蘇我馬子とは何をした人物?聖徳太子との関係は?生涯・功績・名言・死因・子孫も解説

蘇我馬子は、飛鳥時代に活躍した政治家です。厩戸皇子(聖徳太子)と共に推古天皇を補佐するなど、54年にわたり権勢をふるい、蘇我氏の全盛期を築いたとされています。

日本書紀や古事記の記述から、悪人と評されがちな人物ですが、近年では「有能な人物だった」と再評価も進んでいるのです。今回はそんな蘇我馬子の生涯や新たな人物像に迫っていきたいと思います。

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蘇我馬子とは?

蘇我馬子とは?

蘇我馬子像 出典:Wikipedia

 

蘇我馬子は551年に誕生したとされ、敏達天皇が即位した572年に大臣となりました。蘇我氏は仏教の布教などをめぐり物部氏と対立するものの、この争いに勝利。蘇我馬子は592年に崇峻天皇を暗殺し、初の女帝である推古天皇を即位させる事で蘇我氏の全盛期を築きます。

この間に蘇我馬子は厩戸皇子と協力し、冠位十二階の制度遣隋使の派遣などのさまざまな政策を実施。日本の権力の中央集権化を進めていきました。626年に蘇我馬子は死去しますが、その後も蘇我氏の権勢は留まることありませんでした。その事を警戒した中大兄皇子の中臣鎌足は、645年の乙巳の変で蘇我蝦夷(蘇我馬子の孫)を殺害し、大化の改新を断行します。

乙巳の変を経て、蘇我馬子の一族の権勢は失墜するのでした。

氏名蘇我馬子
通称・あだ名嶋大臣
出生日敏達天皇13年(551年)?
出生地不明
死没日推古天皇34年5月20日(626年6月19日)
死没地(亡くなった場所)不明
血液型不明
職業政治家・貴族
身長不明
体重不明
配偶者物部氏娘
座右の銘不明

 

蘇我馬子の人生年表・生涯

蘇我馬子の人生年表

※この記事における人生年表と生涯は、日本書紀や古事記の記述を元にしています。

出来事
551年蘇我馬子誕生
572年大臣となる
584年仏教を広める事に奔走する
587年丁未の乱で物部氏を滅ぼす
592年崇峻天皇を暗殺する
593年推古天皇が即位し、厩戸皇子と彼女を補佐
603年冠位十二階を制定
604年十七条の憲法の制定
620年「天皇記」「国記」を著す
622年厩戸皇子死去
626年蘇我馬子死去

 

手段を選ばず頂点に上り詰める

手段を選ばず頂点に上り詰める

敏達天皇 河内磯長中尾陵 出典:Wikipedia

 

蘇我馬子は、欽明天皇13年(551年)に蘇我稲目の息子として誕生したとされます。幼少期について詳しい事はわかっていません。彼が歴史書の記述に姿を現すのは、敏達天皇元年(572年)、敏達天皇が天皇に即位した時であり、この時に蘇我馬子は大臣となりました。

当時の朝廷では、蘇我氏と物部氏が仏教の啓蒙の是非について争っていました。蘇我馬子は仏教を厚く信仰しており、仏教の信仰に消極的な物部守屋と激しく対立しました。やがて敏達天皇が587年に崩御。蘇我馬子と物部守屋は、それぞれが新たな天皇として別の皇太子を擁立しており、この時も激しく対立をしています。

結果的に蘇我馬子は、6月に物部守屋の推す穴穂部皇子を殺害し、翌月に大軍を挙兵して物部守屋も滅ぼす事に成功。8月に新たなる天皇として、蘇我馬子が推す泊瀬部皇子が即位する事となり、彼ら後に崇峻天皇と呼ばれるようになったのです。

その後も蘇我馬子は仏教徒を百済に留学させる、2万の軍を筑紫へ派遣して使者を新羅へ送る等の対外政策を主導します。その一方で、崇峻天皇とは考えの違いなどで少しずつ対立するに至りました。やがて崇峻天皇は、崇峻天皇5年(592年)10月に蘇我馬子の刺客・東漢駒により暗殺されます。更に東漢駒が、蘇我馬子の娘を勝手に妻とした事に立腹し、今度は東漢駒も暗殺したとされます。

物部守屋の暗殺、崇峻天皇の暗殺を経て、朝廷内で蘇我馬子を止める事ができるものはいなくなったのです。

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推古天皇を補佐する

推古天皇を補佐する

隋の領域 出典:Wikipedia

 

やがて蘇我馬子の強い意向で、皇太后であった炊屋姫が推古天皇として即位します。彼女は第30代天皇・敏達天皇の妻であり、崇峻天皇の異母姉にあたる人物でした。更に厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられる事になり、摂政に就任。蘇我馬子と厩戸皇子が推古天皇を補佐する形で、様々な政策が進められる事になりました。

蘇我馬子は仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法などを定め、朝廷の中央集権化を推進します。更に遣隋使も派遣し、隋の優れた文化や政治制度を吸収させる事で、日本が文明国の一員になれるように心血を注いだのです。

やがて厩戸皇子は、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移るものの、蘇我馬子はそのまま政治の拠点である飛鳥に留まり、政治の実権を握り続けます。そして推古天皇28年(620年)には、「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」などを厩戸皇子と編纂しています。

これらは皇室の系譜や、当時の歴史を文章化したものとされ、作成時期は古事記や日本書紀よりも古いものです。ただ、後の乙巳の変の際にこれらは焼失しており、内容は残されていません。蘇我馬子は様々な政策を厩戸皇子と主導していったのです。

再び調停の均衡が崩れる

再び調停の均衡が崩れる

推古天皇の絵画 出典:Wikipedia

 

ところが推古天皇30年(622年)に厩戸皇子が亡くなると、朝廷の均衡に案案が立ち込めます。蘇我馬子は厩戸皇子と協力して一連の政策を進めていましたが、同時に厩戸皇子が主導する天皇権力の集権化を警戒していました。

推古天皇31年(623年)には新羅に数万の軍を派遣し、新羅を日本の勢力下に組み込む事に成功しています。その一方で、推古天皇32年(624年)には皇室の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に要求。これには推古天皇も拒否する姿勢を見せていますが、蘇我稲目の代には一連の経営権や管理権は蘇我氏が掌握していた可能性が示唆されており、蘇我馬子は再び野心を見せ始めたのでした。

蘇我馬子の死因と最期

蘇我馬子の死因と最期

日本書紀の写本 主張:Wikipedia

 

蘇我馬子は推古天皇34年(626年)に亡くなったとされますが、その死因や最期についてはわかっていません。出生日が551年で正しいとするなら、死没したのは75歳の事です。これは当時ではかなりの高齢であり、病死または老衰であった可能性が高いでしょう。

蘇我馬子は死後に、桃原墓に葬られたとされます。この墓は奈良県明日香村島之庄にある石舞台古墳だとする説が有力です。この古墳は一辺が50m以上に及ぶ、日本最大級の方墳。蘇我馬子の影響力の高さがうかがえるものになっています。

蘇我馬子の性格と人物像エピソード

天皇に屈しない暴君?

天皇に屈しない暴君?

物部守屋 出典:Wikipedia

 

日本書紀や古事記における蘇我馬子は、天皇や対立相手を手にかけてしまう暴君として描かれています。用明天皇が崩御した時は、自分が擁立する泊瀬部皇子を即位させる為に穴穂部皇子を殺害させ、後に物部氏も滅亡させました。

更に崇峻天皇が自分を嫌っている事を知ると、東漢駒を通じて崇峻天皇を殺害させます。そして東漢駒が自分の娘を奪って妻にした事を知ると、東漢駒をも殺害。蘇我馬子は目的を達成する為には、手段を選ばない人物として描かれています。

ただ、これらの記述は乙巳の変を成功させた中臣鎌足の子孫により書かれたもの。自らを正当化する為に蘇我氏を悪く書いた可能性も否めません。実際の蘇我馬子は暴君ではなかった可能性があります。

嶋大臣と呼ばれた男

嶋大臣と呼ばれた男

蘇我馬子は嶋大臣と呼ばれた 出典:Wikipedia

 

蘇我馬子の別名は嶋大臣です。これは自邸に島を浮かべた池が存在した事に起因します。蘇我馬子が当時の権力者であり、立派な邸宅があった事は想像がつきますが、わざわざ「嶋大臣」と名前がつけられるという事は、「島を浮かべた池」が珍しい存在だった事を意味します。蘇我馬子は風流を楽しむ人間だったのかもしれません。

なお、2011年に奈良県明日香村の島庄遺跡で、塀跡とみられる大型柱穴列が発見されています。調査の結果、この遺跡は蘇我馬子の邸宅の可能性が示唆されました。柱穴の一辺は1m程あり、宮殿クラスの規模である事も判明しています。本当にこの遺跡が蘇我馬子の邸宅なら、当時の蘇我馬子の影響力が計り知れないものであった事がわかりますね。

蘇我馬子がやったこと・功績

日本書紀や古事記は、藤原家が自らの正当性を主張する為に編纂されたものという説が有力です。また蘇我馬子や息子の蘇我蝦夷の悪行も、『史記』や『論語』などの中国文献から引用したと思われる部分が多々あり、どこまで事実かはわかりません。

近年では古代史の常識は覆されつつあり、蘇我馬子の再評価も進んでいます。この項目では蘇我馬子が行なった事や、功績について解説していきます。

日本に仏教を広める

日本に仏教を広める

カニシカ王の舎利容器 出典:Wikipedia

 

前述した通り、蘇我馬子は仏教の普及に熱心でした。彼が仏教布教に心血を注ぎ始めたのは584年の事。蘇我馬子の司馬達等池邊氷田が、百済から来た鹿深臣という僧侶から仏像を貰い受けた事がきっかけでした。蘇我馬子は高句麗の恵便という還俗者を師匠とし、司馬達等の娘(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)を日本初の尼としたのです。

やがて蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした事で、国内における仏教の推進は既定路線となります。蘇我馬子は日本最初の仏教寺院である飛鳥寺を建立し、数々の仏像の建立を発願。更に前述した善信尼、禅蔵尼、恵善尼達を百済に留学させました。彼女達は590年に日本に帰国し、仏法の興隆に貢献しています。

飛鳥時代の日本は仏教の影響を色濃く受けていますが、もとを辿ればその起源は蘇我馬子の熱意によるもの。蘇我馬子は飛鳥時代、ひいてはその後の日本の文化に大きな影響を与えたのです。

外交面での功績

外交面での功績

唐で描かれた百済の使者 出典:Wikipedia

 

蘇我馬子は百済や新羅、そして隋などの大陸の情勢をよく把握していました。588年に百済へ3人の尼を留学させる等して、交流を深めています。一方で591年に崇峻天皇が任那復興軍の派遣を進めた際には、これに強く反対しました。

蘇我馬子が崇峻天皇の行動に反対したのは、589年に隋という大国が建国された事が要因とされます。隋は300年ぶりに中国を統一した大国。この状況下で任那一辺倒の外交はふさわしくないと考えた為でした。一説では崇峻天皇の暗殺も、崇峻天皇の外交方針に反対した為という説もあります。

また厩戸皇子と共に遣隋使の計画を主導。600年から618年の間に遣隋使は5回派遣されており、隋の優れた文化を日本に伝える功績を残しました。一方で過去の倭の五王時代とは異なり、冊封を受けない関係性を築く事を外交方針とし、日本は隋の冊封体制から脱却する事にも成功しています。

これらの方針を打ち出す事が出来たのは、蘇我馬子が隋や朝鮮半島の国々の情勢を把握していたからです。日本が一癖も二癖もある国々と渡り合う事が出来たのは、蘇我馬子の功績が大きいのです。

厩戸皇子の政策は蘇我馬子の功績?

厩戸皇子の政策は蘇我馬子の功績?

聖徳太子とされる人物像 出典:Wikipedia

 

593年に推古天皇が即位すると、蘇我馬子は厩戸皇子と冠位十二階や十七条憲法などの政策を推進。従来は、一連の功績は厩戸皇子の功績が大きいとされていましたが、近年では厩戸皇子の功績を疑う声も多く、実際には蘇我馬子が一連の政策を主導したと言われています。

620年には厩戸皇子と、「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」などの歴史書を編纂。これらは現在は現存していませんが、日本書紀や古事記よりは史実に基づいた記載がなされていた可能性が高いです。

蘇我馬子は外交面でも内政面でも大きな功績を残していた事がお分かりいただけたでしょうか。

蘇我馬子の名言

蘇我馬子の名言

鈴 出典:Wikipedia

 

鈴を付けたらさぞ面白かろう

蘇我馬子が物部守屋を揶揄した時の言葉です。前述した通り蘇我馬子と物部守屋は、仏教の普及や新たな天皇の擁立をめぐり対立していました。敏達天皇が崩御した時、葬儀が行われる事となり、2人は皆の前で弔事を述べる事になりますが、2人とも緊張のあまり身体が震えていたとの事です。

物部守屋が蘇我馬子の事を「まるで矢に射られた雀のようだ」と揶揄するのに対し、蘇我馬子は物部守屋の事を上記のように嘲笑します。これは物部守屋が緊張で身体を震わせていた為、「鈴をつけたら物部守屋からは良い音が鳴るだろう」という意味であり、蘇我馬子の口のうまさを思わせる名言です。

なお、この時の争いから2年後に物部氏は蘇我馬子の手によって滅ぼされてしまいます。

蘇我馬子の家族や子孫

朝廷における一大権力者として君臨した蘇我馬子ですが、そのルーツや子孫について気になる人も多いのではないでしょうか。この項目では蘇我氏の出自や子孫について解説していきます。

蘇我氏の出自とは?

蘇我氏の出自とは?

蘇我氏の家系図 出典:Wikipedia

 

蘇我氏は、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰が祖であると言われています。ただ具体的な活動が記述されるのは、蘇我馬子の父親である蘇我稲目の代からです。

蘇我氏のルーツは、現在の大阪府の石川流域もしくは奈良県橿原市を基盤にしていた土着の豪族だったという説が有力です。一説では彼らは氏族の管理や、国外との外交に関与していた一族とされ、朝廷において強い権限を持つようになりました。そして蘇我氏は蘇我馬子の代に最盛期を迎えるのです。

蘇我蝦夷と蘇我入鹿

乙巳の変で首の飛んだ蘇我入鹿

蘇我馬子は三男三女の子に恵まれており、その中で嫡流になったのは次男の蘇我蝦夷でした。彼の他には兄の蘇我善徳、弟の蘇我倉麻呂が男子として記録が確認されています。

蘇我蝦夷は586年に誕生したとされ、推古天皇末年から皇極天皇の代に権勢を謳歌。629年には推古天皇が崩御しており、この時に田村皇子を舒明天皇として即位させるなど、朝廷で大きな権力を持っていた事が伺えます。

そして蘇我蝦夷には蘇我入鹿という息子がおり、643年に皇極天皇が即位した頃から、蘇我蝦夷に代わって国政を掌理。日本書紀や古事記によれば、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の専制は目に余るものがあり、人々は恐れおののいて道に落ちているものも拾わなくなったとされます。

そんな状況を中大兄皇子中臣鎌足は快く思わず、645年に蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮の大極殿で皇極天皇の前で暗殺されます。いわゆる乙巳の変が勃発し、翌日に蘇我蝦夷も自害するに至り、蘇我氏の本流は滅びる事になるのでした。

このように日本書紀や古事記では、蘇我氏はあまり良い書き方をされていません。それは前述した通り、古事記や日本書紀が藤原家が権力を掌握してから編纂された事が大きいと考えられます。実際の蘇我蝦夷や蘇我入鹿は暴君ではなく、律令体制への移行を推し進めた名君だったのかもしれません。

蘇我氏のその後

蘇我氏のその後

蘇我倉山田石川麻呂の墓があるとされる仏陀寺 出典:Wikipedia

 

蘇我氏は乙巳の変で没落したと考える人もいるかもしれませんが、実際には平安初期まで蘇我氏の影響力は残り続けました。乙巳の変には蘇我倉山田石川麻呂(蘇我蝦夷の弟の子)も関与しており、彼は後に右大臣に就任するなど、強い権限を持っています。乙巳の変で没落したのは蘇我馬子の嫡流であり、蘇我氏の傍流の血筋はその後も続いていきます。

ちなみに蘇我倉麻呂(蘇我蝦夷の弟)の血筋は、後に天武天皇から石川の姓氏を賜っており、彼らの中には天皇の妃として嫁いだ者もいます。また藤原家の礎を築いた藤原不比等の妃・藤原娼子は蘇我氏の一族であり、彼女は武智麻呂・房前・宇合の三男を儲けました。彼らはそれぞれ藤原南家・藤原北家・藤原式家を興しており、彼らの子孫は蘇我馬子の血筋を引く事となります。

このように蘇我氏の女系の血筋は、朝廷や貴族の中に残り続けます。一方で男系の子孫は徐々に影響力を失っていき、平安時代初期には公卿が出るのも途絶えるようになり、歴史の表舞台から姿を消したのでした。

蘇我馬子のゆかりの地

石舞台古墳

石舞台古墳

石舞台古墳 出典:Wikipedia

 

石舞台古墳は蘇我馬子が葬られた古墳だとされています。この古墳が発見されたのは江戸時代の事であり、当時は外観や内部の破損も進んでいましたが、現在は修復されています。過去には天武天皇の墓と主張する人もいましたが、現在はこの説を支持する人はいません。

蘇我氏の墓は例外なく方形になっており、この古墳も長い調査を経て方形である事が判明。明治時代にはこの古墳が蘇我馬子のものであるという説が提唱されました。1952年に国の特別史跡に指定されており、現在は一般の人も見学可能です。

住所:奈良県高市郡明日香村島庄

飛鳥寺

飛鳥寺

飛鳥寺 出典:Wikipedia

 

飛鳥寺(法興寺)は奈良県明日香村飛鳥にある真言宗豊山派の寺院です。創立者は蘇我馬子で、587年に蘇我馬子の発願で建立されました。当時の蘇我馬子は仏教布教に消極的な物部守屋と対立しており、蘇我馬子は物部守屋との争いに勝利する事を祈願して、飛鳥寺を建立したのです。

書紀によれば飛鳥寺が建立されたのは596年、飛鳥寺本尊の釈迦三尊像の造立が発願されたのは605年とされていますが、資料により仏像の完成年は微妙に異なります。飛鳥寺は中大兄皇子と中臣鎌足の出会いの場になる等、蘇我氏の氏寺の枠を超え、国家の寺としての実力を備えていきました。

後に都が平城京に遷都した時に、飛鳥寺は現在の奈良市に移転し元興寺となりますが、元の飛鳥寺も本元興寺と名を変えて存続します。本元興寺は887年に焼失したとされますが、江戸時代に再建されています。蘇我馬子の仏教に対する信仰心は、現在の飛鳥寺にもしっかりと引き継がれているのです。

住所:奈良県高市郡明日香村飛鳥682

宇麻志神社

宇麻志神社

兵庫県相生市の風景 出典:Wikipedia

 

宇麻志神社は兵庫県相生市にある神社です。元々は蘇我馬子を祀っていた神社ですが、明治維新後は宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)という神様を祀る神社となりました。これは「うまこ」と「うまし」と呼び方が同じである事に由来しています。

この神社には神馬図絵馬という絵馬がありますが、この絵馬が奉納されたのは1729年の事。相生市で一番古い絵馬とされています。

住所:兵庫県相生市矢野町小河1103

蘇我馬子の関連人物

厩戸皇子(聖徳太子)

厩戸皇子(聖徳太子)

厩戸皇子像 出典:Wikipedia

 

厩戸皇子(聖徳太子)は、蘇我馬子と共に推古天皇を補佐した人物です。厩戸皇子の父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女とされており、穴穂部間人皇女の母は蘇我稲目の娘・小姉君。つまり厩戸皇子にとって蘇我馬子は、大おじ(祖母の兄弟)でした。更に厩戸皇子は蘇我馬子の娘を妻としており、2人は婿と舅の関係でもありました。

教科書では厩戸皇子は超人的な力や才能を持ち、摂政に就任すると冠位十二階や十七条の憲法など、様々な政策を主導したと言われていますが、近年ではそれらの多くは創作であると言われています。そもそも厩戸皇子が摂政に就任したのは、まだ20代の事。いくら才能に秀でていても、多くの豪族達が厩戸皇子の話や政策に静かに耳を傾ける筈がありません。

冠位十二階や十七条の憲法、それに遣隋使の派遣など、一連の政策は蘇我馬子が主導したものという可能性が高いですが、彼は古事記や日本書紀では悪人という位置づけです。一連の功績を無視するわけにはいかず、一連の政策を厩戸皇子の功績に仕立て上げたのかもしれません。

近年では聖徳太子という言葉ではなく、厩戸皇子(聖徳太子)として教科書に記載されるなど、歴史における聖徳太子の立場には陰りが見られています。更に研究が進めば、蘇我馬子が悪人という評価も覆る可能性がありますね。

推古天皇

推古天皇

推古天皇像 出典:Wikipedia

 

推古天皇は日本の第33天皇であり、日本初の女性天皇です。彼女が天皇として即位したのは、592年の事でした。推古天皇の母方の祖父は、蘇我馬子の父親・蘇我稲目であり、推古天皇と蘇我馬子は姪と叔父の関係にあたります。とはいえ年齢的には蘇我馬子が3歳年上なだけであり、2人は幼馴染のような存在でした。

推古天皇を天皇に推薦したのは蘇我馬子であり、これは蘇我馬子が自分の姪を天皇にする事で、政治の実権を握る事ができると考えた為です。しかし推古天皇は厩戸皇子を摂政に就任させる事で、蘇我馬子を牽制したとされています。蘇我馬子と厩戸皇子が推古天皇を補佐する二頭政治を行う事で、比較的平穏な時代を迎える事が出来たのです。

推古天皇は蘇我馬子の傀儡ではなく、蘇我馬子と渡り合う事のできた女性としても知られています。厩戸皇子が亡くなると、朝廷内の均衡は崩れ、蘇我馬子が再び野心をみせるようになりました。蘇我馬子は天皇領だった葛城県という土地を、蘇我氏に譲るように要求したものの、推古天皇は「これだけは聞き入れられない」と拒否したとの事です。

また612年の正月、蘇我馬子が推古天皇に天皇支配の永遠を言祝ぐ歌を奏上した時に、推古天皇は「貴方を馬に例えるなら、あの日向国の名馬。太刀でいえば、有名な呉国の名刀。私が貴方を重用するのは当然のことです」と蘇我馬子を礼賛しています。

協力関係にありつつ、傀儡にならない範囲で牽制しあう。推古天皇と蘇我馬子はなんとも難しい立場ではあったものの、推古天皇は蘇我馬子を高く評価していた事は間違いありません。

蘇我馬子の関連作品

近年では再評価の進みつつある蘇我馬子。彼は蘇我氏にまつやる書籍は多々あります。今回はその中でもおすすめの作品を紹介していきますね。

おすすめ書籍・本・漫画

覇王の神殿 日本を造った男・蘇我馬子

蘇我馬子を主人公にした歴史小説です。物語は蘇我馬子と物部守屋の対立から始まり、蘇我馬子が私欲を捨てて日本を仏教国にする為に奔走する姿が描かれています。目的を達成する為には手段を選ばない豪胆さを見せつつ、推古天皇や厩戸皇子と確かな信頼関係で様々な政策を断行する姿に胸が熱くなります。

ちなみに小説が刊行されたのは2021年の事です。蘇我馬子を悪人ではなく好意的に描く事自体が、「時代が変わった事」を象徴しています。

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蘇我氏-古代豪族の興亡

前述した通り、蘇我入鹿の代で蘇我氏の嫡流は途絶えたものの、その後も蘇我氏は影響力を後退しつつも政界で影響力を持ちました。本書は蘇我氏が影響力を高める過程から、平安末期の没落していくまでの動向を丹念に調べ上げた一冊です。大化の改新、壬申の乱などの古代史において、蘇我氏はどのような立場であったのでしょうか。蘇我氏について詳しく知りたい人におすすめです。

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新版 大化改新 「乙巳の変」の謎を解く

蘇我氏が没落する原因になった乙巳の変ですが、近年では解明派の蘇我氏を、保守派の中臣鎌足や中大兄皇子が滅ぼしたという説が濃厚になっています。本書は日本書紀や古事記で抹消された蘇我氏の功績と、脚色で塗り固められた乙巳の変から大化の改新に至る過程を調べ上げた一冊です。この本を読む事で、古代史の認識は大きく塗り替えられる事は間違いありません。

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おすすめの動画

ゆっくり歴史解説 蘇我氏って何者?

古代の豪族や天皇などを分かりやすく解説したゆっくり動画です。蘇我氏のルーツや蘇我氏の隆盛と没落の過程をわかりやすく解説しています。

おすすめドラマ

大化改新

2005年にNHKで放送された「古代史ドラマスペシャル」です。中臣鎌足(岡田准一)が新たな世を作る為、蘇我馬子(渡部篤郎)を討つ物語となっており、大化の改新を独自の解釈で描く内容となっています。物語に蘇我馬子は登場しませんが、蘇我氏が登場する映像作品は珍しいので、一見の価値ありです。

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蘇我馬子についてのまとめ

今回は蘇我馬子について解説しました。日本書紀や古事記では天下の大悪人とされる蘇我馬子ですが、近年では再評価の流れが進んでいます。彼は外交面は遣隋使や百済の派遣、内政面では冠位十二階や十七条の憲法など、多くの功績を残した傑物であり、日本の舵取りを行い続けた人物でした。

大化の改新の信憑性や、厩戸皇子の功績の真偽など、古代史における通説は、少しずつ信憑性が疑われています。今回の記事が古代史の魅力を発信する事、蘇我馬子の再評価に繋がれば幸いです?

参考文献

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/蘇我馬子

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