井伊直虎は日本の歴史の中で数少ない女性領主で、NHKの大河ドラマ『おんな城主 直虎』でとりあげられたことで一躍知られるようになりました。直虎に関する史料は非常に少なく、生年をはじめその生涯の大部分は謎に包まれています。
姫として生まれた直虎がなぜ男性の名を名乗り、他家に嫁ぐこともなく自ら井伊家の惣領となったのでしょうか。数奇な生涯を送った戦国の姫城主は、現代の人々を引き付けてやみません。この記事では、直虎の人生年表を概観したのち、井伊家の歴史や直虎ゆかりの神社仏閣、直虎の業績などを紹介し、魅力あふれる井伊直虎の実像に迫ります。
目次
井伊直虎とは?
出典:Wikipedia
井伊家を守った戦国の女性地頭
井伊直虎は織田信長や徳川家康、今川氏真らと同時代に生きた人物です。女性でありながら井伊氏惣領となって遠江国引佐郡の井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町)の地を治め、「女地頭」と呼ばれました。
今川氏や織田氏、徳川氏、武田氏ら有力な戦国大名たちが割拠する遠江の地において、何度も滅亡の危機に直面しながら巧みな政治判断によって家を守り抜き、のちに徳川四天王の一人となる井伊直政を育て上げました。
駿河および遠江随一の有力者だった今川氏が新興勢力である織田氏に敗れ、徳川が勢力を伸ばしていく戦乱の時代の中、井伊家の男性たちは次々と非業の死を遂げていきました。家を継げる成年男性がいなくなってしまったため、女性である直虎が井伊谷の惣領となったのです。
女性も家督を継げた?
戦国時代、女性が家督を継ぐのは非常にめずらしいことでしたが、まったく例がなかったわけではありません。直虎とほぼ同時代に活躍した女戦国大名・女地頭としては、次のような人物が挙げられます。
・織田信長の叔母で岩村城主となった遠山景任の正室
・細川勝元の娘で播磨・備前・美作三国の実質的な統治者だった赤松家の洞松院
・京都の公家である中御門信胤の娘で今川氏親に嫁ぎ、嫡男氏輝に代わって政務をとった寿桂尼
・曳馬城城主飯尾連龍の妻で、夫の死後に城を守り、徳川家康と戦ったお田鶴の方
江戸時代では、跡継ぎとなる男子がいないために断絶される大名家が少なくありませんでしたが、戦国時代までは女性も家督を継ぐことが認められていたのです。
井伊直虎がモデルになっている漫画
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直虎をモデルとする小説や漫画などには次のようなものがあります。
・『女城主井伊直虎』文:柴田宏祐 絵:江川直美(漫画)
・『井伊直虎のことがマンガで3時間でわかる本』津田太愚(漫画)
・『女にこそあれ次郎法師』梓澤要(小説)
・『剣と紅』高殿円(小説)
・『井伊の虎』火坂雅志(小説)
・『湖上の城』安部龍太郎(小説)
・『戦国の尼城主 井伊直虎』楠木誠一郎(小説)
・『直虎と直政 井伊谷の両虎』岳真也(小説)
・『直虎 乱世に咲いた紅き花』高橋直樹(小説)
・『直虎の城』山名美和子(小説)
・『女城主直虎と信長』愛須隆介(小説)
・『井伊直虎 過酷な運命にもまれた不屈の風』藤咲あゆな(児童書)
・『戦国の姫城主井伊直虎』文:越水利江子 絵:椎名優(児童書)
・『井伊直虎 戦国時代をかけぬけた美少女城主』文:那須田淳 絵:十々夜(児童書)
・『井伊直虎 民を守った女城主』時海結以(児童書)
井伊直虎の人生年表
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年 | 出来事 |
---|---|
1504年 | 曾祖父の二十代当主・井伊直平が家督を相続する |
1505年 | 直平が引馬城主となる |
1506年 | 父の二十二代当主・井伊直盛が生まれる |
1535年 | 許婚となる井伊直親が生まれる(幼名は亀之丞) |
1535年頃? | この頃に直虎も生まれる?(生年不詳) |
1542年 | 祖父・井伊直宗が田原城攻めで戦死 |
1544年 | 大叔父の直義と直満が謀反を疑われ、今川義元によって処刑される 直満の嫡男・亀之丞(直親)が信州へ出奔する 直虎が大叔父の南渓瑞聞のもとで出家し、次郎法師と名乗る |
1555年 | 亀之丞が井伊谷へ帰還し、直盛の養子となる。井伊直親と改名し奥山朝利の娘と結婚する |
1560年 | 桶狭間の戦いで今川氏方についた直盛が討ち死にする 直親が井伊家二十三代当主となる |
1561年 | 直親と奥山朝利の娘の間に虎松(のちの井伊直政)が生まれる |
1563年 | 直親が掛川城主の朝比奈泰朝に殺害される |
1565年 | 次郎法師が直虎と名乗り、井伊家の惣領となる(1564年もしくは1568年という説もある) 次郎法師の名で井伊家菩提寺の龍潭寺に寄進状を出し、寺領を確認する 虎松の後見人になる |
1566年 | 今川氏が徳政令を出す |
1568年 | 直虎、徳政令を実施する。 井伊谷城を出て龍潭寺に入る。 |
1575年 | 虎松が徳川家康に仕官し、家康から万千代の名と三百石を与えられる |
1582年 | 直虎、死去 万千代が元服して直政と名乗り、二十四代当主となる |
井伊直虎の人物エピソード
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許婚の出奔とともに出家する
直虎は井伊家二十二代当主である井伊直盛と、新野左馬助親矩の妹(祐椿尼)の間に生まれました。直虎は父のいとこに当たる亀之丞と婚約し、いずれは婿養子となる亀之丞が井伊家の家督を継ぐはずでした。しかし、亀之丞の父直満が謀反の疑いをかけられ今川義元によって自害させられたことから、直虎の運命は大きく変転することになりました。
直満の嫡男である亀之丞の命も危険が迫っていたため、亀之丞は家臣に伴われて信州へ逃亡します。逃げ延びた亀之丞は信州の松源寺で10年以上に及ぶ潜伏生活を余儀なくされました。安全を確保するため、この間亀之丞の消息は伏せられていたので、直虎はいいなずけの安否もわからない状態におかれていました。
残された直虎は出家の道を選び、次郎法師と名乗るようになりました。次郎法師という名は、井伊氏の惣領の名前である「次郎」と、出家したことを表す「法師」という名を組み合わせたものとされています。
直虎は別の男性と結婚することもできたはずですが、なぜ出家したかはわかっていません。直虎が出家することによって今川氏の疑心を解き、井伊家を守るという目的もあったと考えられますが、直親を慕う一途な気持ちの表れだったのかもしれません。
元許婚の息子の養母となる
直親は1555年、ようやく井伊谷への帰還が叶いました。しかし直虎はすでに出家していたため直親と結婚することができず、直親は別の女性を妻としました。
1563年、井伊家に再び悲劇が起こります。直盛の跡を継いで新たな当主となった直親が、今川氏真に叛意を抱いて松平元康(徳川家康)と内通しているという嫌疑をかけられたのです。直親は釈明のために駿府へ向かう途中、今川家の家臣によって殺害されました。
直虎は直親の遺児である幼い虎松を養子とし、のちに家督を継がせました。別の女性と結婚した元いいなずけの子供を引き取ったことからも、直虎が広い心の持ち主だったことがうかがえます。直親の忘れ形見である虎松は、直虎にとって特別な存在だったのでしょう。
井伊家の家督を継ぎ、女地頭となる
1560年の桶狭間の戦いで、井伊家は今川氏のもとで戦いました。今川義元は織田信長に討ち取られ、当主の井伊直盛をはじめたくさんの家臣たちが討ち死にしました。
翌1564年には直虎の曾祖父・直平が急死します。直平の死因は毒殺とみられています。さらに同年、今川氏のもとでの引馬城攻撃において、直虎の伯父・新野親矩をはじめ一族郎党の多くが討ち死にを遂げます。井伊家にはもはや後継ぎとなれる成年男子はおらず、残るのはまだ幼い直親の遺児・虎松のみ。井伊家は再び存亡の危機に立たされました。
このとき井伊家の惣領となったのが、女性である次郎法師でした。次郎法師は直虎と名を変え、女地頭として領国支配に乗り出しました。政情不安定な中、女性の身で武家の惣領となる運命を引き受けた直虎は、戦国時代の姫にふさわしい勇気と強さをもっていたのではないでしょうか。
井伊直虎の伝説
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直虎は男性だった?
直虎に関する史料は非常に少なく、生まれた年や幼名、容貌などはわかっていません。直虎と次郎法師は別人であるという説やそもそも直虎は実在しなかったという説さえあります。
ただ、江戸時代中期に記された井伊家の家伝『井伊家伝記』に「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」とあることから、次郎法師は女性だったと考えられています。直虎が惣領として出した二つの文書に、それぞれ「次郎法師」「次郎 直虎」と署名されていることから、次郎法師=直虎という推察が成り立ちます。
しかし2016年、「(領地は)新野殿(直虎の伯父)の甥の井伊次郎殿に与えられた」と記されている古文書が見つかったと発表され、直虎が男性だった可能性が浮上しました。直虎に関しては、次郎法師と直虎は同一人物で女性だったという説と、次郎法師は女性で直虎は男性の別人物だったという説などがあります。
井伊直虎が行った偉業
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井伊家を存続させる
井伊氏は武田氏、今川氏、織田氏、徳川氏が勢力を競い合う、地政学的に難しい地域を拠点としていました。井伊氏は列強と天下を争う立場ではなく、領地を守り家を存続させることが最大の使命でした。
度重なる戦乱や謀略によって一族の男子が次々と命を落とし、井伊家が断絶の危機に直面したとき、直虎は自ら惣領となる決意をして家を守りました。その後の井伊家の発展は、直虎の存在があってこそのものといえます。
徳政令による混乱を抑える
1566年、今川氏真は井伊谷領である祝田に徳政令を出しました。徳政令とは、借金をすべて帳消しにすることを公権力が認めるというもので、戦乱で困窮する農民を救済するという目的がありました。
徳政令はお金を借りている側には都合のよいものですが、お金を回収できなくなる側は大きな損失をすることになります。やり方によっては社会に大きな混乱が生じるおそれがありました。井伊氏内部でも、徳政令拒否派と推進派が対立する事態になりました。
直虎は今川氏による徳政令実施の命令にすぐには従わず、2年間の時間をかけて十分な調整をおこなってから実施に踏み切りました。今川方からの度重なる催促に屈せず、時間をかけて準備を進めたことで、徳政令実施に伴う混乱を最小限に抑えることができました。
直政を家康に仕えさせる
養子の虎松(直政)が14歳になったとき、直虎は特別にあつらえた小袖を直政に渡し、鷹狩りの場で徳川家康に拝謁するよう取り計らいます。利発で容姿端麗な直政は家康に気に入られ、井伊谷の領有を認められました。
知力武勇ともに非常に優れていた直政は家康からの信頼が厚く、やがて徳川四天王の一人に数えられるようになります。直政は軍事・外交ともに大きな成果を挙げた功績を認められ、彦根藩の初代藩主となり、井伊家は譜代大名筆頭の家柄となりました。直政の娘は家康の四男松平忠吉と結婚しています。
直政が世に出るきっかけをつくり、才覚を活かす場を与えたことも直虎の業績といってよいでしょう。なお、家康の正室である築山殿は、もともとは井伊家の血を引く生まれです。築山殿の母は直虎の曾祖父・直平の娘で、今川氏のもとに人質として送られました。直平の娘はのちに今川義元の養妹となって今川氏の有力家臣である関口親永(瀬名義広)に嫁いだため、築山殿は名目上は今川義元の姪とされています。
井伊直虎の名言
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次郎法師・直虎の名が記された文書は現在、龍潭寺住職の南渓和尚に宛てた寄進状と、徳政令の実施を承認する文書しか確認されていません。そのため、直虎の個人的な言葉などは伝わっていません。
井伊直虎にゆかりのある寺院・神社
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龍潭寺
井伊家の菩提寺です。直政の将来に見通しが立ったのち、惣領としての役目を終えた直虎は龍潭寺の松岳院で静かな余生を送りました。龍潭寺には、直政、直政の生母、直親、直虎、直虎の母・祐椿尼の墓が隣り合って並んでいます。
自耕庵(妙雲寺)
直虎の菩提寺です。もともとは自耕庵という名称でしたが、直虎の院号「妙雲院殿月泉祐圓禅定尼」から、のちに妙雲寺と改名されました。
蜂前神社
徳政令の実施を承認するという内容の「井伊直虎関口氏経連署状」が所蔵されていました。連署状は直虎の花押が押された唯一現存する文書で、現在は浜松市博物館で保管されています。
東光院
直満が今川義元によって処刑されたのち、息子の亀之丞が危険を避けて逃れたところです。
寺野宝蔵寺観音堂
亀之丞が信州松源寺から井伊谷へ帰還する途中、「青葉の笛」を寄進したと伝えられています。青葉の笛は現在、寺野六所神社に所蔵されています。
井伊直虎の子孫について
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出家した直虎は生涯未婚だったため、子供はいません。井伊家は直虎の養子である直政が継ぎ、二十四代当主となりました。
直政と側室の印具徳右衛門の娘との間に生まれた直孝が、直政の跡を継いで井伊家二十五代当主・近江国彦根藩二代当主となりました。以後、井伊家は幕政で重要な地位を占め、幕末期の井伊直弼を含む四名の大老を輩出しました。
明治維新後、井伊家本家は華族に叙せられ、十四代当主の直安と十五代当主の直方は貴族院議員となりました。現当主は十七代井伊脩と養子縁組をして十八代となった井伊達夫氏で、京都井伊博物館の館長を務めています。