【日本三大怨霊の一人】崇徳天皇とはどんな人?不遇の生涯と妖怪の由来となった逸話を解説

崇徳天皇は平安時代後期の天皇であり、日本三大怨霊の1人です。その畏敬の念は長年続き、崩御から800年が経っても歴史に影響を与えてきました。

長年に渡り恐れられた崇徳天皇ですが、生涯はあまりに悲しく、そして儚いものでした。今回は崇徳天皇の不遇の生涯と怨霊になった逸話について紹介します。

 

崇徳天皇(上皇)とは?

崇徳天皇(上皇)とは?

(崇徳天皇 出典:Wikipedia)

 

崇徳天皇は平安時代後期の天皇です。祖父の白河法皇が院政を行う為、わずか5歳で天皇となりました。

後年に保元の乱で後白河天皇との抗争に敗れ、上皇でありながら讃岐(香川県)に流罪となります。

崇徳上皇死去後、京都は様々な災害や情勢不安が起こります。人々は崇徳天皇の怨みによるものと考えるようになったのです。

崇徳上皇の生まれた時代背景

崇徳上皇の生まれた時代背景

(白河法皇 出典:Wikipedia)

 

平安時代と聞くと藤原道長の摂関政治を思い出すかもしれませんが、平安時代後期には摂関政治は衰退します。代わりに上皇(天皇の地位を後継者に譲位した天皇)が天皇の代わりに政治を行う院政が始まりました。

 

院政が始まったのは1086年。白河天皇が堀河天皇に譲位して白河上皇になった時です。以降、鎌倉幕府が成立するまでは朝廷の政治は院政にて行われます。ちなみに上皇が仏門に入ると法皇になります。

 

皇室の当主として政務の実権を握った天皇や上皇の事を治天の君と言います。治天の君になるには条件が2つあり、1つ目は天皇を経験している事2つ目は現天皇の直系である事です。平安末期にはこの治天の君の座を奪い合う事で、朝廷内で壮絶な争いが起こります。

怨霊とは?

(平将門 出典:Wikipedia)

 

(菅原道真 出典:Wikipedia)

 

怨霊とは自分が受けた仕打ちに対して恨みを持ち、祟りをする霊の事です。古代、地震や干ばつ等の自然災害や疫病は怨霊の仕業と考えられていました。

 

平安時代になると厄災をもたらす怨霊を鎮め慰める為、怨霊信仰が広まります。

 

歴史上多くの怨霊が伝承として伝わっていますが、特に非業の死を遂げた平将門菅原道真崇徳天皇日本三大怨霊と呼ぶのです。

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表記の違い

尚ネット等では崇徳天皇と崇徳上皇の2種類の表記がありますが時期により表記が違うだけでどちらも正解です。教科書では保元の乱が取り上げられる為、崇徳上皇として記載されているのを目にした事があるでしょう。

 

今回の記事では時系列に合わせて名称を変えて執筆していきますね。

崇徳天皇を紹介した動画

崇徳天皇(上皇)の生い立ちと生涯

出来事
1119年誕生
1123年天皇に即位する
1129年白河天皇死去し鳥羽上皇が院政を開始
1141年体仁親王(近衛天皇)に譲位し崇徳上皇となる
1155年雅仁親王(後白河天皇)が即位する
1156年鳥羽法皇崩御し、崇徳上皇は保元の乱後に讃岐に島流しとなる
1164年46歳で死去

崇徳天皇の生い立ち

崇徳天皇の生い立ち

(鳥羽天皇 出典:Wikipedia)

 

崇徳天皇は1119年に鳥羽天皇藤原璋子の第一皇子として誕生。当時は鳥羽天皇の父親白河法皇が存命で、実権を全て握っていました。

 

白河法皇は成長して反抗する鳥羽天皇を退位させ、崇徳天皇は僅か5歳で天皇となりました。その経緯から崇徳天皇は鳥羽上皇から嫌われており、複雑な環境で育ちます。

白河法皇の崩御

白河法皇の崩御

(藤原得子/美福門院 出典:Wikipedia)

 

1129年に白河法皇は崩御し鳥羽上皇は院政を開始。崇徳天皇はかつての鳥羽上皇のように実権なき天皇でした。璋子も白河法皇が崩御すると立場が悪くなります。鳥羽上皇は1133年頃から藤原得子を寵愛し、1139年には躰仁が生まれます。

 

崇徳天皇にも1140年に重仁という跡継ぎが誕生。重仁が将来天皇になれば、崇徳天皇は治天の君として院政を行えました。しかし鳥羽天皇は躰仁に譲位するよう崇徳天皇に迫ります。

近衛天皇即位

崇徳天皇は躰仁が自分の皇太子になるなら譲位しても良いと同意(治天の君になるには形式上でも息子が天皇という条件が必要な為)。

 

1141年には躰仁が近衛天皇として即位し、崇徳天皇は上皇となります。鳥羽上皇は崇徳上皇との約束を破り、近衛天皇を崇徳上皇の皇太弟としてした為に、崇徳上皇は院政をする事が出来ませんでした。

叔父子と蔑まれる

叔父子と蔑まれる

(藤原 璋子/待賢門院 出典:Wikipedia)

この頃、得子を標的にした呪詛事件が頻発し、犯人が璋子という風説が流され、璋子は出家。同時に「崇徳天皇は白河法皇の子ども」という噂も流れ、鳥羽法皇は崇徳上皇を叔父子と呼んで忌み嫌います。

 

1145年に璋子は死去。鳥羽法皇(1142年に出家)は臨終の際に大声で泣いたそうです。実の父親に嫌われ、母親の後ろ盾もなくなり、崇徳上皇は歌の世界に没頭するようになりました。

 

尚叔父子のエピソードは「古事談」にのみ収録されており、真偽は不明です。

近衛天皇と鳥羽法皇の死去

(後白河天皇 出典:Wikipedia)

1155年近衛天皇は17歳で死去。実子がいなかった為、後継者問題が起こります。この時点で候補は3人

・重仁親王(崇徳上皇の子ども)
・雅仁親王(鳥羽法皇の子ども)
・守仁親王(雅仁の子ども)

雅仁は今様に没頭しており鳥羽法皇からも「即位の器量ではない」と言われていました。父親を飛び越えて守仁が天皇になる事は前例がなかった為、重仁が有力とみなされていました。

 

結果的には守仁が即位するまでの中継ぎとして、雅仁が後白河天皇として即位。崇徳上皇は院政をする機会を完全に逃します。1156年5月には鳥羽法皇が崩御。崇徳上皇は直前に見舞いに訪れますが、鳥羽法皇は拒絶しています。

保元の乱

(『保元・平治の乱合戦図屏風』出典:Wikipedia)

 

鳥羽法皇崩御後、「上皇と左府(藤原頼長)が軍を派遣し、国家を傾けようとしている」と風説が流れます。これは後白河天皇の側近信西の策略によるもので、崇徳上皇は次第に追い詰められます。

 

7月9日に崇徳上皇は拘束の危険を感じて鳥羽田中殿を脱出し、自らが治天の君になる事を宣言。藤原頼長等の貴族、源為義平忠正等の武士が集まります。

 

後白河天皇側も予兆を察知。陣を構え、藤原忠通源義朝平清盛らが集結。いわゆる保元の乱が勃発します。

 

保元の乱は天皇家の後継者争いだけでなく、藤原摂関家や武士同士の争いも巻き込んだものでした。そして武士がいないとお家騒動すら解決出来ない事が判明し、武士の立場を大きく引き上げました。

 

この戦いで崇徳天皇側は敗北。讃岐(香川県)に流罪となります。天皇上皇の流罪は400年ぶりの事であり、崇徳上皇は京都の地を踏む事はありませんでした。

崇徳天皇(上皇)の怨霊伝説(妖怪の由来となった逸話)

保元物語からみる崇徳上皇のその後

(讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)出典:Wikipedia)

 

保元物語によると崇徳上皇は讃岐の地で、仏教に傾倒します。戦死者の冥福を祈る為、五部大乗経という大変手間のかかる写本を作り上げ、朝廷に納めます。

 

しかし後白河天皇は「呪いが込められているのでは」と拒否。崇徳上皇は激怒し舌を噛み切って「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と写本に書き込みます。その怨みは生涯続き、髪も爪も切らず生きたまま天狗のような姿になりました。

 

1164年に崇徳上皇は46歳で崩御。棺から血が溢れてきたそうです。遺体を火葬した際に、煙は天に登らず東に流れます。人々は上皇が京都に帰りたがっていると噂しました。

 

崇徳上皇は罪人として扱われていた為朝廷は葬儀を行いませんでした。時代が流れ、頼長の子息や保元の乱で流罪となっていた貴族達が帰京しても、朝廷から措置はありませんでした。

 

天皇は崩御後に名前がつけられるのですが、当初は「讃岐院」と蔑んだ名前で呼ばれています。

怨霊伝説

1176年頃になると後白河法皇の側近達が相次いで死去。翌年には大火事や鹿ケ谷の陰謀が起こり、社会の安定が崩れ出します。

 

この頃から貴族の日記に「上皇の怨霊」の記事が頻発。後白河法皇は怨霊鎮魂の為に「讃岐院」から「崇徳院」と名前を改めました。

 

結果的に朝廷は没落し、平清盛源頼朝が台頭。1221年には後鳥羽上皇が武士の手により島流しになり、皇を取って民とし民を皇となさんという崇徳上皇の望みは達成されたのです。

 

それ以降崇徳上皇は怨霊として、日本の歴史に深く関わるようになりました。鎌倉〜江戸にかけて朝廷が政治に関わる事が出来なかったのは、怨念によるものとされます。

近代における鎮魂

(孝明天皇 出典:Wikipedia)

時は幕末。孝明天皇が1867年1月に崩御され、睦仁(後の明治天皇)皇子が皇位を受け継ぎます。700年振りに天皇が政治の場に返り咲きました。

 

本来ならすぐに即位式がありますが、崇徳天皇の御霊を鎮魂する為、即位は1年後に行われています。それは崇徳上皇の御霊を京都に呼び戻す為でした。

 

更に崩御後800年が経過した1964年。昭和天皇が香川県坂出市に勅使を遣わせて式年祭を行なっています。現在においても崇徳上皇は怨霊として恐れられているのです。

崇徳天皇(上皇)の性格と人物像

このように畏れられた崇徳上皇ですが、「今鏡」には全く異なる事が書かれています。

今鏡からみる崇徳上皇のその後

(讃岐国府跡碑 出典:Wikipedia)

 

崇徳上皇は讃岐の地で京都を想い生活。病気も年々酷くなり、1162年には重仁親王も亡くなる不幸に見舞われます。自分の不幸を嘆きつつも、誰かを怨む事はなかったそうです。

 

「保元物語」は1221年以降に成立した物語であり、「今鏡」は1170年頃に成立した歴史書なので、今鏡の記載の方が崇徳上皇の晩年を正確に書いているのではないでしょうか?

性格

讃岐の地には今も崇徳上皇の伝承が残されています。崇徳上皇が散歩していると、お百姓さんが「天皇さん」と言っておにぎりを差し出しました。崇徳上皇はそれを受け取り、自分の杖をお百姓さんに渡したそうです。

 

このエピソードからも崇徳上皇は朴訥で穏やかな人だと分かります。欲望渦巻く朝廷の中で、崇徳上皇はあまりにも優しすぎたのでしょう。

四国の守り神

(土御門天皇 出典:Wikipedia)

 

京都で怨霊と畏れられた崇徳上皇ですが、四国では守り神とされています。

承久の乱では土御門上皇が土佐に流されるのですが、途中で讃岐を訪れます。鎮魂の為に琵琶を弾いたところ、夢に崇徳上皇が現れ、京都の家族の守護を約束しています。後に土御門上皇の血筋が天皇家となりました。

 

余談ですが土御門上皇は承久の乱には全く関与していません。父親の後鳥羽上皇達が流罪になったのに自分が京都にいるのは忍びないと自ら島流しを望んだ奇特な人でした。

 

室町時代には管領の細川頼之が四国の守護になった際に、崇徳上皇の菩提を弔っています。頼之は四国平定に成功し、以降は崇徳上皇を守護神として祀りました。

 

つまり自分に敬意を持って接してくれる人には精一杯の加護を与えたのです。この事からも崇徳上皇は優しい人だったと分かりますね。

歌人としての崇徳天皇(上皇)

(『小倉百人一首』77番「崇徳院」 出典:Wikipedia)

 

崇徳上皇は歌人としての素養があり、崇徳天皇時代から頻繁に歌会を開催。譲位後は更に和歌の世界に没頭します。鳥羽法皇が和歌に熱心ではなかった為、当時の歌会は崇徳上皇を中心に行われています。

 

1144年には「詞花和歌集」の勅撰を命じます。清新な叙景歌に特徴があり、崇徳上皇の感性が伺えます。

 

瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ

(意味:岩の水はぶつかって離れてしまうが、すぐに1つとなる。現世で結ばれなかった2人も来世では結ばれるでしょう)

こちら百人一首にも選ばれているので、有名な歌ですね。

 

かきりありて 人はかたかた わかるとも 涙をたにも ととめてしかな

(意味:かぎりある命に分かれても、せめて涙は留めていよう)
母が亡くなった時に忍んで歌ったものです。この先の運命を知る私達からすると切なさを感じざるを得ません。

 

夢の世に なれこし契り 朽ちずして さめむ朝に あふこともがな

(意味:夢のような世の中で交わした約束を成仏する前に果たしたい)
有名な歌人、藤原俊成に自分が死ぬ前に遺言として歌ったものです。悪夢のような世の中から解放されたいという崇徳上皇の切ない気持ちが伝わってきます。

この他にも多くの名歌を崇徳上皇は詠んでいます。

崇徳天皇(上皇)ゆかりの地

香川県には崇徳上皇にゆかりの深い建物や土地がたくさんあります。

姫塚

讃岐に流れた崇徳上皇に連れ添ったのは、重仁を産んだ兵衛佐局等の数人の女房、そして武士十数人のみでした。崇徳上皇の世話をしたのは、綾の局という現地女性でした。崇徳上皇は綾の局と1男1女をもうけます。

 

女児は幼くして亡くなり、その墓を姫塚と呼んでいます。

住所 香川県坂出市西庄町411-3

 

尚この近くに長命寺という大規模な寺院があり、崇徳上皇が3年近くを過ごしたとされます。戦国時代の戦火や洪水で荒廃します。

崇徳上皇はこの地を去る際に「ここもまたあらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」と柱に墨書きをしました。この柱は戦火や洪水でも朽ちる事はありませんでした。

鼓岡神社

鼓岡神社

(鼓岡神社 出典:Wikipedia)

崇徳上皇が死去するまでの6年近くをこの地にある木の丸殿で過ごしました。長命寺にいた頃よりも生活の制約は厳しく、病も患った為に鬱屈した日々を送っていたようです。

 

周辺には菊塚等の崇徳上皇ゆかりの遺跡が残されています。

坂出市府中町乙5116

菊塚

綾の局もその女児も若くして亡くなるものの、男児は生き残りました。崇徳上皇は顕末と名付け、綾の局の父親綾高遠にお与えになりました。跡取りとして引き取られ、綾家に上皇の御落胤の血筋を伝えたとされます。

 

顕末の墓は菊塚と呼ばれ、鼓岡神社のすぐ近くにあります。史実は不明なものの、綾家は今も続いています。

崇徳天皇陵(白峯御陵)

崇徳天皇陵(白峯御陵)

(崇徳天皇白峰御陵 出典:Wikipedia)

崇徳上皇は崩御した後、四国八十八箇所の1つ白峯寺の隣で荼毘に付されます。天皇家の御陵墓は京都近くに造営されるのが一般的であり、京から離れた地に葬られた天皇は僅か3人でした。

 

当初は質素な陵墓があるのみでしたが、西行法師や後鳥羽天皇等、多くの人々が慰霊を行いました。江戸時代には荒れ果てるものの、高松藩主らにより修復が重ねられていきます。

香川県坂出市青海町

崇徳天皇御廟

1184年に後白河法皇は保元の乱が起きた白河北殿の旧地に粟田宮を創建。崇徳上皇だけでなく藤原頼長や源為義の霊を祀りました。

 

粟田宮水害で被害を受ける度に建て直されていますが、応仁の乱で荒廃します。現在も崇徳天皇御廟は存在していますが、こちらは応仁の乱後に光明院の僧・幸盛が再興したものです。

京都府京都市東山区祇園町南側

白峯神宮

白峯神宮

(白峯神宮 出典:Wikipedia)

 

幕末に孝明天皇は崇徳上皇の霊を慰めるため、讃岐から京都へ御霊を移す事を幕府に命じます。孝明天皇は後に崩御した為、明治天皇がその意思を受け継ぎます。

 

これが明治天皇の即位が遅れた理由である事は先程述べましたね。1873年には同じく流罪となっていた淳仁天皇も合祀されました。

 

ちなみにこちらは蹴鞠の宗家飛鳥井家の跡地に建てられた神社です。蹴鞠の守護神精大明神も祀られており、スポーツ関係者も多く訪れます。700年振りに京都に戻ってきた崇徳上皇。今では穏やかに私達を見守ってくれているのではないでしょうか?

京都府京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町261番地

崇徳天皇(上皇)を題材にした作品

(雨月物語 第四版の表紙 出典:Wikipedia)

 

崇徳上皇はその生涯と後世への影響から、現在に至るまで沢山の題材にされています。

雨月物語

江戸時代の読本。生き霊や獣の化身等が、登場人物達に様々な災いをもたらす短編集です。西行法師が崇徳上皇の陵墓に参拝した際に、崇徳上皇の亡霊が現れ、論争を繰り広げます。

崇徳院

上映に30分もかかる古典落語。崇徳上皇自体は登場せず、上皇の有名な歌「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の…を題材にした町人達の恋模様を描いた作品です。

新・平家物語

吉川英治の小説。崇徳上皇の生涯は概ね保元物語に準じているものの、上皇に仕えていた水守が讃岐に訪れる等、ある程度の救いがあります。後に1972年に大河ドラマとなり、田村正和が演じています。

平清盛

(井浦新 出典:Wikipedia)

 

2012年に松山ケンイチを主役にした大河ドラマ。崇徳上皇は井浦新が演じています。元々ARATAという芸名でしたが、崇徳天皇を演じる為井浦新と本名に芸名を変えました。
井浦新は崇徳上皇に興味を持っており、役が決まった際にイメージを膨らませる為に聖地巡礼を行なっています。

 

こちらの作品でも最終的に怨霊のような姿になるものの、最期には穏やかな姿となってその生涯を終えました。

 

「何一つ思うがままにならぬ一生を崇徳院は生ききった」

ナレーションの締めの言葉こそが崇徳上皇への鎮魂だったのかもしれません。

書籍

尚崇徳上皇について詳しく知りたい方には

・竹田恒泰/執筆した怨霊になった天皇
・井沢元彦/逆説の日本史4 中世鳴動編/ケガレ思想と差別の謎

をおススメします。当時の朝廷の出来事や怨霊について詳しく学ぶ事が出来ますよ。

参考文献

【崇徳上皇の怨霊伝説】恐ろしい妖怪となった理由と厄災の数々

崇徳天皇の波乱万丈が痛々しい~最強の怨霊?それとも最高の歌人?

井浦新インタビュー     《崇徳上皇を演じる》         2012-04-02

崇徳天皇~史上最強の怨霊と守護神~(日本史・平安時代)

崇徳院ゆかりの地(姫塚・長命寺跡)

・竹田恒泰/執筆した怨霊になった天皇

・井沢元彦/逆説の日本史4 中世鳴動編/ケガレ思想と差別の謎

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