源頼朝の人物像と人生年表まとめ!名言・偉業・死因も解説

源頼朝は授業でも必ず習う人物です。鎌倉幕府を開いた人物として有名ですが生涯や最期等、分からない事が多いのではないでしょうか?
今回は源頼朝の人物像と人生年表、名言等についてまとめていきます。

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源頼朝とは?


(源頼朝像(神護寺蔵) 出典 Wikipedia)

源頼朝は初めて武士による政権を樹立させました。その後600年に渡り、武士が日本の政治を担っていく事になり、日本史における頼朝の影響は計り知れません。

容姿

容姿は平家物語では「年齢より大人びている」、源平盛衰記では「顔が大きく容貌は美しい」と評されています。どの物語でも容姿は優れていたと記載しています。伊豆では八重姫や北条政子、幕府を開いてからも頼朝はよくモテました。これらのエピソードからもイケメンであったと考えられます。
身長は当時の甲冑を元に推測すると165cm前後と考えられ、当時としては大柄です。

肖像画


(平重盛像 ※足利尊氏説あり 出典 Wikipedia)


(藤原光能像 ※足利義詮説あり 出典 Wikipedia)

皆がイメージする源頼朝の肖像画は、平重盛(清盛の長男)、藤原光能の肖像画を合わせて神護寺三像と呼ばれ、国宝に指定されています。
最近では画風が鎌倉時代初期のものではないと言われ、源頼朝は足利直義(尊氏の弟)、平重盛は足利尊氏、藤原光能は足利義詮(尊氏の息子)と言う説が有力になっています。
甲府善光寺蔵にある木像が生前の姿に一番近いと言われていますが、垂れ目・垂れ眉となっており、一般の頼朝像とはイメージが異なります。

源頼朝についての動画

源頼朝についての動画を紹介します。

こちらは頼朝の死に隠された説についての動画になります。

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源頼朝の生い立ちと生涯

源義朝の嫡男


(出生跡地にある誓願寺と誕生旧地碑 出典 Wikipedia)

頼朝は1147年源義朝由良御前の三男として尾張国熱田に生まれます。長男の義平、次男の朝長よりも昇進が早いのですが、これは母の由良御前が貴族の娘と言う事で、頼朝が嫡男とみなされていたからです。

平治の乱と流罪


(『平治物語絵巻』三条殿焼討 出典 Wikipedia)

1159年源義朝は平治の乱平清盛に敗死。義朝の子は義平、朝長、頼朝、義門が参加していましたが、頼朝は生き残ります。頼朝は清盛の義母の助命により、伊豆国に流罪となり、生き残った兄弟とも離れ離れとなります。

その後は流罪地で飼い殺し当然の状態となりますが、大恋愛の末に豪族の北条時政の娘の北条政子と結婚し、大姫を設けています。

頼朝の挙兵


(石橋山古戦場 出典 Wikipedia)

1180年に後白河法皇の皇子以仁王が打倒平家を命じた令旨を、全国の源氏に発令します。叔父の行家を通じ、頼朝の元にも届き、挙兵を決行します。

石橋山の戦いでは九死に一生をえますが、無事生還。反平家派の勢力を従え、鎌倉に入ります。鎌倉は義朝や義平が住んだ地であり、関東の武士が多く住んでいました。周囲を山に囲まれたこの地は軍事拠点として最適で、頼朝は鎌倉を拠点とします。
その後は義経や範頼等、馳せ参じた兄弟や各地の源氏に平家の戦いは任せ、自身は鎌倉で東国武士の神輿として君臨しつつ、武士による新たな政治システムの構築に努めます。

源平合戦


(『安徳天皇縁起絵図』 出典 Wikipedia)

1181年に平清盛が死去。平家は急速に勢力を弱めていきます。1185年に義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させますが、三種の神器を取り返す事が出来ませんでした。三種の神器は天皇の皇位継承に必要なものでした。義経は武士の世を作るにも関わらず、後白河法皇から官位を貰う等、勝手な振る舞いも多かったのです。
義経が奥州に逃げた事を知ると、頼朝は奥州藤原氏の泰衡に圧力をかけ、1187年に義経を自害させる事に成功します。その後は奥州藤原氏も滅ぼし、1180年から続いた内乱は1192年に終結します。

頼朝は義経の他、木曽義仲や源行家等、叔父や従兄弟とも対立しています。彼らは割と問題行動も多く、武士による政権を作ると言う考えはなかったようです。多くの粛清や対立も、武士の世を作る為だったのですね。

征夷大将軍に任命


(「後白河院」 出典 Wikipedia)

頼朝は後白河法皇に何度も謁見し、法皇から諸国守護権が正式に認められます。1192年に法皇が崩御すると、頼朝は征夷大将軍に任命され、正式に武士による政権は認められました。

いい国作ろうはもう古い?

鎌倉幕府の成立年は未だに議論されています。昔は頼朝が征夷大将軍に任命された1192年が主流でしたが、守護と地頭が置かれた1185年と言う説もあります。
鎌倉幕府の樹立を頼朝が宣言した訳ではなく、当時は幕府と言う言葉もありませんでした。この年に幕府が成立したと決める事は出来ず、徐々に武士による政治システムが確立したと考えられています。

源頼朝の死因・最期


(源義朝終焉の地にある野間大坊 出典 Wikipedia)

鎌倉幕府創設後の頼朝は幕府の権力の強化に努めています。1198年12月27日に相模川で行われた行事の帰りで体調を崩し、1199年の1月13日に死去します。享年53歳でした。原因は落馬と言われています。

本当に落馬なのか?

鎌倉幕府の正史である吾妻鏡には落馬と書かれていますが、頼朝の死の前後3年間は記録がありません。源氏の棟梁が落馬する事も不審ですし、情報が少なすぎる事から、何か頼朝の死の真相を隠したのではないかと言われています。

落馬が真実だとしても、落馬して頭部を外傷した場合は落馬が死因になりますし、脳卒中等が原因で落馬したのなら、落馬は結果として生じた事になります。他にも糖尿病説や、安徳天皇や義経の亡霊を見た説もあります。

晩年の頼朝に迫る暗い影

頼朝の死には北条家による暗殺説もあります。頼朝は死の数年前に長女千姫を後鳥羽天皇の妃にするよう画策しています。かつての藤原家や平清盛のように、天皇家の外戚になり権力を握ろうと考えたのでしょうか?
鎌倉幕府は武士による政治を目指したものなので、将軍の頼朝が天皇家と血縁関係になるのは、鎌倉の武士達からすると許せない事でした。結局長女は病死し、頼朝も間も無く死去。
その後は頼家、実朝と頼朝の子どもが将軍となりますが、暗殺され、わずが3代で頼朝の血は断絶します。頼朝を取り巻く環境とその後を見ていると、暗殺説も信憑性が増します。いつか新たな資料が見つかると良いですね。

源頼朝の人生年表


(鶴岡八幡宮 出典 Wikipedia)

出来事
1147年誕生
1158年(12歳)皇后宮権少進等、順調に出世する
1159年(13歳)平治の乱で父が敗死。頼朝は伊豆に流罪
1177年頃(30歳頃)北条政子と結婚
1180年(34歳)以仁王の令旨にて挙兵
石橋山の戦いで敗走
鎌倉に入る
1181年(35歳)清盛死去
1182年(36歳)頼家誕生
1184年(38歳)一ノ谷の戦い
公文所を開く
1185年(39歳)壇ノ浦の戦いで平家滅亡
義経と対立する
守護・地頭の設置を認められる
1186年(40歳)叔父行家を討ち取る
1189年(43歳)奥州藤原氏を滅ぼす
1187年(41歳)義経を滅ぼす
1192年(46歳)征夷大将軍に任命される
1195年(49歳)娘の大姫を後鳥羽天皇の妃にするよう画策
1198年(53歳死)去
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源頼朝の性格と人物像エピソード


(平治の乱で敗走する義朝一行。出典 Wikipedia)

性格

政治力、人材掌握術はあの家康も参考にしており、非常に合理的な性格でした。人格的には猜疑心が強く「冷酷な政治家」と評されています。鎌倉幕府の創設にあたり義経や範頼、叔父の行家等、身内であっても容赦なく排除しており、その冷徹さから、あまり人気はありません。
平治の乱で命を助けてくれた池禅尼(清盛の義母)の子息は平家であっても手厚くもてなし、窮地を救った梶原景時は生涯重鎮として扱う等、恩義を忘れない性格でした。

子どもには甘かった

叔父や兄弟まで手をかけた頼朝ですが、自分の子どもにはとても甘かったのです。1193年に征夷大将軍の権威を誇示する為の鷹狩りが開催され、12歳の息子頼家が鹿を射止めると、その事を喜び政子に報告の使者を送っています。政子には武士なら当たり前と使者を追い返していますが…

源頼朝の功績


(源氏紋・笹竜胆 出典 Wikipedia)

頼朝の時代の武士は、天皇や藤原家等の貴族に仕えるガードマン的な存在でした。頼朝は貴族による政治から、実際に土地と農民を支配していた武士達が政治をする世の中を作りました。
頼朝の作った幕府は、王政復古の大号令まで680年に渡り続く事になります。後の尊氏や家康も頼朝が作った制度をお手本にしています。頼朝がいなければ江戸幕府もなく、現在の東京もありませんでした。
他にも源氏のみが幕府の創設者になる、将軍になるには征夷大将軍の称号が必要等、多くの先例を作りました。

源頼朝の名言


(九条兼実像 出典 Wikipedia)

大事を思ひはからふ者、物とがめをせず、事ならぬことを事になさず。

大きな野望を持つものは、細かな事を咎めず、些細な事を問題にしない

頼朝が武士の世をつくろうと明確なビジョンを持っていた事がよく分かる名言です。

 

今度は天下の草創なり、もっとも淵源を究め行はるべく候。

今は天下が始まろうとしている時期である。何故そうなったのかを深く突き止めるべきである。

頼朝が時の関白九条兼実に当てた手紙に書かれていた言葉です。貴族から武士に政権が移る時代の節目を良く分かっていたのですね。
逆に言うと義経や義仲が天下を取れなかったのは、時代の節目を読み取る事が出来なかったからとも言えます。

源頼朝の妻や兄弟、子ども

北条政子(1157年〜1225年)

北条政子(1157年〜1225年)

(北条政子(菊池容斎画、江戸時代) 出典 Wikipedia)

 

皆が知る頼朝の妻です。頼朝が伊豆に流罪となった際、周囲の反対を押し切り恋愛の末に結婚しました。北条家は頼朝の後援者として活躍します。
後に頼朝が死去し、息子の頼家と実朝が死去した後に、傀儡として藤原頼経を将軍とし、政子は尼将軍として実権を握ります。
嫉妬深いエピソードも多く、頼朝の妾相手に激怒(当時は当たり前の事だった)して、妾宅を破壊する等の話もあり、頼朝は生涯政子に頭が上がりませんでした。

八重姫(生没年不明)

曽我物語に登場しますが、創作の可能性が高いです。頼朝は伊豆に流罪になった際、伊東祐親の娘八重姫と恋仲になり、千鶴御前という男の子を出産します。祐親が伊豆に戻ってきた際、平家に狙われる事を危惧し、千鶴御前を殺害。八重姫は別の人に嫁がせたとされています。八重姫のその後は不明です。

兄弟

源義平(1141年〜1160年) 朝長(1143年〜1160年) 義門(生没年不明)

平治の乱で戦死した兄弟です。
義平は鎌倉悪源太と呼ばれ、1155年には義朝と対立した叔父の義賢(木曽義仲の父)を討ち取る等、義朝の右腕として活躍。平治の乱では勇猛果敢に戦ったとされますが、捕まり斬首されます。

朝長は平治の乱の最中に負傷。死を悟り、義朝に頼み殺害してもらいます。

義門は頼朝の弟で、頼朝と同じく由良御前が母親とされていますが資料はほぼありません。平治の乱で戦死したとされています。

源希義(1152年〜1180年か82年)

母は同じく由良御前。平治の乱で高知に流罪となります。以仁王の令旨で挙兵を画策しますが、討ち取られます。没年は吾妻鏡では1180年、平家物語や平治物語では1182年です。

源範頼(1150年〜1193年)


(源範頼像 出典 Wikipedia)

母は遠江の遊女との事。早くから頼朝に合流し、一ノ谷の戦いでは総大将を務める等活躍。平家物語では義経を良く書く為に、あまり良く書かれていませんが、要所で活躍しています。源平合戦を生き残っており、能力は高いと思われます。
1193年に曽我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたと誤報が入ります。狼狽える政子に対して、「頼朝の後は自分が控えている」と励ました事が頼朝は謀反と判断。伊豆の修繕時に幽閉されます。その後は自害、謀殺、天寿を全うした等、最期は不明です。

阿野全成(1153年〜1203年)

母は常盤御前。義朝の敗死と共に出家させられます。別名を悪禅師。頼朝挙兵後、最初に合流した兄弟でした。源平合戦には登場しません。源平合戦後も生き残りつつ、頼朝に滅ぼされなかった唯一の弟です。
1199年に歴史に再登場します。北条政子の妹と結婚し、立場は北条側という事で、2代将軍源頼家と対立。後に頼家の刺客により、誅殺されます。子孫は生き残り、幕末に活躍した玉松真弘等がいます。

源義円(1153年〜1181年)

母は常盤御前。頼朝の命で叔父の行家の挙兵に参加。清盛の五男の平重衡の軍勢と戦い戦死します。

源義経(1159年〜1189年)


(出典 Wikipedia)

皆が知る源平合戦のヒーローです。母は常盤御前。一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦いで活躍します。後に頼朝と対立し、藤原泰衡に討ち取られます。その悲劇的な最期は多くの創作が作られました。

坊門姫(1145年もしくは1154年〜1190年)

母は常盤御前で、頼朝の同母姉か同母妹です。後に貴族の一条能保の妻となり、頼朝にとって朝廷とのパイプ役になります。
1190年に難産の末に死去。頼朝はその事を嘆いています。頼朝の血筋が断絶すると、坊門姫の曾孫の藤原頼経が4代将軍に任命されました。
坊門姫の年は諸説ありますが、1145年説だと46歳で難産の末に死去した事になります。1154年の生まれで頼朝の妹と言うのが通説です。

子ども

大姫(1178年〜1197年)

6歳の時に、木曽義仲の息子の義高と結婚します。後に義仲と義高が処刑され、心を病んでしまいます。その後の縁談も拒み続け、悩んだ頼朝は後鳥羽天皇の妃にするよう画策しますが、病の末20歳で死去します。
この画策が東国武士の頼朝への求心力の低下を招きつつ、朝廷の反幕府派を生み、承久の乱の布石になります。

源頼家(1182年〜1203年)


(源頼家像 出典 Wikipedia)

鎌倉幕府2代将軍。頼朝死去後に実権を握りたい頼家と、北条家と軋轢が生じます。後に専修寺に幽閉された挙句暗殺されます。吾妻鏡では頼家は悪く書かれていますが、北条家の策略と言われています。頼家の死去後、北条家が幕府の実権を握ります。

貞暁(1186年〜1231年)

母は侍女である大進局です。政子はこれに激怒し、大進局は子を連れて深沢に逃げます。後に出家しますが、結果的に幕府の権力争いから離れた事で生き残ります。北条家の粛清を恐れ、政治の場には関わらず、源氏の菩提を弔う役を担います。46歳で死去し、頼朝の男系は断絶します。

三幡(1186年〜1199年)

次女です。大姫が死去後、頼朝は三幡を後鳥羽天皇の妃にするよう画策。頼朝が死去後、5ヶ月後に高熱を出し、後を追うように急死します。派遣された医者が反頼朝派であり、暗殺説もあります。

源実朝(1192年〜1219年)


(源実朝像 出典 Wikipedia)

鎌倉幕府2代将軍。和歌や蹴鞠など朝廷貴族の文化を好む人物であり、御家人にとっての評判は良くありません。12歳で将軍となり、実権は北条家が握ります。
実朝の昇任祝いが鶴岡八幡宮で行われた際に、頼家の息子公暁に暗殺されます。

実朝に実子はおらず、頼家の子供たちも公暁を始め、自害や誅殺されます。唯一生き残った頼家の娘の竹御所は1234年に難産の末、男子を死産して、本人も亡くなります。頼朝の血筋は完全に断絶したのでした。

源頼朝のゆかりの地


(白旗神社内 源頼朝墓所 出典 Wikipedia)

鎌倉市西御門に頼朝の墓があります。この周辺は鎌倉幕府が置かれていた場所です。1189年に源頼朝は聖観音像を本尊として持仏堂を造ります。頼朝が亡くなった際に、持仏堂に遺体は葬られ、法華堂と言う名前がつけられました。
現在の墓は江戸時代に頼朝の子孫を自称する薩摩藩主島津重豪により建てられました。「千鶴丸が実は生きていた」「頼朝の妾の子」等の説はありますが、ほぼ違います。
明治の廃仏毀釈により、法華堂は取り壊され、頼朝を神とした白旗神社が建てられ今に至ります。

京都国立博物館

常設された頼朝の記念館や資料館はありません。特に有名な頼朝の肖像画は京都国立博物館に寄託されています。元々は神護寺のものなので、毎年5月1日〜5日には神護寺に戻され、一般公開されます。

源頼朝を題材にした作品


(吉川英治 出典 Wikipedia)

映画・ドラマ

頼朝を主役にした作品は1961年の「富士に立つ若武者」と、1979年の大河ドラマ「草燃える」がありますが、最近は主人公にはなっていません。身内への粛清や、不審な最期等もあり、映画の題材にはし辛いのかもしれません。
最近の大河ドラマでは「義経」で中井貴一さんが、「平清盛」で岡田将生さんが演じています。

小説

吉川英治が源平合戦の時代の小説を執筆しています。「源頼朝」「新平家物語」等があります。単に頼朝を義経を滅ぼした冷徹な武士として描かず、頼朝の苦悩も描かれています。
他にも山岡荘八「源頼朝」等があり、平家物語ではあまり描かれない義朝の最期等にも触れられています。

参考文献

元木泰雄 源頼朝-武家政治の創始者-
https://traveltoku.com/yoritomo-haka/
https://www.yoritomo-japan.com/jinbutu/genji-5.htm
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/happytam.com/2018/12/22/post-663/%3Famp%3D1%26usqp%3Dmq331AQOKAGYAaaytJjT5JjI1AE%253D
https://bushoojapan.com/jphistory/genpei/2019/05/11/110233

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