小野妹子とは何をした人物?生涯・功績・名言・死因・子孫も解説

小野妹子は飛鳥時代に遣隋使として隋に派遣された人物です。男性である事は知っていると思いますが、それ以外の事については知らない人も多いのではないでしょうか。

彼は冠位十二階の最上位の大徳に位置する、この時代随一の知識人でした。今回は小野妹子の人物像や功績などについて解説していきます。

小野妹子とは?

小野妹子とは?

厩戸皇子の建立した法隆寺 出典:Wikipedia

 

小野妹子は飛鳥時代の官人です。彼が遣隋使の大使に任命されたのは604年で、推古天皇が即位していました。彼は隋の皇帝・煬帝から返書を受け取り、使者である裴世清と帰国。途中で返書を無くした(とされる)失態を犯すものの、罪に問われる事はなく、冠位は大徳という最上位まで上り詰めています。

ちなみに小野妹子が隋に派遣された回数は3回。彼はこの時代の日本を代表する国際人だったのです。

氏名 小野妹子
通称・あだ名 妹子臣
出生日 不明
出生地 不明
死没日 不明
死没地(亡くなった場所) 不明
血液型 不明
職業 官人
身長 不明
体重 不明
配偶者 不詳も子孫あり

 

小野妹子の人生年表・生涯

小野妹子の年表

出来事
5??年 近江国で誕生
607年 遣隋使として隋に渡る。
608年 大徳の位となる
608年 遣隋使として唐に渡る
609年 帰国
6??年 永眠

 

遣隋使の黒歴史

遣隋使の黒歴史

大津市にある日吉神社 出典:Wikipedia

 

小野妹子の生没年は不明です。彼は近江国滋賀郡小野村(現・滋賀県大津市)出身の豪族で、天帯彦国押人命(=天足彦国押人命)の6代孫だと言われます。とはいえ、『日本書紀』や『古事記』に事績に関する記載はなく、小野妹子の先祖が過去に大きな功績を残していたのかは不明です。

小野妹子が歴史の表舞台に登場したのは607年の事。遡る事、593年に女性として初めて推古天皇が即位。彼女は厩戸皇子(聖徳太子)や、蘇我馬子らと603年に冠位十二階、604年に十七条憲法などの政策を実行に移し、朝廷の中央集権化を図っていきました。

遣隋使もその一環として行われました。もともと中国大陸ではさまざまな国が乱立していましたが、581年に隋という超大国が成立。当時は東アジア一帯の国々は、中国と朝貢体制(周辺国が中国の皇帝に貢物をし、皇帝は周辺国の国の長を国王と認めて返礼品を渡すという貿易形態)を築いていました。

ただ日本は隋とは朝貢ではなく、対等な立場の関係性の構築を望みます。日本が初めて遣隋使を隋に派遣したのは600年の事で、この時に小野妹子は派遣されていません。ただこの時の遣隋使で日本の使者は的外れな事を言い、隋の皇帝・煬帝を呆れさせるなど、大失敗に終わっています。この事は日本にとっては黒歴史だったのか、日本側の記録には残されていません。

煬帝に激怒される

煬帝に激怒される

推古天皇像 出典:Wikipedia

 

前述した通り、推古天皇は冠位十二階や十七条の憲法などを制定し、隋に負けない国作りの構築を目指します。そして607年に2度目の遣隋使が行われる事になり、小野妹子は厩戸皇子が作成した国書を携えて、通訳の鞍作福利を伴い隋に派遣されます。

小野妹子は無事に隋の皇帝・煬帝に会う事が出来、厩戸皇子から預かった国書を煬帝に渡します。そこには「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。)と書かれていました。「天子」という言葉には、「天命を受けて天下を治める者」という意味があり、主に中国の皇帝が使う称号になります。

それを属国に過ぎない(と思っている)日本が使用していた事に煬帝は激怒。「無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな」と側近に伝えたそうです。とはいえ小野妹子が煬帝に罰せられる事はなく、裴世清という勅使と返書を持たされて608年4月に帰国しています。

小野妹子は帰国途中で経由した百済で返書を盗まれるという失態を犯し、一時は流罪に処されるところでしたが、罪に問われる事はありませんでした。後述しますが、小野妹子が「本当に返書を失くしたのか」という点については未だに議論がなされているのです。

3度目の遣隋使の大使となる

3度目の遣隋使の大使となる

日本書紀の写本 出典:Wikipedia

 

遣隋使という大役を果たした小野妹子でしたが、同年9月に裴世清が帰国する際に「3度目の遣隋使の大使」として、隋に派遣されています。この時に旻、南淵請安、高向玄理などの8人の留学生も随行しており、彼らの中には後の大化の改新で大きな功績を残す者もいました。

小野妹子は609年9月に帰国。一連の功績が認められ、冠位十二階では最高位である大徳に登り詰めています。2度にわたる遣隋使の大使という役割は、それだけの価値があったという事でしょう。

小野妹子の死因と最期

小野妹子の死因と最期

六角堂本堂 出典:Wikipedia

 

小野妹子の死因や最期について、詳しい事はほとんど分かっていません。彼の足跡は遣隋使に集約されており、記録としてほとんど残っていないからです。ただ晩年に小野妹子が出家した際に、厩戸皇子が建立した六角堂という寺に入ったとされています。

小野妹子が隋に派遣された年齢はもちろん、没した年齢も六角堂に入った年齢も分かりません。ただ大徳という階位まで上り詰めた事から、当時としては良い年齢だったのではないでしょうか。

小野妹子の性格と人物像エピソード

前述した通り、小野妹子については情報が少ない為、彼の人物像については謎に包まれています。この項目では、存在する資料から小野妹子の性格について迫っていきます。

度胸のある人物だった?

度胸のある人物だった?

煬帝 出典:Wikipedia

 

小野妹子は隋に到着すると、時の皇帝である煬帝に会っています。彼は中国を代表する暴君とされており、残酷な刑を復活させ、謀反を企てた者は九族に至るまで処刑されました。煬帝は小野妹子が持参した国書を読んで激怒しています。このまま小野妹子も処刑されてもおかしくはなかったのですが、小野妹子は無事に帰国する事が出来ています。

煬帝が暴君である事は、事前の情報で小野妹子も知っていたはずです。命懸けで隋に行き、そして暴漢の煬帝に会う。小野妹子は私たちが思う以上に大変な責務を成し遂げたのです。

小野妹子の性別

小野妹子の性別

蘇我馬子 出典:Wikipedia

 

小野妹子という名前から女性と勘違いされやすいですが、彼はれっきとした男性です。古代では名前の最後に○○子と名づける事は珍しくありませんでした。同世代の人物としては、厩戸皇子と共に推古天皇を補佐した蘇我馬子も有名ですね。

小野妹子が女性に間違われやすいのは、名前に妹という漢字が含まれている為です。「妹」という字は、かつては「いも」と呼び、恋人や妻などの親しい女性全般を指す言葉でした。この漢字がなぜ、彼に名付けられたのは分かっていません。小野妹子は、私たちが思う以上に女性らしい要素を併せ持っていたのかもしれません。

小野妹子がやったこと・功績

東アジアにおける日本の立ち位置を確立させる

東アジアにおける日本の立ち位置を確立させる

隋の領域 出典:Wikipedia

 

小野妹子の最大の功績は、東アジアにおける日本の立場を確立させた事でしょう。隋という大国が誕生して以来、百済や新羅などの国々は、隋の冊封体制下に組み込まれていきました。

そんな中でも日本は、必ずしも冊封体制に入る事を良いと思っていなかったのです。そんな経緯もあり、厩戸皇子は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を出したのです。

激怒した煬帝でしたが、当時の隋は高句麗という国と対立関係にあり、日本と高句麗が手を組む事を懸念。失礼極まりない日本の行動を容認したのでした。これは日本が隋の冊封体制から脱却した事を意味し、東アジアにおける独自と立場を貫く事が出来たのです。

国書を盗まれた事にした?

国書を盗まれた事にした?

当時の朝鮮半島の地図 出典:Wikipedia

 

ちなみに小野妹子は、帰国前に訪れた百済の地で煬帝から受け取った返書を盗まれています。この一件で小野妹子を無能扱いする声もありますが、これは煬帝の返事が倭国(隋からみた日本の呼び方)を臣下扱いするもので、厩戸皇子達がこれに立腹する事を恐れて破棄したという説もあります。

もしかしたら小野妹子は、厩戸皇子らごく一部の人には返書の内容を見せた可能性もあります。小野妹子は流罪に処されるものの、すぐに罪を赦されて後に大徳に上り詰めた事、返書を盗んだ百済に日本が何も行動を起こしていない事が、この説の信憑性を高めているのです。

実は華道の創始者

実は華道の創始者

池坊専好の立花 出典:Wikipedia

 

意外なところでは、小野妹子は「華道の創」とされています。これは華道の家元である池坊が定めているものです。これは六角堂の住職となった小野妹子が、隋の習慣に基づき、境内にある池の傍らに坊舎を構えて朝夕仏前に花を供えた事が理由とされます。

池坊は小野妹子に強い敬愛の念を持っており、住職となった小野妹子の名前である「小野妹子専務」の名をとって、代々の家元は「専」の字を受け継いでいます。華道と小野妹子が結びつくのは意外ですね。

小野妹子の名言

歴史書において小野妹子の記述は非常に少なく、彼が残した名言というものは残されていません。今後、隋の記録などが発見されれば、小野妹子が煬帝と会った時に、どのような言葉を残したのかが分かるかもしれません。

小野妹子の家族や子孫

小野妹子のルーツ

小野妹子のルーツ

琵琶湖が小野妹子のルーツ? 出典:Wikipedia

 

前述した通り、小野妹子は天帯彦国押人命(=天足彦国押人命)の6代孫とされています。小野氏は近江国滋賀郡小野村を拠点とした豪族で、琵琶湖での水運技術をもとに、朝廷では海事や軍事を担当していました。小野妹子が遣隋使の大使に任命されたのも、こうした航海術の影響があるのかもしれません。

小野妹子の父親は小野仲若子とされます。同じく官人を勤めており、敏達天皇の夫人を務めた老女子夫人の父親という事は分かっていますが、その他の事は不明です。

ちなみに小野妹子の姉(妹)老女子夫人は多くの皇子を産み、その中の子孫が橘諸兄という人物です。橘氏一族には、嵯峨天皇の皇后となる橘嘉智子がおり、その血筋は現在の考察にも受け継がれています。小野妹子のルーツを掘り下げていけば、現在の皇室にも繋がるとは驚きですね。

小野妹子の子孫

小野妹子の子孫

小野小町像 出典:Wikipedia

 

続いて小野妹子の子孫とされる人物を紹介していきます。ただこの時代の家系図は不明な点も多い為、あくまでも可能性という事を念頭に入れてもらえたら幸いです。

小野毛人

小野妹子の息子で、天智天皇に仕えた官人とされます。記録にはほとんど残されておらず、江戸時代に見つかった墓誌からその存在が明らかにされました。墓誌によると小野毛人は刑部大卿と太政官を兼任し、大納言か中納言の職にあったとされます。

小野毛野

小野毛人の息子で、小野妹子の孫にあたります。695年に遣新羅使に任ぜられ、新羅へ渡航するなど、小野妹子とよく似た立場にあったようです。

小野篁

小野篁は小野妹子の6代目の子孫にあたる人物で、平安時代に公卿を務めた人物です。学問、馬術、芸術など、マルチな才能を併せもちつつ、身長は当時では異例ともいえる188cm。激情型の性格で、野狂と称されていました。

小野小町

小野篁の孫とされますが、詳しい系譜は不明。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙などに名を残し、優れた歌人だったとされます。

このように小野妹子の子孫は、しばらくは主に官人を務めていたようです。ただ時代が下るにつれ、朝廷では藤原家が台頭し、小野氏は勢力を後退していきます。没落した小野氏は地方の役人や武士になるなどして生き残りを図っていくのです。

戦国時代では、近江国の井伊家に仕えた小野政直も小野妹子の子孫とされます。小野政直の息子である小野道好は2017年の大河ドラマ・おんな城主直虎のメインキャラクターとしても登場していますね。

ちなみに近年では、榎木さりなという女優が小野妹子の末裔を称していますが、実際のところは不明です。

小野妹子のゆかりの地

科長神社

科長神社

科長神社 出典:Wikipedia

 

小野妹子の墓があるとされる神社です。周囲は蘇我倉山田石川麻呂の本貫地で、近くには孝徳天皇陵・推古天皇陵、同町には聖徳太子廟所、叡福寺北古墳があります。毎年6月30日に墓前祭が営まれており、小野妹子を慕う人たちで賑わうそうです。

住所:大阪府南河内郡太子町山田3778

小野妹子公園

実は小野妹子の墓は科長神社だけではなく、故郷の大津にも存在します。小野妹子公園には妹子神社と唐臼山古墳があり、唐臼山古墳が小野妹子の墓だと言われています。この地域一帯には小野氏が過去に拠点としており、小野神社、小野篁神社などが点在しています。

小野妹子にゆかりのある土地という事は間違いないのですが、「唐臼山古墳が小野妹子の墓である」と言われるようになったのは江戸時代になってから。科長神社と唐臼山古墳のどちらが正しいのかは、論争が続いているのです。

住所:大津市水明一丁目

京都六角堂

京都六角堂

六角堂太子堂 出典:Wikipedia

 

京都六角堂は小野妹子が晩年に過ごした(とされる)神社です。六角堂が建立されたのは、厩戸皇子が16歳(590年)の事で、排仏派の物部守屋の討伐の為に、戦勝祈願を行った事がきっかけとされています。厩戸皇子が六角堂が建立される場所に訪れた際に、小野妹子も随行したとされていますが、飛鳥時代の遺構からは六角堂の痕跡は発見されておらず、創作の可能性が高いとされます。

したがって小野妹子が六角堂に入ったという話もどこまで事実かは分かりません。新たな資料が発見されると良いですが、この時代の資料は創作なども多分に含まれている為、今後も小野妹子の足跡を辿る事は難しいでしょう。いっそのこと、想像を巡らせる方が良いのかもしれませんね。

小野妹子の関連人物

聖徳太子

聖徳太子

聖徳太子像 出典:Wikipedia

 

聖徳太子は飛鳥時代の皇族であり政治家です。近年では厩戸皇子の呼ばれる事が多いようです。彼は推古天皇の摂政として、蘇我馬子達と冠位十二階や十七条の憲法などを制定しました。遣隋使も彼の主導で進められたとされます。

厩戸皇子がなぜ小野妹子を大使に選んだのかは不明です。ただ「彼ならば遣隋使を成功させるだろう」と思っての事は間違いありません。両者の間には深い信頼関係があったのでしょう。

小野妹子の関連作品

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小野妹子・毛人・毛野:唐國、妹子臣を號けて蘇因高と曰ふ

小野妹子だけでなく、彼らの子孫である小野毛人や小野毛野などにも触れた一冊。小野氏が古代の日本史に与えた影響が大きい事が、この本から分かります。

内容としては重厚かつ真面目な学術書であり、内容は難しいかもしれません。ただ小野妹子やその一族について最も深く学べる本です。興味のある方は読んでくださいね。

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小野妹子についてのまとめ

今回は小野妹子について解説しました。遠路はるばる隋まで向かい、煬帝に国書を渡す。小野妹子は命懸けで責務を全うし、日本の東アジアにおける立場を確立させたのです。彼はその手腕もさることながら、その子孫や華道の祖としての功績など、さまざまな影響を日本に与えています。

今回の記事を通じて、小野妹子に興味を持っていただけたら幸いです。

参考文献

小野妹子・毛人・毛野:唐國、妹子臣を號けて蘇因高と曰ふ

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