【人斬り以蔵】岡田以蔵の生涯と人物像とは?愛刀・最後・名言・子孫も

岡田以蔵は土佐藩出身の幕末を代表する人斬りです。「天誅」と称し、指令を受けた人物を次々と暗殺した事から「天誅の名人」とも呼ばれます。後に岡田以蔵は土佐藩の内部抗争の末に捕縛され、処刑されています。

伝説の人斬りとして有名な岡田以蔵ですが、その生涯や彼が幕末史に与えた影響については知らない人も多いのではないでしょうか。今回は岡田以蔵の生涯や人物像について解説していきます。

Contents

岡田以蔵とは?

岡田以蔵とは?

(高知城 出典:Wikipedia)

 

氏名岡田以蔵
※諱は宜振(よしふる たかのぶ のぶたつ、など諸説あり)
通称・あだ名人斬り以蔵 天誅の名人など
出生日天保9年(1838年)1月20日
出生地土佐国香美郡岩村(現・高知県南国市)
死没日慶応元年(1865年)閏5月11日
死没地紅葉橋(現・高知県高知市)
血液型不明
職業土佐勤王党
身長不明
体重不明
配偶者なし

 

岡田以蔵の人生年表・生涯

岡田以蔵の人生年表

出来事
天保9年(1838年)1月誕生
安政3年(1856年)9月武市半平太と上京
文久元年(1861年)8月土佐勤王党に加わる
文久2年(1862年)6月参勤交代の衛士に抜擢される
文久2年(1862年)8月土佐藩士・井上佐市郎の暗殺に関与

この暗殺以降、武市半平太らの司令で次々と暗殺に携わる

文久3年(1863年)8月八月十八日の政変で土佐勤王党は衰退
元治元年(1864年)2月商家への押し借りで幕吏に捕縛
元治元年(1864年)5月京都を追放され土佐藩に捕縛
慶応元年(1865年)閏5月打ち首・獄門(享年・28歳)

 

岡田以蔵の生涯①

岡田以蔵の生涯①

(土佐国分寺 出典:Wikipedia)

 

岡田以蔵は土佐国香美郡岩村(現・高知県南国市)に郷士・岡田義平の長男として生まれます。岡田以蔵の幼少期の事は詳しくは不明です。ただ貧しい家庭だった事は間違いなく、独学で剣術を学んでいたとされます。

安政2年(1855年)頃から郷士の武市半平太が同郷で道場を開きますが、この場所で剣術を学んだとされます。いわば武市半平太は岡田以蔵の命の恩人です。この道場の門下生達が、後の土佐勤王党の母体となりました。

安政3年(1856年)9月に武市半平太が剣術修行で江戸に上京した際に、岡田以蔵も共に上京しています。この他にも岡田以蔵は中国・九州などで剣術修行を行い、才能を開花させていきました。

文久元年(1861年)に武市半平太は尊王攘夷を掲げる土佐勤王党を発足。土佐藩藩主の父・山内容堂は佐幕派の人間でしたが、彼が安政の大獄で連座しています。土佐勤王党はその隙をみて発足したものです。土佐勤王党には200名程の郷士や下士,豪農が参加していました。岡田以蔵もこの土佐勤王党に加わりました。

土佐勤王党は文久2年(1862年)5月に藩政に大きな影響を持つ山内容堂派の吉田東洋を暗殺。この時の暗殺は土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助らが行ったものとされ、岡田以蔵は関与していません。

岡田以蔵の生涯②

岡田以蔵の生涯②

(武市半平太 出典:Wikipedia)

 

文久2年(1862年)8月、岡田以蔵は武市半平太と参勤交代の衛士に抜擢され、上京する事になりました。上京中の岡田以蔵は武市半平太の指令に合わせ、次々と暗殺を実行していきます。岡田以蔵は単独ではなく、集団での制裁を中心に暗殺を行なっていましたが、剣術の腕前は本物。「天誅の以蔵」と恐れられました。

10月に岡田以蔵は幕府に攘夷を迫る為に派遣された勅使に加わり上京。その後は京都から離れ、江戸へ脱藩します。2月頃の岡田以蔵は高杉晋作の居候となりますが、3月には再び上京しています。その後は土佐勤王党と疎遠となり、坂本龍馬に頼まれて勝海舟の護衛等を務めていました。

やがて岡田以蔵は行方知れずとなり、8月に勃発した八月十八日の政変で尊王攘夷派の志士が勢いを失うと、土佐勤王党も衰退。これより前の4月に山内容堂は土佐藩に戻っており、土佐勤王党の締め付けを行なっていた事も災いしました。

八月十八日の政変以降、山内容堂は武市半平太など、土佐にいた土佐勤王党の面々を次々と投獄していきます。岡田以蔵の動向は不明だったものの、元治元年(1864年)2月に無宿者として盗みを働いているところを幕吏に捕らえられました。

最初は土井鉄蔵と偽名を名乗っていたものの、土佐藩庁の問い合わせを受けて岡田以蔵と発覚。5月に焼印・入墨を入れられ、京都の街から追放。同時に土佐藩吏に捕らえられ、土佐藩に送還されました。

岡田以蔵の生涯③

土佐藩に送還された岡田以蔵は女も耐えたとされる拷問に耐えかね、自白を始めます。ただこの拷問がどの程度のものだったのかは不明です。岡田以蔵の醜態に武市半平太に「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」と酷評されています。土佐勤王党から離脱し、同志との絆を忘れた岡田以蔵にとって一連の拷問は耐えられるものではなかったのかもしれません。

岡田以蔵の自白で新たな逮捕者が出る事態となり、土佐勤王党の面々は岡田以蔵の毒殺を考えるようになります。最終的に毒殺される事はなく、獄の結審に至るまで計画は実行されませんでした。

岡田以蔵の死因と最期の言葉

岡田以蔵の死因と最期の言葉

(岡田以蔵が合祀された高知県護国神社 出典:Wikipedia)

 

岡田以蔵の死因は斬首です。初回されたのは慶応元年(1865年)閏5月11日の事で、打ち首の末に獄門にかけられました。獄門とは斬首の後に死体を試し斬りし、刎ねた首は台に乗せられて見せしめにするもので、武士であった岡田以蔵としてはかなり重い刑罰と言わざるをえません。

岡田以蔵の辞世の句は以下の通りです

君か為 尽す心は 水の泡 消にしのちそ すみ渡るべき

意味は「主君の為に尽くしたが、その努力は水の泡となる。しかしその後に残っている水は澄み渡っている事だろう」という意味でしょうか。この主君が武市半平太なのか、天皇なのかも分かっていません。岡田以蔵はどのような心境で斬首されたのでしょうか。

ちなみに辞世の句とされるものはもう一つあります。

君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄み渡る空

ただ最初に解説した句を土佐藩の佐佐木高行は、岡田以蔵の辞世の句として日記に書き残しています。おそらく正しいのは「君か為 尽す心は 水の泡 消にしのちそ すみ渡るべき」の方でしょう。

いずれにせよ岡田以蔵は僅か28歳でこの世を去りました。

岡田以蔵の性格と人物像エピソード

岡田以蔵の性格と人物像エピソード

(後方右の人物は岡田井蔵で岡田以蔵の写真して出回っている 出典:Wikipedia)

岡田以蔵の性格や創作との違い

小説やドラマで岡田以蔵は教養の欠けた人物として、武市半平太の命じた汚れ仕事として暗殺に関与したとされます。ただ岡田以蔵は下級とはいえ郷士という士族の生まれ。ある程度の教養は受けていたともされます。上記の辞世の句は本人の内面がうまく表現されており、無教養だったとは考えにくいです。

また当時の暗殺は「天誅=天に代わって誅殺する事」であり、その役を担いたいと思っていた志士も数多くいました。そしてその役を担う事になった岡田以蔵も武市半平太に剣術の腕前を認められていた事が分かります。

岡田以蔵が今でも人気があるのは、主君である武市半平太に対する忠誠心と、土佐勤王党としての矜持を失って破滅していく人間的弱さにあるのかもしれません。

岡田以蔵はどんな姿をしていた?

岡田以蔵は生涯写真を撮る事はありませんでした。写真として出回っているものもありますが、それは幕臣の岡田 井蔵(おかだ せいぞう)の間違いです。岡田以蔵の容姿を伝える資料は少ないものの、牢獄にいた頃の門番の話では「歯の反った出っ歯」と伝えられています。また体格は当時よりは大きかったとの事です。

入獄中に岡田以蔵が受けた拷問の中には、体格が大きいほど負担が大きいものもありました。拷問で次々と自白したのは、その負担に耐えられなかったという説もあるのです。岡田以蔵の容姿や性格については、新たな資料や証言が出る事を願うばかりです。

岡田以蔵の逸話と凄さ

岡田以蔵は「幕末の四大人斬り」の一人として名を残していますが、実際に人斬りとして活動した期間は半年ほどです。明るみに出ていないものもあるでしょうが、実は期間としては長くありません。それでも名を残しているのは、それだけ岡田以蔵が短期間に多くの暗殺を成功させてきたからです。

岡田以蔵が関与したとされる暗殺を紹介していきましょう。

文久2年(1862年)8月2日 井上佐市郎

井上佐市郎は土佐藩の下横目(警察)で、吉田東洋の暗殺を捜査していました。これを危険と判断した武市半平太岡田以蔵・久松喜代馬・岡本八之助・森田金三郎に暗殺を命じます。井上佐市郎は酒の場に呼び出され、泥酔の上で心斎橋上で絞殺されました。遺体は橋上から道頓堀川へと投げ棄てられました。

文久2年(1862年)閏8月11日 本間精一郎

文久2年(1862年)閏8月11日 本間精一郎

(本間精一郎遭難の地 出典:Wikipedia)

 

本間精一郎は越後国出身の勤皇の志士ですが、特定の藩に属する事はなく、態度だけは大きいという人物でした(裕福な家柄なので、皆も金銭や支援目当てで厚遇はしていましたが)。本間精一郎も泥酔の末に岡田以蔵を含めた複数名で惨殺されています。実行犯の中には四大人斬りの一人である田中新兵衛も含まれていました。

文久2年(1862年)閏8月22日 宇郷重国

宇郷重国は前関白九条家の諸大夫で、安政の大獄で志士の弾圧を行った人物です。岡田以蔵を含めた数名に襲撃され、トドメを刺したのは岡田以蔵だとされます。宇郷の首は鴨川に晒されました。

文久2年(1862年)閏8月30日 猿の文吉

猿の文吉は安政の大獄で多くの志士を摘発した目明しで、多くの志士から恨みを買っていました。天誅の希望者が殺到し、籤引きで人員が決められたとされます。選ばれたのは以蔵、清岡治之介、阿部多司馬の3人でした。

この時の暗殺では「斬るのは刀の穢れになる」との判断から絞殺により行われました。遺体は竹の棒を肛門から頭まで通され、祈祷に釘を打ち込まれた上で晒されています。

文久2年(1862年)9月23日 渡辺金三郎・9森孫六・大河原重蔵・上田助之丞

彼らは安政の大獄で志士摘発を行なっていた与力です。猿の文吉暗殺を受け、京都から江戸に転任する途中に暗殺されました。彼らが滞在した宿には30人程の志士が現れたとされ、岡田以蔵も参加したとされます。

安政の大獄に加担した町人らを生き晒しにした他、確証はないものの関与したとされる暗殺もあります。いずれにせよこの短期間で岡田以蔵は多くの暗殺を引き受けていた事は確かです。

岡田以蔵の愛刀

岡田以蔵の愛刀

(日本刀 出典:Wikipedia)

愛刀は肥前忠広

岡田以蔵の愛刀は肥前忠広だと言われています。樋入り刀身と赤飛沫塗鞘、そして鍔は赤と茶を基調としており、龍が描かれている事が特徴です。

初代忠広は慶長(1596~1615年)から寛永(1624~1644年)頃まで名を馳せた刀工で、その名前は8代先まで続き、幕末まで確認が可能です。特に優れた刀工として、初代肥前忠広、二代目近江大掾忠広、三代目肥前忠吉が伝わります。

岡田以蔵の刀はこの初代肥前忠広のものと考えられています。彼は最上大業物13刀工の1人に数えられており、刀も非常に精度が高いものでした。

なぜ岡田以蔵が肥前忠広を所有してたの?

なぜこれほど優れた刀を岡田以蔵は愛刀にする事が出来たのでしょうか。坂本龍馬の姉・乙女が兄権平に贈ったもの、もしくはもう1人の坂本龍馬の姉・栄が龍馬に贈ったものが、岡田以蔵に渡ったとされます。

いずれにせよ、岡田以蔵が肥前忠広を愛刀にしていた事が事実なら、坂本家を仲介にして渡った事は間違いないようです。

肥前忠広はどこにある?

残念ながら肥前忠広の所在は不明です。岡田以蔵が本間精一郎を暗殺した時に、肥前忠広は破損したとされます。

その後は靖国神社内にある「遊就館」に展示された時期もあったものの、現在はどこにあるのか分からないのです。

岡田以蔵の名言

岡田以蔵の名言

(勝海舟 出典:Wikipedia)

 

先生それでもあの時私がいなかったら、先生の首は既に飛んでしまっています

岡田以蔵は勝海舟の護衛を任された事がありました。その際に勝海舟は刺客に襲われ、岡田以蔵は刺客を真っ二つに切り裂いています。

勝海舟は命を救われたものの、岡田以蔵の狂気の剣術に思う事があり、「君は人を殺すことを嗜んではいけない。先日のような挙動は改めたほうがよかろう。」と岡田以蔵に伝えました。この時に岡田以蔵が返した言葉が、前述したものになります。

生きるか死ぬかと言う幕末において、岡田以蔵の言葉はまさに正論であり、勝海舟は返す言葉がなかったと言われます。

岡田以蔵の家系図・子孫

岡田以蔵の家系図・子孫

(土佐藩邸跡 出典:Wikipedia)

岡田以蔵の直系の子孫はいない

岡田以蔵は独身で子を残さぬまま処刑された為、直系の子孫はいません。ただ弟の血筋が2010年の時点では続いている事が判明しています。

岡田以蔵のルーツと父・義平

岡田以蔵は現在の江ノ口村七軒町で誕生したものの、岡田家の本家は現在の香美市土佐山田町にありました。岡田家の祖は岡田仁平という人物です。元々は百姓でしたが、後に郷士となり、その5代目が以蔵の父・義平でした。義平自体は容姿です。

義平は郷士でありながら足軽の身分を買い、土佐藩の兵役を努めています。岡田以蔵が処刑された1ヶ月後に死没していますが、岡田以蔵の罪も影響しているのかもしれません。

岡田以蔵の弟・啓吉

前述した通り、岡田以蔵には弟の啓吉がいました。彼も土佐勤王党に属していたものの、処刑される事はなく、岡田家の家督を継いでいます。彼は幕末を生き延び、佐賀の乱で首魁となった江藤新平を船に乗せて逃亡させたとされます。

岡田啓吉は後に結婚し、長男の虎輔は大蔵省の役人としてたばこ専売制の完成に携わっています。また岡田家の資料を提出する等して、岡田以蔵の研究にも功績を残しています。次男の諒児も大蔵省に入り、四国で税務署長などを務めており、啓吉の家系は優秀な人材が多かったようです。

岡田以蔵のゆかりの地

岡田以蔵宜振墓

岡田以蔵宜振墓

(薊野駅近くには岡田以蔵の墓がある 出典:Wikipedia)

 

岡田以蔵の墓は真宗寺山という山の中にあり、Google Map等でも表示はされません。近くには岡田啓吉等、岡田家ゆかりの人達のお墓も並んでいます。

割と山深いところにあるものの、岡田以蔵の墓を一目見ようと多くの人達が献花を手向けています。暮石の隣には「土佐勤王党剣士」と書かれた供養塔もあるのです。この地なら岡田以蔵も寂しくはないのでしょうか。

住所:高知市薊野北町1丁目11

紅葉橋

高知市西部に位置する鴨部には紅葉橋という橋がかけられています。ここはかつて処刑場があり、岡田以蔵もこの地で斬首されました。かつては雁切川原と呼ばれていましたが、住宅が増えるにつれ、名前が変えられたようです。

処刑される最期の時、岡田以蔵は何を考えていたのでしょうか。

住所:高知県高知市鏡川町

岡田以蔵の関連人物

坂本龍馬

坂本龍馬

(出典:Wikipedia)

 

坂本龍馬は薩長同盟の立役者として有名です。2人は安政3年(1856年)頃から江戸で剣術修行をしており、同郷の者同士で交流はあったものと思われます。

記録としては、文久3年(1863年)2月頃に神戸で海軍修行中の坂本龍馬が、岡田以蔵に勝海舟の護衛をお願いした事が残されています。この頃の勝海舟は倒幕派の志士から命を狙われており、3月には実際に襲撃もされました。この時に岡田以蔵は勝海舟を助けています。

岡田以蔵が捕縛されるのは元治元年(1864年)6月の事です。京都に潜伏していた頃の岡田以蔵と坂本龍馬が出会っていた可能性もありますが、記録としては残っていません。また新たな資料が出ると良いですね。

ジョン万次郎

ジョン万次郎

(出典:Wikipedia)

 

ジョン万次郎は土佐藩の漁師でしたが、漂流を経て10年もの間アメリカに滞在した人物です。彼は江戸幕府の通訳や航海士として活躍するものの、その立場上命を狙われる事もありました。

岡田以蔵は勝海舟の要請で、ジョン万次郎の護衛を任された事がありました。ジョン万次郎が襲撃された時、岡田以蔵は勝海舟の時のように刺客を撃退しています。

この時にジョン万次郎は礼としてピストルを岡田以蔵に渡したと言う説もありますが、後世の創作の可能性が高いです。いずれにせよ、勝海舟もジョン万次郎もその後の日本に与えた影響は計り知れません。

人斬りと呼ばれた男が、幕府の人間を助けたと言うのも数奇な話と言えますね。

岡田以蔵の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

人斬り以蔵

岡田以蔵の知名度とイメージを浸透させた司馬遼太郎の小説です。主君の為に汚れ役を引き受けるその姿は、読み手に様々な葛藤をもたらす事でしょう。なお司馬遼太郎の作品はあくまで創作であり、史実と混在しないよう注意する必要もあります。

created by Rinker
新潮社
¥825 (2021/12/07 03:25:30時点 Amazon調べ-詳細)

正伝岡田以蔵

岡田以蔵は小説などの創作の影響で、史実とかけ離れた描かれ方をする事が多いです。本作は岡田以蔵に基づいた資料をもとに史実における岡田以蔵の実像に迫っています。分かりやすい文章で書かれており、読みやすい一冊でもあります。岡田以蔵について知りたい人は必見です。

created by Rinker
¥2,900 (2021/12/07 04:09:51時点 Amazon調べ-詳細)

おすすめの動画

おすすめの映画

人斬り以蔵

1969年に放映された作品であり、岡田以蔵を演じたのは勝新太郎でした。今なお評価の高い名作ではあるものの、キャストの一人、三島由紀夫が翌年に陸軍の駐屯基地で割腹自決を遂げた経緯とあり、リバイバル上映が控えられた作品でもあります。

現在もDVD化はされていないものの、Amazon primeで作品の素晴らしさを堪能できます。

人斬り以蔵

おすすめのドラマ

龍馬伝

2010年に放送された大河ドラマです。岡田以蔵を演じたのは佐藤健であり、その最期は今なお高い評価を受けています。後に佐藤健は実写版るろうに剣心の緋村剣心役を演じますが、それはこの作品で岡田以蔵がハマり役だった事が挙げられるのです。今なお色褪せない名作として、視聴をオススメします。

created by Rinker
アミューズソフトエンタテインメント
¥18,391 (2021/12/07 03:25:31時点 Amazon調べ-詳細)

まとめ

今回は岡田以蔵の生涯について解説しました。岡田以蔵は並外れた剣術の才能をもち、人斬りとして生きた男ですが、その最期はあまりにも儚いものでした。今なお岡田以蔵の墓に多くの献花が手向けられているのは、その生涯を弔いたいと思う人が数多くいるからです。

未だに謎の多い岡田以蔵の人物像とその生涯ですが、今回の記事を通じて岡田以蔵の事に興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

正伝岡田以蔵
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/岡田以蔵

おすすめの記事