日本で世界三大美女と言えば、古代エジプトの女王クレオパトラ、中国・唐代の楊貴妃、そして平安時代に活躍した女流歌人の小野小町が挙げられます。現代でも美しい女性は〇〇小町と呼ばれるほど、今なお美女の代名詞となっている小野小町ですが、実際の容貌を描いた肖像画は存在せず、生没年や出自もはっきりしたことはわかっていません。後世に遺されているのは、彼女が詠んだ美しい和歌の数々とあまたの小町伝説のみ。
本記事では、小野小町の人物エピソードやゆかりの地などを紹介し、謎めいた女流歌人の素顔に迫ります。
目次
小野小町とは?
小野小町は仁明・文徳・清和朝(833年頃~858年頃)に生きたと考えられている女流歌人です。小倉百人一首の『花の色は/移りにけりな/いたづらに/我が身世にふる/ながめせしまに』という歌を覚えている方も多いことでしょう。美貌の女流歌人として活躍した小町ですが、晩年は容姿も衰え、落ちぶれて各地を放浪したともいわれます。
「落魄した美女」というイメージは後世の人々の興味をかきたて、小町を題材とする能や歌舞伎などが数多く作られたほか、小町にまつわる伝説が各地で伝えられています。
小野小町の生涯
小野小町の生没年や出自、出生地、終焉の地などはわかっていません。
小町は9世紀中後期に宮中に仕えていたと考えられており、小野氏の出身と推定されています。出羽国(秋田県・山形県)の出身という説が有力ですが、小町の生誕地や終焉の地は全国に伝承があり、いずれが正しいかは定かではありません。
小町は小野篁の息子・良真の娘という説もありますが、確かな証拠はありません。また、『続日本後紀』に登場する「小野朝臣吉子」が小町の本名だとする説もありますが、これも確定していません。
ほぼ同時代に「三条町(さんじょうのまち)」「三国町(みくにのまち)」という女性が存在し、いずれも天皇の更衣(女御に次ぐ地位の后妃)であったことから、小野小町は「小野町」と呼ばれる立場にある女性の親族で、年若いほうという意味で「小町」と呼ばれていたという説もあります。
『古今集』仮名序を執筆した紀貫之は、小町の歌風について「をののこまちはいにしへのそとほりひめの流なり。あはれなるやうにてつよからず、いはばよきをうなのなやめる所あるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし」(小野小町は古代の衣通姫(そとおりひめ)の流れである。歌風は強くなく哀切感があり、たとえて言うなら美女が思い悩む姿のようだ。歌風が強くないのは女の和歌であるからだろう)と記しています。
衣通姫は記紀に伝わる伝説的な美女で、その美しさは衣を通して光輝いていたと言われています。また、衣通姫は和歌に優れ、和歌三神の一柱とされています。この記述によって、小町は衣通姫と同じように和歌の才能を持った絶世の美女だったと解釈され、そのイメージが後世に定着したと考えられています。小町=美女というイメージは、小町の歌の解釈にも影響を及ぼすようになりました。作者が美女だというイメージが先にあるからこそ、有名な「花の色は」の歌も単に風景を詠んだ歌ではなく、作者が桜と自らの美貌を重ねて詠んだ歌だと読み解かれていると言ってよいでしょう。
小野小町の人物エピソード
百夜通いで命を落とした深草少将
平安時代は女性と男性が直接顔を合わせる習慣がありませんでした。どこそこに美しい女性がいると聞くと、男性は和歌を送ってアプローチをかけるというのが平安流の恋愛だったため、モテるのは容姿のみならず歌詠みのセンスや文字の美しさ、使用する紙の選び方などに長けた男女でした。
美貌で和歌にも秀でた小町は多くの男性の心を惹きつけたと言われています。深草少将も小町に恋した男性の一人でした。深草少将は小町に恋文を送って求愛しますが、まったく相手にしてもらえません。なおもあきらめきれない深草少将に対し小町は、「百夜のあいだ、一夜も欠かさずに私のもとへ通ってきてくださったら、あなたの望みを叶えましょう」と告げました。
深草少将は言われるがままに百夜通いを始め、雨の日も雪の日も歩いて小町のもとへ通いました。そしてついに望みが叶う百夜目に、それまでの無理がたたって死んでしまったと伝えられています。人を寄せ付けない孤高の美女という小町の人物像がよく伝わってくる言い伝えです。
「あなたじゃだめ」男からの誘いを軽くかわす
六歌仙の一人で官人の文屋康秀は小町と親しく、国司として三河国へ赴任することが決まった際、一緒に行きましょうと小町を誘ったというエピソードがあります。康秀の誘いに対し小町は、『わびぬれば/身を浮草の/根を絶えて/誘ふ水あらば/いなむとぞ思ふ』(古今集)と和歌を返しました。「身を憂(う)」くの「う」から「うきくさ」と重ねられており、「ふさぎこんで自分が嫌になっていたので、誘ってくれる人がいれば根の絶えた浮草のようにどこでもついて行こうと思っていたのです」とい意味合いです。文屋康秀と小町の間柄を考えると、二人とも本気ではなく、康秀の誘いも軽い戯れだったと考えられます。男からの誘いに対し、思わせぶりをしつつ、軽くかわす小町の返しは、くどかれ慣れた女の余裕を感じさせます。小野小町と百人一首
百人一首は撰者が百人の歌人の歌を一首ずつ選んで編んだ秀歌撰で、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した歌人の藤原定家が撰者を務めた『小倉百人一首』が有名です。
定家が小町の代表歌として百人一首に採用したのは、『花の色は/移りにけりな/いたづらに/我が身世にふる/ながめせしまに』という歌です。歌人としての小町の技量が存分に発揮された技巧的な歌で、掛詞や縁語が効果的に用いられ、鮮やかなイメージを喚起します。
「ながめ」は「長雨」と「眺め」、「ふる」は「(長雨が)降る」と「(年を)経る」がそれぞれ掛詞になっており、「長雨」と「降る」は縁語です。「花の色は長雨で虚しく色あせてしまった。私がぼんやりと物思いして過ごしている間に」という意味合いで、「花の色」の花とは桜を指すと同時に、小町自身の容色を表していると考えられています。時の流れの残酷さと世の無常を詠ったこの歌から、後の世で「薄幸の美女」という小町のイメージが形成されていったといってよいでしょう。
小野小町と和歌
『古今和歌集(古今集)』は平安時代前期に醍醐天皇の勅命により編まれ、『万葉集』に載っていない和歌と当代までの歌人たちの作品から優れた和歌を集めた勅撰和歌集です。『古今集』に小町の歌は18首も入集しています。また、小町は代表的な歌人として三十六歌仙に選ばれているほか、女性でただひとり六歌仙にも選ばれていることから、当時から歌人として高く評価されていたことがわかります。
小町の歌は『古今集』のほか、『後撰集』、『新古今和歌集』などに入集していますが、『古今集』以外の歌は小町の実作ではなく後世の作品と考えられています。
小町の詠んだその他の和歌
『古今集』に収められている小町の歌を紹介します。
- みるめなき/我が身を浦と/知らねば/やかれなで海人(あま)の/足たゆく来る
- 思ひつつ/寝(ぬ)ればや人の/見えつらむ/夢と知りせば/覚めざらましを
- 色見えで/移ろふものは/世の中の/人の心の/花にぞありける
- うたたねに/恋しき人を/見てしより/夢てふものは/たのみそめてき
- いとせめて/恋しき時は/むばための/夜の衣を/かへしてぞ着る
- うつつには/さもこそあらめ/夢にさへ/人めをもると/見るがわびしさ
- かぎりなき/思ひのままに/夜も来む/夢路をさへに/人はとがめじ
- 夢路には/足もやすめず/通へども/うつつにひとめ/見しごとはあらず
- 秋の夜も/名のみなりけり/逢ふといへば/事ぞともなく/明けぬるものを
- 人に逢はむ/月のなきには/思ひおきて/胸はしり火に/心やけをり
- 今はとて/わが身時雨に/ふりぬれば/言の葉さへに/うつろひにけり
- 秋風に/あふたのみこそ/悲しけれ/わが身むなしく/なりぬと思へば
- 海人のすむ里のしるべにあらなくにうらみむとのみ人の言ふらむ
- おろかなる/涙ぞ袖に/玉はなす/我はせきあへず/たぎつせなれば
- あはれてふ/ことこそうたて/世の中を/思ひはなれぬ/ほだしなりけれ
小野小町にゆかりのある地、寺や墓
補陀落寺(京都市左京区)
959年に建立された補陀洛寺は小町の終焉の地と伝えられており、小町寺という通称で知られます。本堂には阿弥陀三尊像と並んで小町老衰像が安置され、境内には供養塔や亡骸から生えたというススキ、小町姿見の井戸などの遺跡があります。
隋心院(京都市山科区)
現在の京都市山科区小野は小野一族が勢力を誇った地域とされています。隋心院は真言宗善通寺派の大本山で、境内には小町へ送られた千通の恋文が埋められているといわれる小町文塚があり、ここに詣でると恋愛成就や文章上達などの御利益があるとされます。また、小町は宮廷から下がった後に隋心院内の屋敷で余生を過ごしたという言い伝えもあり、小町が顔を洗ったという「化粧(けわい)の井戸」も残っています。
隋心院のすぐ近くには、百夜通いで命を落とした深草少将の邸宅跡とされる欣浄寺があり、境内には少将塚や小町塚、少将姿見の井戸などがあります。
善願寺
小町は深草少将が通ってくるたびに一粒の榧(かや)の実をまいて日数を数えていたと言われます。善願寺の境内には、小町がまいた実のうちの一粒が芽吹いたといわれる樹齢千年を超える榧の神木があり、その幹に不動尊像が彫られています。
退耕庵
臨済宗東福寺の塔頭(たっちゅう)寺院で、小町百歳像があります。地蔵堂に安置された高さ約2メートルの地蔵菩薩坐像は、胎内に小町への恋文が納められていると言われ、玉章(たまずさ=手紙、恋文の意味)地蔵の名で知られています。
小町の化粧水
京都市の西洞院四条には小町の別荘があったと言われています。現在ではその跡地に、小町が使っていたと言われる「化粧の水」の石碑が建っています。
小野小町の逸話や伝説
小町しゃれこうべ説話
六歌仙の一人でもある在原業平が東国へ下った際、野中から「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」と和歌の上の句を詠む声が聞こえてきました。辺りには人影もなく、ただ一つ人間のしゃれこうべ(頭蓋骨)が落ちているのみ。よく見るとしゃれこうべの眼窩からススキが伸びており、「風が吹くたびに、ああ、目が痛い」と嘆いているのでした。ある者が言うには、小野小町が都落ちして東国へくだり、この場所で行き倒れたのだと言います。美女の末路を哀れんだ業平は、しゃれこうべの歌に「小野とはいはじ/薄生ひけり」と下の句をつけたと言われています。
小町の墓は存在しない?
小町は晩年に落ちぶれて各地をさまよったと伝えられ、小町の墓とされる場所は全国各地にあります。逆に、実際には小町の墓は造られなかったという説もあります。小町は死去する際に、「我死なば/焼くな埋むな/野に捨てて/痩せたる犬の/腹を肥やせよ」(私が死んだら、火葬にも土葬にもせず、野にさらしておきなさい。痩せ犬が空腹を満たせるように)という歌を遺したと言われ、亡骸は風葬に付されたとも考えられています。ただし、この歌は嵯峨天皇の后である檀林皇后の作という説もあります。
小野小町の名言
和歌以外には小町自身が言ったとされる言葉は伝わっていません。小町が何を思って生きたかは、その和歌から読み取るしかありません。
小野小町の関連書籍(映画、書籍、ゲーム)
詩
『玉造小町子壮衰書 小野小町物語』(杤尾武校注)
平安時代中期~末期に成立した古詩の原文・読み下し文・現代語訳に詳細な注を付けたものです。さすらう老女が若かりし頃の華やかな日々と、落ちぶれた後の悲惨な晩年を語るという設定で、小町自身を主人公としたものではありませんが、小町の物語として読み継がれています。
小説
『小説 小野小町「吉子の恋」』(三枝和子)
小野小町が文徳天皇の更衣である小野吉子だとする説を採用し、小町が仁明天皇や在原業平らとの華麗な恋愛遍歴を重ねながら、和歌の道に大成していく姿を描きます。
能楽
七小町
小野小町を題材にした七つの謡曲、関寺小町、鸚鵡小町、卒都婆小町、通小町/草子洗小町/雨乞小町(高安小町)/清水小町は七小町と総称されます。
映画
『君の名は』
都会に住む男子高生と田舎町の女子高生が夢の中で入れ替わるという設定の大ヒットアニメ映画で、小町の「思ひつつ/寝(ぬ)ればや人の/見えつらむ/夢と知りせば/覚めざらましを」(あの人のことを思いながら寝たから夢に出てきたのだろうか。夢と知っていたなら目を覚まさなかったものを)という歌がモチーフとなっています。
ゲーム
『モンスターストライク』
ソーシャルゲーム『モンスターストライク』(モンスト)に小野小町が登場します。表向きは美貌の女流歌人で、正体は歌人に憧れて化身したコマチグモの妖怪というキャラクター(モンスター)で、声優の雨宮天が担当しています。