。ジャンヌの素性を明らかにするべく、シャルル7世の家臣・ジョルジュが画策する作品です。西洋中世史にスポットを当てた短編集が収録されており、この時代に興味のある人には読んでほしい作品です。

ジャンヌ・ダルク

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本作ははミシュレという歴史家のライフワークである『フランス史 中世篇』の第5巻における「ジャンヌ・ダルクにかかわる部分」を抜粋したものです。中世西洋史の知識が必要なものの、ジャンヌの実像を学ぶ上ではオススメの一冊と言えるでしょう。

小学館版 学習まんが人物館 ジャンヌ・ダルク 小学館版 学習まんが人物館

ジャンヌダルクの生涯を子どもにも分かりやすく漫画にしたものです。ジャンヌを主人公にした作品は多々あるものの、それらはファンタジー等の要素が含まれています。本作はあくまでも史実に沿った内容であり、当時のフランス王国がおかれた複雑な事情も分かりやすく解説されています。

おすすめの動画

 

おすすめの映画

ジャンヌ・ダルク

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1999年に公開された映画です。ジャンヌが火刑に至る過程を描いています。信仰への狂気への批判、ジャンヌが男達から殴る蹴るの暴行を受ける等、非常に過激かつ重い視点を持った作品でもあり、評価は高いです。

ジャンヌ・ダルク裁判

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ジャンヌの異端審問裁判の過程を淡々と描き出していく作品です。内容的には600年前の歴史ドキュメンタリーと言えるかもしれません。場面の大半は牢獄と法廷であり、ジャンヌと裁判員のやりとりが繰り返される異色の作品。

それでも本作が名作と言えるのは、それぞれの立場の人物が自らの信仰と正義に基づいて行動している事が分かるからでしょうか。シンプルかつ非常に濃密な作品です。

ジャンヌダルクについてのまとめ

今回はジャンヌダルクの生涯について解説しました。ごく普通の村娘が神の声を聞き、戦地に赴いて英雄となる。600年前の事とはいえ、にわかに信じがたい話だと思います。

ジャンヌは19歳で生涯を終えるものの、様々な媒体を通じて現在も生き続けていると言えるのです。今回の記事を通じてジャンヌダルクの生涯、そして中世の西洋史に興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

・ジャンヌダルク ジュール・ミシュレ
・https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ジャンヌ・ダルク

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