【初代司法卿】江藤新平の生涯と人物像|功績・子孫・名言も解説

江藤新平は幕末から明治にかけて活躍した肥前藩(現・佐賀県)出身の武士であり政治家です。聡明な人物として知られ、司法省のトップである司法卿に就任すると、様々な法案を制定。日本の法整備に尽力しました。

後に勃発した士族反乱・佐賀の乱のリーダーとなりますが、捕縛され死罪となります。江藤は近代国家の樹立を見届ける事なく、志半ばでこの世を去ったのです。なぜ江藤は乱に加担し、そして斬首されたのでしょうか。その疑問は江藤か生涯を学んでいけば見えてきます。今回は江藤の生涯や人物像について迫っていきたいと思います。

江藤新平とは?

江藤新平とは?

(江藤新平 出典:Wikipedia)

氏名 江藤新平
通称・あだ名 維新十傑 佐賀の七賢人
出生日 天保5年(1834年)2月9日
出生地 肥前国佐賀郡八戸村(現・佐賀県佐賀市)
死没日 明治7年(1874年)4月13日
死没地 嘉瀬刑場(現・佐賀県佐賀市)
血液型 不明
職業 武士・政治家
身長 不明
体重 不明
配偶者 江藤千代子
座右の銘 人智は空腹よりいずる氏名 江藤新平

江藤新平の人生年表

出来事
1834年 江藤新平誕生
1848年 藩校・弘道館に入学
1856年 『図海策』を執筆する
1862年 脱藩し、京都で倒幕志士と交流を深めるが、帰藩後に永蟄居となる
1867年 蟄居を解除され、郡目付として復帰する
1868年 戊辰戦争で新政府軍側で活躍する
1870年 『国法会議案、附国法私議』を起草する
1871年 司法卿や参議等の要職を務める
1873年 明治六年の政変で政府を下野する
1874年 佐賀の乱のリーダーとなるが、捕縛され刑死する

 

江藤新平の生涯①

江藤新平の人生年表・生涯

江藤新平の人生年表・生涯

(佐賀城の鯱の門 出典:Wikipedia)

江藤は1834年に肥前国佐賀郡八戸村で、佐賀藩士の胤光と妻・浅子の長男として生まれます。佐賀藩とは肥前国にあった外様藩であり、肥前藩と呼ぶ事もあります。浅子は聡明で漢学の知識が豊富でした。江藤は浅子の気質を受け継ぎつつ、真面目で聡明な人物として成長していきます。

ただこの頃の江藤の生活は順風満帆とは言えません。1848年に藩校の弘道館に入学し、初等中等教育の期間中は、優秀な成績で学費の一部を免除されます。しかし父・胤光が職務怠慢で永蟄居処分となると、生活は困窮。江藤は高等教育に進む事は出来ませんでした。

江藤は弘道館で教授を務めていた国学者・枝吉神陽の私塾に学び、神学や尊王攘夷思想に感化されていきます。やがて1853年にペリー率いる黒船が浦賀に来航し、幕末の風雲急を告げ始めると、江藤は開国の必要性を説いた『図海策』を1856年に執筆。肥前の地で頭角を現していくのです。

江藤新平の生涯②

江藤新平の生涯②

(佐賀藩十代藩主・鍋島直正 出典:Wikipedia)

 

やがて全国各地に尊王攘夷の機運が高まると、1862年に江藤は脱藩して京都に向かいます。そこで桂小五郎ら倒幕派の志士と交流を深めます。江藤は2か月ほどで帰藩し、永蟄居の処分を受けました。

この時代、脱藩は死罪となってもおかしくない行為です。江藤が永蟄居の処分で済んだのは、元藩主・鍋島直正が江藤の見識を高く買っていたからです。江藤は謹慎処分を受ける中で、寺子屋の師匠や、鍋島直正への提言を行う等の活動を続けました。

1867年に最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、幕府が消滅すると、江藤は謹慎を解除されます。やがて公家の岩倉具視が、薩摩藩の大久保利通と王政復古の大号令で新政府を樹立すると、佐賀藩もこの流れに乗って新政府に加入します。

戊辰戦争では東征大総督府軍監に任命されて江戸への偵察役を担った他、江戸城の無血開城後に江戸城内の文書の接収を行いました。この他には上野戦争で指揮官としても活躍。結果的に江藤の功績もあり、新政府軍は旧幕府軍に勝利したのです。

江藤新平の生涯③

江藤新平の生涯③

(最後の征夷大将軍・徳川慶喜 出典:Wikipedia)

 

戊辰戦争がひと段落つくと、江藤は新政府が発足させた江戸鎮台の会計局判事に任命されます。そこで会計や財政、都市問題等の諸問題に対応しました。

1870年に佐賀に戻るものの、江藤の見識は新政府も高く評価しており、まもなく江藤は中央に呼び寄せられます。1871年には制度取調専務として国家機構の整備に着手。フランス民法の重要性を説いています。そして1872年に司法卿や参議等の要職を歴任し、学制の基礎固めや四民平等、警察制度整備に尽力しました。

江藤は汚職にも厳しく目を光らせており、長州閥の山縣有朋井上馨等が関与したとされる汚職事件を摘発。彼らを辞職に追い込んでいます。更に江藤は急進的な改革を主張して、財政的な負担を政府に強いていたので、大久保利通などの薩摩藩の勢力を中心に政府内でも敵を増やしていきました。

1873年に明治六年の政変が勃発し、江藤は西郷隆盛らと明治政府から下野。1874年1月に江藤は民撰議院設立建白書に署名した後に、佐賀に戻る事を決意しました。この頃は各地で新政府に対する不満がくすぶっており、佐賀も同様でした。江藤は不満のくすぶる佐賀に戻り、話し合いで解決を図ろうとしたのです。

佐賀出身の大隈重信や共に政府を下野した板垣退助らは、江藤にこの時点で帰郷する事は危険と主張します。しかし江藤は聞く耳を持たずに帰郷。その動向を察知した大久保は「佐賀の士族が何もしていない状態」で、2月5日に追討令を発令。江藤は大久保の策略に乗せられてしまったのです。

江藤新平の生涯④

江藤新平の生涯④

(月岡芳年が描いた佐賀の乱の様子 出典:Wikipedia)

 

この大久保の行動に佐賀元藩士達は立腹し、大久保の挑発に乗る形で武装蜂起を決意します。江藤は佐賀征韓党の首領に擁立され、2月16日に佐賀の乱を引き起こしました。ただ新政府と佐賀藩の力の差は歴然で、乱はすぐに鎮圧されます。

江藤は佐賀征韓党を解散し、3月1日には鹿児島にいる西郷隆盛に薩摩士族の旗揚げを打診しますが、それは断られます。3月25日には高知にいる片岡健吉に武装蜂起の打診をするものの、それも断られまでしまいました。

江藤は岩倉具視に直接意見を進言する為、上京を決意するものの、現在の高知県安芸郡付近で新政府により捕縛されました。実はこの頃、江藤の「指名手配写真」が出回っており、それがきっかけで江藤の顔は全国に知れ渡っていました。

このこの写真手配制度は江藤が司法卿時代に制定したものです。皮肉にも江藤は、自分が制定した写真手配制度の被適用者第1号となり、逮捕されたのでした。

江藤新平の死因・最期

江藤新平の死因・最期

(江藤捕縛を報じた東京日日新聞の記事 出典:Wikipedia)

 

江藤の死因は斬首による刑死です。4月8日に佐賀裁判所で佐賀の乱の一件を裁かれますが、江藤は十分な取調べを受ける事なく、13日には死刑判決を受けています。そして死刑判決を受けた日の夕方には刑は執行。江藤への処遇は過酷で、士族の地位を取り上げられた上、晒し首にされるというものでした。

晒された首の画像はこちらではお見せする事は出来ませんが、2021年8月時点のWikipediaで確認出来ます。江藤に対する一連の報復は、大久保ら政府要人の私刑だったのです。

斬首され晒し首にされた理由

どうして江藤は過酷な刑死をする事になったのでしょうか。理由は薩摩藩の重鎮・大久保利通との対立だとされています。江藤は司法の第一人者として辣腕を振るいますが、江藤が日本に導入しようと考えていたのは、イギリスやフランスが導入する三権分立という概念でした。

しかし大久保ら政府の保守派は、天皇に権力を集中させる集権国家体制を構想していました。彼らはプロイセン王国が導入していた「行政権=司法権」という考えを日本に導入するつもりであり、江藤の思想とは根本的に相容れる事はなかったのです。

更に江藤は正義感の強い人物で、司法卿の名の下に明治政府内の不正を次々と追及。大久保利通や木戸孝允などが「岩倉使節団」に随行して国内不在の期間は、西郷隆盛や江藤などの「留守政府」が政府の舵取りを行なっていましたが、この期間に江藤は薩長の要職者を追放し、土佐藩や同郷の肥前の人材の登用に成功しています。

大久保は江藤が政府の中枢に留まり続ける事で、自らのビジョンを達成出来ないと判断。それは江藤が政府を去った後も同じ考えでした。だからこそ、大久保は江藤を罠にかける形で刑死に追い込んだのです。

江藤新平の性格

正義感の強い真っ直ぐな性格

正義感の強い真っ直ぐな性格

(佐賀城の天守台跡と続櫓 出典:Wikipedia)

 

江藤の性格は正義感の強いものでした。明治政府は薩長土肥が要職を占めていたものの、実際は薩摩と長州が幅を利かせており、肥前の立場はそれ程高くありません。ただ江藤は持ち前の正義感で薩長の汚職事件を追求し、彼らの追放に成功しています。

その背景には「肥前(佐賀)の地位を高める狙い」があった事は間違いないものの、彼自身の正義感も要因と言えるでしょう。正義感の強い江藤は急進的な改革を断行していきますが、それが大久保をはじめとした保守派との対立を招きます。江藤の正義感の強さは長所であり、短所でもあったのです。

身分に関係なく多くの書生を取り立てる

江藤は低い身分から司法卿に上り詰めた人物です。身分の低い者にも尊大な態度をとる事はなく、面会を希望する書生がいたら必ず面会し、見所があると判断すればすぐにでも登用しています。そのため、役所や江藤の私邸には来客が絶えませんでした。

江藤は多い時には40人もの書生の面倒を見ていました。当然、彼らを養うにはお金が足りません。死後の江藤には借金が残ったともされます。江藤は司法卿に上り詰めても、謙虚な姿勢を忘れずに赤貧を貫いたのです。

江藤新平の功績

戊辰戦争での活躍

戊辰戦争での活躍

(上野戦争の図 出典:Wikipedia)

 

江藤は司法卿としての活躍が有名ですが、戊辰戦争でも多くの功績を残しています。戊辰戦争の一局である上野戦争では、彰義隊を寛永寺周辺に追い詰めて、アームストロング砲で援護射撃を行う活躍を見せました。

その他には東征大総督府の軍監に乗り江戸への偵察をした他、江戸城の文書の押収にも活躍。江藤は維新の功として、賞典禄100石を賜っています。江藤は下級武士の息子から大躍進を遂げたのでした。

法整備に尽力する

法整備に尽力する

(フランスの国旗 出典:Wikipedia)

 

江藤はフランス流の法体制を高く評価していました。民法の制定の際には「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」とも述べています。

江藤は急進的に改革を進め、司法職務定制や裁判所建設、国法編纂などを矢継ぎ早に実施。更に娼妓解放令を制定し、日本にあった娼婦制度の撤廃にも一石を投じます。江藤の考えは極めて近代的かつ急進的ではあった為、保守派の政府の要人からは疎ましく思われてしまいます。

ただ、江藤がこの時代に司法卿だったからこそ、日本は奇跡とも言える速度で近代化を成し得た事は間違い無いのです。

江藤新平のエピソード・逸話

本の虫だった

本の虫だった

(現在の司法省 出典:Wikipedia)

 

江藤は幼少期から本を読む事を常としていました。その習慣は大人になっても続き、どんな任務中でも卓上には本が置いてあったのです。その姿勢に多くの人達は感服したとされます。

また江藤が書生を登用する時に重視したのは、「本を読むか否か」です。書生を望む者がいた場合、江藤は「どんな本を読むか」と質問。読書の頻度やジャンルで人となりを判断し、登用するかを決めました。

更に本の知識を自分のものに出来ているかを判断する為、政治法律上の問題を彼らに与え、その論述をする事を試験としています。この論述で見所のあった者は身分に関係なく、書生として取り立てたのです。江藤は読書で知見を身につけ、人材登用の基準にしたのでした。

江藤新平の名言

江藤新平の名言

(佐賀藩はアームストロング砲を製造したとされる 出典:Wikipedia)

人智は空腹よりいずる

江藤が常日頃から述べていた言葉であり、意味は「空腹だからこそ、知恵が生まれる」です。子供の頃の江藤家は貧乏で、江藤は常に空腹でした。しかしそんな逆境を跳ね除けるかのように、勉学に励んでいました。この名言こそ、江藤の人格と努力を体現したものと言えるでしょう。

ますらおの 涙を袖に しぼりつつ 迷う心は ただ君がため

江藤の辞世の句とされるものです。志半ばで刑死した江藤の無念さが伝わってきます。

江藤新平にゆかりのある地

本行寺

本行寺

(本行寺にある江藤の墓 出典:Wikipedia)

 

江藤新平の墓がある場所です。元々、江藤の墓は鍋島町の蓮成寺にあったものの、後にこの寺に移転しています。ちなみに江藤が処刑された時、佐賀の地では「江藤さんの墓に参拝すると、百災が去る」という噂が流れました。その噂の名残なのかは分かりませんが、今でも多くの人達が江藤新平の墓を訪れます。

住所:佐賀県佐賀市西田代1-4-6

金福寺

幕末に江藤新平は脱藩した罪で永蟄居の処分を受けます。江藤新平は金福寺で2年にわたり、家族とこの地で暮らし、時には寺子屋を開く事もありました。

現在残されている金福寺は、当時のものかは不明です。ただ地域一帯は当時の様相を残しています。寺の近くには危険が迫った時に、江藤新平が身を隠した岩穴があるとされます。

住所:佐賀県佐賀市富士町大字大野916

江藤新平の家系図・子孫

江藤家のルーツ

江藤家は桓武平氏の末裔・千葉氏がルーツであり、肥前小城郡晴気保の地頭に任命された千葉常胤を祖とすると主張しました。九州の千葉氏は室町時代をピークに徐々に勢力を後退。千葉氏の中には鍋島姓を与えられて、肥前藩に仕えた者もいますが、江藤家は下級武士の立場で江戸時代を生きていました。

江藤の父・胤光は聡明だったものの、職務怠慢で処分を受ける等、江藤の境遇は恵まれたものではなかった事が分かります。

江藤家の子ども

江藤家の子ども

(江藤新作 出典:Wikipedia)

 

江藤新平には何人か子供がいました。江藤新平が刑死した時、江藤家には14歳の熊太郎、10歳の松次郎、7歳の小三郎、2歳の用四郎、更にお腹の中には赤ちゃんがいました。

元々は長男の熊太郎が家督を相続したものの、1883年に彼は23歳で病死。江藤家は次男の新作(松次郎)が後を継ぎます。新作は江藤新平の性格や聡明さを受け継ぎ、1894年から1904年まで衆議院議員として活躍しました。

江藤新平が明治六年の政変で征韓論を主張した通り、新作もアジアに関心を持っています。アジア主義団体・東亜会の結成に関与し、後身の東亜同文会の結成にも参加。同じくアジア主義者である犬養毅の側近として活動しました。

この他には父・新平の遺稿を整理・編纂する等、名誉の回復にも務めています。ただ1910年に47歳の若さで亡くなっています。

江藤家の孫やひ孫

江藤新平や熊太郎、新作は若くして亡くなったものの、江藤家の血筋は現在にも続いています。

江藤夏雄

先ほど紹介した新作は男子に恵まれ、次男の江藤夏雄は戦後に日本自由党や自由党所属の衆議院議員として活躍。第5次吉田内閣では防衛政務次官を務めています。

江藤小三郎

夏雄の三男で、新平にとってはひ孫にあたります。彼は陸上自衛官を務めた人物ですが、1969年2月11日の建国記念日に国会議事堂の前でガソリンを被り焼身自殺。僅か23歳でこの世を去っています。

当時は学生運動も盛んで、彼の行動は新右翼・民族派運動に大きな影響を与えました。後に割腹自殺を遂げた三島由紀夫も小三郎の行動に感化されたとされます。

江藤兵部氏

夏雄の長男で、90年代には航空総隊司令官を務めていました。2012年には「江藤新平卿銅像まつり」で謝辞を述べた他、2018年にも取材を受けており、江藤家を代表して活動を続けています。

また兵部氏は2012年の謝辞の際に、娘2人が法曹界に進んだことを述べています。子孫を調べてみると、江藤の性格や志したものは子孫にしっかりと引き継がれている事が分かるのです。

江藤新平の関連人物

大久保利通

大久保利通

(大久保利通 出典:Wikipedia)

 

大久保利通は元薩摩藩士であり、維新三傑の一人に数えられる人物です。明治維新は薩長土肥の四藩が主導する形で達成したとされますが、実際には薩長の影響力が大きく、各藩出身者は勢力争いをしていました。

前述した通り、大久保と江藤は法整備のあり方で激しく対立。佐賀の乱も大久保の挑発によるものであり、江藤は指名手配犯となり、正しい裁判を受ける事なく刑死しました。江藤が刑死した時、大久保は「江藤醜態笑止なり」と日記に書き記しています。

勿論大久保は私欲にまみれた人間ではなく、彼なりの信念をもって近代国家の創設に尽力してきました。大久保が江藤を恐れたのは、江藤の優秀さとまっすぐな正義感を恐れたからに他なりません。佐賀の乱から5年後に大久保も紀尾井坂の変で暗殺されるのです。

大隈重信

大隈重信

(大隈重信 出典:Wikipedia)

 

大隈重信は参議や大蔵卿を務めた他、立憲改進党の創設、2度の内閣総理大臣にも就任した人物です。大隈重信は江藤と同じく肥前藩出身の人物で、1850年に枝吉神陽が創設した義祭同盟に江藤と共に参加しています。

2人は幕末以前から顔なじみの仲だったのです。ただ明治六年の政変後も大隈重信は政界に留まり、江藤新平と袂を分かちました。しかし完全な決別ではありません。江藤新平は佐賀に戻ろうとした直前に、大隈邸を訪れているからです。大隈重信は江藤新平に佐賀に戻らないよう説得をするものの、明け方に江藤新平は帰郷。江藤新平が刑死したのは、それから間も無くの事でした。

大隈重信は晩年に「江藤を失った事は国家の損失」と書き残しています。例え袂を分かっても、大隈重信は江藤新平を高く評価していたのです。

江藤新平の関連作品

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司馬遼太郎は幕末の肥前をテーマにした作品を数多く残しています。本書は江藤新平を主人公にしたものであり、蟄居後から佐賀の乱に至る7年間を特に中心に書き上げています。

大久保との対立や元藩主・鍋島直正との信頼関係など、その心理描写は流石の一言です。この作品を入り口に、司馬遼太郎の作品に触れて欲しいと思います。

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明治維新に大きな影響を与えたのは薩長土肥の四藩ですが、肥前の功績については知らない人も多いでしょう。肥前藩は全国屈指の科学力を持ち、多くの英傑を生み出した地でもありました。本書を読む事で幕末から佐賀の乱に至る過程がよく分かります。

おすすめドラマ

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2018年に放送された西郷隆盛を主人公にした大河ドラマです。江藤を演じるのは迫田孝也でした。政府に必要なのは法を整える事だと確信し、大久保と対立する人物として描かれています。

江藤が起こした佐賀の乱は、薩摩藩をはじめとした不平士族の反乱の導火線になったのです。

江藤新平についてのまとめ

今回は江藤新平について解説しました。江藤は聡明で真っ直ぐな性格で幕末の佐賀藩を牽引し、戊辰戦争でも大きな功績を残します。司法卿として日本を近代国家に導く為に辣腕を振るいますが、志半ばで刑死となります。
江藤は優秀な人物であったものの、一方で敵を作りやすい人物でもありました。志を達成する為には、周囲との調和も大切だという事がよく分かります。今回の記事を通じて、江藤新平の生涯に興味を持っていただけたら幸いです。

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