長宗我部元親は、四国方面で勢力を拡大した戦国武将です。長宗我部氏は土佐国の一豪族に過ぎませんでしたが、長宗我部元親は一族を戦国大名に押し上げました。その功績から長宗我部元親は、「土佐の出来人」と呼ばれています。
大河ドラマでもよく登場する長宗我部元親ですが、その人物像や生涯については知らない事も多いのではないでしょうか。今回は長宗我部元親の生涯や功績、名言などについて解説していきます。
目次
長宗我部元親とは?
長宗我部元親は1539年に、土佐国岡豊城主国親の長男として誕生します。初陣は遅かったものの、勇猛果敢な性格で戦国武将としての才覚を発揮。家督を相続すると、1568年に土佐を統一します。1585年には四国の大部分を制圧するに至るのです。
ところが、当時の日本で大きな影響力を持っていたのは豊臣秀吉でした。豊臣秀吉は1585年に四国征伐を断行し、長宗我部元親はこれに降伏。土佐国を治める一大名になるのです。その後は豊臣政権を支える事に心血を注ぐものの、1599年に病死。後の関ヶ原の戦いは徳川家康が勝利する事になりました。
長宗我部元親はその武功や功績から、四国を代表する偉人として、今でも高い評価と人気を得ているのです。
氏名 | 長宗我部元親(ちょうそかべもとちか) |
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通称・あだ名 | 土佐の出来人 |
出生日 | 天文8年(1539年) |
出生地 | 岡豊城(現・高知県南国市) |
死没日 | 慶長4年(1599年)5月19日 |
死没地(亡くなった場所) | 伏見屋敷(現・京都市) |
血液型 | 不明 |
職業 | 戦国武将 |
身長 | 180cm(推定) |
体重 | 不明 |
配偶者 | 正室:元親夫人 側室:小少将、小宰相 |
座右の銘 | 一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず |
長宗我部元親の人生年表・生涯
年 | 出来事 |
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天文8年(1539年) | 長宗我部元親誕生 |
永禄3年(1560年)5月 | 長浜の戦いで初陣を飾る |
永禄3年(1560年)6月 | 家督を相続する |
天正3年(1575年)7月 | 四万十川の戦いで土佐国を制圧 |
天正8年(1580年) | 阿波・讃岐を制圧 |
天正10年(1582年)6月 | 対立相手の織田信長が本能寺の変で自害 |
天正13年(1585年) | 四国をほぼ制圧した(諸説あり) |
天正13年(1585年)7月 | 豊臣秀吉に降伏し、土佐一国の大名となる |
天正18年(1590年)2月 | 小田原征伐に従軍 |
文禄元年(1592年)5月 | 朝鮮出兵に従軍 |
慶長2年(1597年)3月 | 『長宗我部元親百箇条』を制定 |
慶長4年(1599年)5月 | 死去(享年61歳) |
四国で勢力を拡大する
長宗我部元親は天文8年(1539年)に、土佐国岡豊城の城主である長宗我部国親の長男として誕生します。戦国時代初期の土佐国には、土佐七雄と呼ばれる7つの豪族が君臨していました。その中で長宗我部家は最も弱い勢力であり、永正6年(1509年)に岡豊城は落城しています。長宗我部元親の父親・国親は長宗我部家の復権を目指してたのです。
長宗我部元親の初陣は、永禄3年(1560年)5月に行われた長浜の戦いです。これは父・国親が、朝倉城主の本山氏を攻めた戦いであり、長宗我部元親は自ら槍を持って突撃する勇敢さを見せています。結果的に長浜の戦いで長宗我部国親は勝利し、土佐国における復権を果たすものの、6月15日に急死。長宗我部元親は、数え年23歳で長宗我部家の家督を継いだのです。
長宗我部元親は、父の意志を継ぎ勢力の拡大を図り続けます。年末には現在の高知市における南西部を支配下に置き、永禄11年(1568年)冬には土佐中部を完全に制圧。永禄12年(1569年)7月に行われた八流の戦いで、安芸国虎を自害させるに至りました。土佐七雄のうち、この時点で生き残っているのは長宗我部氏と土佐西部を支配する一条兼定のみとなります。
長宗我部元親は、元亀2年(1571年)に一条氏の家臣・津野氏を滅ぼす事に成功。三男の長宗我部元親を津野氏の養子に潜り込ませ、一条家の内紛に介入させます。結果的に天正2年(1574年)2月に一条兼定は追放され、兼定の子・内政に娘を嫁がせる事で一条家を事実上の傀儡に仕立て上げました。
再起を図った一条兼定は、天正3年(1575年)に伊予南部の諸将を率いて土佐国に攻め入るものの、長宗我部元親はこれを撃退。遂に土佐国を完全に制圧する事に成功したのでした。
四国全土を統一する
土佐国を平定した長宗我部元親は、次なる野心として伊予国や阿波国、讃岐国などの四国一帯の平定を図ります。天正8年(1580年)までに阿波国や讃岐国を制圧する事には成功するものの、伊予方面を治める河野氏は激しく抵抗した為、長宗我部元親の伊予征伐は長期化していきます。
更に四国で勢力を拡大する事を良しとしなかったのは、織田信長でした。織田信長は長宗我部元親に、土佐国と阿波南半国のみを手中に収め、後は自らの家臣になるように迫るものの、長宗我部元親はこれを拒絶。結果的に織田信長と長宗我部元親は対立関係になり、天正10年(1582年)5月には織田信長による四国攻撃軍が編制される等、長宗我部元親は窮地に立たされる事になるのです。
結果的に6月に織田信長は本能寺の変で自害し、長宗我部元親はこの危機を乗り越えます。この時の混乱を長宗我部元親は利用し、8月には宿敵であった阿波国の十河存保を破り、阿波を完全に平定。天正13年(1585年)には伊予国の河野氏も降伏するに至り、四国全土をほぼ統一したのです(異説あり)。
豊臣秀吉に敗北する
そんな長宗我部元親を疎ましく思っていたのが豊臣秀吉でした。豊臣秀吉は長宗我部元親に伊予・讃岐の返納を命じるが、長宗我部元親はそれを拒否しました。豊臣秀吉は5月にかけて大規模な四国攻めを行い、7月に長宗我部元親は豊臣秀吉に降伏。阿波・讃岐・伊予の国々は没収され、土佐国のみ安堵を許されたのです。
まもなく長宗我部元親は豊臣秀吉に臣従を誓っています。天正14年(1586年)には豊臣秀吉の九州攻めに従軍し、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦。豊臣秀吉の全国統一の大きな推進力となりました。
その一方で土佐国の治世も疎かにせず、領内で検地を行なったり、分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定。慶長3年(1598年)8月には豊臣秀吉が死去し、徳川家康が不穏な動きを見せる等、政情は不穏になります。そんな中、長宗我部元親にも死期が迫っていたのでした。
長宗我部元親の死因と最期
長宗我部元親は病死とされますが、具体的な病については不明です。長宗我部元親の体調が悪化したのは慶長4年(1599年)3月、数え年で61歳の時でした。
4月になり長宗我部元親は病気祈願の為に上洛し、伏見屋敷に滞在。4月23日には豊臣秀吉の後継者たる豊臣秀頼に謁見しています。ところが5月に入ると状態は悪化し、長宗我部元親は死期を悟ります。5月10日に四男の長宗我部盛親に家督を相続させる遺言を残し、5月19日に死去したのです。
長宗我部家のその後
長宗我部元親の跡を継いだ長宗我部盛親は、「関ヶ原の戦い」で石田三成率いる西軍に味方し、徳川家康と敵対。土佐国は没収され、長宗我部盛親は浪人に転落します。この時をもって大名家としての長宗我部家は滅亡したのでした。
また、後の大坂の陣で長宗我部盛親は敗北し、逃走の末に斬首されています。土佐国は山内一豊が新たな支配者となり、江戸時代を統治する事になるのでした。
長宗我部元親の性格と人物像エピソード
翻弄されやすい性格だった
長宗我部元親の人物像や性格は各時代により大きく異なる為、画一的に説明できるものではありません。
幼少期の長宗我部元親は、長身だが色白で大人しい性格で、「姫若子」(ひめわこ)と呼ばれていました。ところが、初陣の際には敵兵を見事に突き崩す才覚を見せ、「鬼若子」(おにわこ)と呼ばれるようになります。長宗我部元親は自分の置かれた環境に適応し、成果を残す人物でした。
長宗我部元親が四国の統一に心血を注いだのは、「家臣に十分な恩賞を与えつつ、家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分だから」と考えていたためとされます。全盛期の長宗我部元親は四国の覇者と呼ぶにふさわしい器を持っていたと言えます。
そんな長宗我部元親の歯車が狂うのは、1586年に秀吉の九州征伐に参戦した時です。この戦いで長宗我部元親は嫡男の信親を失っており、その心の傷は大きかった様子。長宗我部元親は別人のような性格になり、家臣の意見に耳を傾けなくなったのです。
家督を相続する際、長宗我部元親は四男の長宗我部盛親を指名します。長宗我部盛親は短期な一面があり、多くの家臣がそれを諌めていますが、長宗我部元親は讒言した家臣に切腹を命令しています。四国征伐に励んでいる頃の長宗我部元親なら、そんな行動には出なかったはずです。
ある時は色白で大人しい性格、ある時は四国統一に相応しい人格者、そしてある時は家臣に切腹を命じる独裁者。長宗我部元親は自らの置かれた環境に翻弄されやすい性格だったと言えるでしょう。
長宗我部元親の家紋
長宗我部氏の家紋は「七つ片喰」と呼ばれるものです。長宗我部元親のルーツは、古代豪族の秦氏とされますが詳しくは不明。長宗我部氏の祖とされる秦能俊は、平安時代後期から鎌倉時代初期に土佐へ役人として赴任しており、別れの盃にカタバミの葉が浮いていたため、これを家紋にしたとされます。片喰は繁殖力が高く、子孫繁栄を意味する家紋とされ、他の大名にと使われています。
ちなみに長宗我部という名前を名乗ったのは、彼らが土佐国長岡郡宗部郷という場所に住んだ事が由来です。
長宗我部元親の刀
長宗我部元親の愛刀は荒切という名前です。この刀は長宗我部氏の家老である福留親政が、長宗我部元親の父親の国親に献上したとされるもの。名前の由来は1575年に長宗我部元親が土佐を統一して阿波に進出した際に、福留親政が敵兵を荒切りした事が由来です。
ちなみに荒切りの所在は不明となっており、長宗我部元親が本当にその刀を愛用したのかもわからなくなっています。新たな資料などが発見される事を願うばかりですね。
長宗我部元親がやったこと・功績
四国の統一
長宗我部元親の最大の功績は、土佐の弱小豪族に過ぎなかった長宗我部家を四国最大の大名に押し上げた事でしょう。長宗我部元親が一連の功績を成し遂げる事ができたのは、彼自身が勇猛果敢だった事も大きいですが、それ以上に優れた組織能力を作り上げた事にあります。
長宗我部元親の父親である国親が作り上げたのが、一領具足(いちりょうぐそく)と呼ばれる武装集団。これは領地を与える事で、長宗我部氏に忠誠心を誓った足軽等を指します。足軽は普段は農業をしているが、戦いになると武器を手に戦場に向かう者を指し、戦国時代における大名達の大きな兵力でした。
ただ足軽達の多くは土地を持たず、戦っても褒美をもらう事ができなければ、すぐに鞍替えする事も多かったのです。長宗我部国親は足軽達に褒美として土地を与える事で彼らの支持を集める事に成功。常に一定の兵力を動員する事が可能となり、四国の各地で勝利を収める事ができたのです。
優れた政治能力を持っていた
長宗我部元親は国を治めるにあたり、学問を振興する事を何よりも重要と考えていました。文化上、優れた功績を残した者に恩賞を与える事を約束。更に寺院の保護に積極的であり、生活態度が悪い僧侶には流罪・死罪を申し付ける等、信仰深い人物でもありました。また信仰深いといえども寺院の特権を廃止し、犯罪者が寺院に逃げ込んでも逮捕を可能とする等、現実的な目線も持ち合わせています。
また御用商人に大幅な特権を与える見返りに、戦時の軍費を獲得する政策を推進。そして人材の育成にも力を注ぎ、他国から売買していた鉄砲を自国で生産できるまでに産業を発展させています。
この他にも交通路の整備に、商工者の城下町集約と市場町建設の推進等も積極的に行っていました。長宗我部元親は一領具足による組織力だけでなく、為政者としての才覚も持ち合わせていたのですね。
長宗我部元親の名言
一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず
長宗我部元親が家来に述べた言葉です。槍、馬、弓、他にも武士が心得る技術は多々あります。多芸を極めるのは良いですが、全てを極めようとすると中途半端になってしまうでしょう。だからこそ長宗我部元親は、多芸を欲ばるのではなく一芸に熟達する者を重用したのです。
これは現代社会にも言える事。中途半端な人材よりも、得意分野がある人材が集まる方が、会社の成長に繋がります。長宗我部元親はこうした社会の本質を見抜いていたのです。
長宗我部元親の家族や子孫
長宗我部元親の生涯などについて解説していきましたが、彼の家族にはどのような人物がいたのでしょうか。そして子孫は今も健在なのか。気になる人もいるのではないでしょうか。この項目では長宗我部元親の家族や子孫について解説していきます。
元親夫人と小少将
長宗我部元親の正室や側室の名前はわかっていません。当時は女性の名前が資料に残されていない事も多い為、彼女に限った事ではありません。
元親夫人は石谷光政の娘であり、斎藤利三(明智光秀の家臣)の縁者にあたります。没年は天正11年(1583年)とされますが詳しくは不明。長宗我部元親との間に信親・親和・親忠、盛親などの8人の子を儲けたとされます。
ちなみに長宗我部元親が四万十川の戦いで土佐国を統一した際、織田信長は長宗我部元親を滅ぼす為に四国征伐の遠征軍を向かせた事がありました。ところが織田信長は本能寺の変で自害し、長宗我部元親は事なきを得ています。一説では元親夫人の縁者である斎藤利三が、長宗我部元親を救う為に明智光秀に直訴した事で、本能寺の変が起きたという説があります。
側室の通称は小少将という名前です。同じく小少将という人物として勝瑞城主・細川持隆などの名だたる武将の側室になった女性がいます。彼女と長宗我部元親の側室が同一人物と見る動きもありますが、時代にズレがある為、おそらく別人の可能性か高いです。長宗我部元親は小少将との間に五男である長宗我部右近大夫を儲けています。
長宗我部家の子孫
長宗我部元親は元親夫人との間に多くの子を儲けています。
長宗我部信親
長男の長宗我部信親は、幼い頃から聡明な人物と評されており、長宗我部元親から寵愛を受けていました。更に身長は184cmほどあったとされ、走り跳びで約4mを飛び越え、飛びながら刀を抜く事もできたそうです。ところが1587年の戸次川の戦いで長宗我部信親や家臣団の多くが戦死。長宗我部元親の落ち込みは大きく、これ以降の長宗我部家は家臣の再編と後継者争いで、徐々に衰退していく事になるのです。
香川親和
香川親和は長宗我部元親の次男であり、1581年に西讃岐4郡の守護代である香川之景の養子となっています。1585年の四国攻めで香川家が改易になると、香川親和は幡多郡山田郷一帯に所領があてがわれ、この地で居住しています。やがて長宗我部信親が戦死し、新たな後継者選びが行われた際に、香川親和は選ばれる事はありませんでした。彼はそれも同時期に死亡していますが、これは家督相続をめぐるショックから病気になった説、家督相続に選ばれずに断食して命を絶ったとも言われています。
津野親忠
津野親忠は長宗我部元親の三男です。四国攻めで長宗我部元親が豊臣秀吉に敗北すると、彼は人質として豊臣秀吉の元に送られます。人質時代に藤堂高虎と親しかった事もあり、長宗我部元親から嫌われてしまい、長宗我部元親の最晩年の1599年に幽閉されており、翌年には弟の長宗我部盛親に暗殺されました。
長宗我部盛親
長宗我部盛親は長宗我部元親の四男で、長宗我部信親の後に家督を相続した人物です。長宗我部盛親は傲慢で短気な性格から家臣からの薄かったようです。長宗我部元親はそれらの意見を処断しました。長宗我部元親がこのような手段に出たのは、長宗我部盛親を溺愛していた事と、長宗我部信親の娘を盛親の正室に迎える事でその血筋を絶やさぬようにしたとされます。
後に長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで徳川家康に敗北し、領土没収で改易となりました。1614年に起きた大阪の陣で長宗我部盛親は再び敗北し、結果的に長宗我部盛親は斬首となり、大名としての長宗我部氏は完全に滅亡したのです。
長宗我部右近大夫
長宗我部右近大夫は長宗我部元親の五男であり、大阪の陣を経て切腹させられています。
長宗我部康豊
長宗我部康豊は長宗我部元親の六男です。彼が誕生したのは1599年の事で、彼は長宗我部家の隆盛を知らぬまま成長しています。大坂の陣には参戦したものの、途中で逃走。後に足立七左衛門と名乗って、酒井忠利に仕える家臣になりました。
長宗我部元親には6人の男子の他に、4人の女子もいました。彼女達は一条内政、吉良親実、佐竹親直、吉松十右衛門などの当時の有力者達の元に嫁いでいます。
長宗我部元親の子孫は現在まで残っているのか
大名としての長宗我部家は盛親の代で滅んだものの、長宗我部元親の血筋は現在にも受け継がれています。
2015年になり、長宗我部盛親の墓所がある蓮光寺に、長宗我部元親の次男・盛高の血を引くと称する者が盛親の物と伝わる鐙(あぶみと呼ばれる馬具の一種)を持ってきた事がありましたれまで鎧は片側しかなかったものの、形状や配色共に一致していた為、この鎧は久し振りに双方が揃う事になったのです。これは盛親の直系の子孫が、大坂の陣で生き延びた事を指しています。
長宗我部盛親の子孫は徳川家康の世になった江戸時代をどのように見ていたのでしょうか。
長宗我部元親のゆかりの地
秦神社
秦神社は長宗我部元親を主神として祀る神社です。元々この他には、長宗我部元親の菩提寺である雪蹊寺が存在しましたが、廃仏毀釈で廃寺となった為、雪蹊寺跡に隣接してこの神社が建てられた経緯があります。
この神社には長宗我部元親木像の他、戸次川の戦いで戦死した長宗我部兵らも祀られています。
住所:高知県高知市長浜857-イ
天甫寺山
天甫寺山には長宗我部元親のお墓があります。元々は天甫寺という寺に長宗我部元親のお墓があったものの、今ではその寺は取り壊されています。その為、墓の場所を示す案内板はあるものの、初めて向かうには少し分かりにくい場所です。
栄華を図った長宗我部元親ですが、栄枯盛衰のごとく、そのお墓はひっそりと存在しています。機会があれば、この地を訪れて長宗我部元親の事を想っていただけたら幸いです。
住所:高知県高知市長浜天甫寺山
長宗我部元親の関連人物
織田信長
織田信長は戦国の三英傑であり、全国統一を初めて目指した戦国大名とされます。長宗我部元親は四国を統一するにあたり、織田信長に対しては徹底した親和外交を展開。嫡男の信親の「信」という字は織田信長から賜ったものでした。
両者の亀裂が顕著になったのは1581年頃の事。織田信長は「長宗我部元親が阿波と讃岐を制圧すれば、淡路にまで手を伸ばす」と讒言を受けており、強い懸念を抱くようになりました。織田信長は長宗我部元親に「土佐と阿波の南半国の支配のみを認める」と通達を出していますが、長宗我部元親は「四国は自分の手柄で切り取ったもの」と反発しています。
織田信長は1582年5月7日に四国征伐を決め、6月3日に出発する予定を立てています。既に先発隊は渡海して阿波国勝瑞城に入り、一宮城・夷山城を攻め落としたのです。長宗我部元親は織田信長に勝てる見込みはありませんでした。5月21日に長宗我部元親は、斎藤道三へ元親書状を出して、織田信長に従う姿勢を見せています。
ところが、織田信長は6月2日に本能寺の変で横死。前述した通り、明智光秀が本能寺の変を起こしたのは、長宗我部元親の正妻が明智光秀の家臣である斎藤利三と接点があったからという説もあります。いずれにせよ、織田信長は長宗我部元親にとって四国統一における脅威だった事は間違いありません。
豊臣秀吉
織田信長という脅威から逃げ切る事ができた長宗我部元親ですが、それより更に強大な壁が豊臣秀吉でした。長宗我部元親が四国を統一したのが1584年の事。当時の豊臣秀吉は戦国大名の中で頭ひとつ抜けた存在であり、長宗我部元親は織田信長同様に警戒していました。
やがて豊臣秀吉は、長宗我部元親から「土佐と阿波を安堵する代わりに、讃岐と伊予と引き渡す事」を主張。長宗我部元親がそれを拒否した事で、四国征伐が始まったのでした。長宗我部元親の軍勢は4万に対し、豊臣秀吉の軍勢は10万。長宗我部元親は最後まで戦う姿勢を見せるものの、家臣の説得で降伏しています。
長宗我部元親は豊臣秀吉に敗れはしたものの、豊臣秀吉は四国の人々の結束の深さを目の当たりにし、長宗我部元親がいなければ四国をまとめる事は難しいと確信。長宗我部家を滅ぼす事はせず、長宗我部元親を土佐国の大名として留め置いたのでした。
織田信長にとっても、豊臣秀吉にとっても、長宗我部元親は最初に倒しておきたい存在だったと言えるでしょう。
長宗我部元親の関連作品
長宗我部元親は戦国時代の重要人物であり、彼にまつわる関連作品は多々あります。この項目では、その中のほんの一部を開設していきますね。
おすすめ書籍・本・漫画
戦国人物伝 長宗我部元親
長宗我部元親の生涯を漫画にして解説います。歴史や国語が苦手な子どもにもわかりやすい作品であり、戦国時代を知る入り口になる作品ではないでしょうか。
新装版 夏草の賦
司馬遼太郎による長宗我部元親を題材にした歴史小説です。色白で弱々しい青年だった長宗我部元親が、戦を通じて勇ましい戦国大名に変化していく。やはり歴史小説の金字塔である司馬遼太郎の作品であり、一気に読めてしまう作品です。
歴史発想源 〜怒濤の席巻・四国統一篇〜 /長宗我部元親の章
四国統一を成し遂げたにもかかわらず、豊臣秀吉に敗北し、関ヶ原の戦いを経て改易の憂き目に遭う長宗我部氏。彼らはどこで道を誤ったのでしょうか。本書は長宗我部元親の選択肢を冷静な時点で解説しており、現代社会に繋がる生き方を示唆させるもの。歴史が知識の吸収だけではなく、人生をより良く生きる為にと役立つものである事がよく分かる一冊です。
おすすめの動画
長宗我部元親の生涯を漫画で分かりやすく解説した動画です。ややこしい土佐での相関図などもすんなりと頭に入ってきますよ。
おすすめドラマ
戦国時代は大河ドラマでよく取り上げられますが、実は長宗我部元親を主人公にした作品はまだありません。戦国時代では山内一豊、幕末では坂本龍馬など、土佐にまつわる人物が多い事も要因と考えられます。ちなみに明智光秀を主人公にした「麒麟がくる」においては、長宗我部元親は一切登場しませんでした。
2023年には徳川家康を主人公にした大河ドラマが放映されます。こちらの作品で長宗我部元親が登場する可能性は大いにある為、そちらに期待したいですね。
長宗我部元親についてのまとめ
今回は長宗我部元親の生涯について解説しました。四国統一という偉業を成し遂げた長宗我部元親ですが、豊臣秀吉に降伏し、嫡男の信親を失い、長宗我部家は混乱していきます。長宗我部家は後に改易となっており、長宗我部元親の夢は儚く散ったと言えるでしょう。
それでも高知県において長宗我部元親の人気は別格です。長宗我部元親は勇猛果敢な勇姿だけでなく、嫡男を失った事で人格も大きく変化する等、人間的な弱さを併せ持つ人物でした。こうした人間らしさが長宗我部元親の人気を更に際立てているのかもしれません。
今回の記事を通じて、長宗我部元親の生涯に興味を持っていただけたら幸いです。
参考文献
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/長宗我部元親